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1 %///////////////論 文一 江戸期の宗教を考える ThereligionofEdoperiodisconsidered こ の論 文 は,江 戸 時 代(江 戸 期)の 宗 教 につ いて 島 薗 進 が 言 う 「習 合 宗 教 」 と い う視 点 に示 唆 を 得 な が ら,宗 教 が信 者 に対 して 保 証 す る救 済 に焦 点 を 絞 って 考 察 を行 う もの で あ る。 まず 村 上 重 良 が 論 じる民衆宗教論に基づ く江戸時代の宗教についての論考を概説し,この時期における講社の発達と数 多 くの 「神 さ ま」 の 成 立 が 江 戸 期 の 宗 教 の 特 徴 の 一 つ で はな い か と考 え た。 次 に宮 田登 の ミロ ク信仰 論,安 丸良夫の通俗道徳論から,江戸期の宗教が持っていた救済観を考える端緒となる見かたについ て論 じた うえ で,彼 らの論 の 持 つ 有 効 性 と限 界 につ い て 考 え た 。最 後 に 江 戸 時代 の庶 民 文 化 と社 寺参 詣について先行研究にそって論じつつ,江 戸期の宗教は民衆が受容者 となることでその救済の性格が 中世 以 来 の もの か ら変 化 した の で は ない か と した 。 キーワー ド:習 合 宗 教 ・「神 さ ま」・救 済 観 ・民 衆 は じめに 近 世 と一 般 に称 さ れ る 時代,特 に 江戸 期1)に お い て,仏 教 教 団 や 神 社 な ど既 成 の 教 団組 織 は どの よ う な状 況 に あ った の か と言 え ば,幕 府 に よ る 「アメとムチ」 によって巧 妙 に制御 されて い た。 幕 府 の宗 教 政 策 は,寛 文五(1665)年 御 触 書 に あ るよ うな こ と を基 本 と して い る2)。 条 文 の 内容 を概 説 す る と,神 社 に関 して は神 事 専 念 と神 家 の序 列 につ いて 規 定 し,装 束 の 裁 可 などに示されるようなことを,吉 田神社の裁許 と して い る。 つ ま り,吉 田神 社 を 介 して 間 接 的 な統 制 を行 うの で あ る。 諸 宗 寺 院 に関 して は, 諸宗の法式を厳守 し新義異宗を唱えることを禁 じ,本 末 関係 を保 つ こ と,対 して 檀 徒 に対 して は宗旨の選択の自由を与えつつ,檀 徒が徒党を 組 む こ とは禁 止 した。 寺 社 領 に関 して は売 買 を 禁 じ,寺 院 に 関 して は犯 罪 者 をか くま う こ とを 禁 じた。 ま た 出家 者 につ い て も一 定 の制 限 を 設 け た。 寺 檀 関 係 の維 持 のた め と考 え られ る。 幕 府 の宗 教 政 策 は,一 般 的 に は宗 教教 団 の統 制 に 成功 した と考え られ ている。 しか し,こ のよう な状況下 にあ って も,民衆3>は宗教 による救済 を求めていた。救済 という大げさな言葉を使う よ り,現 世 利 益 とい う俗 な 表現 の方 が正 確 か も しれ な い。 どち らに して も 日々 の生 活 か ら くる 苦 しみ か ら救 わ れ た い とい う願 い が あ る。 江 戸 期 の宗 教 が持 つ エネ ル ギ ー の基 底 に は,民 衆 の 泥 臭 い俗 な欲 求 に よ る と ころ が大 き か った とい え るだろ う。 本論 文 は幕 府 の統 制 によ って 救済 の 力 を 失 っ た 宗教 教 団で は な く,江 戸 期 にお け る新 た な 救 済 の宗 教 と して 定 義 され う る江 戸 期 の 宗 教,と くに島薗 進 が言 う習合宗教 を対象 としな が ら, 江 戸期 の宗 教 につ い て 論 じる代 表 的 な 先 行研 究 について考え,江 戸期の宗教の救済観について 一 定 の見 解 を示 そ う と試 み る もので あ る 。本論 文 で は,江 戸 期 の宗 教 と述 べ る場 合 は,習 合 宗 教 とされるものを念頭に論 じている。では習合

江戸期の宗教を考える - Bukkyo u...ある。農村が疲弊するとともに,村外にあふれた農 民の中から山伏,六 十六部,「みこ」など雑多 な宗教者が多数輩出されるようになる。村上が

