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後期申観派の唯心説 と二諦説 三 種 の唯 心解釈 〈勝義,ヨ ーガ行 者 の世俗,凡 夫 の世 俗〉一一 1.後 期 中観 派 の唯心 解 釈 と修 道 論 1.唯 心 解 釈 を巡 る論 議 2.Kamalas31aの 唯心説 と ヨーガ 行者 の修 道 論上 の世俗 3.外 界の対象の吟味一 丁 α伽 α54勉g7読σch.XXIII.巳 皿.世 間 の 人k(loka)と ヨ ー ガ 行 者(yogin) 1.世 間 の 人kの 常 識(prasiddha)と ヨーガ行者の知 2.二 種の実世俗 2-1.世 間 一般 の 人kの 常識としての実世俗 2-2.ヨ ーガ行 者 の修道 論 上 の実 世俗 皿.三 種の 厂中」 一 三種の勝義観 1.唯 識 派 の 「中」 2.Bhavavivekaの 「中」 3.iSantaraksita,Kamalas31aの 「中」 N.異 種の唯心解釈 1.6ubhagupta:の 唯心 解 釈(1) 2.Shavavivekaの 唯心 解 釈(1) 3.Candrakirtiの 唯心 解 釈(1) 4.Bhavaviveka,Subhagupta,Candrakirtiの 唯心 解 釈(2) V.Kamalaァilaの 総括 V【.資料Mal解 読一 拙稿 〔1〕:Kamalasilaの 唯識思想 と修 道 論 一 唯識説の観察 と超 (佛教 大 学 人 文 学 論 集 第19号,1985.Dec・)pp.43-77. -47一

後期申観派の唯心説と二諦説 - bukkyo-uarchives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0075/DY00750L047.pdf · 後期中観派の唯心説と二諦説 に相応しい」勝義一

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  • 後期申観派の唯心説 と二諦説

    三種 の唯心解釈 〈勝義,ヨ ーガ行者の世俗,凡 夫の世俗〉一一

    森 山 清 徹

    目 次

    略 号

    1.後 期 中観 派 の唯心 解 釈 と修 道 論

    1.唯 心 解 釈 を巡 る論 議

    2.Kamalas31aの 唯 心説 と ヨーガ 行者 の修 道 論上 の世俗

    3.外 界 の 対象 の 吟 味一 丁α伽 α54勉g7読 σch.XXIII.巳

    皿.世 間の 人k(loka)と ヨー ガ行 者(yogin)

    1.世 間 の 人kの 常 識(prasiddha)と ヨーガ行 者 の 知

    2.二 種 の 実世 俗

    2-1.世 間 一般 の 人kの 常 識 と して の 実世 俗

    2-2.ヨ ーガ行 者 の修道 論 上 の実 世俗

    皿.三 種 の 厂中」 一 三種 の勝 義 観

    1.唯 識 派 の 「中」

    2.Bhavavivekaの 「中」

    3.iSantaraksita,Kamalas31aの 「中」

    N.異 種 の唯 心解 釈

    1.6ubhagupta:の 唯心 解 釈(1)

    2.Shavavivekaの 唯心 解 釈(1)

    3.Candrakirtiの 唯心 解 釈(1)

    4.Bhavaviveka,Subhagupta,Candrakirtiの 唯心 解 釈(2)

    V.Kamalaァilaの 総 括

    結 論

    V【.資 料Mal解 読一

    略 号

    拙 稿 〔1〕:Kamalasilaの 唯 識 思 想 と修 道 論 一 唯 識 説 の 観 察 と超 越

    (佛 教 大 学 人 文 学 論 集 第19号,1985.Dec・)pp.43-77.

    -47一

  • 佛 歡 大 學研 究紀 要 通 卷75號

    拙 稿 〔2〕:後 期 中 観 派 の 学 系 と ダ ル マ キ ー ル テ ィ の 因 果 論Catuskot・

    yutpadapratisedhahetu(佛 教 大 学 研 究 紀 要 通 巻 第73号,

    1989.Mar.)pp.1-47.

    〔3〕:後 期 中 観 派 と ダ ル マ キ ー ル テ ィ(2)「 空 」 を 巡 る 論 争:

    LaksanasunyataとSvabhavanupalabdhi(同 上,第74

    号,1990.Mar.)pp.27-64.

    〔4〕:後 期 中 観 派 と ダ ル マ キ ー ル テ ィ(3)無 自 性 論 証 と 推 理

    (anumana)(佛 教 大 学 人 文 学 論 集 第24号,1990・Dec・)

    pp.7-33.

    〔5〕:後 期 中 観 派 の"勝 義"の 解 釈 と プ ラ マ ー ナ 論(久 下 陞 教 授 古

    稀 記 念 論 集 ・仏 法 と 教 育 の 森)

    〔6〕:カ マ ラ シ ー ラ の 無 自 性 論 証 と ダ ル マ キ ー ル デ ィの 因 果 論(佛

    教 大 学 研 究 紀 要 通 巻 第71号,1987)PP.19-73.

    SDNS(1):カ マ ラ シ ー ラ の5α7呶4加 厂叨 α"ψ3抛6肋 汐α3認4痂 の 和 訳

    研 究(1)(佛 教 大 学 大 学 院 研 究 紀 要 第9号,1981.Mar.)PP.

    60-100.

    SDNSIV:AnAnnotatedTranslationofKamalasila'sSDNS(佛 教

    大 学 研 究 紀 要 通 巻69号,1985)PP.36-86.

    SDNS解 説:KamalasilaのSDNS解 説(佛 教 文 化 研 究 第33号,1988)

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  • 後期中観派の唯心説と二諦説  ロ   

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    ed.byS.D.Shastri.

    戸 崎(上),(下):戸 崎 宏 正r仏 教 認 識 論 の研 究 』 上 巻(1979),下 巻(1985)

    中 観 派 の 中 で も,唯 心説 の取 り扱 か いを 巡 って 相 違 の あ る こ とが 知 られ て いノ

    る。 そ の 代 表 的 な例 は,BhavavivekaとSantaraksitaの 見解 で あ る。前 者 は

    「唯 心 」 を 外 界否 定 を意 味 す る とは解 釈 せず,異 教 徒(tirthika)の 想 定 す る

    一49一

  • 佛歡大學研究紀要通卷75號

    行 為 者(karts)と 享 受 者(bhoktr)を 否 定す る為 で あ る とす8。 そ れY'対

    し,後 者Santaraksita及 びKamalasilaは,ヨ ニ ガ 行 者(yogin)が,修 習

    (bhavana)の 実 践 を通P,無 戯 論,法 界,一 切 法 無 自性 の直 観 に至 る直 前 の段

    階 の 「信 解 行 地 」,「順 決択 分 」の うち,忍 位 唯 心(cittamatra),世 第 一 法 位

    所 取 ・能 取 の 形 象 を離 れ た無 二知(grahyagrahakakararahitamadvaya血00

    jnanam)と の位 置 付 け を 与},唯 識 派 の 「入無 相 方 便 相 」 に相 当す る段 階 に

    「唯 心 」 へ の悟 入 の達 成 が あ り得 る とす る。・端 的 に 言 え ぽ,前 者 は,世 間 の

    人k(10ka)の 常 識(prasiddha)に 適 う視 点 か らの 「唯 心 」 解 釈 で あ る に対

    し,後 者 は,ヨ ー ガ行 者 が 聞,思,修 の実 践 を 通 じ,虚 偽 な もの(alika)へ ゐ執 着

    を 断 っ プ ロセ ス の視 点 か ら,換 言す れ ば,人 法二 無 我(pudgaladharmanaira- 

    tmya)の 悟入への必然的契機としての視点からの「唯心」解釈を示 している。

    すなわち,後 者は唯識派の修道論 と哲学の体系に基本的に沿った 「唯心」理解

    を示すに対し,前 者は,唯 識派とは全く異った 「唯心」解釈を示ず。 なお, 

    Candrakirtiは,前 者Bhavavivekaの 「唯 心 」 解 釈 に 近 い 。 ところ で 問題

    ノは,Santaraksita,Kamalasilaの 以 上 の 「唯 心 」 解 釈 は,世 俗(samvrti)と

    位 置 付 け られ る 点 で あ る。 この場 合 の 「世 俗」 とは,無 論,世 間 の人kの 常識

    (prasiddha)と して の 「世 俗 」で は な い 。なぜ な ら,彼 等 の体 系 に よれ ば 〈唯 心

    e外 界 の対 象 の無 〉 と世 間 の人 々が 知 り得 るな ら,最 初 か ら真理(tattva)は 理

    解 され る ことに な り,ヨ ー ガ行 者 の修 道 論,「道 」(marga)は 無意 味 とな るか ら 

    で あ る 。そ の 場 合,ヨ ー ガ 行 者 は,よ り勝 れ た 見 地 か ら(paramarthatas)吟 味 考

    察(vicara)を 加iC.,唯 心(cittamatra),無 二 知(advayajnana)さxも 「世 俗 」

    と観 察 し,克 服 し,さ ら に 無 戯 論,法 界,無 自 性 の 「勝 義 」(paramartha)へ の

    「道 」 を 向 上 し て 行 く。 こ こ で のparamarthatasは,「 道 」 と し て の,「 勝 義

    ①:〉 本 稿(129)

    ② 拙稿KamalasYsilaとHaribhadra〔2〕-Haribhadraの 引用 す るBhaanakra-

    maI-(仏 教 論 叢 第33号1989年)p.9.

    ③Cf.早 島理r唯 識 の実 践 』(講 座 ・大 乗 仏教8唯 識 思想)p.150£

    ④ 見 道 初 地 の段 階 で 人法 二 無 我 の 直 観 があ り得 る。 本 稿(302b)拙 稿 〔1〕p.71,拙 稿

    〔5〕(10c)C£ 前 掲(2)

    ⑤ ⇒ 本 稿(130)(129)

    ⑥ ⇒ 本 稿(66)(91e)

    -50一

  • 後期中観派 の唯心 説 と二諦説

    に 相応 しい 」 勝 義 一 勝 れ た智 慧 の見 地 と して の もの で あ る に対 し,無 戯 論,

    法 界,無 自性 と して のparamarthaは,真 実(tattva)を 本 質 とす る勝 義 で あ0

    る。この点を 「勝義」の解釈)'Y関して考慮しなくてはならない。そ して世間の

    人kの 常識(prasiddha)と しての 「世俗」 とヨーガ行者が修道論上,「唯心」

    「無二知」をも「世俗」と判定し,克 服を図る段階での 「世俗」とはレヴェルが

    相違することに注意を要する。その相違は,凡 夫の直接知覚とヨーガ行者の直

    接知覚の直観内容の相違 として現われる。この二点が,後 期中観派の「唯心」解

    釈を理解する鍵 と思われる。本稿はこの点を唯識派の 「唯心勝義説」 と後期中

    観派の 「唯心世俗説」 との論争の分析を通 じ,解 明しようとするものである。

    1.後 期中観 派の唯 心解釈 と修道論

    1.唯 心解釈を巡る論議

    ここでは,Madhyamakaloka(Mal)前 ・後主張の内容の吟味を通じ中観

    派 と唯識派 との争点を明確にし,後 期中観派の思想を把握しようとする。まず

    前 ・後主張の内容を端的にまとめておこう。くつ

    〔Ob-1〕は,唯 識派が,根 本典籍 とするr楞 伽経』r十 地経』r解 深密経』r密

    厳経』を典拠 として 〈唯心は勝義〉であるとの見解を提示し,中 観派の 〈一切

    法無自性〉の不成立を指摘するものである。くの

    〔Ob-2〕 は,r宝 積 経 』 の 中道 の説 を 根 拠 に識(vijnana)が,常 ・断,有 ・無

    の 両 極 端 を 離 れ た,説 き示 され る こ との な い(anidarsana),確 定 され る こ と

    の な い(apratistha)等 の特 性 を具 えた 勝 義 として の 実 在 で あ る,と 提 言 し,

    中 観 派 の 〈一 切 法 無 自性 〉 を 極 端 な 見解 とす る も の であ る。くの

    これ に 対 し,中 観 派 は,後 主張 〔An-1〕 ~ 〔An-3〕 で そ の反 論 に 答論 す るの

    ⑦ 拙稿 〔5〕(3e)《39),図A,B.

