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歴史文化基本構想ワークショップ
瀬戸の魅力再発見 まちめぐり Part 9掛川地区(定光寺)
瀬戸市交流活力部文化課平成28 年5月21日 ( 土 ) 定光寺望洲亭→塔頭跡・開山塔→(定光寺極相林)→(月山窯跡)→ 直入橋→嘗草十年碑・烏石嶺 ( 参道 ) →山門・本堂・方丈→源敬公廟
たっちゅうぼう しゅう かい ざん きょくそう つき やま
ちょくにゅう しょう そう う せき れい ほう じょう げん けい こう びょう
旧沓掛村・定光寺の位置中島の青面金剛像せい めん こん ごう
禁制 定
光
寺
一当手軍勢甲乙人等濫妨・狼藉・陣取・放火之事
一於境内殺生、況伐採山林竹木事
一準総寺庵棟別人夫等相懸、并門前東西尾
呂小家等入鑓責使事
一祠堂米・寄進田地徳政、并俵物相留事
一於方丈并諸寮舎要脚事
右条々、当時依為無縁所、課役等末代令免許畢
縦前後制札雖為棄破之、不混余寺、不可有相違者也
仍下知如件、
永禄七年十月□日 (花押)
織田信長もしくは信清による禁制永禄 7(1564) 年 木製墨書 縦 39.3㎝×横 39.1㎝
水野郷
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建武 3(1336) 年 覚源禅師 ( 平心処斎 )、水野の炭焼窯跡に庵を結ぶ ( 定光寺の開山 )。暦応 4(1341) 年 定光寺七堂の地が定まる。応夢山定光寺と号す。「覚源禅師略年譜」 定光寺本尊地蔵菩薩坐像、このころ造立か。貞治 5(1366) 年 覚源禅師坐像造立。応安 2(1369) 年 覚源禅師死去。永享 7(1435) 年 定光寺山門・本堂焼失。文明 9(1477) 年 七堂炎上。文明 10(1478) 年 方丈建立。(11 年後に大洪水で崩壊、1499 年に山門とともに建立 )。明応 2(1493) 年 定光寺仏殿 ( 本堂 ) 建立。明応 9(1500) 年 定光寺仏殿内の宮殿建立。天文元 (1532) 年 定光寺仏殿・僧堂・文庫炎上 ( 翌年 仏殿・山門建立、5 年後僧堂建立 )。永禄 7(1564) 年 定光寺が織田信長もしくは信清による禁制を受ける。下図参照 (1575 織田信雄、1604 徳川忠吉よりそれぞれ禁制を受ける )元亀 2(1571) 年頃 渡唐天神像(賛)書かれる。 このころ月山窯跡操業。元和 8(1622) 年 定光寺が徳川義直より 10 石の黒印領を受ける。慶安 3(1650) 年 徳川義直 ( 源敬公 ) 死去。 定光寺に葬られる。 智光禅師 ( 喝堂全用 )、白林寺から定光寺住職となる。 ( 成瀬正成による推挙 )。定光寺中興開山。慶安 4(1651) 年 源敬公一周忌(墓標造立)。 承応元 (1652) 年 源敬公廟 焼香殿 ・ 宝蔵 ・ 築地 ・ 門が建立。 このころ穴田窯跡操業承応 2(1653) 年 直入橋竣工。 (寛文年間まで操業)明暦 2(1656) 年 智光禅師死去。寛文 2(1662) 年 徳川光友より沓掛・下半田川の内 300 石の黒印領を受ける(水野村枝郷から沓掛村独立)。元禄 12(1699) 年 源敬公廟 獅子の門建立。宝暦 3(1753) 年 中島墓地の青面金剛像の造像。宝暦 8(1758) 年頃 白隠の三幅(達磨・臨済・雲門)が書かれる。明治 22(1889) 年 沓掛村と下半田川村が合併し掛川村となる。(1906 に品野村に吸収合併)大正 9(1920) 年 国鉄中央線定光寺駅(仮停車場)旅客営業開始。昭和 12(1927) 年 城嶺橋(3 代目コンクリートアーチ橋)建設。 昭和 14(1939) 年 定光寺本堂保存修理工事により、上層部分を復元。 昭和 39(1964) 年 定光寺遊園地 ( 定光寺公園 ) が開園 ( 定光寺境内の弁天堂が正伝池に移築 )。
沓掛村 ( 定光寺 ) 年表
(瀬戸市歴史民俗資料館 2001『定光寺宝物展』ほかより作成)
南北朝
室町
戦国
江戸
近代
のぶ きよ きん ぜい