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1

%///////////////論文一江戸期の宗教を考え る

ThereligionofEdoperiodisconsidered

渡 邉 秀 司

要 旨

この論文 は,江 戸時代(江 戸期)の 宗教 につ いて島薗進が言 う 「習合宗教」 という視点 に示唆を得

なが ら,宗 教 が信者 に対 して保証す る救済 に焦点を絞 って考察を行 うものである。 まず村上重良が論

じる民衆宗教論 に基づ く江戸時代の宗教 についての論考を概説 し,こ の時期 における講社の発達 と数

多 くの 「神 さま」の成立が江戸期の宗教の特徴の一つで はないか と考 えた。次 に宮 田登の ミロク信仰

論,安 丸良夫 の通俗道徳論か ら,江 戸期の宗教が持 って いた救済観 を考 える端緒 となる見かたについ

て論 じた うえで,彼 らの論の持つ有効性 と限界 について考えた。最 後に江戸時代 の庶民文化 と社 寺参

詣 につ いて先行研究 にそって論 じつつ,江 戸期の宗教は民衆が受容者 となる ことでその救済の性格 が

中世以来 の ものか ら変化 したので はないか とした。

キ ー ワー ド:習 合 宗 教 ・「神 さ ま」・救 済 観 ・民 衆

は じめに

近世 と一般に称される時代,特 に江戸期1)に

おいて,仏 教教団や神社など既成の教団組織は

どのような状況にあったのかと言えば,幕 府 に

よる 「アメとムチ」によって巧妙に制御 されて

いた。幕府の宗教政策は,寛 文五(1665)年 の

御触書にあるようなことを基本 としている2)。

条文の内容を概説すると,神 社 に関 しては神事

専念 と神家の序列について規定し,装 束の裁可

などに示されるようなことを,吉 田神社の裁許

としている。つまり,吉 田神社を介 して間接的

な統制を行 うのである。諸宗寺院に関しては,

諸宗の法式を厳守 し新義異宗を唱えることを禁

じ,本 末関係を保つこと,対 して檀徒に対 して

は宗旨の選択の自由を与えつつ,檀 徒が徒党を

組むことは禁止 した。寺社領に関 しては売買を

禁じ,寺 院に関しては犯罪者をか くまうことを

禁じた。また出家者についても一定の制限を設

けた。寺檀関係の維持のためと考えられる。幕

府の宗教政策は,一 般的には宗教教団の統制に

成功 したと考え られている。 しかし,こ のよう

な状況下にあっても,民 衆3>は宗教による救済

を求めていた。救済 という大げさな言葉を使う

より,現 世利益 という俗な表現の方が正確かも

しれない。 どちらにしても日々の生活か らくる

苦 しみから救われたいという願いがある。江戸

期の宗教が持つエネルギーの基底には,民 衆の

泥臭い俗な欲求によるところが大きかったとい

えるだろう。

本論文は幕府の統制によって救済の力を失っ

た宗教教団ではなく,江 戸期における新たな救

済の宗教として定義されうる江戸期の宗教,と

くに島薗 進が言 う習合宗教を対象 としながら,

江戸期の宗教について論 じる代表的な先行研究

について考え,江 戸期の宗教の救済観について

一定の見解を示そうと試みるものである。本論

文では,江 戸期の宗教 と述べる場合は,習 合宗

教 とされるものを念頭に論 じている。では習合

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宗教とは何かといわれないためにも,こ こで一

定の見解を示さねばならない。習合宗教とは島

薗によれば,仏 教 ・神道 ・地域の習俗的信仰な

どの教義や儀礼などを様々に取 り込んでその信

仰を形作 りつつ,ひ とつの独立 した宗教教団と

して理念的に統合されていない民俗宗教という

宗教研究用語で呼ばれ るような現象の一側面を

しめす言葉である(島 薗1992:51)。

習合宗教を別の言い方になおせば,民 衆の中

で素朴に信仰されてきた様々な神格とそれに伴

う信仰の形態である。そして,既 成の教団組織

も特に社寺縁起,御 開帳などを行う社寺などは

習合宗教の性格を含むものへ変化 していく。伊

勢講や御嶽講など各地で講社 という形で営まれ

た社寺参詣に関わる信仰活動や,四 国八十八か

所観音霊場へのお遍路 さんなどが,既 成の教団

組織が関わる習合宗教 とされる信仰の具体例と

いえるだろう。視点をかえてみるなら,現 在一

般的に行われている初詣 も習合宗教的な行事と

言えなくもない。島薗は幕末維新期に成立 した

新宗教を論 じる中で,習 合宗教の伝統がその成

立に影響を与えていたという。実際,新 宗教の

教祖は少なからず習合宗教の伝統の中から生ま

れてきている。 島薗は金光教の教祖金光大神

(赤沢文治)を 事例にあげてその事を論 じてい

る。 さらに,金 光教の他に天理教 ・丸山教など

を事例 としてあげ,こ れ らの教団の神観 救済

儀礼,祈 願様式などには習合宗教的なものの痕

跡が濃厚に見られるとし 「習合神道系」 と称す

ることもある。習合宗教は明治維新の神仏分離

令によって大打撃を受け,民 衆の現世利益 に応

えるという役割 も新宗教に変わ られることで衰

退 したと考え られる(島 薗1992:52-3)。

習合宗教と呼ばれる信仰と,新 宗教との相違

などは島薗が一定の見解を示 しているので,こ

れ以上は述べない4)。ここでは習合宗教と呼ば

れる信仰は江戸期の宗教 として主流に近い位置

にあったということを意識 しておきたい。本論

文で考えられる先行研究の内容は,習 合宗教と

いう対象を論 じつつ,そ れが近代 日本において

どのような意義を持ちえたのか というテーマに

沿 ったものと,民 衆のエネルギーがどのような

思想史的意義をもったのかという立場に立 った

論点である。両者は近代化 ・日本文化を考える

という点において共通 した問題意識を持ちつつ

も,相 反する部分 もあり,本 論文において両者

の接合をはかる事は,紙 面に限りのあることか

らも難しい。本論文は様 々な視点か ら捉えられ

ている習合宗教的な性格を持つ江戸期の宗教が,

どのような性格を持つものであるのか一定の見

解を示すことを目標としている。

1.神 さ まの流行

一 「民衆宗教論」を参考にしなが ら

民衆の宗教について一村上重良の論考

これから先行研究を参考にしながら,江 戸期

の宗教について考察 していくのであるが,ま ず

村上重良の考察に触れる必要がある。村上 は国

家神道と民衆宗教という二つの概念を用 いて,

近代国家へと変貌を遂げようとする明治国家の

国家神道体制についての分析を行なったが,村

上の言う民衆宗教とはどのようなものなのか。

最初に,村 上の国家神道への関心も踏まえつつ,

民衆宗教と称 した信仰への村上の論をみていこ

う。

村上は民衆が求めていた宗教性 につ いて,

「民衆は,恫 喝的な暗い封建支配の中にあって,

新たな救済 と,現 実の当面する苦悩をいやして

くれる宗教的対象をつよく求めていた」(村 上

1963:18)と 述べたうえで,そ のような宗教的

欲求のあらわれとして,現 世利益主義 と神仏の

人間化を著 しい特徴 とする俗信の流行があると

している。江戸期の民衆は封建制の中に規定さ

れていたのであるが,農 村の鎮守の祭 り,都 市

部の神社の祭礼などは次第に華美盛大なものに

なってい く。それは封建支配に対する賛美と,

祭礼に伴う爆発的な興奮とが結びついた もので

佛大社会学 第33号(2008)