    (1)⇒ 本稿(201)

    (2)⇒ 本稿(202)

    (3)⇒ 本稿(301)~(303)

    -51一

  • 佛歡大學研究紀要通卷75號

    であるが,そ の答論の仕方に特徴的なものが見出される。

    全体 としての答論の仕方は,唯 識派の 〈唯心勝義説〉に対し,〈唯心世俗説〉

    を展開する。その答論としての 〈唯心世俗説〉には,後 期中観派の立場か らな(4)(5)(6)

    さ れ た も の と,他 の 諸 論 師,中 観 派 のBhavaviveka,Candrakirtiさ ら に は,

    s

  • 後期中観派の唯心説 と二諦説

    に等 し い。

    す る者に とって,世 俗(samvrti)と い う事柄は,何 か とい うことを 吟味 しな くては

    な らなし・(vicarayet)。

    〔世俗 とは〕心 と心所 を本体 とす るに過 ぎないものなのか,あ るいは,外 界を も本体 と

    す るので あるか。その うち,あ る者(Bhavya)は 後者 に基づいて,

    論書に唯心 と説かれ るのは,行 為者 と享 受者 を否定する為である(MH.5.28cd)

    と述べ る ように。

    〔以上 と〕 別な考えは,

    因果 〔関係〕 にあ るものも,知 に他 ならず,自 ら成立する ものは,知 として確定 され

    る。 〔MAK91〕

    〔1〕 自ら成 立す る本性(全 く眼に見えない もの,atyantaparoksa)① と別な知 の本性 は

    構想され た ものではない。自ら成立す る自性を有す るもの 〔常住な知〕 も,夢 や幻等

    の色(rupa)の よ うな 〔無常なもの〕である。 〔Atmanの 無存在〕

    〔H〕 色等が外界 に存在す ると主張す る者 〔外界実在論者〕達が,知 とは別に 〔色等が〕

    実在す ると思い巡 らす としても,眼 等 のよ うには,同 時 と異時に,極 めて近い(prat-

    yasatti)② 原因が無い故,知 覚 され ることはない 〔無形象知識論の克服〕。した がって,

    (宗)そ れ(色)等 の知覚 とは,〔 知 と〕別でない青等の形象を知覚す る ことである。

    (因)知 覚 を本性 とす るものであ る故 に。

    (喩)夢 や幻等の知覚 のよ うに。 〔有形象知識論〕

    〔皿〕 仮に,知 の形象を生起 させる別の対象(artha)が 結果(知)と は別V'存 在す ると

    推理す るなら,そ うであ っても,直 接知覚(pratyaksa)と して成立 してい るのでは

    な く,推 理(anumana)に 過 ぎない。そ うであれぽ,こ れ(知 と別な対象)は 無であ

    る と証 明され る。 〔外界の無存在〕

    〔N〕 等無間縁は,確 かに存在す るし,原 子(anu)等 は,否 定 されるか らで ある。 し

    たが って,『 密厳 経』やr解 深 密経』等に示され るあ らゆると事柄 〔我kの 見 解 と

    は〕等 しい。 〈唯識派(Vijnanavadin)がr解 深密経』に説かれ る こ とと関係付け

    ることを実世俗 として述べ るか ら矛盾 はない〉③r楞 伽経』 に,「 外界 に色は存在 しな

    い。 自己 の心が,外 界 として顕現す る」 と説 かれ る。 これ も,巧 みに説かれてい ると

    考 える。 〔唯心世俗説〕

    〔V〕 知(buddhi)の 力が劣っていない 〈諸仏,世 尊〉 と大 いに精進す る 〈諸の凡夫 と

    諸 の菩薩〉 も,そ の心 に関 して,一 ・多の自性 とい う点で考えれ ば,勝 義 として,本

    質を見 ない故,実 なるもの と主張 しない。それ故,唯 心に依存 して,外 界の事物は存

    在 しない と知 らなくてはならない。 この理論 〈一切法無 自性〉に依存 して,そ れ 〈唯

    心 〉に関 しても,無 我であ ると知 らな くては な らない 〔MAK92〕 〔唯心説の克服→

    無 自性へ の悟 入〕唯心 とい う理論に依存 して,相 応 した もの(心 所)を 有す る心の外

    にある と主張 され る我(atman)と 我所(atmiya)〔1〕,そ して所取 と能取 〔皿,m

    等は無 自性であると,難 なく知 られ る。 この理論(唯 心)〔 】V〕とい うものは,自 立

    的存在者(svaya血bhの は存在 しない故,そ の心は無 自性 と知 られ る 〔V〕 けれ ど

    も,あ らゆ る極端を断 じた,こ の中道が知 られ るなら,一 ・多 の自性を欠 く点で無 自

    性であ ると熟知 され るのである。 〔以下,本 稿(302h-2)と 同 じr出 世間品』か らの

    引用が続 く〕

    ①MalD219b6fで はisvara等 を指す。②PVIII(324d)(325)③ ⇒ 本稿(36)

    以上 のMAVedMAK91-92は,一 連 のものであ り,修 習の次第 の前半 と後半

    一53一

  • 佛教大學研究紀要通卷75號

    しか し 〈唯 心 世 俗説 〉 唯識 批 判 を 巡 る問 題 は,二 諦 説 の問 題 で あ る

    故,中 観 思想 の理 解 に は,い ま なお,検 討 され 明確 に され る必 要 が あ る。 そ

    の方 法 と して,Mal前 ・後 主 張 を克 明 に 分析 す る こ とが 必 要 で あ り,ま た,

    Kamalasilaの み な らずJnanagarbha,きantarak§itaの 見 解 を理 解 す る為 に も

    そ の問 題 の検 討 は 重 要 で あ る と考 え られ る。

    〔An-1〕 の分 析

    ゆ ラ

    この 〔An-1〕 特 に 〔An-1-A〕 に 端 的V'示 され る 〈唯 心 世 俗 説 〉 と 〔An一くゆ

    3-1〕~ 〔An-3-5〕 で示 さ れ る 〈唯 心 世 俗説 〉 との 根 本 的 相 違 は,〔An-1-A〕

    の もの は,「 唯 心 は 世 俗 として 立 脚 され る もの(gnaspa,pratistha,sthana)

    く の

    とす るに対 し,外 界 の対 象 は,世 俗 として も立 脚 され な い」 と す る に 対 し,

    〔An-3-1〕 ~ 〔An-3-5〕 は 「世 俗 と して,世 間 の 常識(prasiddha)と して,識く の

    (vijnana)も,外 界 の対 象(bahyartha)も 立 脚 され る も の(gnaspa)」 とす

    る 。 この 相違 点 の理 解 が,後 期 中観 派 の二 諦 説 と修 道 論 を 知 る上 で 極 め て 重 要

    で あ る。

    そ こで 蝋 〔An-・(24)-A)の見 鰯,確 か にSant。,aksita,K。m。1。s,1。 の

    見 解 と言 い 得 る のか,を 検 討 す る に,ま ず検 証 しな くて は な らない 事 柄 は 次 の

    も の で あ る。 §antarak§ita,Kamalasilaが 「唯 心 説 」 に 言 及 す るの は,修 道 論

    上 の事 柄 つ ま り,ヨ ー ガ行 者(yogin)の 修 習(bhavana)の 実 践 と し て で あ

    り,聞,思,修 を 実践 して い る の で は な い世 間 一一般 の 人k(10ka)の 知 や,世 間くあラ

    的 日常 的 常識(prasiddha))'Y関 して言 及 す る場 合 で は な い とい うこ と,ま た 外

    界 の 対 象(bahyartha)の 吟 味 考 察 も,直 接 知 覚(pratyaksa)と 推 理(anuma-

    na)の プ ラマ ー ラ(pramana)に よ って,つ ま り世 間 一 般 人 の 日常 的 な直 接

    を表わ してい る。 これは,KamalasilaのBhkで は,四 善根位 の煖(人 無我),頂

    (法無我),忍(唯 心へ の悟入)世 第一法位(無 二知へ の悟入),さ らに見道初地(一

    切法無 自性の直観)へ と修道論の階梯が明示 され る。Cf.拙 稿 〔1〕

    (20):〉 本稿(301e)

    (21):〉 本稿(303)

    (22)⇒ 本稿(301e)

    (23):〉 本稿(303)特 に 〔An-3-1〕,〔An-3-2〕

    (24)⇒ 本稿(301e)

    (25):〉 本稿(40)(41)(80)

    -54一

  • 後期中観派 の唯心説 と二諦説

    く の

    知覚や推理ではな く,論 書のプラマーナ論の聞 ・思 ・修を経た者に よってなさ

    れるのであ(27)oこの点が,ま ず §antarak爭i偽Kamalasilaの 〈世俗唯心説〉

    を理解する上で了解されておかなければならない。彼 らは,唯 心説を勝義に悟

    入する直前の極めて高度な段階に位置付けるのである。 しかしそれは,無 論世

    間一般人の常識(prasiddha)の 世界ではな く,か と言って勝義ではない。勝義

    に悟入する直前の四善根位のうちの 「忍位」「世第一法位」,す なわち唯識派のくゆ

    〈入 無 相 方 便 相 〉(asallaksananupravesopayalaksana)に 相 当 す る,最 も 高 度

    な 「世俗」 として位置付けられ翳 僻 に とっては,世 間搬 人の常識(pra一くヨの

    siddha)と して整 合 性(avisaxnvadaka)を 有 す る事 柄 か ら,ヨ ー ガ行 者 の 「世

    第 一 法 位 」 〈入 無 相 方 便 相 〉 までが 「世 俗 」 で あ り,そ れ は,聞,思,修 の 向くヨつ

    上 的段 階 を も含 ん で い る。 そ れ に対 し 「勝 義 」 は 見道 初 地 以 上 の 聖 者 の 修 道

    (bhavanamarga),及 び 仏 の 境 界 とい う こ とに な る。

    さて 〔An-1〕 が,修 道 論 上 の観 点 か らの 答論 で あ る こ とは,〔An-1-A〕 直(32)(33)

    前 のr楞 伽 経 』 の 典 拠 がBhavanakrama〔BhK〕 で,Kamalasilaの 修 道 論 を

    展 開 す る根 拠 で あ る こ とか らも明 らか で あ ろ う し,段 階 的 な 吟 味 克 服 と い う

    〔An-・〕 の 図式 か ら も知 られ よ(34)」o敵 知 こ示 した よ うに,Sant・ ・ak§it・の ヨの

    修 道論MAVadMAK91-92に 等 しい点 か らも知 られ る・

    2.Karnalasilaの 唯 心説 と ヨ ーガ 行 者 の 修 道 論 上 の 世 俗

    Kamalasilaの く唯心 世 俗 説 〉 の典 拠 を 他 に求 めて み よ う。

    Kamalasilaは,MAPで,§antarak§itaが 修 道 論 上 の 観 点 か らの 唯 心説 の

     ヨの

    展 開 を 示 すMAVadMAK91を 解 釈 す る に,次 の よ うに 述 べ て い る。

    (26):〉 本 稿(77a)(93)(97)(98)(99)(100)(101)

    (27)⇒ 本 稿fn(58)

    (28)長 尾雅 人r中 観 と唯 識 』P.78,89,216,258,MAnVBh1.6,⇒ ・本 稿,序 ②

    (29)勝 義 へ の悟 入 は 見道 初 地 と考 え られ る。⇒ 拙 稿 〔5〕の 〔2.1〕

    (30)⇒ 本 稿(93)(97)(98)(99)

    (31):〉 拙 稿 〔5〕,(10)(11)Cf.本 稿(75)

    (32):〉 本 稿(301d)

    (33)⇒ 本 稿(39)(40)

    (34)⇒ 本 稿(301)esp.(301a)~(301d)

    (35)⇒ 本 稿(19)

    -55一

  • 佛教大學研究紀要 通卷75號

    唯識 派(Vijnanavadin)がr解 深 密 経 』 に説 かれ る こ と と関 係付 け る こ と

    を,実 世 俗(tathyasamvrti)と して 〔我k中 観 派 も〕 述 べ るか ら 〔我kの 側ロ くヨの

    に聖 教(Agama)と の〕 矛 盾 は な い 。

    そ し てSantaraksitaがMAVadMAK93で,Nagarjunaのr六 十 頌 如

    くヨの理 論 』 で の知(jnana)に 関す る言 及 を 釈 してKamalasilaはMAPで

    くヨむ

    唯 心(cittamatra)は,世 俗(samvrti)と して述 べ られ る。

    と 〈唯心 世 俗 説 〉 を 明示 して い る。

    次 に 「唯心 」 で あ る との吟 味 考 察 及 び 「外 界 の対 象 」 の否 定 は 修 道 論 上,ヨ

    ー ガ行 者(yogin)の 考 察 の対 象 で あ る点 を 示 そ う。

    Kamalasilaは,BhKIで,止(samatha),観(vipasyana)の 修 習 の実 践

    法 を示 し,さ らにr瘍 伽 経 』 の 智 慧 の 修 習 の階 梯((39)prajnabhavanakrama)を

    挙 げ て い る。 そ の解 釈 の中 で,ヨ ー ガ 行 者 の 唯 心(cittamatra)の 観 察 と超 越

    に関 してくるひコヒ

    まず 第 一 に,ヨ ーが 行 者(yogin)は,他 の人 々に よって,外 界 の 対 象(ba-

    hyartha)と して 構 想 さ れ て い る(parikalpita)物 質 的 な(rupin)諸 の も

    のに 関 して,吟 味 しな くて は な らな い(vicarayet)。 これ等 の(物 質 的 な)

