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京都外国語大学 ラテンアメリカ研究所 Vol. 19 2019 紀要 ISSN 2433-2259 <論文> ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵 …………………………………………………………………… 金 子   明 1 メキシコにおける「慣習」による先住民行政区選挙 …………………………………………………………………… 小 林 致 広 25 <研究ノート> 戦前日本におけるラテンアメリカ研究 (Ⅰ) ―江戸期・明治期・大正期における先行研究を中心にして― …………………………………………………………………… 辻   豊 治 49 <書評> 井村俊義著『チカーノとは何か―境界線の詩学』 …………………………………………………………………… 牛 島   万 65 <史料紹介> フランシスコ・ハビエル・アレグレ著『ヌエバ・エスパーニャのイエズス会管区史』 …………………………………………………………………… 桜 井 三枝子 69

Vol.entronización de Pájaro Jaguar el Grande, o IV, durante 10 años después de la muerte de su padre, Escudo Jaguar, en el año 742 d.C. Con base en una metodología de análisis

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  • 京都外国語大学ラテンアメリカ研究所

    Vol.

    19

    2019

    紀要ISSN 2433-2259

    <論文>ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵……………………………………………………………………金 子   明   1

    メキシコにおける「慣習」による先住民行政区選挙……………………………………………………………………小 林 致 広  25

    <研究ノート>戦前日本におけるラテンアメリカ研究 (Ⅰ)―江戸期・明治期・大正期における先行研究を中心にして―……………………………………………………………………辻   豊 治  49

    <書評>井村俊義著『チカーノとは何か―境界線の詩学』……………………………………………………………………牛 島   万  65

    <史料紹介>フランシスコ・ハビエル・アレグレ著『ヌエバ・エスパーニャのイエズス会管区史』……………………………………………………………………桜 井 三枝子  69

  • ─ 1 ─

    <論文>

    ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ………………………………………………………… 金 子   明 … 1

    メキシコにおける「慣習」による先住民行政区選挙

    ………………………………………………………… 小 林 致 広 … 25

    <研究ノート>

    戦前日本におけるラテンアメリカ研究(Ⅰ)

    ―江戸期・明治期・大正期における先行研究を中心にして―

    ………………………………………………………… 辻   豊 治 … 49

    <書評>

    井村俊義著『チカーノとは何か―境界線の詩学』

    ………………………………………………………… 牛 島   万 … 65

    <史料紹介>

    フランシスコ・ハビエル・アレグレ著『ヌエバ・エスパーニャのイエズス会管区史』

    ………………………………………………………… 桜 井 三枝子 … 69

  • ─ 2 ─

    <ARTÍCULOS>

    Rival político de Pájaro Jaguar el Grande de Yaxchilán

    ……………………………………………………………Akira KANEKO… 1

    Elecciones de las autoridades por usos y costumbres en los municipios indígenas de México

    ………………………………………………… Munehiro KOBAYASHI… 25

    <ESTUDIO PRELIMINAR>

    Estudios latinoamericanos en Japón antes de la Segunda Guerra Mundial (Ⅰ)

    ………………………………………………………… Toyoharu TSUJI… 49

    <RESEÑAS DE LIBROS>

    ¿Qué es un chicano?: poética de las fronteras, por Toshiyoshi Imura

    ……………………………………………………… Takashi USHIJIMA… 65

    Francisco Javier Alegre, Historia de la Provincia de la Compañía de Jesús de Nueva España, 4 vols.,

    edición de Ernest J. Burrus y Felix Zubillaga, Roma, Institutum Historicum Societatis Jesu, 1956