2

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ある。

農村が疲弊するとともに,村 外にあふれた農

民の中から山伏,六 十六部,「 みこ」など雑多

な宗教者が多数輩出されるようになる。村上が

言 うには部落単位の山ノ神講 ・田ノ神講 ・庚申

講など村落をあげての信仰組織が発達 していた

が,こ うした組織は地域的な同信の集団の系統

をひくものでありレクリエーションの要素が濃

いものであったとし,「農民の宗教生活の基底

には,農 耕につ らなるアニ ミズムやシャマニズ

ムの伝統が強 く生 き七」 いたとする(村 上

1963:18-9)。 農村社会で育成 された宗教生活

は,農 村出身者の山伏や 「みこ」などが都市に

流入することで都市に根付 くようになる。さら

に浪人 ・下級僧侶や神職なども雑多な宗教者と

なるものが少なくなかった。こうした宗教者た

ちは諸国を巡 り歩き,古 くか らある民衆の仏教

的な信仰やその知識を手掛か りに,民 衆の既成

観念と結びついた形でさまざまな 「神さま」を

つ くりだ した。

さまざまな神さまの例として,村 上は,薬 師 ・

えんま ・あみだ ・稲荷 ・地蔵などをあげること

ができるとしている。都市生活の発展とともに

こうした諸神 ・諸仏は,複 雑な習合(シ ンクレ

ティズム)が すすむとともに機能的に分化 し,

それぞれ一定の性格 と利益が定まっていく。諸

神はそれぞれ専門領域をもつようにな り,民 衆

の欲求の多様さに応 じてさらに多数の神がつ く

られるようになる。神さまの御利益について整

理 された書籍が書店などで見受けられるが,神

さまの項 目だけでも数多 くある。 こうした神さ

まの分化は以前からあっただろうが,よ り多 く

の庶民 とされる人たちが尊崇する神さまとして

神の機能が細分化されていく過程が加速 したの

は江戸期以降であろう。また,そ れぞれに縁起

のようなその神格の霊験の効果のほどを示す史

料 も多く残 されている。縁起 と呼ばれる寺社や

神格の正当性を主張する物語は,地 域の神さま

でしかなかった神格を,よ り広範な地域の人た

ちの尊崇を集める神へと変化 していく上で役に

立つ道具として存在 していただろう。

神さまが機能神 として崇められる信仰はいわ

ゆる 「はや り神」 として都市で発達 した。「は

や り神」信仰の布教者である雑多な宗教者は,

幕府が定あた正規の信仰 ヒエラル ヒーを外れた

存在であったが,同 時に民衆教化の役割を担う

存在であることを幕府は忘れなかった。山伏を

は じめとした雑多な宗教者たちにはそれぞれ公

許の営業種 目が定められるようになる。陰陽師

であれば土御門家に,普 化宗という特殊な宗派

の僧である虚無僧は一月寺と明暗寺,座 頭 ・鉦

うち ・鉢叩きなどは非人頭江戸長吏団左衛門と

いうように,各 々が家元的ないし親方的存在に

従属させられ,所 属外のものは禁止 ・処罰され,

俗人が,宗 教者に紛 らわしい服装や行為をする

ことも厳禁された。雑多な宗教者の中では山伏

が最 も活発な勢力をもっていたとされる。山伏

については江戸幕府によって慶長十八年(1613

年)に 山伏法度が触れられ,当 山 ・本山両派を

公認 し,諸 国の山伏をこれに分属させることで

統制の枠をはめた(村 上1963:19-20)。

当時の山伏が最 も活動 した局面は,占 いと病

気なおしの祈祷であった。当時の民衆は病気を,

金神 ・荒神 ・生霊 ・死霊のたたりかさわりと考

えていたので,山 伏の仕事は,病 気の原因を明

らかにしたうえで有効な祈祷を行うことにあっ

た。また,「みこ(い ちこ ・くちよせ)」は,梓

弓などの楽器を鳴らすことで神がか りをし,霊

を乗 り移らせてその言葉を伝えたり,病 気を治

した りした。 このような宗教者のうちには民衆

にたか り脅迫を常習 とするものも多かったが,

日常的な相談相手となり,宗 教的権威を負った

指導者としての役割を担うこともあった。 しか

し,多 くは新教義を開こうという意志 も,民 衆

の苦しい生活を切 り開こうという意欲ももたず,

民衆に寄生す る存在で しかなか った(村 上

1963:20-1)o

江戸期の宗教を考える3

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講社の発達 と 「神さま」への信仰

以上に述べたような雑多な宗教者が活躍する

江戸時代において,民 衆の信仰的組織 としての

講が発達 したと村上はいう。このころ発達 した

講は,観 音講などのような地縁的な同信者の集

団としての講だけでなく,霊 験あらたかな社寺 ・

霊場に参詣 し,あ るいはその維持のために寄進

を行うための講社が発達 した。社寺参詣のため

の講は,同 信者のための講と違い,農 村では広

範な地域的結合を,都 市部では同業者の職業的

結合である場合が多い。このような講が民衆の

雑多な信仰を支えていた。

宗教と講 とのつなが りを考える際に,桜 井徳

太郎の研究を詳細について述べる事は出来なく

とも,そ の意図について言及することに意味は

あるだろう。彼の研究意図に江戸期の宗教 と講

を結び付ける意義が見え隠れ しているからであ

る。現代社会と講との関連について論 じる事は,

コミュニティの構成員の流動性の激しい現代で

は,一 定のコミュニティに基盤を持つ講は衰退

していかざるを得ないし,意 義はないのかもし

れない。しか し,江 戸期の宗教にとって講 とい

う組織形態は,信 仰の拡大を図る上でごく自然

な選択肢であったと考え られるし,本 論文は江

戸期の宗教を考えている。

桜井はその研究の冒頭において,講 について

社員旅行や町内会の慰安旅行と近世の代参講を

比較 しなが ら,そ の構造の類似性を指摘する。

ここで注意すべきは 「近世の代参講」という点

である。この点については後ほども言及するこ

とになる。桜井が中世以前の 「純粋な宗教講」

ではなく,庶 民のエネルギーのはけ口としての

講と社員旅行を比較 していることは意味のある

事である。さらに農村における講組織の意義を

考えたうえで,信 仰に関わる伊勢講などを例に

あげ,伊 勢講によって流行 したお蔭参 りによっ

て,伊 勢信仰は国民信仰の雄にまでのし上がっ

てきたのではないかとして,以 下のような事を

のべる。

このように見て くると講の問題 は,直 接

には日本の民衆の信仰生活の上に現れた集

団結集の一方式であるけれど,そ の内面に

深 くつき進んで行 くと,そ の宗教信仰諸現

象の基底のなかに,民 俗の思想構造や精神

構造を探る上での,欠 くことのできない重

要な課題を横たえていることがわかる(桜

井1962:10)o

そう述べたうえで,膨 大な講集団の研究につ

いて言及 していく。民俗の思想構造や精神構造

について講組織を研究することで見ることも,

十分に意義のある事だろうが,こ こでは講 とい

う組織形態が江戸期の社会構造を俯瞰する上で,

重要なキーとなることを意識 しておきたい。桜

井 も言 うが神さまが 「はやる」一助を講組織が

成 していたということ,少 なくとも江戸期の宗

教を考える上で,講 組織 という従来の五人組 と

も異なる要素を持つ,横 断的な組織構造を持つ

講が果たす役割は意識 しておかなければならな

いo

講などによって民間に流布する信仰は拡大 し,

幕府はたびたび禁圧を加えていくようになる。

しかし,そ うした信仰は残 り続け,幕 末期 にい

たると,雑 多な宗教者によって担われていた雑

多な信仰を基盤にして新たな信仰が生まれてき

たと村上はいう。その上で,以 下のようにのべ

る。

機能的に分化 し,人 間化の極限に来てい

た諸菩薩 ・諸明神の信仰 とともに,生 前み

ずから味わった苦悩を,死 後,神 となって

救おうとする,い わゆる霊神の信仰があら

われた。(中 略)霊 神信仰は,礼 拝対象の

人間化の帰結であ り,現 世利益主義の一層

の展開であるが,生 前の苦により,死 後人

を救 うという考え方は,民 衆のたたかいの

発展とともに,非 業の最期をとげた一揆 ・

佛大社会学 第33号(2008)