    もの は,知 識(vijnana)と 別 であ る のか,あ る い は,そ の知 識 こそ が,丁

    ゆ の度,夢 の 中 で の よ うにそ の よ うに顕 現 して い る の で あ る の か,〔 と まず 吟 味

    しな け れ ば な らな い。〕 そ の うち,知 の外 に とい うな ら,原 子 とい う点 か ら,

    吟 味 しな くて は な らな い(vicarayet)。 ま た諸 の原 子 を 部 分 とい う点 か ら観

    察 して い る ヨー ガ行 者(yogin)は,そ の 諸 の 対 象 を 見 な い。 そ の(諸 の対 象

    (36)MAPp.29310-13

    SDNSでKamalasilaは 次の見解 を 示 して い る。 「世尊 は,r解 深密経』等に,識

    (vijnana)等 は,有 であると説かれている,そ の ことも勝義 としてではないと理解すべ

    きである。

    ⇒ 亊出稿 〔1〕pp.46f(6)

    (37)『 六十頌如理論』K°21,34,MAVp.302① ②一郷正道r中 観荘厳論 の研究』

    p.185

    (38)MAPp.3031

    (39)BhKI〔210〕7f

    (40)BhKI〔210〕is~ 〔211〕i,Cf.SDV12b2f⇒ 本稿(70)

    (40a)Cf.本 稿(51a)(304)

    -56一

  • 後期 中観派の唯心説 と二諦説

    を)見 な い ヨー ガ行 者 に とっ て は,次 の よ うな 〔考 え が〕 起 こる。 全 て は,

    唯 心(cittamatra)で あ って,し か も,外 界 の対 象 は存 在 しな い(cittamatram

    ゆのevaitatsarvamrlapunarbahyo'rthovidyate)。 そ れ が 次 の よ うに 言 わ れ

    ゆのて い た 。 「唯 心 に到 達 して,外 界 の対 象 を構 想 して は な らな い」(LAS,X-

     ヨの

    256ab)

    さ らに,KamalasilaはBhKIIで,上Y'示 した の と同様,ヨ ー ガ行 者 の修

    習 の 次 第,人 無 我 → 法 無 我 → 唯 心 の過 程 を示 す 上 で,凡 夫 の知 と ヨ ー ガ行 者 の

    知 とを 対 比 して示 して い る。く レ

    無 始 以 来,誤 った 色 等 に執 着(abhinivesa)す る こ とに よ って,夢 の 中 に於

    て 見 られ る色 等 が 顕 現 す るが 如 くに,諸 の凡 夫(Bala)に と って は,ま さ し

    く心 が,色 等 を 外 に 〔心 とは 〕 別個 な も の の よ うに,顕 わ す の で あ るが,よ

    り勝 れ た 見 地 か らす れ ば(paramarthatas),こ の 場 合,色 等 は,心 の 形 象

    (akara)と は 別 に は,存 在 しな い と 吟 味 しな くて は な らな い(vicarayet)。

    彼(ヨ ー ガ行 者)は,そ の よ うに,「 この 三 界 は,唯 心(cittamatra)で あ

    る」 と考 えて,彼(ヨ ー ガ行 者)は,そ の よ うに,構 想 され た あ らゆ る法

    (dharma)は,心 に外 な らな い と確 定 して,そ の(心)を 観 察 した場 合 に は,

    ゆ り一切法の自性が観察されるのだか ら,心 の自性を観察するのである。

    以上からして,「 唯心」の観察,外 界の対象の否定は,ヨ ーガ行者の修道論くむの

    上の事柄であ り,こ の観点から,〈 唯心世俗説〉は示 されている。他方,「 外

    界の対象」を,心 とは独立 したものの如 くに想定するのは凡夫である。この凡

    夫の知 と修道論上,吟 味検証を行 うヨーガ行者の知のレヴェルの相違を峻別す

    ることは,後 期中観派の二諦説,特 に 〈世俗〉を解明する点で重要である。

    ところで 「唯心」と「外界の対象」との 〈世俗〉 としての成立基盤を問 うていく の

    た の が 〔An-1-A〕 で あ る が,そ れ と 同 内 容 の 論 述 が,KamalasilaのMAP

    adMAK80〔 外 界 の 事 物 の 否 定 〕 に 見 出 さ れ る 。

    (40b)BhKI(21022f

    (40c)本 稿(301d),MAVp.296エ5f

    (41)BhKIIp,ggs-is-BhKIIInote(46)(47),Cf.本 稿(91a),fn(58)

    (41a):〉 本 稿(25)

    (42)⇒ 本 稿(301e)

    -57一

  • 佛教大學研 究紀要通卷75號

    く ヨの,その 〔MAK80c〕 外 界 の事 物 は,否 定 し終 って い る か ら で あ る。 内的 な諸

    事 物,す な わ ち,知(jnana)の 本 体 は,勝 義 の観 点 か らは(paramarthatas)

    否 定 され るけ れ ど も,そ れ は,世 俗 とい う点 で は(samvrtya)照 明す る本 体

    の もの として,自 ら 〔外 界 の事 物 に依 存 す る こ とな く自己 認識 と して〕 成 立

    す る(grubpa)か らで あ る。 一 方,外 界 の 〔事 物 〕 は,無 感 覚(jada)な も

    の であ るか ら,自 ら成 立 こ と(grubpa)も な い し,知(vijnana)に よっ て

    把}ら れ 得 ない か ら,他 に よ って も,成 立 しな い。 そ れ 故 〔外 界 の 事物 は〕

    常 に成 立 し ない もの(magrubpariid)で あ る か ら 〔知 と〕 区 別(visesa) リ ヨラ

    がある。

    ここでは,〈知は世俗 として自ら成立するが,外 界の事物は,知 と区別され,

    世俗としても,自 としても他によっても成立しない→外界の事物 と想定されて

    いるものも,知 の形象に過ぎない〉との意が表明 されている故,〔An-1-A〕!(43b)

    は,Santaraksita,Kamalasilaの 見 解 で あ る との 根 拠 が 得 ら れ よ う。 しか し,ロの

    上 に 示 した く唯 心 世 俗 説 〉 の く世 俗 〉 とは,無 戯 論 な法 界 であ る 〈勝 義 〉 の 観

    点 か ら(paramarthatas)の ヨー ガ行 者 の 修 道論 上 の 〈世 俗〉 で あ っ て,世 間一くあラ

    般 の人 々に とって の 常 識(prasiddha)と して の く世 俗〉 で は な い。 な ぜ な ら,

    聞,思,修 の 実 践 の 畜 積)'Yよ り獲 得 され る直 観(pratyaksa)力 や推 理 力を 有 さ

    な い,牛 飼 い の 妻 に 至 る まで の世 間一 般 の人 々が,唯 心 に 悟 入 し得 る な らそ もくるの

    ぞ も,修 道 論 は 成 立 し な い わ け で あ る 。 ま た,世 間 一 般 の 人   の プ ラ マ ー ナ と

    (43)MAPp.2618-14:>C£ 本稿(22)(301e)

    (43a)TS(2050)⇒ 本 稿(52)(53)

    (43b)こ の 点 に 関 して注 目され る のは,Malの 注 釈(dbumasnanba'ibrjedtho)を

    著 わ したbsTandar(1835-1915)の 解 説 で あ る 。 こ の 注釈 書 の 存在 を筆 者 は,一 郷

    正 道 残 の チ ベ ッ ト学 会(1990年11月 仏教 大)で の 発 表 で知 り得 た 。 そ の書(Satapitaka

    Series.Vo1.291)6855-6883で は,Santaraksitaの 〈唯心 説 〉 とBhavavivekaの

    く世 俗 と して は,識 と同 様,外 界 の対 象 も存 在 す る〉 〔Cf.本 稿(303a)〕 との 見解 が対

    比 され 〔Cf.本 稿fn(19)〕 そ のiSantaraksitaの 見解 と問題 の 〔An-1-A〕 とを 同一 と

    して い る。 またMAK91-92を 一 連 の もの と し て 扱 い,さ らにMAVadMAK93

    で のNagarjunaのr六 十頌 如 理 論』(K°21,34)の 引用 を そ の まま挙 げ 〔⇒ 本稿

    (37)(38)〕,Santaraksita,Kamalasilaの 〈唯心 世 俗 説 〉 を示 して い る。

    (44):〉 本 稿(302b)

    (45):〉(23)(303)

    (46)Cf.拙 稿 〔5〕(4),本 稿(91e)

    -58一

  • 後期中観派の唯心説と二諦説

    修習を重ね,論 書のプラマーナ論に熟知 した ヨーガ行者のそれとは,質 的な相ゆ ラ

    違 が あ る。 した が って 〈世 俗〉に も,〈 ヨー ガ行 者 の修 道 論 上 の 世 俗〉 と 〈世 間

    一 般 の 人kの 常 識 として の 世 俗〉 との二 重 構 造 が 予 測 され る。 この点 は後 に詳

    述 す る が,こ こで は,「 外 界 の対 象 」 を 常 識(prasiddha)と 位 置 付 け る こ と と

    吟 味考 察す る見 地 とが対 比 さ れ るKamalasilaの 見解 を挙 げ,前 述 した 事 柄 の

    根 拠 の一 つ とし よ う。KamalasilaはSDNSで,ロひ コ

    色(rupa)等 も,外 界 の 対 象(bahyartha)と して 常識(prasiddha)で あ るけ

    れ ども,吟 味 した な らば,プ ラ マ ーナ に よ って拒 斥 され 得 る。 そ の よ うに,

    こ こで も 常識 とい うもの が,虚 偽 な(a13ka)自 性 を もつ こ とが あ り 得 る かサロコゆ

    ら,吟 味 す る こ とは妥 当 な の であ る。

    こ の常 識(prasiddha)を 「世 俗」 で あ る とKamalasilaはMAPadMAK

    ロきの64で 示 して い るが,ま たMalで も,

    あ らゆ る 世 間 の 人kに と って,常 識 で あ る あ らゆ る事 柄(artha)が,ま さ しほ の

    く世俗であると認められる。

    したがって,《 世間一般の人kの 常識=外 界の対象を実在視する知=世 俗》

    とい う図式が考えられる。

    他方 《ヨーガ行者の勝義の観点から(paramarthatas)の 世俗=唯 心》と考xノ

    られ る。 こ の点 に 関 して,さ らに,Santaraksita,Kamalasilaは 〈唯 心 〉 と表

    裏 を な す 〈外 界 の対 象 の否 定 〉 を 凡夫 で は な く賢 者 の プ ラマ ー ナ と して の直 接くゆ

    知 覚 と 推 理 に よ っ て 検 証 す る こ とをTSの 論 述 で 確 認 し て お こ う。

    3.外 界 の 対 象 の 吟 味Tattvasaritgrahach・XXIII

    TSch.XXIIIは,表 題 の 如 く,外 界 の 対 象 の 吟 味(bahirarthapariksa)で

    あ る 。 そ こ で は,プ ラ マ ー ナ に よ る 外 界 実 在 論 の 論 破 に よ り唯 識 性(vijnapti・

    (47)拙 稿 〔3〕pp.59-64,r後 期 中 観派 の二 諦 説 とpramana』(印 度 学 仏 教 学 研究39-1)

    (48)SDNS(1)p.622-s,Cf.本 稿(77c)(77d)

    (48a):〉 本 稿(101)

    (48b)Malp.256as,D230a3

    (49)TSX2083)

    表 象 のみ(vijnaptimatrata)で あ る とい う証 明は,知 恵 あ る者(dhimat)達 が無 垢 な る

    もの(正 しい も の)と した 。我kは,そ うい う方 法 で,勝 義 の 確 定 へ と進 ん で 来 た ので あ る 。

    -59一

  • 佛教大學研究紀要通卷75號ゆの ノ

    matrata)が 論 証 さ れ て い る。 しか し 中観 派 で あ るSantaraksita,Kamalasila

    が,そ れ を な す 目的 は,TSch.XXIIIの 結 論 部 分 で表 明 され る通 り,勝 義 のく の

    確 定(paramarthaviniscaya)一 一 切 法 無 自性 を 目指 して の こ とで あ る。

    Santaraksita,Kamalasilaが,そ こで 〈唯 心 〉説 に立 ち,さ らに外 界 の対 象

    の不 成 立 を 直 接 知 覚(pratyaksa)に よっ て検 証 して い る点 を 明示 し よ う。

    Kamalasilaは,TSP冒 頭 部分 でTSch.XXIIIr外 界 の 対 象 の 考 察」 の

    狙 い を要 約 して い る。くル コロ

    〔反 論 〕 こ の 縁 起(pratityasamutpada)と セま,外 界 の 対 象 を 本 質(bahirartha-

    tmaka)と す る の で あ る か,あ る い は,唯 心 を 本 質(cittamatrasarira)と す

    (51a)