    ………………………………………………………… Mieko SAKURAI… 69

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 1 ─

    〈論  文〉ヤシュチランの鳥ジャガー大王 1)の政敵

    金 子   明*

    はじめに

    メキシコとグアテマラの国境を流れるウスマシンタ(Usumacinta)川の左岸に位置するマヤ古典期の代表的な遺跡であるヤシュチラン(Yaxchilán)では、メキシコ国立人類学歴史学研究所(Instituto Nacional de Antropología e Historia: INAH)のロベルト・ガルシア・モール(Roberto García Moll)団長の指揮により 1973年から本格的な発掘調査が始まり、20年近く続いた第 1期の発掘調査では崩壊の危機に瀕していた建築の発掘・修復に重点が置かれて、現在まで 40を越える建造物の修復が完了している(図 1)3)。ヤシュチランでは 120を越える記念碑(モニュメント)が見つかっており 4)、碑文に記された

    マヤ文字テキストの解読から、4世紀から 9世紀までの少なくとも 16代の王の系譜に基づくヤシュチラン王朝史が復元されている(Martin y Grube 2000; Mathews 1997)。その中で最もよく知られ

    キーワードヤシュチラン、鳥ジャガー、盾ジャガー、21号建築、リンテル 2)16

    Resumen

    Desde el inicio del estudio histórico de las inscripciones de Yaxchilán por Proskouriakoff

    (1963 y 1964), hasta la fecha, no se ha sabido quién fue la persona que impidió la

    entronización de Pájaro Jaguar el Grande, o IV, durante 10 años después de la muerte

    de su padre, Escudo Jaguar, en el año 742 d.C. Con base en una metodología de análisis

    integral de la información de epigrafía, arte y arqueología, podemos indicar que el cautivo

    del dintel 16 “Olla Invertida” del edificio 21, quien fue considerado como un prisionero de guerra de otra ciudad por los epigrafistas, fue el rival político de Pájaro Jaguar, debido a la

    ausencia del título del captor de esa persona y por la localización del dintel 16 arriba de la

    Tumba V de la madre de Pájaro Jaguar el Grande.

    Al final, mencionaremos el problema de la nueva epigrafía maya, tanto su método como

    los objetos de estudio, los cuales se utilizan sin criterio de autenticidad de las piezas de

    procedencia desconocida, así mismo como el problema sobre una vasija atípica de Cacao

    de Río Azul, Guatemala, que dio inicio al método de la nueva epigrafía que prevalece

    actualmente.

    * メキシコ国立人類学歴史学研究所

  • 金子 明

    ─ 2 ─

    ているのが、7世紀から 8世紀にかけてヤシュチランの最盛期に君臨した盾ジャガー一世と彼の後継者である鳥ジャガー四世、及びその息子の盾ジャガー二世である。しかし、盾ジャガー一世が 742年に亡くなってから息子の鳥ジャガーが即位する 752年までの 10 年間は王位が空白だったことは、プロスコアリコフ(Proskouriakoff 1963, 1964, en García Moll y Juárez(ed.)1986:191)がヤシュチランの碑文に歴史的内容が記されていると実証して、マヤ文字解読の突破口を開いた当初から指摘されていた。この王位空白期間の統治者不在の原因は、ヤシュチラン王朝の後継者をめぐる権力闘争と考えられているが、鳥ジャガーの政敵が誰だったかは未解決の問題として残されている。この問題について、マヤ文字解読の研究者から幾つかの意見が出されているが、考古学的資料に基づいた検証はまったく行われていなかった。本稿では王朝史、考古学と美術を統合する方法論の提示を兼ねて、鳥ジャガー大王の政敵の問題を考えてみたい。なお、本稿では、盾ジャガー一世と鳥ジャガー四世を単に盾ジャガーと鳥ジャガーと記すとともに、この数十年に音節に基づいて解読を進める研究者がマヤ文字を文字素に分解して発音する新マヤ文字銘辞学(Nueva Epigrafía Maya)により提示された “読み方 ” は採用せず、プロスコリアコフがマヤ文字を構成する盾、鳥、ジャガー等の図像から盾ジャガー、鳥ジャガーと呼んだ古典的方法論による歴史的人物の名称を使用するが、その理由は論考の末尾に記すことにする。