4

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世なおし等の指導者が,し ばしば村の安全

と繁栄を守護する神 として祀 られたのに通

ずるものであった(村 上1963:23)。

霊神の信仰から,宗 教的素質を持つ一般人が

異常な超人間的霊能をしあし,民 衆の持つ様々

な願いにたいして生きなが ら神 として答える,

生き神の信仰 ・教祖の信仰へと展開 していく。

江戸時代後期の民衆の宗教観の著 しい特徴 とし

て 「一面では反仏教感情の高まりであり,他 面

では現世利益主義と礼拝対象の人間化であった」

(村上1963:23-4)と 村上はいうのである。

この当時の民衆の宗教感情は伝統的な神仏へ

の尊崇が行われる反面,超 自然的な存在や死後

の安楽を祈 ることを侮蔑する現世主義 も,反 宗

教感情として都市の民衆の間に根強 く広がっ

た5)。この感情が 「諦観のニヒリズムにうらう

ちされた現世主義にとどまって,宗 教の本質批

判にも,信 仰の内面化にも進みえなかったとこ

ろに,呪 術的 ・現世利益的宗教の盛行をみた一・

因があった」(村上1963:25)と し,村 上は伊

勢のおかげまいりなどを事例にして,民 衆の宗

教活動における支配者への怒 りと,そ れが民衆

のエネルギーの宗教的昇華作用でしかないと論

じる。そして,江 戸後期から明治維新期にかけ

ての宗教活動を,民 衆 と権力を対置 させて論 じ

るのである。

今まで述べてきたことをまとめると,現 世利

益を保証する神さまの流行は,江 戸期の宗教の

明確な特徴であった。それを促進 し,維 持 して

いくための組織形態として講が機能 した。講社

を組むことは,江 戸期の宗教にとって幕府から

の統制を抜けるための 「逃げ道」 になったので

はないかと考え られる。宗教が民衆を対象とす

るようになると,幕 府によって統制された宗教

がそのままの形で民衆の俗な欲望を満たすこと

はできなか った。その代 りに,講 とその中に内

包される信仰的機能が果たしていた。講という

組織形態と神さまの流行が結びつ くことで,江

戸期の宗教のより広範な地域への流布が保障さ

れた。神さまの流行は,民 衆の鬱屈 した想いと

結びつけて考え られるのが一般的である。そし

て神 さまの流行は,次 に述べる救済への希求 と

結びつき,江 戸期に作られた神 さまが後の新宗

教の神格に影響を及ぼ していくのである。

2.救 済観 の 視点

一 「ミ囗ク信仰」から通俗道徳論へ

民衆にとって生活にともなう苦からの解放は

切実なものであった。現代においては 「癒 し」

「スピリチュァル」のようなキータームが主流

とな り,そ うしたことを扱 う集団も宗教 という

仮面を脱ぎすてていることが多い。新宗教では

70年代以降から一般的に貧病争 という苦しみか

ら,個 人的 ・内面的な苦しみ,島 薗が 「空 しさ」

の動機と称するものからの解決を促す ものへ と

変化 しているとされている。そうした個人的 ・

内面的な苦 しみからの解放を促す宗教を,新 新

宗教と称することがある6)。

とはいえ現代の宗教に関する状況においても,

人間が生活 していく上で生 じる苦 しみを緩和 し

ていこうという志向は一様に見 られる特徴であ

る。つまり苦しみの質が変化 しているというこ

とであり,そ の変化をみる事でその社会の性質

の一面をとらえていくことも可能である。あら

ためて考えてみると,江 戸期において生活に関

わる苦は,我 々現代に生きる人と比べて切実だっ

たのか もしれない。

では,民 衆が救いを願 う気持ちがどのような

形で発露していたのだろうか。そのことについ

て,宮 田 登は1970年 に 「ミロク信仰の研究』

を著 し,ひ とつの視点を提示 した。安丸良夫は

宮田の ミロク信仰についての研究を足掛か りと

しなが ら,ひ ろた ・まさきとの共同研究成果で

ある 「世直 しの論理の系譜一 丸山教を中心に」

という論文を発表 した。宮田は弥勒信仰を主題

として近世の宗教現象について考察するが,彼

江戸期の宗教を考える5

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の視点から,江 戸期の宗教の持つ救済観念の一・

面を見出す ことができるだろう。安丸 らの論文

は,漠 然 とした救済観念から民衆が主体的に構

成する思想が形成されていく過程について述べ

たものである。では,宮 田が語 る弥勒信仰とは

どういうものであるのか。そして,安 丸が考え

る思想形成の過程 とはどういうものなのか。江

戸期の宗教における救済について考える前段階

として両者の視点を把握 しておこう。

ミ囗ク信仰 と下級宗教者の入定思想

宮田は弥勒信仰の 「弥勒」について,「 ミロ

ク」という仮称を用いている。「弥勒の兜率天

浄土への往生を求める上生信仰 と,弥 勒が兜率

天に長期間滞在 し,つ いに現世に下生 してくる

という下生信仰の二類がある」(宮田1970:37)

とし,宮 田にとって弥勒の下生 という表現は,

仏教におけるメシア信仰の表現である。仏教は

本来長いインドの精神史の過程から生み出され

たものであり,そ れは仏教東漸の過程で各民族

が伝統的に抱いていたメシア思想 との混淆をお

こすのであるという。我 々が考えるのは 「日本

の宗教社会,民 間信仰現象に現れた弥勒信仰の

様態」を検討することで,「 仏教的な弥勒思想

に覆われた伝統的メシア思想を究明すること」

なのではないかという宮田自身の問題意識に,

「ミロク」 という仮称は強 く関わっている(宮

田1970:36-8)。

宮田は ミロク伝承の実態として,ミ ロク伝承

の様相を① 「ミロクの世」について伝承 される

場合② 「ミロクの世」が実現する 「ミロクの年」

について伝承される場合③民謡 にミロクの世へ

の憧憬が歌われる場合④正月年頭の万才の文句

に込められている場合⑤鹿島踊などに表現 され

ている場合⑥ ミロク像 に対する流行神的な信仰

伝承の場合⑦ ミロク出世を願 い,衆 生救済を約

しつつ入定 した行者をめ ぐる諸伝承の場合 とい

う7つ の類型を提示する。本論文に関わるもの

と考えられる類型は,①,②,⑥,⑦ の類型で

ある。特に⑦の類型については身禄の自死の解

釈に関わる類型である。以上のような類型を述

べたうえで,ミ ロク信仰について具体的な事例

をあげながら考察する。

ミロク信仰の事例として宮田が考えるものに,

鹿島踊というものがあるが,そ の歌詞に弥勒 と

米作との深い関わ りをうかがえるという。鹿島

踊に限 らず,豊 年を祝うお祭 りには,弥 勒が何

らかのかたちで関わっているのではとしている。

こうした儀礼の中に内包される 「弥勒世」につ

いて,古 代貴族が描き出すような,弥 勒菩薩が

もたらすごく観念的な世界 と,「近世初期民衆

のいだく現実的な黄金溢るる世界」とあるとし,

「弥勒教」が示す,弥 勒の世即黄金世界 という

世界観によっているのではないかとする。弥勒

の世をもた らすのは,宮 田がその著書で用いる

西表島の事例を借 りて言 うなら,「世持神」で

あり,「世持神」には人神 としての性格をもち,

その存在は再生の理念に基づいているという。

宮田は 「ミロク世」を農耕民にとっての幸いで

ある豊年 と結びつけられて語 られている点に注

目し,稲 作 とミロクには関係性があるのではと

している。ここで語 られるのは,利 益を もたら

す神 としての ミロク神である(宮 田1970:88-

94)a

ミロク下生の具体性についてであるが,宮 田

は,仏 教伝播後の沙弥 ・聖7>の発生は注目する

べ きだとする。「彼 らは民衆 と交 りを持ち,民

間の中にあって,写 経 ・持呪などの功徳により

得た霊力で奇跡を行なったのである」(宮 田

1970:102)と 彼 らのことについて述べ,こ れ

ら沙弥 ・聖の代表的存在として聖徳太子,行 基,

役行者らが崇められ,後 世の伝説化の原型となっ

たのではないかという論を展開する。さらに宮

田は彼 らのメシア的要素を論 じていくのである

が,「歴史的実在 として,弥 勒の化身に想定」

された存在 として,空 海をあげる。

ミロク信仰における空海は,実 在の空海では

なく 「弘法大師」 としての空海である。空海は

佛大社会学 第33号(2008)