    るの で あ る か。

    〔1〕

    〔答 論〕 〔それ は〕 映 像 等 の よ うで あ る。(TS4b)

    この こ とに よ って,〔 縁 起 とは〕 ま さ し く唯 心 を 本質(cittamatratmaka)と

    して い る,と い うこ とを知 ら しめ て い る。 とい うの は,次 の よ うに述 べ られ

    る。 なぜ な ら,丁 度,映 像(pratibimba),旋 火 輪(alatacakra),蜃 気 楼

    (gandharvanagara)等 が,唯 心 を 本 質 とす る もの で あ る よ うに,そ の よ う

    に,こ れ(縁 起)も,〔 唯心 を本 質 として 〕 あ るの で あ る。 世尊 に よ って 次

    の よ うに 言 わ れ て い る。 なぜ な ら,凡 夫 達 が,構 想 して い る よ うに,外 界 の

    対 象 は 存 在 しな い 。 習 気 に よっ て,か き乱 され た 心 が,対 象 の如 くに顕 現 すく ユの

    る ので あ る。 〔LAS,X.154cd,155ab〕

    また,こ の(縁 起 は唯 心 を 本 質 とす る)こ とが,「 外 界 の 対 象 の考 察」 で示ロリサらユラ

    され る こ とで あ る。ノ

    こ の 〈唯 心 〉 の 論 証 を 遂 行 す べ くSantaraksitaはTS(2050)で,直 接 知

    覚(pratyaksa)に よ っ て 外 界 の 対 象 の 不 成 立 を 検 証 し て い る 。

    (49a)Kamalasilaは,自 らを 「我k唯 識派 の論 理 に 従 う者 」(vijnanavadanyayanusa-

    ribhirasmabhir)と 呼 んで い る。(TSPp.49121EedTS1355-6)

    (50)TS(2083)⇒ 本 稿(49),「 勝 義 の確 定 」 とは 中観 派 に とって は 一 切 法無 自性で あ

    る。

    (51)TSPp.193-8,渡 辺照 宏r摂 真 実 論 序 章 の研 究 』(東 洋学 研 究2,1967)p.21

    (51a)Cf.本 稿(304),拙 稿 〔4〕

    (51b)⇒ 本 稿(201b)(201c)

    ・1

  • 後期中観派の唯心説と二諦説

    咥3知 こ白等の形象蒋 在しない(無 形象知の)場 合 その(知)が,ど う

    して,そ れ(外 界の対象)を 知覚 しようか。2)知 に白等の形象が存在するくおの

    (有 形 象 知 の)場 合,外 界 の対 象(bahyo'rthah)は,(直 接 知 覚 か,推 理 かゆの

    の)ど の 確 実 な 認識 手 段(pramana)に よって 証 明 され るの か 。 〔TS2050〕

    Kamalasilaは そ のTSPで 次 の よ うに解 説 して い る。

    跡 界 の 対 象 が 実 在 す るな ら〕直 接 知覚(pratyaksa)に よっ て,あ る い は推

    理(anurnana)に よって,外 界 の対 象 が証 明(bahyarthasiddhi)さ れ よ う。

    他 の確 実 な認 識 手 段(pramana)が あ る として も,そ の(二 つ のpramana)

    に 含 まれ るか らで あ る。 そ の うち,ま ず,直 接 知 覚 に よって 〔外 界 の 対 象 は

    証 明 され は〕 しな い 。とい うの は,直 接 知 覚 を 意 味 す る1)無 形 象(nirakara)

    知 に よっ て 〔外界 の〕 対 象 を把 握 す るの か,あ る い は2)〔 直 接 知 覚 と して

    の〕 有 形 象(sakara)〔 知 〕 に よって 〔把 握 す る〕 の で あ るか 。 まず,くおの

    〔2-1〕無 形 象 〔の直 接 知 覚〕に よ って は,〔 外 界 の 対 象 を 把 握 し得〕 な い。 璽

    て 近 くに あ る こ と(pratyasatti)と い う 〔知 覚 成 立 の〕根 拠 が無 いか らで あ る。

    知 に 白等 の形 象が 存 在 し な い場 合,そ の知 が,ど う して,そ 璽 対 象 を 知 覚 しくお の

    よ うか 。 〔知覚 し得〕 な い と,以 前 に述 べ た。くお の

    〔2-2〕 も し,有 形 象 〔の 直 接 知 覚 〕V'よ っ て,〔 外 界 の 対 象 が 把 握 さ れ る の 〕

    な ら,そ の 場 合,知 に 属 す る 一 つ の 青 等 の 形 象 が 認 識 さ れ る故,外 界 の 対 象

    は,全 く 眼 に 見 え ず,直 観 され な い も の(parok§aeva)〔=推 理 の 対 象 〕 で

    あ ろ う。 〔そ うで あ れ ぽ,外 界 の 対 象 の 成 立 は 〕 直 接 知 覚 に よ っ て で は な い 。

    な ぜ な ら,二 つ の 青 は,決 し て 知 られ は し な い 。 〔二 つ の 青 と は 〕 一 つ は,

    知 の 映 像(jnanapratibimbaka)と し て,他 は,そ の(形 象)を 授 け る も の

    (52)TS(2050)

    (52a)TS(2052)一(2055),太 田心 海r認 識 の 対象 に 関 す る考察(下)』(佐 賀龍 谷 学 会 紀

    要 第17号,1970)P.33

    (53)TSPp.70016-23Cf.MAVadMAK91:〉 本稿fn(19)

    (53a)Cf.SDVadSDK13拙 稿 〔2〕p.10(35)1),PVIII(324d)(325)⇒ 本 稿

    fn(19)〔 皿〕 ①

    (53b)TS(1998)

    anirbhasaxnsanirbhasamanyanirbhasamevaca/

    vijanatinacajnanambahyamarthamkathancana//

    (53c)Cf.SDVadSDK13拙 稿 〔2〕P。10(35)2),⇒ 本 稿fn(19)〔 皿〕

    -61一

  • 佛教大學研究紀要通卷75號

    〔=外界の対象〕 としてのものである。まず,直 接知覚によっては,〔 外界のめむ

    の 対 象 は 〕 成 立 し な い 。(napratyaksatahsiddhih)

    〔特 に_ゐ 部 分 と,dSant。,ak婁it。 のMAV'〔II〕 髑 。dMAK9・ の そ の

    部 分 とは同 一 表 現 とい え よ う。〕

    以 上 の,TSch.XXIIIの 賢 者(dhlmat)の プ ラマ ーナV'よ る 「外 界 の対 象ゆの

    の 吟 味 」 の うち論 述 〔1〕の 典拠r楞 伽 経 』 め 引用 はMal〔Ob-T〕 の もの に 等

    し く,ま た論 述 〔2-1〕無 形 象 な直 接 知 覚 に よる外 界 の対 象否 定,〔2-2〕 有 形

    く ゆ

    象な直接知覚による外界の対象否定,後 続の推理による外界の対象否定は,構おの ゆの

    造 上 もMAVadMAK91に 等 しい。 これ は,賢 者 の プ ラマ ーナ に よる 外界

    否 定→ 唯 心 の論 証 も,ヨ ー ガ行 者(yogin)が 修 習(bhavana)の 実 践 〈入無 相

    方 便 相〉 と して の外 界 の対 象 の克 服→ 唯 心 の観 察→ 唯 心 の 克 服 と帰 を 一 に して

    お り,哲 学 と修 習 の一 致 が確 認 され る。 そ して 〈外 界 の対 象 の 否 定〉 も,賢 者

    の プ ラマ ー ナ を して な され る こ とで あ り,世 間一 般 の人kの プ ラマ ー ナ の 関す

    る と ころ で は な い,こ とも知 られ よ う。

    II・ 世 間 一 般 の 人 々(loka)と ヨ ー ガ 行 者(yogin)

    1.世 間 一般 の人 々 の 常識(prasiddha)と ヨ ーガ 行者 の知

    世 間一 般 の人kあ る いは 凡 夫(bala)と ヨー ガ行 者 との 相違 は,聞,思,修く ゐ

    の 実 践 の 畜 積 の 有 無 に あ る 。 世 間 一 般 の 人kは,世 間 で よ く知 られ た 事 柄,常

    (53-1)⇒Cf.本 稿(19)

    (54),(51b)_(201b),(201c)

    (55),(53a)(53c)(52a)

    (56)⇒ 本稿(53a)(53c),fn(19)

    (57)TS(2083)賢 者,知 恵 あ る もの(dhimat)⇒ 本稿(49)

    (58)Santaraksitaは,SDP〔38b4-39ai〕adSDK20-21で,

    〔反 論 〕 も し,そ う(不 生)な ら,ど う して 人k(jana)は,色(rupa)等 の 諸 事 物

    の,生,住,滅 に 依 存 して い る とい う諸 の世 間的 習 慣(vyavahara)を 設 け られ るの

    で あ るか 。

    〔答 論 〕 〈特 徴 を 把 え る こ と(nimittagraha)〉 ① に,無 始 以 来 入 って い る,顛 倒 し た

    習 気(vasana)② か ら生 起 した事 物 に 執着(abhinivesa)し て い る故,事 物 の 真 実

    (tattva)を 考 察(pariksa)す る こ とを忘 れ てい るか ら,諸 の無 知 な る者 が,凡 夫

    一62一

  • 後 期中観派の唯心説 と二諦説

    識(prasiddha)に 基 づ い て,整 合 性 を 有す る もの を,実 な る もの(tathya),'くらの

    そ うで な い も の を 邪(atathya)と 判 定 す る 。 他 方,ヨ ー ガ 行 者 は,聞 思 修 に

    よ り獲 得 し た プ ラ マ ー ナ),r`.より,吟 味(vicara)考 察(pariksa)を 加 え,亠

    般 人Vrと っ て の 厂実 な る も の 」 に 対 し て も,誤 謬 性 を 見 出 し克 服 し,〈 勝 義 〉・

    (bala,prthagjana)な ので あ る 。 聞(sruta),思(cinta),修(bhavana)の 次 第 に

    よって 知(buddhi)を 起 こ して い ない 人k③ に対 して,そ の よ うに 〔世 間的 習慣 が 〕

    示 され る。 〈無 な る もの 〉,つ ま り,生 起 等 を 具xて い る色(rupa)等 の諸 の無 な る

    も のに 対 して,実(samyak)で あ る と 〔凡 夫 は〕、執 着(abhinivesa)す る こ と に よ

    っ て世 間 的習 慣 が 設 け られ る。

    顕現 す る が ま ま④を 本 性 とす るか ら(SDK21a)と い うの は,吟 味 しな けれ ぽ素 晴 し

    い も のだ か らで あ る。 こ の世俗(samvrti)を,吟 味(vicara)し て,考 察 す る こ と

    は な い。 〔SDK21b〕 こ の(世 俗)に 対 して,前 述 した 吟 味(vicara),す なわ ち,

    世 俗 で あ る因果 関 係(karyakaranabhava)は,有 形象 知(sakarajnana)に よって知

    られ るの で あ るが,云k〔SDVadSDK13〕 また,同 様 に,こ れ(世 俗)は,主 張

    され た通 り,多 に よっ て一 が 作 られ る ので あ るか,あ る い は多 が作 られ るので あ るか

    云k〔SDVadSDK14〕 とい った こ と(吟 味)は,〔 こ こで の〕 立 場 とす る ところ

    で は な い 。依 り所 で は な い。

    〔反論 〕 ど うしてで あ るか。

    〔答 論〕 とい うのは,前 述 の 如 き,吟 味 をす れ ぽ 〔SDK21c〕 そ の(世 俗 の)拒 斥

    (badha)は,負 処(nigrahasthana,そ れ を 犯 せ ば,論 争 に 敗 れ る こ と)と な るか ら

    で あ る。

    〔反 論〕 ど うしてで あ るか 。

    〔答 論 〕 別 の 目的 〔勝 義 の 確 定 とい うこ と〕 に な っ て しま う故 〔SDK21d〕 とい うの

    は,状 況 下 に あ る 目的 〔世俗 の確 定 〕 を捨 て るな ら,別 の 論 争 に 基づ くこ とに な るか

    ら,と い う意 味で あ る。

    以 上 のSantaraksitaの 述 べ る コンテ キ ス トか らす れ ば,吟 味 しな けれ ば,素 晴 しい

    も の(avicaraikaramaniya)と い う世 俗(samvrti)の 規 定 は・ 「聞 」 厂思 」「修 」 とい う

    実 践 を 通 じる こ とな く,ま た そ の 英 知 に よる吟 味(vicara)を な し得 な い 凡夫(bala)