    1 ヤシュチラン王朝史における王位空白期間(西暦 742~752年)

    盾ジャガーの即位は 681年頃とされ、その軍事的勝利は 44号建築のリンテル 44、45、46と碑

    図 1.ヤシュチラン遺跡の平面図(CMHI 3:6-7、加筆変更 金子)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 3 ─

    文の階段(HS3)及び南アクロポリスの 41号建築の前の石碑 15,16、18、19、20に記録されている。盾ジャガーには正妻ショク(Xoc)后、白い蛇(Serpiente Blanca)妃、そしてイック頭蓋骨(Ik Cráneo)妃ないしカラクムル出身の宵の明星として知られる鳥ジャガーの生母の 3 人の配偶者がいた 5)。鳥ジャガーは 709年 8月 23日に生まれ、10号建築のリンテル 29 と 30 にその誕生の日付が記録されている。盾ジャガーは 60年余りに渡って統治して 742年 6月 15日に亡くなり、その死の日付は 24号建築のリンテル 27と 19号建築の前の祭壇 1に記録されている(Martin y Grube 2000:123, 128; Mathews 1997:132-172)(写真 1)。盾ジャガーが亡くなった時には鳥ジャガーは 32歳であり、両者の親子関係に疑問の余地はないが、その時点では誰がヤシュチラン王朝の後継者になるかは決まっていなかった。40号建築の前の石碑 11に表された、741年に執り行われたとされる盾ジャガーから鳥ジャガーに指揮 を渡す儀式は歴史的な事実ではなく、鳥ジャガーが王座についてから王位継承の正統性を誇示する政治プロパガンダとして建立したものである(写真 2)6)。

    盾ジャガー王の死後 10年間はヤシュチランの王位は空白であり、その間に盾ジャガーの配偶者が次々と亡くなるとともに、鳥ジャガーは将来の王位継承の布石のために球技や放血の儀式などの様々な活動を行い、749 年にはピエドラス・ネグラスの 4代目の王の統治開始から最初のカトゥン(20年)を祝う儀式にヤシュチランの代表として参列した。749年には盾ジャガーの正妻だったショク后が亡くなり、23号建築の 2号墓に豪華な副葬品とともに埋葬された(写真 3-5)7)。

    751年には鳥ジャガーの母親だったイック頭蓋骨妃が死去して、21号建築の 5号墓に葬られた。西暦 752年に鳥ジャガーはマヤ暦の周期完了の儀式を執り行い、「逆さポット」と呼ばれる敵を捕らえ、彼の正妻である大頭蓋骨后が後継者の男子を出産し、マヤ長期暦 9.16.1.0.0 Ahau Tzec(752 年 4月 29日)にヤシュチランの王として即位したことが石碑 11、12 とリンテル 1、30の碑文に記録されている(Mathews 1997:175-192)。

    写真 1.祭壇 1(著者撮影) 写真 2.石碑 11(著者撮影)

  • 金子 明

    ─ 4 ─

    2 政敵に関する先行研究と、その問題点

    盾ジャガーの息子である鳥ジャガーの即位が 10年も遅れた原因は、ヤシュチラン王朝の内紛、すなわち鳥ジャガーに政敵がいた可能性により説明されるが、この政敵が誰かという問題には未だ明確な回答がなされていない。ヤシュチラン王朝史の研究のなかで、鳥ジャガーの政敵の問題は魅力的なテーマとして、多くの研究者が言及している。タチアナ・プロスコアリコフ(Tatiana Proskouriakoff)はヤシュチランの碑文を歴史的脈絡か

