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Ⅵ社会科授業ディベート実践への視点とプランは?Z品 S1冊の絵本をめぐる様々な調査 から生まれる公民デイベート ◎論題「『ちび〈ろ・さんぼ』を絶版にしたのは正しい,是か非か」 (中学3年6月) この公民デイベートは,子どもたちが幼児期に絵本やお話で親しんだ経験 を基底に,『ちびくろ・さんぼ』に潜む「秘密」を調べさせる課題から出発 し,授業ディベートヘと発展させる課題学習として実践した。すなわち,絵 本「ちびくろ・さんぼ』の探索,公共図書館の司書の方々へのインタビュー 調査,『ちびくろ・さんぼ」の絶版問題に関する文献・ 資料の収集など,様々 な学習を経て,授業デイベートに至るわけである。 ( 1 ) 単元の目標 ①人間尊重の精神と基本的人権(人種差別と平等)について,子どもた ちにとって身近で具体的な事例を通して,その理解を深める。 ②デイベートによって,多様な角度からの論理的な思考や実証的で説得 力のある表現の方法を身につける。 ( 2 ) 論題設定の理由 本単元は,社会科公民的分野の一単元として実践したものである。 この単元の目標を達成するために,「『ちびくろ・さんぼ』を絶版にしたの は正しい,是か非か」という論題で授業デイベートを行うことにした。

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Ⅵ社会科授業ディベート実践への視点とプランは?Z品

S1冊の絵本をめぐる様々な調査から生まれる公民デイベート

◎論題「『ちび〈ろ・さんぼ』を絶版にしたのは正しい,是か非か」

(中学3年6月)

この公民デイベートは,子どもたちが幼児期に絵本やお話で親しんだ経験を基底に,『ちびくろ・さんぼ』に潜む「秘密」を調べさせる課題から出発し,授業ディベートヘと発展させる課題学習として実践した。すなわち,絵本「ちびくろ・さんぼ』の探索,公共図書館の司書の方々へのインタビュー調査,『ちびくろ・さんぼ」の絶版問題に関する文献・ 資料の収集など,様々な学習を経て,授業デイベートに至るわけである。

( 1 ) 単元の目標

①人間尊重の精神と基本的人権(人種差別と平等)について,子どもたちにとって身近で具体的な事例を通して,その理解を深める。②デイベートによって,多様な角度からの論理的な思考や実証的で説得力のある表現の方法を身につける。

( 2 ) 論題設定の理由本単元は,社会科公民的分野の一単元として実践したものである。この単元の目標を達成するために,「『ちびくろ・さんぼ』を絶版にしたの

は正しい,是か非か」という論題で授業デイベートを行うことにした。

Narita Kiichiro
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その理由は,以下のように2点ある。

かつて,中学生が幼児期に親しんだヘレン・ バナマン作の絵本『ちびくろ・さんぼ』のあゆみと絶版問題(1 9 8 8 年)という歴史的・基礎的事実を把握し理解した上で,『ちびくろ・ さんぼ』の絶版という判断と行為が正しかったのか否かを問うことによって,一見身近ではないと思われる人種差別の具体的現実に気づき,人種差別と生徒自身との関わりに迫り,人間尊重の精神や基本的人権(自由・平等)に対する理解の基礎を培えることができると考えられるからである。

また,公民的分野において,多様な角度からの論理的な思考や実証的で説得力のある表現の方法を学習すること自体が,民主主義社会における問題解決のための方法を身につける上でも極めて重要であるからである。