    V'対 す る も ので あ る とい うこ とが知 られ よ う。 他 方,ヨ ー ガ行 者 に とっ て の 厂世 俗 」 と

    は,「 聞 」 「思 」 「修」 を通 じた 吟味(vicara)に よって,そ の 吟味 に 耐 え 得 な い もの

    (vicaraksamatva)唯 心(cittamatra),無 二 知(advayajnana)・ 因 果関 係 を指 示

    してい る。 とは い},ヨ ー ガ行者G'と って も,「 顕 現す るが ま まの も の」e「 吟 味 しな

    い限 り素 晴 しい もの」 も また,凡 夫 の場 合 と同様,「 世 俗 」 で あ る。そ の場 合 の 凡夫 と

    ヨー ガ行 者 との 相違 は,執 着(abhinivesa)の 有無 に あ る。 ⇒ 本 稿(91a),(41)

    QISDV10as,SarvabuddhavisayavatarajnanalokalamkaraSutraM.D.Eckel,Jna-

    nagarbha'sCommentaryontheDistinctionbetweentheTwoTruths,p.137.

    note103.Q2viparyasavasanaBhklp,(211)(21217aa_5AAPVpp.64024-6411,

    MAK74,750Cf.MalP255b2f,D229b2,正 しい 聞,思,修 か ら生 起 した あ らゆ

    る知(jnana)は 顛 倒 な き対 象 を 有 してい るか ら勝 義(paramartha)と 言 われ る。 そ

    の(知)が,勝 れ た意 味(対 象)を 有 して い る(paramo'syartha)か ら で あ る。 ⇒

    拙 稿 〔5〕注(5)④yathadharsana

    (59)SDK12:〉 本稿(97)(99)

    -63一

  • 佛教大學研究紀要通卷7ら號'

    へ と洞 察 力を 深 め 高 め て 行 く。 ま た執 着(abhinivesa)の 有 無 に よ り,一 般 人

    い ゆ ラ

    と ヨ ー ガ行 者 で は,直 接 知 覚(pratyak§a)の 能 力 も異 な る 。or人 の直 接 知 覚

    に は,見 られ た ま まに(yathadarァanam)外 界 の 対 象 も把握 され る に対 し,ヨ

    ー ガ行 者 の直 接 知 覚 に は,聞 思修 に よ り深 め られ た 直 観 力 に よ り,外 界 の対 象

    の 非 実 在 を 悟 り,唯 心 へ と悟 入 し得 る。 さ らに は所 取 能 取(grahyagrahaka)

    ゆラを 離 れ た 無 二 知(advayajnana)さ れ も克 服 の対 象 と な る。Haribhadraは,

    そ の 幻 の如 き無二 知(mayopamadvayajnana) ,さえ 実世 俗(tathyasamvrti)く の

    を 本 性 とす る と位置 付 け て い る。 この 聞思 修 に 裏 付 け され た ヨー ガ行 者 の 〈唯

    心 世 俗〉 や 実 世 俗 と して の無 二 知 と,聞 思 修 を 十 分 に 実 践 して い な い世 間一・般

    の人kの 常識(prasiddha)の 範 囲 で の 因果 効 力(arthakriyasamartha)と い う

    く む

    点 で 整合 性(avisamvadaka)を 有 す る(実)世 俗 とが,同 一 の基 準 にあ る と

    は 考 え られ な い。 同 じ く

  • 後期 中観派の唯心説 と二諦説

    く ゆラ

    な るの で あ っ て,智 慧 劣 った 者(aparadarsana)で は な くな る。 ヨーが 行 者

    の直 接 知 覚(yogipratyak§a)と 一一般 人 の 直 接 知 覚 に 区 別 が な くな って し ま

    う故,世 間的 習 慣(vyavahara)に よ って,夢(svapna)等 の よ う に 常識

    (prasiddha)通 りの対 象(artha)に 関 して整 合 して い る こ と(avisamvadaka)

    だ け か ら,そ れ(一 般 人 の直 接 知覚)は 無 迷 乱(abhranta)で あ る とされ るりや の

    に過 ぎな い。めの ゆの

    こ こで はSDK8.12,MAK64に 示 され る 実 世 俗 の基 準 と同 じ く,世 間 一・

    般 の人kの 常 識(prasiddha)に 関 して整 合 して い る こ とを 凡 夫 の 直 接 知覚 と

    し,そ れ に対 し ヨー ガ行 者 の直 接 知 覚 の うち 「声 聞 の直 接 知 覚 」 は,人 無 我くがの

    (pudgalanairatmya)に 関 して の み整 合 性 を 有 し,「 仏,菩 薩 とい う偉大 な ヨにの

    一ガ行者」 は一切法無自性が直観 され得るとし,取 り分け,「 世尊,如 来だけ

    の直接知覚」が,あ らゆる真理(tattva),勝 義に関して無迷乱であると規定さ(70)

    れ る。

    この 点 か らす れ ば,法 無 我(dharmanairatmya),唯 心,無 二 知 に 悟 入 し得

    る ヨー ガ行 者 とは,大 乗 の ヨー ガ行 者 す なわ ち菩 薩 とい うこ とに な る。 したが

    って唯 心(cittamatra),無 二 知(advayajnana)が 「世 俗 」 無 論 「実世 俗 」 で

    くアつ

    あ る と され る の は,大 乗 の ヨー ガ行 者 に とっ て の 「実 世 俗 」 で あ って,世 間一

    般 の人kの 常 識(prasiddha)と して の 「実世 俗 」で は な い 。 以 上 か ら 〔An-1〕くゆ ノ

    殊 に 〔An-1-A〕 は大 乗 の ヨ ー ガ 行 者 の 世 俗 で あ る。 そ れ が,Santaraksita,

    Kamalasilaの 修 道 論 上 の世 俗,四 善 根位 の忍 位(唯 心 へ の 悟 入),世 第 一 法

    くアの

    位(無 二 知 へ の 悟 入)一 唯 識 派 の 入 無 相 方 便 相 に 相 当 す る も の で あ る 。 こ の

    (66a)Cf.PVIII(218)戸 崎 宏正r仏 教 認 識論 の研 究 』上 巻p.316

    (67):〉 本 稿(93)(97)(98)(99)

    (68):⇒ ・本 稿(100)(101)

    (68a)MalP196asf,D179blf

    (69)MalP183b4f,D168b2,P184a2f,D168b6f:〉 拙 稿 〔3〕p.55f本 稿(91d)

    (70)MalP196a6-bl,D179b1'4

    (71)⇒ 本 稿(91b)

    (72)⇒ 本 稿(301e)

    (73)BhKI〔223〕24b3-〔224〕25a4≒AAPVpP.6323-649,P.9603-8⇒ 拙稿 『Ka・

    malas31a・ とHaribhadra〔2〕-Haribhadraの 引用 す るBhavanakramaI-』

    (仏 教 論 叢 第33号,1989)P.9

    -65一

  • 佛歡大學硫究紀要通卷75號ノ

    Santaraksita,Kamalasilaの 唯 心 解 釈 は 修 道 論,哲 学 として も 基 本 的 に は 唯

    くゆ

    識派のものに沿っている。(こ の点は 〔An-3〕 以下の唯識派 とは全 く異 なるノ

    Subhagupta,Bhavaviveka,Candrakirtiの 唯 心 理 解 と対 比 さ れ る 。)な お 唯 識

    派 と異 な る点 は,Santaraksita,Kamalasilaの 体 系 で は,一 切 法 無 自性 の直 観お ラ

    を 「見 道 初 地 」 に 位 置 付 け る点 で あ る 。世 間一 般 の人   の直 接 知 覚 と ヨ ー ガ行

    者 の直 接 知覚(yogipratyaksa)の 相違 及 び 無二 知(advayanana)が,「 世 俗 」

    と して位 置 付 け られ る点 をJnanagarbha,Santaraksita,Haribhadraの 論 述 の

    上 に跡 付 け よ う。

    (76)♂

    先 のKamalasilaのSDNSで の 論 述 の よ うに,そ の 先Santaraksitaに よ

    って 外 界 の対 象 は 顕 現す る が ま ま の もの(yathadarsana),常 識(prasiddha)

    と規 定 さ れ,さ らに無 二 知(advayajnana)も 「世 俗 」 と され る点 を 見 て み よ

    う。 かココ汝(瑜 伽 行 派yogacara)の 見解 に あ っ て も

    す なわ ち,遍 計 され た 自性 を 有 す る もの(parikalpitasvabhava)つ ま り所 取

    能 取 を 相 とす る も の は,い か な る原 因 に も,全 く依 存 しな い 。(SDK'24ab)

    瑜 伽 行 派(Yogacara)が 主 張 す る 目的 に 合 わ せ る と 〔遍 計 され た もの は〕 常

    に 無 とな るか らで あ る。

    〔反 論 〕 〔遍 計 され た もの は 〕 無 で あ るか ら 〔原 因 に〕 依 存 し な い。

    〔答 論 〕 〔汝 の見 解 は 〕 直 接 知 覚(pratyaksa)と 対 立 す る こ と に な る。 所

    取 ・能 取(grahygrahaka)は,遍 計 され た 自性 を 有 す る もの で あ る として

    も,そ の二 も,ま さ し く直 接 知 覚 と して,彼 らあ らゆ る人 々 に とって の 常識ロアの

    (prasiddha)と し て の プ ラ マ ー ナ に よ っ て 周 知 さ れ て い る こ と で あ る 故,そ

    (74)⇒ 〉本 稿(303)

    (75)拙 稿 〔5〕,注(10)(11)Cf.本 稿(31)

    (76)⇒ 本 稿(48)

    (77)SDVIOb7-lla2,SDP40b2-41b2

    (77a)所 取 ・能 取(grahyagrahaka)カ ミ遍計 され た も ので あ る),Yl_.対し,遍 計 さ れ て い な

    い も の とは,依 他起(paratantra)を 本体 とす る,識 のみ(vijnanamatra)の 顕 現 で あ

    る 色等 の 体,す な わ ち 自己 認識(svasamvedana)さ れ る もので あ る。 ⇒ 本稿(80),

    (118)C£PVIII(218),戸 崎(上)p,316

    そ して 〔識 が所 取 ・能 取 の 形 象 を 欠 い て い る とい う〕 その 真 実(tattva)は,あ らゆ る

    愚 か な 者(aparadarsana)達 に よっ ては,知 られ な い。 彼 等 に は,所 取 ・能 取 の 錯 乱

    一66一

  • 後期中観派 の唯心説 と二諦説

    れ を 断 じる な ら,直 接 知 覚 と対 立 す る こ とは避 け難 い。 ・

    〔反 論 〕 無 明(avidya)に よって,混 乱 させ られ た知 が そ の よ うに,所 取 ・能

    取 の 自性 と して 知 る の で あ る。 二 に対 して執 着 して い る習 気(vasana)に よ

    っ て 目覚 め て い な い 眠 りに あ る 人kの 眠 りで 捕 え られ た(akranta)諸 種 の

    (77b)

    心 で理 解 す る よ うに 知 る の で あ る。

    〔答 論 〕 論 理(nyaya)を 展 開 す る こ とに よ って 答 え よ う。 知 覚 と対 立 して い

    る も のを,汝 に は,否 定す る も のが,何 かあ る ので あ るか 。 色(rupa)等 は,

    外 に(pharolna)顕 現 す る本 性 の もの で あ る と,そ の よ うに知 覚 す る こ と

    (77c)

    が,常 識(prasiddha)で あ る。 も し,汝 が,そ の よ うに(無 明に よ って,所

    取 ・能 取 の 自性 が 知 られ,遍 計 され た も の故,所 取 ・能 取 は 常 に無 で あ る と)

    考x,あ らゆ る世 間 の 人k(loka)に と って 常識 とな っ て い る(prasiddha)

    対 象 を も 断 じる な らそ の 時,そ うい った 自分 の 無 知 さ,す なわ ち 自 ・他 に よ っ

    て 知 覚 さ れ て い る も の と対 立 す る 言 語表 現(vyavahara)を 示 す 汝 は,世 間

    の 人k(loka)に よっ て,全 く疏 遠 な もの で あ る と否 定 され る。

    〔反論 〕 夢 等,幻,蜃 気 楼 と して な ら,〔 色等 が 〕 見 られ る。

    〔答論 〕 そ の通 りだ とす れ ば,夢 等 で も識(vijnana)に 属 さ な い,色(rupa)

    等 が 顕 現 す るが ま ま に見 られ る よ うに,ま た,悪 しき執 着(abhinivesa)に

    よ って 汝 に は,識 そ の もの が,そ の よ うV'知 る と,誤 って 顕 現 す るが,〔 所

    (grahyagrahakaviplava)な しに 〔識は〕あ り得ないか らであ る。

    PVIII(330)(331)(332ab)戸 崎(下)pp.14f

    拙稿 〔6〕P.42〔1〕MalP180bs~,D166a1~ 「所取能取の形象を欠いた 別な真実であ

    る知は,凡 夫 達によって知覚 される ことは ない。」

    所 取 ・能取 を伴 った直接知覚 とは,世 間一般の人kの 直接知覚 であ り,〈 識のみ〉 とし

    ての直接知覚 とは ヨーガ行者 の直接知覚 と言え よう。Cf.本 稿(66)

    Santaraksitaは,常 識(prasiddha)を プラマーナ と認めてい る。Kamalasilaも,「 常

    識 とい うものは,直 接知覚(pratyaksa)と 推理(anumana)と は別なプラマーナで も

    ない」(MalP251a5f,D226a5)と 同じ見解を示 してい る。 それに対 し,Candrakirti

    は,世 間の人k(10ka)が,プ ラマーナを 有す ることはない。(入 中論VI,30)と,、

    Santaraksita,Kamalas31aの プラマーナ論 とは見解 を異に している。

    (77b)Cf.PVIII(217),戸 崎(上)P.315.