    ら解読する論考で、この問題に関して「有力な王の長い治世の後で起こりがちなことだが、何人かの後継者が支配権を争ったのであろう。それ故に鳥ジャガーは自己の正統性を証明するために多くのモニュメントを作らせたのだろう」(García Moll y Daniel Juárez 1986:189; Proskouriakoff 1963:163)と述べている。シーリーとフレイデル(Schele y Freidel 1990:269-270, 480)は、盾ジャガー王とショク后の子孫にあたる孫や曾孫(図 2)が鳥ジャガーのライバルだった可能性を指摘している。ジョセランドとホプキンス(Josserand y Hopkins 1999:486)は、24号建築の 23番リンテルに記されていたアゥ・ツィク(Ah Tzic)と呼ばれる人物が盾ジャガー王とショク后の嫡男だと推測した。一方、マーティンとグルーベ(Martin y Grube 2000:62, 127)は、ドス・ピラス(Dos Pilas)の象形文字階段に記録された 745 年に捕虜となったヤシュチランの貴族を鳥ジャガーのライバルだと想定したが、この政敵が捕虜となって後継者争いから脱落したのならば、鳥ジャガーはすぐにでも即位できるはずだが、実際にはそうなっていない。シーリーとフレイデル、そしてジョセランドとホプキンスの盾ジャガー王とショク后の子孫が政敵だったという意見は、マヤ王権の相続が基本的に男系で、正妻の係累が正統な後継者として王位を継承できるという点で妥当性を持っている。マシューズ(Mathews 1997:190-192)は、盾ジャガー王の配偶者のなかで最も若い妃との間の庶子だった鳥ジャガーは、幾多の後継者候補のなかでも低い地位にあり、それ故に他のライバルを排除しなければならなかったと推測したが、その

    写真 3.2号墓(著者撮影) 写真 4.黒曜石の(García Moll, et al. 1990:34)

    写真 5.骨製儀式用針(García Moll, et al. 1990:35)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 5 ─

    ライバルは不明としている。筆者は、盾ジャガー王とショク后の子孫である政敵を倒さなければ、鳥ジャガーはヤシュチランの王位に就くことはできなかったという見解に全面的に同意するが、前述した政敵の候補者は、マヤ文字解読の銘辞学のみに準拠している点に限界があると言わざるをえない。古代マヤ文化の研究方法は考古学、マヤ文字解読、美術史など多岐にわたるが、考古学者

    (Arqueológo)は建築の発掘・修復、探査ピットの層位の解釈、土器や石器などの遺物の分析に専念し、マヤ文字学者(Epigrafísta)はモニュメントの碑文テキストを本のページを読むように解読し、美術史家(Historiador de arte)は壁画や彫刻を本来は建築と一体だった脈絡から切り離してマヤ美術として研究対象としがちである。各分野の「専門家」は他分野の資料を参照することはあっても、各ジャンルのデータを統合して全体を視野に入れて歴史を復元する試みは少なかった。本稿では、銘辞学すなわちマヤ文字解読による王朝史に、発掘調査に基づく考古学データおよび美術を統合するアプローチ 8)により、鳥ジャガー大王の政敵が誰であったかという問題に迫ってみたい。その為に、この問題の を握る 21号建築に集中するリンテル 16、石碑 35、鳥ジャガーの母の 5号墓に焦点を絞り、建築、記念碑・モニュメントの内容と解釈を統一的に把握して、本稿の主題である鳥ジャガー大王の政敵を検証してみたい。

    3 21号建築

    21号建築は、大広場から大アクロポリスの 33号建築へ上がる大階段の東側の第 3セクションの北プラットフォームに建てられている(図 3)。1882年にヤシュチランを発見した英国の探検家モーズリー(Maudslay 1889-1902)は、この建築を建物 Fと名づけた。3つの入口のリンテルは落下して瓦礫に埋もれていたが、モーズリーの助手ゴルゴニオ・ロペス(Gorgonio Lopez)が浮彫りを切り取って 1883年に大英博物館へ送ったので、現在では切り取られた大きな 3つの石のブ

    図 2.ショク后の系図 (Schele y Freidel 1990:269, Fig. 7:4)