( B )論題設定の条件

さて,「『ちびくろ・さんぽ』を絶版にしたのは正しい,是か非か」という論題はどんな条件のもとに設定されたのだろうか。①身近で具体的な論題か

デイベートを行う前に事前調査を行い,ア.『ちびくろ・ さんぼ』をかつて読んだことがあるか,イ.『ちびくろ・ さんぼ』が家庭にあるか,ウ.近くの公共図書館に『ちびくろ・さんぼ』はあるか,エ.本屋さんで『ちびくろ・さんぽ』は売っているかなどを尋ねたり調べさせたりした。つまり,子どもたち自身の体験や調査活動を掘り起こすことによって,『ちびくろ。さんぼ』問題が身近で具体的なものになっていったのである。ちなみに,このデイベートを行った中学生は1 9 8 0 , 8 1 年生まれであり,『ちびくろ・さんぼ』が絶版にされる前に幼児期を過ごし,ほとんどの生徒が「さんぼ」を知っていた。当然,「絶版問題」 が起こる1 9 8 8 年以前では,この論題は成り立ちようがないし,また,幼年時代に全く「さんぼ」を読んだことのない子どもたちがこの

論題のデイベートに取り組むには幾重もの条件設定を施し,それ相応に仕組

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まねば身近で具体的な論題にはならない。

②資料や情報は集めやすい論題か授業の指導者であるわたくしも読んだ経験を持つ,ベストセラー,ロングセラー「ちびくろ・さんぼ』の絶版問題は,当時マスコミでも大きく取り上げられ,論争にも発展した。したがって,縮刷版などの新聞資料が活用できるし,かなり多数の文献が出版されている。また,現在の公共図書館では,子どもたちに閲覧させている図書館とそうではない図書館とがあり,それぞれの図書館で扱いが異なっているが,公共図書館自身が「ちびくろ・さんぼ』の絶版問題について資料収集を行っており,研究を深めていることが多い。 したがって,子どもたちが図書館の司書の方々からインタビュー調査をすることも可能である。③肯定か否定かで不公平な論題かわが国では実際に「絶版」にされているので否定側が不利かと思われるが,アメリカ合衆国など「絶版」にしていない国々 もあるため国際的な視野を入れると,十分に論議になると考えた。デイベート前にこの論題に対して肯定か否定か(どちらとも言えないか)を尋ねる意識調査を行ったところ,4クラスともそれぞれ異なる傾向を示していた。

④論題の中に複数のテーマを持ち込んではいないか実際に,「『ちびくろ・さんぼjを絶版にしたのは正しい,是か非か」という論題に決めるまでには,好余曲折があった。かつて「『ちびくろ・さんぼ』は差別であるか,否か」という論題で行ったことがあったが,論点が人種差別の有無に流れ,作品論に収赦されてしまった。したがって,歴史的な経緯や現実的で身近な問題としての討議ができなかった。また,「すべての公共図書館で『ちびくろ・ さんぼ』を自由閲覧にすべし」という論題も考えたが,これでは論点が本単元の目標から遠ざかる可能性があったため見合わせた。

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⑤この論題が差別や偏見を助長していないか,子どもの心に深い傷を残すおそれはないか

もし,学級・学年の子どもたちの中に「黒人」がいたらどうだろう。その場合,果たして「さんぼ」を扱うべきか否か,大きく議論が分れるところである。もしかすると,実際に「黒人」が学級や学年にいることによって子どもたちは心底真剣に討議するかもしれないし,はたまた「黒人」への「いじめ」を助長し,その子の心を幾重にも傷つけることになるかもしれない。このあたりの判断は,教師の主体的な力量や確信,学級・学年の状況を深く見据えてしなければならない。具体的な身近さは,時として「諸刃の剣」ともなる。この実践をした学級・学年には「黒人」はいなかったが,やや肌の黒いのをひやかされ気味の生徒がいたために慎重に対処していった。

( 4 ) 『ちびくろ・さんぼ」絶版問題の背景イギリス人ヘレン・バナマン(HelenBannermanl862-1946)が,1899年にロンドンのG r a n t R i c h a r d s 社から出版した“THESTORYOFLITTLE

BLACKSAMBO”の和訳絵本である『ちびくろ・さんぼ』(岩波書店,初版1 9 5 3 ) が,1 9 8 8 年1 2 月,「黒人差別の本である」と焔印を押されて絶版になった。そして,その他の出版社から出されている『ちびくろ・さんぼjも絶版になっていった。