アサダ ( カバノキ科 )( 名木 20)H=25 m イヌシデ ( カバノキ科 )( 名木 21)H=28m
アベマキ ( ブナ科 )( 名木 25)H=26 m イタヤカエデ ( カエデ科 )( 名木 75)H=30 m
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① 定光寺境内地の巨木等
直 入 橋
エドヒガン ( バラ科 )( 名木 60)H=26m チャンチン ( センダン科 )( 名木 70)H=18m
(写真・樹高等は瀬戸市教委 1997『瀬戸の名木』より)
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ちょくにゅう ば し
② 直入橋(承応 2(1653) 年) 定 光 寺 の 参 道 入 り 口 の 池 に か か る 橋で、この橋の前で参拝者が馬を下りたことから「下馬橋」ともいわれていました。尾張藩二代藩主徳川光友が、時の奉行熊谷政実に命じて架設させた石橋で、承応2(1653) 年 2 月 に 着 工 し、 同 年 5 月 に完成しました。 橋は全て花崗岩でできており、その構造は池の両岸の石積みに、長さ 6 m以上
も あ る 三 本 の 橋 桁( は し げ た ) を 渡 し、その橋桁に主な橋部を組み合わせています ( 長さ 5.85 m幅 2.82 m ( 金城学院大学 朴 セ ゙ ミ 測 量 ))。 江 戸 時 代 に は、 池 に 蓮を植えたり、参道に桜並木をつくるなど、橋とよく調和した風景であったため、定光寺における優れた景勝である「応夢山十 境( お う む さ ん じ ゅ っ き ょ う )」 の 一つ「一超直入」に挙げられていました。
応 夢 山 定 光 寺 は、 臨 済 宗 妙 心 寺 派 に 属 し、 地 蔵菩薩を本尊とします。建武 3(1336) 年に覚源禅師( 平心処斎 ) により開山されました。 本 堂 ( 仏 殿 ) は、 寺 の『 年 代 記 』 に よ れ ば 暦応 3(1340) 年 に 七 堂 が 建 立 さ れ、 永 享 7(1435)年・ 文 明 9(1477) 年 に 火 災 に あ い ま す が、 明 応2(1493) 年に再建されました。本尊を安置する宮殿は明応 9(1500) 年に完成。地震・火災を後に被りますが、天文 3(1534) 年に建物の再興を遂げました。 そ の 後、 本 堂 の 上 層 部 分 は、 明 治 13(1880) 年以 前 に は 板 葺 き の 切 妻 造 の 仮 屋 根 と な っ て い ま した。 昭 和 13(1938) 年 に は 本 堂 全 体 の 解 体 修 理 が行 わ れ、 上 層 仮 屋 根 は 同 様 の 建 築 様 式 の 事 例 や 宮殿 の 構 造 を 基 に こ け ら 葺 の 入 母 屋 造 に 復 元 さ れ ました。 本 堂 は、 方 三 間 の 主 屋 の 周 囲 に 裳 階 を と り つ けた 構 造 で、 下 層 の 斗 栱 や 桟 唐 戸、 外 壁 の 花 頭 窓、内 部 の 海 老 虹 梁 や 大 虹 梁・ 大 瓶 束 の 特 徴 は、 典 型的な禅宗様をなしています。 宮 殿 の 置 か れ た 須 弥 壇 の 手 前 に は 身 舎 柱 の 無 い広 い 間 取 り と な り、 高 い 鏡 天 井 ま で 上 昇 感 の 強 い空間構成となっています。
経蔵
本堂現開山堂
山門
本堂内部の見上
須弥壇の勾欄飾り ( 鯱形 )
③ 定光寺本堂 ( 仏殿 ・無為殿 )
( 明応 2(1493) 年 )【国指定】
大虹梁
鏡天井
大瓶束台輪
千体地 蔵
根肘木
だい こうりょ う
だい へい づか
ね ひじ き
だい わ
来迎柱らい ごうばし ら
5
0 10m
解体修理 ( 昭和 14 年 ) 直後の本堂
本堂(仏殿)
(昭和14年修理前)
(太田正弘編1984『定光寺誌』より) 国宝建造物定光寺本堂修理事務所 1940『国宝建造物定光寺本堂維持 修理報告書』より)
正面図
正面図
明治末年の本堂
( 昭和 14(1939) 年修理後)