6

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伝説上入定するが,入 定後もそのままこの世に

存在 しているという信仰が大師信仰である。宮

田は大師信仰とミロク信仰との関係性に注目す

る。宮田は,弘 法伝説の基本的なモチーフは,

弘法大師と称する旅の僧が村の困難な状況に救

いをもた らし,民 衆と交わるというものである

が,そ れは,苦 しみを軽減するために行動する

旅の宗教者に重なるものがあるとする。

ここで宮田は弘法大師の入定について考える。

宮田は歴史的事実として証明することはできな

いが,「伝承的世界での信仰的事実」として,

弘法大師入定の根拠となる史料の検討を行う8)。

弘法大師の入定は,ま ず予告がされて,断 穀 し

結跏趺坐で行に入 り,そ の間にさまざまな言辞

をのべ,弟 子たちがそれ らの記録を したという

ものである。宮田は,弘 法大師は入定 ミイラ化

することで,「 歴史的世界から伝承的世界へ入

り,不 死のまま聖界にあってやがて未来世にお

いて俗界に復活するのだという信仰的事実が固

定化する」(宮 田1970:135)と 考える。 この

ような大師信仰に基づ く入定は,民 衆と直接か

かわる下級宗教者たちによってなされ,世 情の

不安定な変革期において生 じた ミロク下生思想

(メ シア待望思想)を 背景 とした大師の出現と

その奇蹟で説明することが可能であり,大 師の

超宗派的性格は,民 衆の欲求の反映であり,大

師に仮託 された旅の宗教者たちが,民 衆たちの

メシアとしてその任を果たすための根拠 となっ

たと考える(宮 田1970:146-8)。

メシア思想が山伏のような下級宗教者によっ

て醸成 されてきたという考え方は,宮 田以外に

も論 じる人がいる。内藤正敏がカリスマという

文脈 にのって論 じた土中入定者の考察は,宮 田

が述べるようなメシア思想を背景 として下級宗

教者がおこなった宗教的行為を理解する上で,

示唆の含まれたものである。内藤 によれば,土

中入定には衆生救済の要素が大 きいとされてい

る。土中入定を行う宗教者たちはその土地の人

ではな く,流 れ者の下級宗教者たちであり,彼

らが宗教者 としてのカリスマ(霊 験)を 得る方

法 として,地 面に穴を掘 りその中に埋まること

で死に至る土中入定 というものがあった。宗教

家が成仏を図る方法 としての土中入定は,入 水

などに比して時間のかかるものであり,そ れだ

けに土中入定をする人たちは下級宗教者に限 ら

れていたようである。また,宗 教者の土中入定

による救済を願う民衆自身は土中入定を行わず,

下級宗教者たちに土中入定をさせる事で自らの

救済を志向する。このことから民衆のエゴをう

かがい知 ることができる。また,下 級宗教者た

ちが 「衆生救済をした」というカリスマを得る

方法 としての土中入定は,大 きな宗教勢力への

対抗手段として土中入定者の即身仏を祀るとい

う方法を生み出すにいたることもある。こうし

た土中入定を行 う下級宗教者たちは,も ともと

水呑百姓や下級武士の出身者であることが多い

(古野監修1979:・::)。 内藤の論をおおまか

に述べたが,内 藤の論を用いながら考え られる

ことは,宗 教者が 「信仰に殉 じて死ぬ」という

構図は,当 人の意志に関わらずカリスマを生 じ

させるということである。それは 「衆生救済を

して くれたえらい宗教者」として民衆を救うと

いうことになる。

宮田の考えるミロク信仰 も,弘 法大師の入定

を根拠とするメシア思想が成立 していたという

大枠の中で論 じられたものである。宮田は富士

信仰や富士信仰系の丸山教,大 本教などを例に

挙げて,こ うした宗教の背景にあるミロク信仰

に凝集されるような意識の軸は,日 本人が抱い

てきたユー トピア観 ・メシア観 ・世直 し観につ

ながるという。特に世直 しという意識について

注目すると,民 衆の意識からは強力なカリスマ

が期待されていない。メシアと称 した人が付帯

する強力なカリスマ性をもった人間による革命

というイメージは,日 本の世直 しという意識に

ともなうメシア観においては乏 しいものである

とされる。メシアはあくまで非現実的な存在で

ある。 しかし,こ うした論理は伝承的世界を通

江戸期の宗教を考える7

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しての 「世直 し」観で しかな く歴史のダイナミ

ズムのなかで 「いかなる影響を受け,い かなる

変容を示すのかは別問題 となろう」と指摘する。

伝承的世界に由来する 「世直 し」観は社会の変

革時に様々な方向に爆発する可能性があるとい

う(宮 田1970:240-4)。

宮田の言 うミロク信仰論は,江 戸期の宗教の

持つ背景を説明する上で,そ れな りの説得力を

発揮するのではないかと考えている。確iかに,

宮田が言うようなメシア観に基づ く救済への希

求は,民 衆の中で常に醸成されていたとみる事

はできる。 それは内藤が論 じたような下級宗教

者が宗教的な力を得るために行う行動について

論 じた内容と,内 藤が事例としている行者たち

の行動について残されている史料などからもう

かがい知る事のできるものである。内藤が言 う

ような事例 は,ま さしく江戸期の下級宗教者た

ちの営みそのものであったと考えられる。ただ

し,わ れわれ自身が江戸期の宗教意識を考える

ための大きな枠組みの一つとしてとらえるべき

で,宮 田が考えるメシア観=江 戸期の宗教意識

ということはできない。民衆が考える救済は言

葉で示せるようなものではな くて,渾 然とした

ものもしくはより単純なものではないか。 この

問題は後ほどもう少 し考えるとして,そ の前に,

救済観の背景としての ミロク信仰という考え方

に起因する民衆思想について論 じた,安 丸良夫

について言及 しなければならない。

通俗道徳という価値基準

安丸は宮田がいうミロク信仰によってその思

想形成の背景を述べることができたとしながら,

「私たちの問題は,こ うした背景からいかにし

て思想形成=主 体形成がなされるかということ

である」(安 丸1999:155)と 述べたうえでそ

の論を展開 していく。論 じる上で安丸が前提 と

していたのは,世 直 しの論理 とそれに伴 う思想

形成についてである。

世直 しの論理 とは安丸によれば,「 民衆が困

苦せる生活の渦中で生み出す解放への幻想」

(安丸1999:141)で ある。近代的政治論理が

民衆の解放原理となるだけでな く,現 実的に解

放の可能性が見出されない限 り,世 直 し的観念

はたえず再生産され,民 衆の心をとらえる。こ

の観念は伝統的な民衆意識の中に存在する,社

会改革についての幻想的観念である。こうした

観念は平穏な時代には成熟する契機がない。 し

かし,歴 史の変革期になると,新 しい社会を希

求する民衆の中に急速に膨れ上が り巨大な社会

的勢力が結集する。こうした観念が重要な意味

を持つのは近代社会成立期においてであり,こ

の 「巨大な変革期」において,世 直 し観念は民

衆の思想形成=主 体形成の もっとも重要な契機

となり,こ の観念の発展のなかに,思 想形成=

主体形成の特質が集中的に表現されるのである

(安丸1999:141-2)。

ただ,世 直 し観念が民衆の解放の幻想である

かぎり,歴 史の舞台で主導権を握ることはない。

「近代資本主義社会の鋼鉄の法則性は広範な民

衆の解放の幻影を押 し潰 して貫徹する」(安 丸

1999:142)と し,世 直 しの観念はある意味敗

北を運命づけられた観念だとする。 しかし,安

丸は単に敗北 したという話で終わらせるのでは

なく,世 直 し観念をめぐる民衆の思想形成=主

体形成がどのようにされたかをみる事は意味が

あると考える。それは,近 代資本主義社会の論

理に敗北す る運命だったとしても,ど のように

敗北をし,何 を達成 した上で敗北をしたのか,

後の世に何を伝統 として定着させたのかを知 る

ことである(安 丸1999:142-3)。 安丸の視点

は,日 本における近代資本主義社会の成立 と民

衆思想 という論点を中心 とするものである。安

丸の論には 「近代社会」が地平のかなたにある。

民衆思想を考える上で,安 丸は農民一揆 と打

ちこわしに代表されるような,民 衆闘争を事例

とす る。近世中後期から明治にかけて行われる

こうした行為には,2つ の特徴があるとしてい

る。第1に 民衆による独 自の政治権力の構想が

佛大社会学 第33号(2008)

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欠如 していたことである。最 も激化 した民衆闘

争においても,現 存の政治権力を自明の前提と

しており,そ の権力に対 して封建負担の軽減,

または商業資本か らの収奪か らの解放を求める

運動に終始 した。民衆を直接支配する役人や,

収奪す る特権商人への怒 りはあったとしても,

彼 らを下部構造として内包 しながら構築されて

いる政治権力へ直接怒 りを向ける事例はきわめ

てまれである。第2に 民衆闘争が一般的に非宗

教的だったことである。他国において民衆闘争

が宗教的色彩を帯びるのは,よ くあることとし

て見 られる。闘争が激化 し支配権力との全面的

対決が敢行される場合,必 ず宗教闘争の形態を

とると安丸は考える。ヨーロッパの農民戦争,

中国の太平天国の乱などを例 にして,「 前近代

社会の民衆にとっては,そ うした独自の世界観

は宗教的形態をとらざるを得ない」(安丸1999:

144)と し,封 建社会の持つ強固なイデオロギー

に対抗するための,新 たな信念体系の構築が

なければ民衆運動の持続はないという(安 丸

1999:143-4)o

安丸は近代資本主義社会と民衆思想という論

点を中心 として論 じる際に,権 力と民衆という

2つ の対立軸を想定する。この両軸を論点とす

る事は,民 衆宗教という視点か らに限 らず多 く

の論者が前提 としているようなことである。安

丸は前近代の支配原理としての封建イデオロギー

について概観する。安丸は自らが考える封建イ

デオロギーについて,以 下のように述べている。

封建イデオロギーは,封 建的身分秩序を

徳や救済にいたるためのヒエラルキーだと

主張 し,そ の事によって民衆を思想主体か

ら排除し,信 念や価値の世界を支配階級の

手に独 占するものだった。儒教道徳がどれ

ほど強調 されようと,そ れは支配者か ら民

衆に一方的におよぼされ るものであり,民

衆は儒教道徳を自覚的に担 ってゆく責任主

体ではない(安 丸1999:144-5)。

民衆は上記のような封建イデオロギーのもと

で,徳 の体現者である支配者に従属する愚民と

された。このような状況を打破するのは困難な

ことであり,こ うした背景をもつ近世中後期以

降の民衆思想発展の主要な動向が,勤 勉,倹 約,

正直,孝 行などの通俗道徳の主張にあったこと

に重要な意味があるとしている。

通俗道徳の実践に向けられたエネルギーは膨

大であったが,そ のエネルギーは家や村落程度

の小集団内部の問題解決にむけられ,社 会体制

全体の問題に対して有力な力となりえなかった。

対 して荻生徂徠などの経世家から,維 新期の指

導者にいたる 「マキャベ リズム的 ・絶対主義的

な開明思想の系譜」は 「近代資本主義社会成立

期の法則性をそれぞれの時点で可能なかぎりリ

アルに,社 会科学的な方向で把握 し,そ こから

現実的な諸政策をうちだそうとする」(安 丸

1999:146)立 場に従属的であるとする(安 丸

1999:145-6)o

以上に述べたような理由から,日 本の民衆思

想 には,宗 教的契機が乏 しかったことと,社 会

変革の思想としての困難さを述べたうえで,安

丸は民衆思想の形成とその歴史性を再考す る。

民衆が伝統的世界の内部から出発 しながらどの

ように思想形成=自 己形成を試みたのか,そ れ

にはどのような可能性があり,矛 盾や困難があっ

たのかを知るために,伝 統的な世直 しの論理の

発展を追跡することは,有 力な手掛かりになる

とする(安 丸1999:146-8)。

本論で考える江戸期の宗教について,安 丸は

論の中心に持ってきてはいない。安丸の関心は

民衆意識の内面に向けられている。習合宗教そ

のものの分析を行っている訳ではない。この点

は注意すべきところである。また,安 丸は富士

講や特に大本教などの分析をおこなっているが,

安丸の関心はより大きな枠をみる事にある。先

程 も述べたが,安 丸の関心の地平には近代とい

う問題が常にある事を意識 しなければならない。

江戸期の宗教を考える9

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そ うした内容をそのまま江戸期の宗教の理解に

用いてしまうのは,近 代化論 との関連に引きず

られすぎて しまうだろう。筆者 としては,江 戸

期の宗教 と明治以後の近代化 とは直接結びつ く

ものではないのではと考えている。安丸 も 「民

衆意識」 と近代化 との関連性については考察を

行 っているが,江 戸期の宗教 と近代化 という軸

で行 っている訳ではない。安丸は民衆思想の展

開過程を追いながらその変革性 と限界,そ して

いかにして変革性は獲得 されうるのかというこ

とを論 じてい く。そのための 「前提」 となる事

例 として江戸期の宗教である富士講や,宮 田が

述べるような ミロク信仰に示 される伝統的な民

衆意識を述べるのである。

安丸の論 旨を援用しつつ,か なり強引に江戸

期 の宗教について述べるなら,「通俗道徳的な

自己規律=自 己鍛錬が世直 し観念の成熟の基礎」

であるとした上で,そ うした民衆意識は宗教的

表現を用いる事で普遍的原理として宣言するこ

とができ,そ の原理に従わない人たちを激 しく

糾弾することができた。そういう意識を発露 さ

せるための宗教的装置が,本 論文でいう所の江

戸期の宗教である。そ して,民 衆意識の発露そ

の ものが,江 戸期の宗教の系譜に頼らざるをえ

なかったことが特徴としてあるのだといえる。

安丸は特に 「世直 し的諸思想が民俗信仰的な神

道説の系譜のものだった(安 丸1999:228)」

ことを問題とし,こ の事と天皇制イデオロギー

の問題とを関連させて論 じていく。 しか し,本

論文は天皇制イデオロギーについて問題とする

ものではな く,詳 細を論 じる事はできない9)。

これまで紹介 してきた先行研究,特 に村上重

良 と安丸良夫の論は,伝 統的な成立宗教の担い

手が残 したテキス トだけでなく,民 間の生活者

が 自らの言葉で残 したテキス トもまた検討する

価値のあるものとしてわれわれに示 してくれる

ものであった。 しかし,こ こに信仰当事者が陥

る落とし穴があるのではないかと渡辺順一はい

う。渡辺は新宗教を考 える上で,「 教祖」 を

「宗教」の 「発生過程」 として見る見方は 「教

祖」ではなかった彼ら自身の運動の思惑を,明

治以降の宗教制度史の枠組みの中へ閉じ込めて

しまうのではと疑義を提示 し,「教祖」 と呼ば

れる人たちが政治との軋轢を第1の 問題 として

いたのではな く,そ の軋轢によって露わとなっ

た 「神様の世界」との関係を容易に切断 しよう

とする近親者 ・弟子らの生活意識を問題にして

いたのではないかという(渡 辺2007:123-4)。

渡辺が言 うことは,直 接江戸期の宗教を考え

ているものではないが,対 象への新たな眼差し

を提供 して くれるように思われる。江戸期の宗

教を考える上で政治的な軋轢への抵抗の文脈と

して考えることも一つの見方であるが,当 事者

がどのように信仰に向き合っていたのかを考え

る事 も重要である。その意味でいうと,安 丸ら

の論を用いる場合に一種の慎重さが必要 とされ

るのではないか と思えるのである。この点につ

いてはいまだ研究の途上であ り,こ こでは明確

な結論を述べる事はできない。今後の課題であ

るQ

いままで救済を志向する宗教の背景について

アカデ ミックな文脈に立脚 しつつ,論 じてきた

が,結 局江戸期の宗教における救済とは何かと

いう点が十分に考えきれていない。江戸期の宗

教における救済 とはどういうものであるのか,

もう少 し考えてみよう。

3.江 戸 期 の宗教 を考 え る

江戸期の宗教について論 じた先行研究をこれ

まで見てきた。こうした先行研究は数多 くあり,

本論文ではその一部を論 じたにすぎない。その

上で,江 戸期の宗教における救済 について考え

てみようという訳であるが,こ こで改めて江戸

期の民衆文化と社寺参詣の実情についてより突っ

込んで述べなが ら江戸期の宗教の救済について

考えてみよう。なぜなら,江 戸期の宗教の担い

手はこれか ら述べるような文化背景を持つ民衆

佛大社会学 第33号(2008)