  • 金子 明

    ─ 6 ─

    ロックが建築の前に残っているだけである(García Moll 2003:160)(写真 6)。1983年の発掘で、西側の 73号建築の他に東側にも独立した建物が確認されて 89号建築と命名された(図 4)。中央の部屋では、石碑 35と奥の壁に 5人の人物を描いた彩色漆喰のレリーフが見つかり(Garcia Moll 2003:58-59,165)(写真 7)、1985年には中央の部屋の床下から 5号墓が発見された。建築の観点から見ると、21号建築はヤシュチランでも最も改築が繰り返された建築の 1つであり、構造的な補強、用途の変化、様式の変更などの理由で少なくとも 3回の増改築がなされている(Garcia Moll 2003: 59)。

    4 21号建築の記念碑

    現在、21号建築で見られる記念碑は石碑 35だけであり、入口の 3つのリンテル 15、16、17は、前述したように大英博物館の所蔵品となっている。この 3つのリンテルの図像は、23号建築のリンテル 24、25、26との類似性があると同時に幾つかの違いがある。記念碑が置かれた位置は、碑文の内容や図柄と同様に重要な意味をもっている点 9)に留意して、21号建築の記念碑を、図像の

    図 4.21、73、89号建築平面図 (García Moll 2003:160, Fig. 20)

    図 3.21号建築の位置(CMHI 3:6-7、加筆変更 金子)

    写真 6.21号建築(著者撮影)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 7 ─

    各部分の表す意味や由来を研究する図像学(Iconografía)及び、作品全体の主題を取り扱う図像解釈学(Iconología)の観点から検討していきたい 10)。

    4-1 石碑 35石碑 35(図 5)は 1983年に発掘され

    た時点では倒れた状態で発見されたが、台座に石碑を差し込む箱(Caja de estela)が残っていたので元の位置に立て直された(写真 7、8)。石碑の両面にはイック頭蓋骨妃ないしカラクムル出身の宵の明星という名で知られる鳥ジャガーの生母が浮彫りされており、文字テキストには 4 Imix 4 Mol(9.15.10.0.1 741年 7月 1日)に鳥ジャガーと大頭蓋骨后の結婚を祝う放血の儀を行ったと記録されている。なお、イック頭蓋骨妃が死去した 10 Akbal 16 Uo(9.15.19.15.3 751年 3月 13日)の日付はリンテル 28に記録されている(Schele y Freidel

    写真 8.石碑 35(著者撮影)

    図 5.石碑 35(Ian Graham)(Mathews1997:182, Figura 6-5)

    写真 7. 21号建築の中央の部屋の彩色漆喰レリーフと石碑 35(浮彫の両足の間に黒く見えるのは焚いたコパルの香が炭化した痕跡である(著者撮影))

  • 金子 明

    ─ 8 ─

    1990:285-287; Mathews 1997:190-191)。浮彫りの足の間の 間に黒く見えるのは焚いたコパルの香が炭化した痕跡である(写真 7、8)。

    4-2 リンテル 15、16、17元来は 21号建築の入口にあった 3つのリンテルは、後にテオベルト・マーラー(Teobert 

    Maler 1903)により 15(東)、16(中央)、17(西)として登録された。23号建築のリンテルの浮彫りの唯一の女性主人公は盾ジャガー王の正妻ショク后だが、21号建築では鳥ジャガーの 2人の妃である、モトゥール ・ デ ・ サン・ホセ(Motul de San José, Ik イック妃)の女性がリンテル 15に、そしてジャガー夫人(Señora Jaguar, Ixイッシュ妃)がリンテル 17に描かれている。鳥ジャガーの 2人の妃は、正妻の大頭蓋骨后の嫡子である後継者(将来の盾ジャガー二世)の誕生を祝って

    図 6.リンテル 17(CMHI: 3:43) 図 7.リンテル 24(CMHI: 3:53)

    図 8.リンテル 15(CMHI: 3:39) 図 9.リンテル 25(CMHI: 3:55)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 9 ─

