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224 日本医史学雑誌 第 63 巻第 2 号(2017ゲーテと医療(第 2 報) 二代の侍医 父フーフェラントと子フーフェラントとの関係鈴木 重統 介護老人保健施設 ゆう 施設長/北海道大学医療技術短期大学部名誉教授 はじめに ゲーテの死生観については第一報で報告したが,彼のワイマールにおける侍医であったフーフェラン ト親子はゲーテからの影響を受けることも多く,ゲーテもまたファウスト第一部の「魔女の厨」のなか CW フーフェラントの長寿法について触れるなど親密な関係がうかがわれる. さらに CW フーフェラントは緒方洪庵によって訳された「扶氏経験遺訓」の著者であることは周知の 事実であるが,これはのちに適塾の教えともなり日本の医学にも大きな影響を及ぼしているのでこれら についての考察を加えたい. ゲーテと JF フーフェラント,CW フーフェラント ゲーテは 26 歳のときにフランクフルトからワイマール公国に移住してきた.ゲーテが演劇,音楽な どを通じてワイマールの文化活動に与えた影響は大きく JF フーフェラントの息子 CW フーフェラント は当時 13 歳の少年であったが,忽ち彼の心を虜にした.ゲーテの結成した劇団で「若きドンキホーテ」 の役を演じている. 一方彼の父親 JF フーフェラントは地域医療に貢献すること大なる典型的なラントアルツトであり遠 くはチューリンゲン地方やハルツの山岳地帯に至るまで多くの住民から信頼を得ていた. CW フーフェラントはゲッチンゲン大学を卒業し,弱冠 21 歳のときから必ずしも健康のすぐれない 父親にかわりゲーテの侍医を務めるのであるが,実地医家として活躍するだけでなく朝 4 時から 2 時間 は文献購読や症例分析などにあてて一家 4 人を養っていた. ゲーテと両フーフェラントと関係は次の諸点から明らかである. 10 年以上にも亘ってゲーテの家庭医であった. 1797 年に CW フーフェラントが上梓した「長寿法」の扉にゲーテの言葉が引用されている.この 詩は戯曲エグモントの一節であり「甘美な生! 存在と活動の美しい親しみ深いならわし!おまえ に私は別れを告げなければならないのだ!」と記されている. ③冒頭に述べたファウスト第一部の{魔女の厨}のなかで「メフィストーフェレス」は「ファウスト」 に延命と若返りの方法について訊ねる.之に対しファウストは「自然の方法として別の本に書いて ある」と答えるがこの別の本こそ「長寿法」の実践編「延命する方法」の「耕地と庭のある生活」 であろうと類推することができる.(文献 1CW フーフェラントが日本の医学に与えた影響 ワイマール公国時代,カールアウグスト公によって「金曜日の夜の集い」として行わていた学術講 演会で CW フーフェラントが長寿法の一部を講演したところアウグスト公が絶賛し「彼を我々の家庭医 にだけしておくべきではない.イェーナ大学の教授にすべきだ」と担当のゲーテに命じ 1793 年に任命 された. 以降 CW フーフェラントはベルリン大学の創設に携わり,医学部長にまで昇任するのであるが,在任 中“Enchiridion medicum”を著し,1836 年に没する. いっぽうこれより 11 年後の 1857 年(安政 4 年から 1861 年(文久 1 年)にかけて緒方洪庵が「Enchridion medicum」をオランダ語から訳し「扶氏経験遺訓」とした. 洪庵は「扶氏経験遺訓」を適塾の教えとして永く用いたが,適塾では江戸末期の医師たちだけではな く,「学問のすすめ」の福沢諭吉,日本赤十字社の創立者である佐野常民のような明治時代の思想家や 政治家も学んでいたので,その社会的な波及効果は大であったといえよう. ◆病んでいる人を見て,これを救おうとする情意,これがとりもなおさず医術の本質である. この名言に始まる教えは適塾だけでなく,「内科診療の実際」(南山堂)にも記されて日本の医家に対し て多大の影響を与えている. 文献 1Von Hans Petzsch. Das Leben und Wirken CW Hufelands in Thüringen im Spiegel des Faustwerkes seines PatientenFreundes und Gӧnners J.W.v. Goethe. Dtsch.med.J 14.Jg.Nr.3, 5.2. 1963 67–75 2)鈴木重統 幕末におけるドイツ医学思想 医戒とフーフェラント 医学哲学医療倫理 16: 58 64 1998 59