覚源禅師(平心処斎)座像 智光禅師(喝堂全用)座像
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定 光 寺 中 興 開 山 智 光 本 性 禅 師 (1596-1656) の頂相。 木 造 ( 寄 木 造 )。 江 戸 時 代 前 期 造 立。総高 124.5㎝。
夢裏明々頓契機
遠超洋海扣禅扉
只将一朶小梅葉
換得万年符印帰
亀陰謙亭拝題
←渡唐天神像(伝狩野永徳 筆、策彦周良 賛)16 世紀後半 渡唐天神図は、菅原道真 (845-903) が中国に渡り禅の修行をしたという伝説に基づく図で、室町時代に流行しました。狩野永徳 (1543-90) 筆によるものと伝えられ、2 度の入明を果たした天龍寺僧の策彦周良が賛 ( 漢詩 ) を書いています。筆については異説もありますが、戦国時代の秀逸な作品です。
(参考文献・図版引用:瀬戸市歴史民俗資料館 2001『定光寺宝物展』)
縦 103,9㎝×横 21.2㎝
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源敬公廟は、慶安 3(1650) 年に没した尾張徳川家初代藩主の徳川義直の墓所である。慶安 4(1651) 年に墳墓・石標、承応元 (1652) 年に竜の門以奥の門 ( 唐門 )・殿舎 ( 焼香殿・宝蔵 )・築地塀が完成し、元禄12(1699) 年に獅子の門が建てられました。 徳川義直は儒教の影響を強く受け、死に際しても他のほとんどの諸大名が仏式の墓を築く中、物仏式の法名を受けることを拒み、霊廟は儒教式の建築となりました。設計は、明から帰化した陳元贇によるものと伝えられ、儒教の礼制に基づく建物配置をとり、殿舎の銅葺瓦に魚形の正吻や蕨手を乗せるなど中国風の意匠が一部にみられる点は他に例を見ませんが、禅宗様を基調として彩色や彫刻は限定的です。江戸時代前期における中国建築の理解の実態を示す事例として興味深い建造物です。
正 面 は 中 央 間が 二 つ 折 れ の 桟唐 戸 を な し、 唐戸 に 嵌 め 込 ま れた 綿 板 の 外 面 には、 精 緻 な 雲 竜の 透 か し 彫 り 欄間 彫 刻 が み ら れます。
④ 源敬公 ( 徳川義直 ) 廟
( 慶安 4(1651) 年・承応元 (1652) 年・ 元禄 12(1699) 年 )【国指定】
◎竜の門
◎焼香殿 ( 祭文殿 )
05 m 正面図
床面図
断面図
正吻せいふん
傍吻ぼうふん
蕨手わらび て
花頭窓か とう
腰板こしいた
(卍崩し浮彫入り )
唐戸から と
鉄釉 敷瓦
鞘設置前の竜の門
鞘設置前の焼香殿
(太田正弘編1984『定光寺誌』より)
廟域図
さい ぶん でん
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焼香殿敷瓦の裏に記載された窯・人名一覧宝蔵敷瓦の裏に記載された窯・人名一覧
宝蔵床面の志野釉敷瓦 ( 裏面の墨書 )左:「ちノ一」「赤津」「又左ェ門」「北ノ方」右:「わノ一」「品野」「忠左ェ門」「北東方」
焼香殿床面の鉄釉敷瓦
◎宝蔵 ( 祭器庫 )
志野釉敷瓦
正面図
床面図
断面図
北室 中央室 南室
鞘設置前の宝蔵
焼香殿・宝蔵の正面図・断面図および廟域図は、溝口正人 2006「源敬公 ( 徳川義直 ) 廟」『愛知県史 別編 建造物史跡』より
(山川一年ほか 1998『瀬戸市史 陶磁史編 5』P142 より)ほう ぞう さい き
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図3 穴田2号窯窯体実測図 (S=1/150)図2 登窯断面図
図1 狭間構造模式図
穴田2号窯
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穴田窯跡は、水野川の支流である釜ヶ洞川