    いるが、これは 23号建築のリンテルに描かれたショク后の儀式を模したものである。リンテル17(図 6)と 24(図 7)のテーマは自らの舌に紐を通して血を流す自己犠牲の放血の儀式であり、 リンテル 15(図 8)と 25(図 9)のテーマは「蛇のビジョン」として知られる、放血の儀式の後に香炉から立ち上る煙が蛇の姿をとって祖先神が戦士の装束で蛇の口から顕現するのを、自らの血の付いた紙を載せた皿を持つ女性が見上げる構図である。この 2つの建築のリンテルに見られる相似性は、父王の盾ジャガーが製作した 23号建築のショク后が行った舌に縄を通す自己犠牲と「蛇のビジョン」の儀式を、鳥ジャガーが 2人の妃に再現させて、自らの権力の正統性を誇示したものと考えられる(Schele y Freidel 1990:285-287; Mathews 1997:190-191)。リンテル 16(図 10)とリンテル 26(図 11)の主題は戦争だが、リンテル 26が戦いに向かう盾ジャガーがナイフをもって立つ横に、戦勝祈願の放血の儀式の血の跡を口の周りに残すショク后がジャガーの兜を持って立つシーンであるのに対して、リンテル 16では槍を持つ鳥ジャガーが捕虜を捕えた場面を描いている。注目に値するのは盾ジャガーと鳥ジャガーの着ている胴着のベストと胸当て 11)、そしてウスマシンタ地域特有の防具である「柔らかい盾」12)が全く同一である点である(Kaneko 2009:77-78; 金子 2015:32-33)。一方、リンテル 26 が 23号建築の西の入口にあったのに対して、リンテル 16 は 21号建築の中央の入口に位置しており、2つのリンテルが置かれた位置は異なっていた。現在では 21号建築の入口にはリンテルはないが、各リンテルがそれぞれの位置に置かれていた構図は容易に復元することができる(図 15参照)。

    4-3 リンテル 1613)の図柄とマヤ文字テキスト (図 10、写真 9)リンテル 16のテーマが捕虜を捕らえたシーンである点に疑問の余地はない。鳥ジャガーが右手

    に槍を持って立つ足元に、1人の捕虜が首にロープを巻かれて右腕を縛られ円錐形の頭飾りを被せられていて、この頭飾りの形が「逆さポット」という捕虜の呼び名の由来となっている。鳥ジャ

    図 10.リンテル 16(CMHI: 3:41) 図 11.リンテル 26(CMHI: 3:57)

  • 金子 明

    ─ 10 ─

    ガーは中央右寄りに立って、羽毛の頭飾りと鼻飾り、そして筒状の石の耳飾りをつけて、綿のジャケットに貝製の胸当てをつけて短い腰飾りをまとい、膝には小さな人頭をトロフィーとしたバンドを巻き、足にはくるぶしまでのサンダルを履いている。両腕は腕輪で防御され、右手には貝細工で飾られた槍を握り持ち、防御用の武器として左手に「柔らかい盾」を垂らし持ち、首から貝を連ねた防具が胸から足元まで垂れている。すでに述べたように、リンテル 16の鳥ジャガーの衣装と防具はリンテル 26の父王の盾ジャガーと全く同じものであり、これらの衣装と防具は単に父から息子へ相続されたのみならず、鳥ジャガーが父王と同じ装束を身にまとうことで権力継承の正統性を誇示したものと考えられる。一方、鳥ジャガーの前に腰布のみで裸足で座らされている捕虜は、頭に小さな穴が並ぶ「逆さポット」と呼ばれる円錐形の頭飾りをかぶり、長い髪は解かれて背中へ下ろされ、首から右腕に縄をかけられている。マヤ地域に共通する捕虜の習慣として、耳には捕囚の象徴である紙製の耳飾りを嵌められ、手を口に当てて降伏ないし恭順の仕草を示している。右手には帽子状の団扇らしきものを持っているが、これは 44号建築の碑文の階段(HS 3-III)の盾ジャガーの捕虜と同じものである。左の腕には掛け布のように見える布製の道具を巻きつけているが、これは鳥ジャガーが持っているのと同じ「柔らかい盾」だった可能性がある(金子 2015)。リンテル 16のテキストは 3部に分かれていて、以下の情報 14)が含まれている(図 10参照)。