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であ り,民 衆にとってもっとも身近な宗教的行

為は社寺参詣だからである。

江戸期の庶民(民 衆)文 化と社寺参詣について

江戸期の民衆が内包していた文化について,

高尾一彦は 「江戸時代の庶民がもっていた 「普

遍的人間性と民族的創造性」のほんとうの具体

的内容」を知 りたいとして歴史学の立場から考

える。高尾の論には安丸のそれとの類似点が見

出されるが,民 衆の文化というレベルで論 じら

れているのが特徴である。高尾は井原西鶴の文

芸作品に示される循環論的人生論を述べたうえ

で,安 丸の言うところの 「通俗道徳」に基づく

庶民の倫理観が,支 配イデオロギーである朱子

学に対抗する観念として発達 した結果として,

近松門左衛門や西鶴の文芸作品が成立したとい

う(高 尾2006:7-38)。 高尾は西鶴を例にあげ

ながら,庶 民の倫理観に限 らず庶民の遊楽もま

た庶民独特の美意識にあるものとして,近 松の

「女殺油地獄」などに示 される夫婦の情愛など,

世話物 と呼ばれるような文芸作品を事例としな

がら,庶 民独特の美意識について語 る(高 尾

2006:39-48)。 こうした庶民独特の倫理観 ・美

意識が発展 した理由について,高 尾は以下のよ

うに述べる。

わたくしはそれを庶民の経験的合理意識

の発達であると考える。経験的合理意識と

いうのは,経 済や社会生活の中で経験的に

帰納された傾向や法則的なものを,こ んど

は判断行動の価値基準として応用 してゆく

意識的態度をいう。庶民のそのような意識

的態度は(中 略)そ れらに基礎をおいた商

品流通や都市生活がうみだ したものである

(高尾2006:49)。

経験 的合理意識について当時の人がどのよう

に表現 していたのかについて,高 尾は 「義理」

「人情」「道理」 という言葉をあげて説明 してい

る。高尾は民衆文化について,経 験的合理意識

に基づく勤労倫理,新 しい倫理的主体性,政 治

への批判意識をその特徴としてあげる。高尾の

言 う勤労倫理については安丸の論にあるような

内容である。高尾は倫理的主体として近世の庶

民は自ら意識 していたと考える。とくに上方と

呼ばれる地域でいちじるしく 「古い都市共同体

の人間としてではな く,小 商品生産の発展にお

うじた一個の社会的人間として,勤 労の倫理も

ふ くめての広い倫理的主体性を作 り上げてきて

いる(高 尾2006:107-8)」 という。ただし,

こうした営みには一定の経済的条件の持続と,

文芸や思想による啓発が常に必要であるとし,

元禄期においてこうした営みが上方で優勢だっ

たのが,18世 紀中頃においては江戸でこうした

営みが優勢 となったとしている(高 尾2006:

108-9)a

高尾が考える庶民文化が内包 してきた勤労倫

理と倫理的主体性の問題は,江 戸期の宗教を考

える際に視点のひとつ として参考になるのでは

と考えている。勤労倫理の有無についていう論

旨に関 して言えば,安 丸の考える内容に即 した

ものでもある。高尾は 「庶民文化」 というキー

ワー ドで江戸期の民衆について考える訳である

が,こ の事から想定できるのは,自 分たちにとっ

ての理想と現実を考える事ができたということ

であ り,宗 教の立場にたてば 「明確な救済 目的」

が成立 したといえる。つまり,勤 労倫理 という

基準に則 してどう救われたいかという明確な指

針ができたのである。宗教 に求めるものもそう

した現実認識に基づ くものではないだろうか。

それが江戸期の宗教の習合宗教としての性格を

ある程度規定 していたと考える事ができるだろ

う。高尾の言 うようなことを前提に しながら,

村上が言 うように神仏への尊崇 と超自然的な存

在への侮蔑が,江 戸期の民衆の宗教意識の基底

にあるとするならば,俗 な言い方をすれば 「敬

して遠ざける」 というのが民衆の宗教に対する

態度だったといえるかもしれない。また江戸期

江戸期の宗教を考える11

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には民衆の社寺参詣が流行す る。 この事は,民

衆が宗教に触れる機会を増大 させ,宗 教の主体

的な受容者 として,民 衆を宗教に関わる専門家

たちが意識せざるを得なくなる状況を生み出す

ことになる。 こうした現象について,新 城常三

が膨大な論考を行っている。

新城は元禄期以後の社会の変化についてまず

述べていくi°)。中世以来有力な信仰の受容者で

あった武士階級が,幕 藩体制の規制によって自

由な行動が阻害されていくと同時に,よ り多 く

の民衆が社寺参詣を気軽に行えるようになる。

社寺はその崇拝を求める対象を民衆へ求め,そ

の結果 として有名な社寺であればその地盤は驚

くほどに拡大 していく。そのことについて伊勢

御師11)の増加を事例として,御 師の銘帳を参考

にしながら述べていく。伊勢御師の場合その数

は拡大 してい くが,筆 者が研究 している富士講

と関わりの深い吉田口の御師の場合,名 簿など

を確認 してい くと80名前後で一定 している。平

野榮次は一定数 に保たれていたのは,御 師仲間

がその営業権を 「御師株」「師職株」 と呼び一

定数にこれを固定 して増加を抑制 していたから

ではないかとしている(平 野2004:131)。 浅

間社 と伊勢神宮とは性格 も異なるので,そ の人

数の多寡でその信仰の威勢を知 る事は難 しい。

しか し,「御師株」 というものがあり,そ れが

相続や売買の対象になっていたことは,そ の信

仰が付与 されていく性格を考える上で意識 して

おく必要がある。

御師が世話をする信者たちを旦那 というが,

御師1人 当たりの旦那数が江戸期に飛躍的に拡

大する。伊勢御師に限らず,有 名な霊山 ・社寺

は広範な地域 に旦那を抱え,旦 那は特定の社寺

に対 して師旦関係を結んでいる訳ではなく,複

数の社寺 とそうした関係を結んでいるのが普通

であった。新城は,こ うした関係は,民 衆に宗

教関係者に対する尊崇の念を薄れさせる結果 と

なり,民 衆にとって社寺参詣は遊興の要素が強

くなり,御 師にとって旦那 となる民衆たちは常

連客と変わ らな くなるとし,御 師と旦那の関係

性か ら信仰の発展をみる事は難 しく,「参詣者

の直接母胎は,む しろそれらの旦那の中の,比

較的篤い信仰者を以って結成された講=代 参講

であったというべきであろう(新 城1964:720)」

という。

新城は参詣者の直接母胎となった講は,江 戸

時代に至って民衆の社寺参詣への意欲の増大と,

信仰者確保の必要に基づ く社寺側の思惑がかみ

合うことで全国的に拡大 したという。講社を組

むことで,中 小農民たちが参詣にかかる費用の

安定供給を可能とし,個 人的参詣 とは異なる定

期性,永 続性を講社は提供 して くれるのである。

先程述べた桜井の研究にもあるように講社には

信仰的機能以外にも,共 同体内の親睦的機能も

含まれているとし,江 戸期の民衆にとって講を

組んで社寺参詣を行うことは,封 建的規制の重

みに耐えるための方法であったという。講の普

及と社寺参詣とは不断の関係にあったのではと

いうのが新城の考えである(新 城1964:724-

731)0

江戸期の宗教を考える

新城の論はこれまで紹介 してきたこと以外に

も多岐にわたり,徹 底 して社寺参詣というテー

マで論 じていくのであるが,彼 の論か ら見えて

くるのは江戸期において宗教と民衆の 日常生活

とが不可分なものとなっていく過程である。宗

教と民衆の生活 との結合を単純に考えれば,宗

教自体が世俗化 していく過程ともいえる。民衆

が求める救済 とは何か と言えば,江 戸時代に関

するさまざまな論や史料などか ら見て とれるこ

ととして,幕 府が作 り上げた200年 以上継続 し

た強固な制度によって生みだされた,さ まざま

な抑圧か らの解放が大きか った し,そ の抑圧か

ら逃れ られないとして も,少 な くとも自分の生

活だけで も楽になりたいという欲求が基底にあ

る救済であると一般的には考え られている。社

寺参詣に向か う民衆の中には,眼 病快癒や,商

佛大社会学 第33号(2008)

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Page 13: 江戸期の宗教を考える - Bukkyo u...ある。農村が疲弊するとともに,村外にあふれた農 民の中から山伏,六 十六部,「みこ」など雑多 な宗教者が多数輩出されるようになる。村上が