「ちびくろ・さんぼ』絶版問題には,以下のような歴史的背景がある。

【表6 - 6 】「ちび〈ろ・さんぽ』のあゆみ

①1 8 9 9 年,「ちびくろ・ さんぼ」はイギリス人によって,植民地インドを舞台に書かれたこと。

②1 9 0 0 年,アメリカ合衆国に渡って「さんぼ」は黒人として描かれるようになったこと。

③1 9 6 0 年代,アメリカの公民権運動の中で公共図書館から除架されてい

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ったこと。

④アメリカでは絶版にはなっていないこと。⑤1 9 0 7 年,わが国で英語教本として使われていたこと。⑥わが国における「さんぼ」絶版の背景に,1 9 8 6 年,わが国の首相による対米人種差別的な発言があったこと。⑦1 9 8 8 年,アメリカの『ワシントンポスト』紙が,わが国のある百貨店の黒人マネキンやおもちゃメーカーの黒人キャラクター商品を黒人差別であると批判したこと。

⑧それに呼応してわが国のある家族が「黒人差別をなくす会」を作ったこと。

⑨「さんぼ」以外にもカルピスの黒人トレードマークもなくなっていったこと。

⑩各社が絶版にしたあと,1 9 8 9 年,子ども文庫の会が文章は原文に忠実に絵はインド風に改めた『ブラック・サンポくん』を出版したこととアフリカ民族会議(ANC)などから発行中止要請が来たことなどである。

⑪長野市で「ちびくろ。さんぼ」の廃棄(焼却)問題が発生する。⑫現在,地方自治体や図書館によって「ちびくろ・さんぼ」の扱いは千差万別であり,いっさい貸出をしない図書館,研究用としてのみ貸出をしている図書館,開架書籍として自由に貸出ができる図書館など様々である。

論題の中にある「『ちびくろ・ さんぼ』という絵本」の持つ意味や意義をつかむこと,出版社が「 絶版」 にした背景や理由を明確に捉えること,「正しい」という価値判断は誰が誰に対して行うものなのかを明らかにすることなど,討議の前に助言と指導を行うべきである。こうした取り組みとその歴史的背景をもとに,以下のような討議が予察さ

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れる。

〔肯定〕

◇『ちびくろ・さんぼ』という絵本の内容も「サンボ」という言葉も黒人に対する人種差別を意味している。

◇黒人である人たち自身が差別や偏見の痛みを感じるような作品は出版すべきではない。

◇すべての人々の目にふれないようにするための第1歩は絶版にすることである。

〔否定〕

◆『ちびくろ・さんぽ』という絵本を読む読まないは,読者や家庭の問題である。

◆『ちびくろ・さんぼ』が差別を助長する作品であるのなら,差別を考える文献として,後世に伝えるべきである。◆幼児が何も知らず差別や偏見を刷り込まれなければいいのであって,絶版までする必要はない。

そして,出版するしないという論点と合せて,わが国の公共図書館での扱い方も論点になる。

( 5 ) 「授業デイベート」の構成と展開(5時間扱い)

①事前の調査活動

『ちびくろ・さんぼ」に関する調査報告書を作ろう◎調査報告用紙を配布し指示する。

②第1次(1時間)

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『ちびくろ・さんぼ」絶版問題の歴史と現在を知ろう!◎調査報告書の集計結果を提示し,問題意識を掘り起こす。◎絶版問題の歴史と現在の事実を理解する。

③第2次(2時間)「授業ディベート」に備えよう!◎ディベートの論題を提示する。◎論題に対する事前の意識調査を行う。◎デイベートの班を機械的にくじで分ける。肯定班1,否定班1,司会・計時・記録班1,審判団3.両論の関わる基礎的な資料を配布する。◎資料・' 情報の収集と整理をする。◎発表資料と論理構成を行う。◎審判は,セルフディベートや審判団内で模擬ディベートを行い,シミュレーションや「予察」をしておく。

④第3次(1時間)授業ディベート「『ちびくろ・ さんぼ」を絶版にしたことは正しい,是

か非か」をやろうl

◎討議(3 8 分) ,判定・講評(8分) ,事後の意識調査(4分)を行う。

⑤第4次(1時間)アフターディベートを行おう!