    写真 9.リンテル 16(Schele y Miller 1986:235, Plate 87)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 11 ─

    A1-B1 日付 6カバン(Caban)5 ポップ(Pop) (9.16.0.13.17)[752年 2月 10 日 ]A2 動詞チュカフ(Chucah) 「彼が捕まえた」B2 「逆さポット」という捕虜の名前。チャク・キブ・トック(Chac-Cib-Tok)A3 (捕虜の出身地)ワカッブ(Wak’ab)サンタ・エレナ(Santa Elena)?B3 従属するC パイ(Pay)D ラカン・チャック(Lakam Chahk) 偉大なチャックE1 ワカッブ(Wak’ab)E2 の統治者F1-F5 鳥ジャガーの名前F1 B2-Eに付随する文字だが意味は不明F2 3 カトゥン(Katun)アハウ(ahaw)F3 鳥ジャガーF4 20人の捕虜を捕らえた者F5 ヤシュチランの紋章文字

    最初の一節は日付で 6カバン(Caban)5ポップ(Pop)で長期暦では 9.16.0.13.17に対応し、西暦 752年 2月 10 日に換算される。A2の文字チュカフ(Chucah)は動詞チュク Chuc「捕まえる」に過去を示す接尾辞 ajが付いた過去形で「捕えた」を意味する。それに続く文字は動詞の目的語である捕虜(B2、A3 と B3)を示している。上部に横に並ぶ第 2節の 3つの文字の意味は明確ではないが、捕虜のタイトルだった可能性がある。第 3節は、3 カトゥンの 20人の捕虜を捕らえたヤシュチランの鳥ジャガー王と読める(Mathews 1997:188)。

    B2-E の「逆さポット」の仇名で呼ばれる捕虜の名前の読み方に関しては、チャク・キブ・トック(Chac-Cib-Tok)(Schele y Freidel 1990:286)が一般的で、多くのマヤ文字学者はワカッブ(Wak’ab)と呼ばれた近隣のサンタ・エレナ(Santa Elena)との戦争の捕虜だと考えている(Martin y Grube 2000:132)。一般に古典期のマヤ社会で王位に就こうとする者は戦場で勇気を証明する必要があり(Mathews 1997:189)、即位する 83日前に起こったリンテル 16の戦闘の捕虜も、鳥ジャガーの戦士の資質を証明するものとして考えられがちだが、この解釈は、以下に述べる理由から大きな矛盾をはらんでいる。ヤシュチランの王座についた鳥ジャガーは「20人の捕虜を捕えた者」「宝石頭蓋骨を捕えた者」

    「カワックを捕えた者」 という 3つの「戦士の称号」を好んで使用した(図 12)。もし、多くのマヤ文字学者が説くように、リンテル 16の捕虜が即位前の戦闘で勇気を示した証左であるならば、当然ながら 3つの戦士の称号とともに「逆さポットを捕えた者」という称号を使うべきであろうが、ヤシュチランの全ての鳥ジャガーのモニュメントには「逆さポット」への言及がないのである。何故、鳥ジャガーは、この重要な捕虜を捕えた称号を使わなかったのだろうか?この質問に答えるために、「逆さポット」は他の都市との戦争における捕虜ではなく、ヤシュチラン王朝内部のショク后に連なる政敵であるという仮説を立てれば、「逆さポットを捕えた者」という称号を鳥ジャガーが使わなかった理由は、王朝内に未だ多く残っていた政敵の支持者を刺激するのを避けるためだったと説明することが可能になる。それでは、何故、鳥ジャガーは政敵「逆