売繁盛といったことを神仏に頼むことでかなえ

てもらおうという欲求もあったかもしれないが,

日常的な抑圧からの解放が大きかったのではな

いだろうか。だからこそ,社 寺参詣と遊興は不

可分なものとなった。 こうした社寺参詣の風潮

の中では,教 団を形成 し,教 祖 という存在がい

て,教 義という理念を保持 し追求 していく集団

を構成する 「純粋な宗教」の発生は難 しいだろ

う。宗教の主体的な担い手である民衆の求める

ものを満たそうとすれば,現 実的な欲望という

「俗の世界」に入り込んでしまうだけである。

宗教は習俗化 し,地 域の文化と一体化していく。

それによって新たな文化 も形成されていくし,

む しろそうした過程を追いかける事にも意味が

あるのだが,「 純粋な宗教」 という視点から眺

めれば宗教性を失 っていく過程なのである。

江戸期の宗教をあえてここで考えている理由

が何であるかといえば,新 城が言うように多 く

の民衆が宗教に触れることができるようになっ

たのが江戸期である。それまで宗教 とそれにと

もなう知の体系は,武 士や公家など権力者たち

によってかな りの専有がなされていた。中世末

期から一向宗の門徒やキリスト教などのように,

民衆が宗教を知 る機会は増大していたとも考え

られるが,よ り多 くの民衆にとって宗教が身近

な ものとなるにいたるのは江戸期になってから

のことである。 さらに民衆の社会に対する態度

が文芸や思想によって表わされるようになりだ

したのも江戸期以後のことである。 この二者の

融合によって,江 戸期の宗教の持つ救済観は生

み出されたのではないか。

島薗が言う習合宗教は,江 戸期の状況下で成

立 した宗教的環境の中で拡大 していく。さまざ

まな社寺の旦那とな り,そ れぞれの社寺に参詣

していく中で民衆は宗教をある程度認めつつ,

適当な距離を保ちながら独自の宗教的な世界を

醸成させてい くのである。それは来世に仏にな

るというような観念的な救済を求めるのではな

く,現 実的な苦 しみからの救済を宗教に願 うと

い う意 識 の 転 換 で もあ った 。 苦 しみ か らの解 放

の次 元 が 転 換 して い くな か で,江 戸 期 の宗 教 は

習 合 宗 教 とわ れ わ れ が 呼 ぶ よ うな状 況 を生 み 出

し,中 世 以 前 か らの宗 教 的 伝 統 と称 され るよ う

な もの と一種 断 絶 した と ころ にあ った とい え る。

江 戸 期 の 宗教 を考 え る事 は 民 衆 が 母体 とな る宗

教 意 識 の 変遷 を考 えつ つ,そ れ 以 後 の新 宗 教 の

成 立 過 程 を考 え る上 でふ ま え て お くべ き 問題 で

は な い だ ろ うか。 これ ま で江 戸 期 の宗 教 を考 え

て き たが,宗 教 とい う現 象 に 限 らず,時 代 に強

く依 存 す る社会 現 象 は,常 に そ の時 代 の欲 求 に

対 応 す る もの の み が生 き残 る とい うこ と を,改

め てわ れ われ は認 識 して お く必 要 が あ る だ ろ う。

1)こ こでいう江戸期 とは,元 禄以降の江戸 ・京 ・

大 阪を中心 と した都 市民 や周辺の 自作農 を主 な

担 い手 とす る文化 が醸成 された時期を特 に指 し

ている。 よ り具体 的 に言 えば,元 禄時代 か ら文

化 ・文政期(1688年 ~1830年)の 約150年 前後を

本論文 では江戸期 と便宜的 に述べ ることとす る。

2)御 触書の 内容 につ いては,『御触書寛保 集成』

p608を 参照の こと。

3)「 民衆」 という言葉 は論者 によって どの ように

用 い られて いるか差 異が あ り,ど う用 いるかで

議論す る ことも可 能な意 味を 内包 した用語 であ

る。 渡辺 順 一 は非知 識 階級 ・非 宗教 専 門家 を

「民衆 」 と称 してい る(渡 辺2007:113)。 本論

文 では渡辺 の説 にあ る程度依 拠 した用 い方 を し

てお り,「民衆」 という用語を,習 合宗教 の主体

的な担 い手 を述べ る事を前提 に用いてい る。 そ

こでい う 「民衆」 の なか には,論 理的思考 の訓

練 を受 けた知識 階級 とされ るよ うな人た ちは含

まれて はいない。

4)詳 しくは(島 薗1992)お よび,『縮刷版 新宗

教事典 』本文篇 などに記述 されて いる。 興味 を

もたれ た方は参照 してほ しい。

5)村 上 の意 図を彼 自身 の論 をふ まえなが ら考 え

るな ら,江 戸期 の民 衆 によ って書 かれた思想書

の類 と江戸期の民衆 蜂起 の プロセスを念 頭 に置

いているので はないか と思 われ る。 本文で はそ

う したこ とが書か れて いないので,よ くわ か ら

ない。

6)新 宗教 と新新宗教 とい う区分 につ いては,(島

薗進,1992年,『 新新宗教と宗教 ブーム』岩波 ブッ

ク レッ ト)に 簡 潔 にま とめ られ てお り,本 文 の

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内容 も同誌 に即 した ものとなっている。

7)沙 弥 とは元来十戒 を受 けた出家の男 子を言 う

が,日 本 では鎌倉期な ど道を求 めて剃髪 したが,

出家者 と して の戒 行を行 わず妻 帯す る僧 侶の事

を沙 弥 と呼ん だ。 聖 は体制外 の民間仏 教者の 呼

称 のひ とつで あ り,沙 弥 な どとと もに寺院仏教

の枠外 にあ る修行者や布教者を指す場合 が多 い。

8)宮 田が 弘法大 師入定 の根拠 として検討 して い

る史料 について は,『 ミロク信仰 の研究 』p134に

所収 されてい るものを参照 のこ と。

9)安 丸 が考 え る天皇 制 につ いて はさま ざまな論

があ り,そ れ らを検討す る ことで近代 日本社会

を考 え る上で示 唆を得 るこ とがで きるだ ろう。

安丸 の天 皇制論 につ いては(安 丸良夫,1992年,

『近 代天皇 像 の形成 』岩波書店.)で も詳 しく展

開されて いるので,そ ち らを参考 に して欲 しい。

10)(新 城1964:663-671)を 参照 の こと。新城 が

言 うような江戸 時代の社会 変化 につ いて は他 の

研 究者な ども言 うことであ り,こ とさら本論 文

で述べ る ような ことで はないが,新 城が言 う内

容 を参考 に しなが ら簡単 にま とめる と,① 生 産

力 の向上 による農民 の成長 と,太 閤検地以後 の

小農 民の 自立促進,② 農村 での貨 幣経済 の発 展,

③ 国 内商 業 ・流通経済 の発 達 にと もな う都市 の

発 展 と町 人 ・商人の成長,④ 交通環 境 の好転 に

よる旅 の レク リエー シ ョン化,な どが よ く言 わ

れる ことで ある。

11)御 師 とは,「 御祈祷 師」 の略で,社 寺 に所属 し

特定 の信 者(檀 那)と 師檀 関係 をむす んで社寺

に誘導 し,祈 祷 ・配札 をお こない,御 師宿 と呼

ばれ る宿 泊施 設 を経営 し,信 者 の便宜 を図 る宗

教者 の事 をい う。上吉 田浅間神社の御師の場合,

檀家 は富士講 が ほ とん どだ った とされ,彼 らの

宿泊料,富 士登 山に ともな う山役銭,檀 家回 り

にと もな う御初穂 が,御 師 の経 済基盤 を支えて

いた(坂 本他編2004:169-185)。

参考文献

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(わたなべ ・しゅうじ

佛教大学社会学研究科博 士課程

社会学 ・社会福祉学専攻)

佛大社会学 第33号(2008)