    無明に よって乱された 自己に とっては,各kで 縁に相応 して非真実 な形象(vitathakara)

    を有 した識 が生起す る。眼病等 のように。

    PVIII(336)(337)戸 崎(下)pp.19-21,PVIII(353)(354)戸 崎(下)pp.40-42

    (77c)⇒ ・本稿(48),手 出稿 〔6〕P.46〔1-3-9〕

    -67一

  • 佛教大學研究紀要逋卷75號

    取 ・能所の〕二によって巓倒 していない状態の場合のように,そ の(夢 等の)

    場合にも,そ のように(所 取能取が)知 られるな ら,外 界の色等,顕 現するロアの

    が ま ま の も の(yathadarsana)は ま さ し く存 在 す る。C77e)

    〔反論〕 〔外界の色等は〕,論 理(nyaya)的 に不合理である。

    〔答論〕まさしくそれ故に,〔 外界の色等は〕吟味 され なけれ ば素晴 しいかロアの

    ら,ま た考 察 とい う吟 味 に耐 え 得 な い か ら,世 俗(samvrti)で あ る,と され(77g)

    る。二によって顛倒していない状態にある識(無 二知)も,ま さしくそのよくがゆ

    うに(吟 味に耐え得ず,世 俗 として)あ る。それ(無 二知)も,不 生であるロコヴ の

    と証 明 され て い るか らで あ る。

    こ こで 注 目す べ き事 柄 は,Jnanagarbhaに よ り,〈 所 取 ・能 取 は遍 計 され た

    自性 を 有 す る もの で あ る と して も,そ の二 も,ま さ し く直 接 知 覚(pratyak§a)

    として 常 識(prasiddha)で あ る〉 〈遍 計 され た もの(所 取 ・能 取)を 常 に無 と

    す る瑜 伽 行 派(yogacara)の 考}x方 は直 接 知 覚 と対 立 す る〉 と さ れ る 点 で あ(78)

    る。 これは,常 識に関して整合している凡夫の直接知覚を指示してい よう。ノ

    さ らにSantaraksitaに よ って,〈 外 界 の 色 等 は顕 現 す るが ま ま の も の〉 〈外

    界 の 色 等 も,無 二 知 も吟 味 しな け れ ば素 晴 し く,吟 味 に耐 え得 な い か ら 世 俗くゆ

    (samvrti)〉 と規 定 され る。 つ ま り,吟 味(vicara)を 加 え な い,世 間 一・般 の 人

    kの 常識(prasiddha)で は,遍 計 され た もの で あ る所 取 ・能 取,外 界 の 色 等

    は,顕 現 す る が まま の もの(yathadarsana)と して世 俗(samvrti)で あ る。

    他 方,「 聞,思,修 」 を 通 じた 知(buddhi)を 起 こ して い る ヨー ガ行 者 の吟

    味(vicara)を 加 え る点 か らは,く ひ コ

    遍 計 さ れ た も の(所 取 ・能 取)を,否 定 す る こ と は 論 理 に 適 っ て い る 。(SDK

    30ab)

    (77d):〉 本 稿(48)

    (77e)Cf.TSPadTS(2050)⇒ 本 稿(53),C£PVIII(334)(335)戸 崎(下)PP.

    18f.

    (77f)Cf.MAVadMAK91:〉 本 稿 注(19)冒 頭 部分 。

    (779)C£SDP47b6「 無二 とい うの は 唯識 派(vijnanavadin)の 見 解 で あ る」

    (77h)⇒Cf.本 稿(91b)

    (78),(77)前 半(77a)

    (79),(77)後 半(77d)一(77g)

    -68一

  • 後期中観派の唯心説 と二諦説

    直 接 知 覚(pratyaksa)等 と対 立 す る誤 りが ない か らで あ る。

    遍 計 され て い な い もの を否 定 す る こ とは,自 らに対 して拒 斥 を なす こ とに 恋

    ろ う。(SDK30cd)

    概 念 知(kalpana)の 誤 謬 に よ って 汚 され て い な い,因 と縁 に依 存 して 生 起

    ゆ のす る故,依 他 起(paratantra)を 本 体 とす る,識 のみ(vijnanamatra)の 顕

    現 で あ る 色(rupa)等 の 体(kaya)は,自 己認 識((80b)svasamvedana)さ れ る

    茲,否 定 し得 な い のみ で な く,否 定 す れ ば,否 定 す る者 に は,直 接 知覚ロゆの

    (pratyaksa)等 に よって 後 に 必 ず や 拒 斥 が 起 こる。 〔一 部 分 はSDP〕

    これ は,先 のSDK24abに 関す る 見解 す なわ ち 《世 間 一 般 の 人kの 直 接

    くゆ

    知覚》に対比される 《ヨーガ行者の直接知覚》を指示して い よう。 すなわ ち

    〈依他起を本体 とする識のみ(vijnanamatra)の 顕現である色等の体は,自 己くゆ

    認 識 され る 〉 とい うもの で あ り,そ れ は,ヨ ー ガ行 者 が 四善 根位 の うち 「忍

    位 」 で到 達 す る直 観 の世 界 に等 しい。 さ らにSDK35で は 〈顕 現(abhasa)そ

    く の

    れ 自体 に も疑 義(sarhdigdha)が あ る〉 と,外 界 実 在論 者 の原 子(paramanu)

    唯 識 論 者 の 無 二(advaya)知 が,論 理(nyaya)に よっ て吟 味 され,そ れ ぞれ

    の問 題 点 が 指 摘 され て い る。 そ して 無 自性(nihsvabhava)は 論 理(nyaya)

    ねのを具}て お り,プ ラマーナによって拒斥されない旨が示されている。

    以上か らして 「世俗」 とは,世 間一般の人kの 外界の色等を認め,常 識に関くきみ

    し て 整 合 し て い る 直 接 知 覚 か ら,四 善 根 位 の うち,「 忍 位 」 で の 唯 心(citta・

    (80)SDV12b2f,SDP45a4-blCf.BhKI〔210〕16~ 〔211〕2⇒ 本 稿(40)

    (80a)Cf.AAPVp.88474grahakakaralaksanamvijnaptimatratam

    (80b)SDP45blCf.MAPadMAK92p.29923E,一 郷 正 道 『中 観 荘厳 論 の研 究 』p.65

    自己 認 識(svasamvedana,svasamvid)も,牛 飼 い の者 に 至 る ま で成 立 して い るか ら,

    論 難 す る こ と も不 合理 で あ る。

    MAVadMAK91p.29011E

    自己 認 識 も世 俗 の真 実(samvrtisatya)に 属 す る とい うそ の こ とは,一 ・多 の 自性 とい

    う点 で 考察 に 耐x得 ない か ら(vicaraksamatvat)で あ る と確定 し終 って い る。

    (81)⇒ 本 稿(77a)

    (82)⇒ 本 稿(80a)(80b)

    (83)SDP48a3

    (84)SDP48a3-7,拙 稿rカ マ ラ シ ー ラの 唯識 批 判 と ダル マ キ ー ル テ ィの:経量 部 説』(仏

    教 大 学研 究 紀要 第72号,1988)pp.9-11fn(22)

    -69一

  • 佛 歡大學研究紀要通卷75號

    matra),「 世 第 一 法 位」 で の無 二 知(advayajnana)と して の ヨー ガ行 者 の 直

    接 知 覚(yogipratyaksa)に 至 る ま で の幅 を有 して い る。 そ の 「世 第 一法 位 」 のく の

    直後に一切法無自性を直観し,無 戯論,法 界に悟入する 「見道初地」 勝義おの

    に相 応 し い(paramarthanukula),「 道 」 と して の勝 義 が 位 置 す る。 同 じ く

    Haribhadraも ヨー ガ行 者 の 無 二 知(advayajnana)を 世 俗 的 な もの(samvrta)

    と して示 して い る。

    Haribhadraは,〈 思 慮 深 い人(preksavat)に とって は,真 実 と虚 偽 に 対 す る

    執 着(satyalikabhinivesa)カ ミ除 き難 い故,ど うして,あ らゆ る顛 倒(viparyasa)ゆの

    を断じることがあろうか〉 との反論に対 し,次 の答論を示 している。ゆ コココ

    存在と無存在とい う二つの分別によって,あ らゆる分別は包括されるから・

    能遍(存 在 と無存在 とい う分別)が 無いときV'は,所 遍(あ らゆる分別)

    は,あ り得ないから,真 実として,存 在 と無存在とい う固執を離れ,吟 味しゆの

    な け れ ば 素 晴 しい(avicararamaniya),内 と外 に芯 を 欠 い て い る芭蕉 の幹 の

    如 き,あ らゆ る存 在 を,以 上 の よ うに,智 慧 の眼 を 具}た 一 切 相 知 性 等 の八

    現 観(sarvakarajnatadyastabhisamaya)の 次V'よ って,精 査 して い る人

    〔ヨー ガ行 者 〕 に は,修 習(bhavana)の 力が 完 成 した 時,あ る人 々に と っ

    て の宝 石 や 銀 等 の 知 の 如 く,あ らゆ る迷 乱(bhranti)の し る しを 離 れ た真 実くおの

    の プ ラ マ ー ナ こそ が,自 ら,真 実 の ま ま の対 象(yathabhutartha)を 把 握 す

    る性 質 が あ るか ら,清 浄 に して,世 俗 的 な(samvrta)原 因 か ら生 起 した,幻

    の如 き無 二 知 を 本 体 とす る認 識(mayopamadvayajnanatmasamvedana)が,

    あ らゆ る顛 倒 を 断 じて い る故,大 悲 と智 慧 を 本 性 とす る,世 俗 的 な(samvrta)

    智 の光(jnanaloka)と して,生 起 す る。 縁 起 な る法 性(pratityasamutpa一ゆ の

    dadharmata)の 故 に 。 例 え ば,概 念 知 と い う種 子(kalpanabija)が,も は

    (85):〉 本稿(66)

    (86)見 道 初地 で一 切 法 無 自性 は 直 観 され,勝 義 の領 域 に 悟 入す る。 ⇒ 本 稿fn(302b)

    (87)韭 出稿 〔5〕

    (88)AAPVp.640i-s

    (89)AAPVp.6405‐ia

    (89a)厂 世俗 」 を意 味 す る ⇒ 本 稿(77f)(100),Cf.{.0島 恵 教r中 観 思 想 の 展開 』P・

    253(46)

    (89b)Cf.NBI,II

    (89c)Cf.縁 起 を理 由(prat3tyasamutpadahetu)

    -70一

  • 後期中観派 の唯心説 と二諦説のサもの

    や,現 わ れ な い よ うに。

    さ らに 反 論 者 は 〈如 来 の知 が,中 観 派 に とらて,世 俗 的 な も の(samvrta)

    ゆラ

    な ら,無 明(avidya)が 断ぜ られ ず,そ の限 り,『解脱(mukti)は あ り得 な い〉

    旨 を詰 問 し て い る。 これ に対 し,Haribhadraは,ヨ ー ガ行 者 と凡 夫 との相 違

    を執 着(abhinivesa)の 有 無 に よっ て示 し,さ らに無 二 知 の実 世 俗 な る こ とを

    述 べ て い る 。ゆ ト コゆ ユまり

    な ぜ な ら,彼 等(ヨ ー ガ行 者 達)は,摩 術 師 の よ うに,幻 を あ りの ま ま に,

    常識(prasiddha)だ け の非 真 実(asatyata)な もの と熟 知 して い るか ら,真

    実 か らし て諸 存 在 に執 着 しな い。 そ れ 故 に,彼 等 は,ヨ ー ガ行 者(yogin)