右岸の小丘陵の標高約 110 mの斜面に 5 基以上の窯体が築かれています。定光寺から見るとほぼ南に位置し、約4km 離れています。 1・2号窯はともに地上式の連房式登窯で、薪を燃やす部屋 ( 燃焼室 ) の後方に製品を詰める複数の部屋 ( 焼成室 ) が連なっています。1号窯は残存長 14.7 mで、その構造 ( 図1)は江戸時代の瀬戸窯を特徴付ける縦狭間です。2号窯は少なくとも3~4回の改修がなされており、最終的に全長 23.5 m、15 室の焼成室からなる有段斜め狭間構造になっています ( 図1・3)。
出土遺物は、1・2号窯ともに天目茶碗・丸碗・筒形碗・小碗・小杯・鉄絵皿・丸皿・反り皿・輪禿皿・片口・水盤・灯明具・香炉・黄瀬戸鉢・擂鉢・徳利・有耳壺・瓦などがあり、2号窯の出土品は1号窯のそれよりやや古い特徴を備えています。 本窯の特徴は江戸時代前期に瀬戸窯で生産された日常用具を万遍なく焼成している点にありますが、それと並んで注目されるのは各種瓦類の存在です。特に1号窯で出土した鉄釉唐草文敷瓦 ( 図 4-6) は、承応元 (1652) 年に完成した尾張初代藩主徳川義直廟の焼香殿の敷瓦と酷似しています。焼香殿敷瓦の生産
⑤ 穴田窯跡(穴田町)(江戸時代前期)
図4 穴田窯跡出土遺物(S=1/6)
1
2 3
4
5
6 7
8
9
10
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つき やま
つき やま
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は瀬戸四か村 ( 瀬戸・赤津・下品野・上品野 )で行われましたが、現在敷かれている瓦には上水野村製であることを示す「水野釜」「水野かま善九郎」という墨書をもつものが含まれています。さらに興味深いのは、本窯出土の灰釉無文敷瓦の中に「水野久之丞」と墨書されたもの ( 図 4-7) が見られる点です。久之丞は寛永 19(1642) 年から寛文 12(1672)年まで初代の尾張藩御林奉行 ( 水野御案内之者 ) を務めた人物であり、その名前が敷瓦に記されているということは、穴田窯出土の瓦類が尾張藩の意向を受けた久之丞による発注
品であることを物語っています。 なお、穴田窯の地は寛文年間 (1661 ~1673) に尾張藩の御林方役所役人衆の屋敷になるため、4軒の窯屋が移転したという古記録が残されています。また本窯では「寛永拾弐 (1635) 年正月吉日」銘の鉄絵鉢 ( 図 4-4)が採集されています。さらに上記の源敬公廟の完成年代も考え併せると、本窯の操業時期は 17 世紀第 2 四半期から中・後葉までと考えられ、瀬戸窯で最初期の連房式登窯と位置づけられます。
月山窯跡は、直入橋の南側「築山」の南向き斜
面に所在しました。窯体床面の一部を残し、大半は流出して残存していませんでしたが、天目茶碗・筒形碗・内禿皿・折縁皿・擂鉢・徳利類・建水・茶入・茶壺・風炉などが出土しました。中でも、黄瀬戸筒形碗や無釉焼締の茶道具類の生産が特徴的で、桃山茶陶生産の先駆となる窯場として注目されます。操業された 16 世紀第 3 四半期には織田信長ないし信清による定光寺宛ての禁制の木札( 永禄7(1564) 年 ) も残されており、戦国期の領主権力を背景に定光寺が窯業生産に関与した可能性が指摘されます。
⑥ 月山窯跡(戦国時代)
うち はげ
ふう ろ
P
直入橋
(霊亀岩)
弁天堂
月山窯跡
(旧開山堂)
経蔵
開山堂(観音堂)
源敬公廟
方丈(客殿)
本堂(無為殿)X
X
望洲亭(旧金景軒 )
チャンチン嘗草十年碑
獅子の門
竜の門
集合出発
終了解散
自動車誘導経路
烏石嶺(165 段石段)
名木集中エリア(定光寺北麓極相林 )
X
X 駐車を誘導しない場所
開山塔
龍吟水
縮遠峯
※白抜き文字は、「応夢山十境」を示す。
他に、山門?の「向上閣」、旧庫裡の「聚星寮」、旧書院の「得月楼」がある。
※旧塔頭の名称・位置は、『尾張名所図会』による。
エドヒガン
(旧竜沢庵)
(旧梅竹軒)
(旧増竹軒)
(旧續芳院)
(旧蔭涼院)
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しゅく えん ほう
しゅくほう
ま ち め ぐ り Part9掛川 ( 定光寺 ) コース ( 予定 )