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  • 224 日本医史学雑誌 第 63巻第 2号(2017)

    ゲーテと医療(第 2報)―二代の侍医 父フーフェラントと子フーフェラントとの関係―

    鈴木 重統介護老人保健施設 ゆう 施設長/北海道大学医療技術短期大学部名誉教授

    はじめにゲーテの死生観については第一報で報告したが,彼のワイマールにおける侍医であったフーフェラント親子はゲーテからの影響を受けることも多く,ゲーテもまたファウスト第一部の「魔女の厨」のなかでCWフーフェラントの長寿法について触れるなど親密な関係がうかがわれる.さらにCWフーフェラントは緒方洪庵によって訳された「扶氏経験遺訓」の著者であることは周知の事実であるが,これはのちに適塾の教えともなり日本の医学にも大きな影響を及ぼしているのでこれらについての考察を加えたい.

    ゲーテと JFフーフェラント,CWフーフェラントゲーテは 26歳のときにフランクフルトからワイマール公国に移住してきた.ゲーテが演劇,音楽などを通じてワイマールの文化活動に与えた影響は大きく JFフーフェラントの息子 CWフーフェラントは当時 13歳の少年であったが,忽ち彼の心を虜にした.ゲーテの結成した劇団で「若きドンキホーテ」の役を演じている.一方彼の父親 JFフーフェラントは地域医療に貢献すること大なる典型的なラントアルツトであり遠

    くはチューリンゲン地方やハルツの山岳地帯に至るまで多くの住民から信頼を得ていた.CWフーフェラントはゲッチンゲン大学を卒業し,弱冠 21歳のときから必ずしも健康のすぐれない

    父親にかわりゲーテの侍医を務めるのであるが,実地医家として活躍するだけでなく朝 4時から 2時間は文献購読や症例分析などにあてて一家 4人を養っていた.ゲーテと両フーフェラントと関係は次の諸点から明らかである.① 10年以上にも亘ってゲーテの家庭医であった.② 1797年に CWフーフェラントが上梓した「長寿法」の扉にゲーテの言葉が引用されている.この詩は戯曲エグモントの一節であり「甘美な生! 存在と活動の美しい親しみ深いならわし!おまえに私は別れを告げなければならないのだ!」と記されている.③冒頭に述べたファウスト第一部の{魔女の厨}のなかで「メフィストーフェレス」は「ファウスト」に延命と若返りの方法について訊ねる.之に対しファウストは「自然の方法として別の本に書いてある」と答えるがこの別の本こそ「長寿法」の実践編「延命する方法」の「耕地と庭のある生活」であろうと類推することができる.(文献 1)

    CWフーフェラントが日本の医学に与えた影響ワイマール公国時代,カール・アウグスト公によって「金曜日の夜の集い」として行わていた学術講演会でCWフーフェラントが長寿法の一部を講演したところアウグスト公が絶賛し「彼を我々の家庭医にだけしておくべきではない.イェーナ大学の教授にすべきだ」と担当のゲーテに命じ 1793年に任命された.以降CWフーフェラントはベルリン大学の創設に携わり,医学部長にまで昇任するのであるが,在任中“Enchiridion medicum”を著し,1836年に没する.いっぽうこれより11年後の1857年(安政4年から1861年(文久1年)にかけて緒方洪庵が「Enchridion

    medicum」をオランダ語から訳し「扶氏経験遺訓」とした.洪庵は「扶氏経験遺訓」を適塾の教えとして永く用いたが,適塾では江戸末期の医師たちだけではなく,「学問のすすめ」の福沢諭吉,日本赤十字社の創立者である佐野常民のような明治時代の思想家や政治家も学んでいたので,その社会的な波及効果は大であったといえよう.

    ◆病んでいる人を見て,これを救おうとする情意,これがとりもなおさず医術の本質である.

    この名言に始まる教えは適塾だけでなく,「内科診療の実際」(南山堂)にも記されて日本の医家に対して多大の影響を与えている.

    文献1)Von Hans Petzsch. Das Leben und Wirken CW Hufelands in Thüringen im Spiegel des Faustwerkes seines Patienten,

    Freundes und Gӧnners J.W.v. Goethe. Dtsch.med.J 14.Jg.Nr.3, 5.2. 1963 67–752)鈴木重統 幕末におけるドイツ医学思想 医戒とフーフェラント 医学・哲学・医療倫理 16: 58~64 1998

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