    と言 わ れ る。 一 方,凡 夫 異 生 の如 く(balaprthagjanavat)そ れ 等 の幻 を 真 実

    と して,執 着 して い る人 々は,そ うい った存 在 に も巓 倒 し執 着 す る故,凡 夫

    (bala)達 で あ る と言 わ れ る。 した が って,全 て は,対 立 して い な い(avi・コのユの

    ruddha)。

    した が っ て,ま た,論 理(Yukti)と 聖 教(Agama)に よ って,理 解 され

    た 幻 の如 き無 二 な る心(mayopamadvayacitta)を 具 え,真 実 と非 真 実 を 悟

    る こ とに 専 ら とな って い る 知恵 を 有 して い る(ヨ ー ガ 行 者 達)は,実 世 俗

    ゆ ゆ

    (tathyasamvrti)を 本 性 とす る 無二 な る幻 の 如 き心 こそ を,聞,思 に よっ

    て形 式 さ れ た(srutacintamaya)知 に よ っ て 確 立 し て,縁 起 で あ る法 性

    (pratityasamutpadadharmata)の 故 に,一 切 相 智 等 の 八現 観 の 次 第 に よっ

    て,熱 心 に,間 断 な く,長 時 間 に亘 る勝 れ た 修 習(bhavana)に よって,修

    ゆ の

    習 して い る ヨ ー ガ行 者 の 王(yogisa)達 は,有 に 結 び つ い て い た,あ ら ゆ る

    分 別 の 集 ま りを,幻 の 如 き無 二 知 の み の 相 続(mayopamadvayavijnanama・

    traprabandha)に 至 ら し め る 。 そ れ こ そ が,本 来 的 な 対 治(pratipaksa)で

    (gp)AAPVp.64015-1s

    (91)AAPVpP.64114-6421⇒ 本 稿(62)

    (91a)こ の 部分 のMal,BhKIと の一 致 は,拙 稿 〔3〕p.59(203d)(203f),PKamalasila

    とHaribhadra〔2〕Haribhadraの 引 用 す るBhavanakramaI』(仏 教 論 叢 第33号,

    1990)P.8.C£ 本 稿(41),Bodhicaryavatara(Santideva)ch.IX-5,金 倉 円 照r悟 り

    へ の道 』p,166

    (911〕):〉(71)

    (91c)Cf.MAK75,Nyayabindutika(Vinitadeva)D17a2

    -71一

  • 佛教大學研究紀要通卷75號 『

    あ る。 一 方,最 初 の幻 の 如 き とい う言葉(abhijalpa)を 伴 った 知 識 の確 定

    は,そ れ(本 来 的 な対 治)に 相 応 しい もの(anuguna)で あ るが,対 治 とな

    る もの で は な い。 とい うの は,外 界 の対 象 の 教 義(bahyarthanaya)に お いゆ の

    て,人 無 我(pudgalanairatmya)等 を 修 習す る こ と(bhavana)も,事 物 の 自

    性(vasturupa)を 心 に 確 定 して(avasthapya)行 うの で は な い。 事 物(vastu)

    は,無 分 別 知 の三 昧(nirvikalpajnanasamadhi)に お い て理 解 され るべ き で

    あ る か ら。 また,L最 初 に,そ れ(幻 の如 き無 二 知 のみ の相 続)は,あ り得 なゆユ ラ ゆの 

    いか らで あ る。 あ るな ら,修 習 が 無 意 味 とな るか らで あ る。

    他 方 でHaribhadraは,Jnanagarbhaの 見 解 通 りに 「世 間 の 人kの 知 識ゆ ラ

    (10kapratiti)が,世 俗(saxnvrti)で あ る と言 わ れ る。」 と述 べ る。

    以 上 のHaribhadraの 論 述 か ら,ヨ ー ガ行 老 と凡 夫 の 相 違 が 知 られ る。 前 者

    は幻(maya)を 常 識(prasiddha)だ け の 非 真 実(asatyata)な も の と熟 知す

    る に対 し,後 者 は 幻 を 真 実 で あ る と執 着 す る。 さ らに そ の ヨ ー ガ行 者 は幻 に比

    せ られ る無 二 知(advayajnana)に 修 習(bhavana)に よ り到 達 す る が,無 二

    知 は 実世 俗(tathyasamvrti)に 位 置 付 け られ て い る。 つ ま り,無 二 知 は ヨー ガ

    行 者 が 聞 思修 の実 践 に よ り至 り得 る知 で あ り,凡 夫 の及 ぶ と ころで は な い。 勝

    義 に至 り得 る に はそ の 無 二 知 さ え も克 服 され なけ れ ば な らな い。 この 意 味 で,

    無 二 知 は 「実 世 俗 」 に 位 置 付 け られ る。 この段 階 が 四 善 根 位 の 「世 第 一法 位 」

    で あ り,入 無 相 方 便 相 に 相 当 す る。 この ヨー ガ行 者 の修 道 論 上 の 「世 俗」 と世

    間一般 の人kの 常 識 として の 「世 俗 」 とを 峻 別す る こ とは後 期 中 観 派 の二 諦 説

    を理 解 す る に不 可 欠 な要 件 で あ る。

    世 間一 般 の人k(loka)と ヨ ー ガ行 者 との相 違 を 対 比 して 示 す と,

    *《 世 間 一 般 の 人k〔 日常生 活者 〕 の 知》

    1)顛 倒 した 習 気 か ら生 起 した 事 物 に執 着 して い る故,事 物 の 真 実(tattva).

    を考 察 す る こ とを 忘 れ て い る 、

    2)聞,思,修 の次 第 に よって 知 を 起 こ して い な い

    (91d)⇒ 本稿(68a)

    (91e)⇒ 序⑥,(46)

    (92)AAPV9763E=SDVga2f

    -72一

  • 後期中観派の唯心説 と二諦議

    3)遍 計 され た も ので あ る所取 ・能 取 を伴 った 直 接 知 覚 は 常識(prasiddha)

    YY¥...して 整合 して い る点 に 限 って 無 迷 乱

    4)外 界 の 色等 を顕 現 す るが まま の もの(yathadarsana)と して 知 る

    **《 ヨー ガ行 者(yogin)〔 修道 論 上 〕 の世 俗 》

    1)幻 術 師 の よ うに,幻 を あ りの ま ま に熟 知 して い るか ら,真 実 として執 着

    す る こ とは な い

    2)聞,思,修 所 成 の慧 に よ って,外 界 の 対 象,唯 心 等 を 吟 味 考 察 し超越 す

    る 「道 」 を 実践 して い る

    3)人 法 二 無我 の真 実 〔勝 義 〕 に悟 入 す る に外 界 の対 象 の 無 を 悟 り,実 世俗

    の段 階 と して 唯心 に悟 入 し 〔忍 位 〕 さ らに 所取 ・能 取 を 欠 いた 無 二 知 を も

    克 服 す る 〔世 第 一 法 位 〕

    4)概 念 知 を離 れ,依 他 起 を 本体 とす る識 の み(vijnanamatra)の 顕 現 で あ

    る色 等 の 体 を 自己認 識(svasamvedana)す る

    2.二 種 の 実 世俗 一 世 間 一 般 の人 々 と ヨー ガ 行者

    世 間 一 般 の人kの 常 識(prasiddha)と して の 「世 俗 」 と唯 心,無 二 知 に悟 入

    す る ヨー ガ 行 者 つ ま り大 乗 の ヨー ガ行 者 に と っ て の 「世 俗 」,こ の 場 合 「実 世

    俗 」 で あ る が,す な わ ち,「 世 俗 」 に 二 重 構 造 が 考 え られ る と指 摘 した が,こ

    の 点 を 具 体 的 に検 証 し よ う。

    2-1.世 間 一 般 の人 々(loka)の 常 識(prasiddha)と して の実 世俗

    この 「世 俗 」 はJnanagarbhaのSDK8,12及 び ≦antarak§itaのMAK

    64に 示 され る 「実 世 俗 」 で あ る。

    ゆ ラ

    a .SDVadSDK8の 「実 世 俗 」くゆ

    1)実 在 そ の も の(vastumatra)〔=svalaksana〕

    ゆの ゆの2)顕 現 す る が ま ま の も の(yathadarsana)〔=pratyak§a〕

    (93)SDV5b4,拙 稿r後 期 中観 と ダル マ キ ール テ ィ(1)』(佛 教 大 学 人 文学 論 集 第23号)

    p.10(15)、

    (94)SDPD22bs

    (95)Cf.M.D.Eckel,Jnanagarbha'sCommentaryontheDistinctionbetween.the

    -73一

  • 佛歡大學研究紀要逋卷75號

    3)因 果効力(arthakriyasamartha)を 有するもの

    4)諸 の因と縁に依存して生起するもの

    この規定で排除し得ない邪世俗つまり無分別有顕現であ るが,因 果効力 と

    いう点で整合性を有さないものを実世俗から除外する第二の実世俗 の規 定が

    SDVadSDK12に 示 される。く の

    b.SDVadSDK12の 「実 世 俗 」

    1)明 瞭 な顕 現 を 有 す る 〔無 分 別 〕

    2)目 的 ・実 効 の 達 成(arthakriya)に 関 して整 合 性(avisamvadaka)を 有

    す るex.水 等

    11こ のa .b.の 実世 俗 の規 定 が何 故,世 間 一 般 の人kの 常識(prasiddha)と し

    て の もの な の か とい う こ とは,同 じJnanagarbhaのSDVadSDK9,12に

    根 拠 を 求 め 得 る。くが リロ ゆ の

    〔諸の賢者から〕凡夫に至るまでの者の(jnana)に 等 しく,因 〔眼等の集

    合〕か ら顕現する限 りのもの 〔壷等の顕現〕が実世俗 〔諦〕であるというのコロコゆ

    は 正 し い 。

    くめ ロロ

    知(jnana)は,明 瞭 な(sputa)形 象 の顕 現 を 有す る(bhasin)点 で は,類

    似 して い て も,顕 現 す る が ま まに(yathadarsanam,jiltarsnapbabzin隔

    du)実 効 を もた らす こ と(arthakriya)に 関 して,不 整 合(visamvadana)

    と整 合(avisamvadaka)が あ る と確 定 して い る か ら,水(jala)等 と陽 炎

    (marici)等 を世 間 の 人kは,実 と邪 であ る と知 るの で あ る。 一 ・・実 効 を も

    た らす こ と(arthakriya)に 関す る不 整 合 と整 合 性 も,全 く世 間 の 人kの 常

    識(prasiddha)通 りに 〔確 定す る〕。 そ れ(実 効 を もた らす こ と)・も無 自性ロの の

    で あ る か ら で あ る 。

    以 上 か らSDK8,12の 実 世 俗 の 規 定 は,世 間 一 般 の 人kの 常 識(prasiddha)

    TwoTruths,p.136note98

    (96)SDP44b4

    (97)SDV6bs-?