◎事後の意識調査の結果について,教師が総括・批評する。。『ちびくろ。さんぼ』という絵本をめぐる授業ディベートを通して,それぞれが考えたこと,感じたことを出し合う。

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◎身近な体験の中に人間0

r l I から向い省画I W p

の理雌存深幽それらへの理解を深めることの大切さに気づく。絶版の是非をめぐるジレンマに真正面から向い合うことによって,◎身近な体験の中に人間の尊重と基本的人権を考える糸口があり,

’⑥新聞の読者欄への投稿(課題)

◎調査活動や授業ディベート,アフターディベートなどを通して,学び得たこと,残された疑問などを5 0 0 字~6 0 0 字にまとめて新聞の読者欄へ投稿し,学習成果を世間に向けて発信する。

( B )評価(子どもたちの意識の変容)

さて,こうして展開された授業デイベート「『ちびくろ・ さんぼjを絶版に

したのは正しい,是か非か」は,いかに子どもたちの社会認識を深めたのだろうか。

子どもたちは,みずからの体験や公共図書館や書店等の調査活動,「授業デ

ィベート」という討議法という多様な学習活動のすべてを関連させて,二つ

の目標に迫った。

あるクラスの事前・事後の意見変容を見ると,以下のような結果になった。

事前 事後

肯定 6 6

どちらとも言えない 13 4

否定 11 20

まず,a)変容結果が「肯定」の6名の内訳は,事前の「肯定」→3名,事前の「どちらとも言えない」→2名,事前の「否定」→1名である。

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そして,b)変容結果が「どちらとも言えない」の4名の内訳は,事前の

「肯定」→1名,事前の「どちらとも言えない」→2名,事前の「否定」→1名である。

さらに,c)変容結果が「否定」の2 0 名の内訳は事前の「肯定」→2名,事前の「どちらとも言えない」→9名,事前の「否定」→9名であった。

この授業ディベートでは,思い悩む子どもたちを減らし,最終的に「 『ちびくろ・さんぼjを絶版したことは正しい」という論題を否定する子どもたち

を増やすことになった。しかし,子どもたちは,人種差別と平等とは何かを

考え,自分なりに判断することができるようになったのだと言えよう。

そして,Y・G君が「実際に黒人の人にあって話が聞きたい!」という感想を述べたように,子どもたち同士の討議だけではなく,さらに「黒人」という当事者から直接意見を聞きたいという学習要求の高まりをも見せてくれた。このY・G君の要求は,そのまま教師であるわたくしへの「宿題」となったのである。「黒人」 の方を教室に招いて特別授業をするか,子どもたちに在日の「 黒人」 の方へのインタビューを行えるような機会を作るか,その「 宿題」の受け止め方にはいろいろある。これは,わたくしの実践史の中でもまさに未踏の地である。

いずれにしても,授業デイベートによって子どもたち自身の意識の変化・変容が起こるばかりではなく,教師であるわたくしにも変化・変容を迫るのである。 これほどダイナミックでスリリングな学習・指導法はないといっても過言ではない。

〔主な参考文献〕◎子どもの本の明日を考える会「「 チビクロ・サンポ」はどこへいったの?』(創文社,19 9 0)

◎径書房編集部編「「 ちびくろサンボ」絶版を考える』(径書房,1 9 9 0 )◎杉尾敏明・棚橋美代子『ちびくろサンポとピノキオ差別と表現・教育の自由』

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(青木書店,1 9 9 0)◎杉尾敏明・棚橋美代子『焼かれた「ちびくろサンポ」人種差別と表現.教育の自由』(青木書店,1 9 9 2 )

。「討論の場面を設定して行う指導一人権を考える.『ちびくろサンボ』は差別か否か-」(柿沼利昭等編『中学校社会科指導事典・公民』東京法令,1 9 9 2 )◎エリザベス・ヘイ著/ゆあさふみえ訳『さよならサンボ「ちびくろサンボの物語」とヘレン・バナマン』(平凡社,1 9 9 3 )など。