    (98)SDV5b4f

    (98a)SDP23b5

    (99)SDV6bs-z

    -74一

  • 後期中観派 の唯心説 と二諦説

    と しての 直 接 知 覚 に基 準 を 置 い て い る こ とが 知 られ た 。

    .c .MAVad,MAK64の 「実 世 俗」ゆ レ  

    考 察 しな い限 り素 晴 し く,生 じ滅 す る性 質 を 有 し,実 効 を生 起 す る効 力を 自

    性 とす る ものが,世 俗 的 な もの で あ る と知 られ な く て は な ら な い(MAK

    64)

    … …諸 の 縁 って生 起 して い る も の(prat1tyasamutpanna)1ま,吟 味 に耐}x得

    ロココゆ の

    な い か ら(vicaraksamatvat)実 世 俗(tathyasamvrti)で あ る 。

    Kamalasilaは,MAPで こ の 部 分 を 釈 し て,

    ゆ レ コ

    縁 って 生 起 して い る も ので あ り,実 効 を 設 け る もの(arthakriya)で あ り,

    牛 飼 い に 至 る ま で の人 々に 常識 とな って い る もの(prasiddha)つ ま り,協 約りべ むつ

    (samketa)に 基 づ く世 俗 であ る。

    Kamalasilaは,SDNSで も,Dharmakirtiの,〈 因 果 効 力(arthakriya-

    samartha)を 有 す る もの を,勝 義 と して の存 在 とす る〉 との 規 定 を,「 実世 俗

    (tathyasamvrti)に 基 づ い て,凡 夫(prthagjana)達 を 考 慮 に 入 れ た 勝 義 と しゆの

    ての存在の定義 として述べるなら,道 理に適っている」 と因果効力を基準とす

    る実世俗の規定を凡夫にとってのものとす る。

    以上か らc.MAK64の 厂実世俗」の規定も,先 のa,b同 様世間一般の人

    kの 常識(prasiddha)と しての直接知覚に基準を置 くものであることが知 ら

    れた。

    2-2.ヨ ーガ行者の修道論上の実世俗

    くユむヨラ

    この 「世 俗 」 こそ が,MAK91に 示 され る,ヨ ー ガ行 者 の 修 道 論 上 の 世 俗

    (100)MAVpp.2027,2043

    (101)MAPp.2038f

    (102)MAVadMAK91-92⇒ 本稿(19)

    (103)⇒ 本稿fn(19),こ のMAK91は 先のMAK64と 共にSantaraksitaの 二 諦

    説,特 に 「世俗」 の特徴に言及す るものとして,し ば しぼ取 り上げ られて来た。上山大

    峻rシ ャー ンタ ラクシタの二諦説』(印度学仏教学研究9-2,P.124f)で 上山氏はMAK

    64,91の 「世俗」 に関す る論述を レヴェルの相違 に より特に区別 されてい ない と思わ

    れ,松 本史 朗氏は,MAK91をSantaraksitaの 「世俗」を示す論述 とは考え て お ら

    れない。 〔同氏r後 期 中観派の空思想』(理 想No.610,1984年)p.143下 段〕両氏 の解

    釈 と筆者 との異なる点は,筆 者はMAK64を 《世 間一般の人kの 常識 としての世俗》

    -75一

  • 佛教大學研究紀要逋卷75號

    で あ る。 つ ま り唯 心(cittamatra),無 二 知(advayajnana)を 修 道 論 上,勝 義

    の 観 点 か ら(paramarthatas)の 世 俗 と位 置 付 け る もの で あ る。MAK91が,

    『楞 伽経 』 を典 拠 とす るSantaraksitaの 無 自性 へ と悟 入 す る 前段 階 として の

    ヨーガ儲 の修齢 であることは洗 のK・m。1。sil。のBhKの 論述 と平行し

    て い る点 か らも知 られ る し,ま た,そ こで の 唯 心世 俗 説 も,Kamalasilaのくユあラ

    MAP・SDNSで 『解深密経』等の識論を実世俗 とし,勝 義 としてではないとゆの

    す る点 か らも知 られ よ う。 、

    以 上 の よ うに ・ 世 間arの 人kの 常識(prasiddha)と し て の直 接 知覚 を基 準

    とす る実 世 俗 と・ ヨ ー ガ行 者 の 知 を 基 準 とす る実 世 俗 と の修 習(bhavana)の

    蓄 積 の有 無 に 基 づ く レヴ ェル の 差,質 的 相違 を考 慮 に入 れ て,後 期 中 観 派 の

    「実 世 俗 」 を 理 解 す る 必 要 が あ る と考}る 点 は,Kamalasilaが,凡 夫 の直 接

    知 覚(pratyaksa)と ヨー ガ行 者 の直 接 知 覚 とを 区分 し,さ ら に ヨー ガ 行 者 に

    も,声 聞 と仏,菩 薩 とい う偉 大 な ヨー ガ行 者 とに 区分 し,段 階 別 の直 接 知 覚 論くりの

    を設定する点からも支持され よう。

    III.三 種 の 「中」 三種 の勝義 観

    1.唯 識派の 「中」

    くユゆ

    〔An-2-1〕 に示される 「中」(dbuma)の 考}方,つ まり否定し尽し得ない

    勝義的なものを認める見解とは,次 に示す如き唯識派の 厂中」 「空性」の見解

    であると思われる。それは,r中 辺分別論』(MAnVBh)等 に示 される 「余れ

    る も の,残 った もの 」(av・SISt・)で 溶 礬IV。 、ub。ndhu嘘 妄 分 別(。bhut。.

    と考 え・MAK91は 《ヨ ーガ行 者 の 修 道 論,つ ま り勝 義 を 考 慮 した 観 点か ら(para・

    marthatas)判 定 され る世 俗 》 と考 え る点 で あ る。(

    104):〉 本稿(40),Cf.(53)

    (105)⇒ 本稿(36)

    (106)ま 出稿 〔1〕p,47

    (107)⇒ 本稿(66)一(70)

    (108)⇒ 本稿(302d)

    (109)長 尾 雅 人 『空 性 に於 け る 「余 れ るもの 」』(『中観 と唯 識 』 所 収)pp.542-560

  • 後期中観派 の唯心説 と二諦説

    parikalpa)す な わ ち 依 他 起 性(paratantrasvabhara)で あ る識 の 実 在 を 提 言 す

    MVK1.1の 解説 で

    あ る と ころ の(A)に,あ る も の(B)が 存 在 しな い,そ の場 所(A)は,

    そ れ(B)と して 空 で あ る。 と正 し く観 察 す る。 しか しなが ら,こ こに存 在

    して い る 余 った もの(avasista)が,こ こ で の 実 在(sat)で あ る と,正 し

    く知 る こ とが,〔(1.1)に 〕示 され た顛 倒 な き空 性 の特 徴(sunyatalaksana)くユユの

    である。

    この 「余れるもの」を唯識派の空性の解釈 として取 り上げ論難する方法は,くユユつ

    す で にCandrakirtiがr入 中論 』(MAv),r五 蘊 論 』 で 先 鞭 を つ け て い る。

    した が って 〔An-2-1〕 は,唯 識 派 の 「中」 「空 性 」 の 見解 に対 す る 中観 派 の

    言侖難1とい え よ う。

    2.Bh盃vavivekaの 「中 」

    ゆふ

    〔An-2-2〕 は 「中」 を絶 対 否 定(prasajyaprati§edha)と して把 握 す る 見V>

    対 す る論 難 で あ るが,「 中」 をそ の 意 味 で 解 釈す るの は,Bhavavivekaの 見解

    で あ ろ う。 まずBhavavivekaは,唯 識 派 の 所取 ・能 取 を欠 いた 無 二(advaya)

    の 実 在,い わ ゆ る 「無 の有 」 に対 す る吟 味 を行 っ て い る。ゆひ 無 二(advaya)と い う こ の否 定 が,も し,絶 対 否 定(prasajyapratisedha)の

    意 味 で あ る な ら,そ の 二 の 絶 対 否 定 だ け が,有 効 で あ る に 過 ぎ な い 。 無 と い

    う過 失 と は な ら な い 。 否 定(prati§edha)が,主 で あ る か ら,勝 義 と し て 無

    で は な い 故,と い う の は,無 二 が 存 在 す る と い う損 減(apavada)は 不 合 理

    で あ る 。 も し,〔 無 二 と い う否 定 が 〕 相 対 否 定(paryudasa)の 意 味 で あ る な

    ら,そ れ は,肯 定(vidhi)が 主 で あ る か ら,無(abhava)を 示 す こ と に よ

    (110)MAnVBhp,194-7

    (111)MAvp.13910'13山 口益r仏 教 に お け る無 と有 との対 論 』P.140f.Pancaskandhap-

    rakarana,D.DBUMA8,251a6fr山 口 益 仏教 学 文 鋼 下 』P.455.小 川 一乗r空 性!思

    想 の研 究 』p.151

    (112):〉 本 稿(302f)

    (113)Prajnapradipa.D.DBUMAVo1.2,No.3853,247a6-b1,安 井 広 済r中 観 思 想

    の研 究 』P.286

    -77一

  • 佛教大學研究紀要通卷75號

    って 〔所取 ・能取の無二 とは別な無の有があると示す ことによって,無 が存ゆ の

    在 す る と証 明 す る な ら〕 そ れ は,望 ま し くな い(anista)。 損 減 の極 端 であ るじぜ エの

    か らで あ る 。

    このBhavavivekaの 見解 は 〔An-2-1〕 に表 わ れ る 如 き唯 識 派 の 「空 性 」

    の 解 釈,「 余 れ る も の」 「無 の 有」 を 相対 否 定(paryudasa)と 批 判 し,「 空 性 」

    を 絶 対否 定(prasajyapratisedha)と 理 解 す る もの で あ る。 した が って 〔An-

    2-2〕 に示 され る 「絶 対否 定 」 と して の 「中」 「空 性 」 の 解 釈 はBhavaviveka

    ゆの

    の もの と知 られ よ う。

    3.Santaraksita,Kama弖a6董laの 「中 」

    先 のBhavavivekaの 「中 」 の 解 釈 に 対 し,「 絶 対 否 定 」 と し て の 「中 」 「空

    くユユの

    性」 をも批判し,無 論 「相対否定」 は常住論になるとなおさら論難されていゆのた。その相対 ・絶対否定の何れもが極端であ り,真 の 「中」「空性」は有 ・無,

    浄 ・不浄等の両極端を捨てて 「中」にも留まらず,心 は辺 と中を持たないとすくユユの ノ

    る 〔An-2-3〕 のSantaraksita,Kamalasilaの 「中 」 の解 釈 で あ る。 そ う理 解

    され る根 拠 は・KamalasilaがSDNSで 示 す 次 の見 解 で あ る。 そ こで は,無

    二 を相 対 ・絶 対 両 否 定 として 理 解 す る こ とを排 して い る。くけみロ

    〔反 論 〕 知 に ・ 所 取 能 取 の 形 象(grahyagrahakakara)カ ミ欠 け て い る こ と(空

    性ァunyata)が,真 実(tattva)で あ る。 二 は,世 俗 の 真 実(samvrtisatya)

    で あ る 。

    〔答 論 〕 と い うの は も し,〔 無 二 は 〕 絶 対 否 定(prasajyarupa)の 空 性 で あ る

    と述 べ た い の な ら,そ の 無(abhava)と い う こ と が 真 実(tattva)で あ る 。

    も し 〔無 二 は 〕 相 対 否 定(paryudasarupa)で あ る な ら,そ の 時,二 〔所 取 能

    取 の 形 象 〕 と し て 顕 現 す る も の と は 別 な 知 の 本 性 は,確 実 な 知 識(pramana)

    (113a)AvaloliitavrataD.DBUMA.Vol.6.300a3.

    (114)⇒ ・本稿(302f)(302g)

    (115):〉 本稿(302g)

    (116)⇒ 本 稿(302e)

    (117)⇒ 本 稿(302h)

    (118)SDNSIV.P.58,SDNS解 説P.14

    -78一

  • 後期中観派の唯心説と二諦説

    によって証明されないから,こ れ(無 二を相対否定として示すこと),は,真いつけの

    .実を 示 し得 る もの で は な い 。

    このKamalasilaの 見解 か ら 〔An-2-3〕 に 示 され る 「中」 す なわ ち,相 対 ・ゾ

    絶対両否定を共に極端 とし,そ の両極を離れた第三の 「中」 こそが,Santa一くユユの

    rak§ita,Kamalasilaの も の で あ る 。

    ノ〔An-1〕)/Yl..〔An-1-A〕 に示 され る見 解 は,Santaraksita,Kamalasiiaに

    よ る大 乗 の ヨー ガ行 者 の修 道 論 上 の 「世 俗 」 で あ り,ま た そ の 〔唯 心 」解 釈

    は,基 本 的 に唯 識 派 の も の に沿 って い る。 他 方,以 下 に示 す 〔An-3〕 の 唯 心

    解 釈 は,唯 識 派 とは全 く異 な る もの で あ る。

    IV・ 異 種 の 唯 心 解 釈

    1.S.ubhaguptaの 唯 心 解 釈 く1)

    ゆの

    〔An-3-1〕 は,r十 地 経 』 を典 拠 と して第 八 地 の菩 薩 が 原 子 の 数 を 悟 る,と の

    説 を 根 拠 に 唯 心 批 判 を展 開 す る もの で あ る が,そ の唯 心 批 判 を なす 論 師 は,以

    下 に 示 す よ うに,§ubhaguptaと 考 え られ る。

    14世 紀 前 半 チ ベ ッ ト人,ウ パ ・ロサ ル(dBuspablogsa1)に よっ て著 わ さ

    れ たrロ サ ル宗 義書 』(blogsalgrubmtha')の 唯識 派(Yogacara)の 章 に は,

    〈同時 認 識 の確 定 〉(sahopalambhaniyama)を 立 証 因 とす る唯識 性 の立 論 に対

    するSubh。gupt。による講 碾 開されて諤.そ の校訂蹶 をされ醐 牧氏

    の 御 研 究 で 明 ら か な よ う に,きubhaguptaのBahyarthasiddhikarika〔BASK〕

    (119)⇒ 本 稿(302h).

    以上 示 した 三種 の 「中」 は,1.