  • 金子 明

    ─ 12 ─

    さポット」を捕えたリンテル 16を 21号建築の中央入口に据え付けたのか?最初の「何故、リンテル 16の捕虜を捕らえた称号を使わなかったのか」という疑問と、第 2の「リンテル 16を 21号建築の中央入口に据え付けたのか」という問いへの答は、前述した石碑 35に描かれた鳥ジャガーの生母イック頭蓋骨妃が葬られた 21号建築の床下の 5号墓の考古学的データに手がかりを求めることができる。

    5 5号墓

    1985年に 21号建築の中央の部屋の石碑 35の前の床の探査ピットから見つかった 5号墓は、他

    図 12. 鳥ジャガー大王の戦士の称号。△は『20人の捕虜を捕えた者』、〇は『宝石頭蓋骨を捕えた者』、□は『カワックを捕えた者』の称号を示す。(Kaneko 2009:56, Figura 9に加筆変更)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 13 ─

    の墓と同様に石積みの壁が床面から掘り込まれ、蓋石の上は大量の黒曜石の破片(14,150個、総重量 4.8 キログラム )で覆われ(Brokmann 2000:108)、燧石の大型ナイフ(長さ 33.9 センチメートル、幅 5.1 センチメートル、厚さ 0.9 センチメートル)が垂直に立てられていた。墓の大きさは、長さ 310 センチメートル、幅 105 センチメートル、高さ 95 センチメートルで、墓の東壁は石積みの壁でしっかり積み上げられていたが、西壁は粗石を押し込むようにして作られていた(図 12、13)。墓の副葬品はオレンジ・イーグル型の大皿 5枚、黒色のブラック・ソピローテ型の大皿 2枚、ネガティブ文の椀や杯 7個、フレスコ技法の杯 2個、ジャガー足跡文様椀 9個、ミニチュア容器、ヒスイ玉 530点余り、ヒスイの耳飾り、黒曜石刀、エイの針、海産の貝、ジャガーの爪、骨製の針等である。エイの針や海の貝は海岸との交易を示している(García Moll et al.1990:51)。被葬者は 45歳から 49歳の 年配の女性である(Fierro 2019:163)。副葬品だけからでは 5号墓の被葬者は

    図 13.5号墓 平面図 (García Moll, et al.1990:51)

    図 14.5号墓 断面図(García Moll, et al.1990:51) 下図の蓋石にナイフが立っている。

  • 金子 明

    ─ 14 ─

    特定できないが、墓の前の台座の石碑 35の両面に浮き彫りされた人物がイック頭蓋骨妃なので、西暦 751年 3月 13日に死去した鳥ジャガーの母の墓である点に疑問の余地はない。

    6 銘辞、美術、考古資料を総合的に分析する際の問題点

    これまで、マヤ文字解読に基づいたヤシュチラン王朝史での 742年から 752年の王位空白期間の出来事、21号建築の記念碑、リンテル 16の図柄とテキスト、5号墓に関して、それぞれ銘辞学、美術、考古学の観点から述べてきたが、これらの資料を総合的に分析するために、3つのリンテルの図版と床下の 5号墓の断面図を合成して復元した図にもとづき、鳥ジャガーの政敵を検証する際の問題点を整理してみたい(図 15)。

    6-1 リンテル 16の捕虜16号リンテルの捕虜に関して、近隣の敵ないし商人で重要な人物ではなかったので、鳥ジャガーは「逆さポットを捕えた者」という戦士の称号を使わなかったという意見をマヤ文字学者から聞くが(Maricela Ayala 2009; Guillermo Bernal 2016, comunicación personal)、美術の観点からは全く異なる見解が導かれる。マヤ古典期の美術では、戦争に勝利した王が槍を持って、捕縛されてひざまずく捕虜に対峙する構図は数多く見られるが、ヤシュチランで鳥ジャガーが捕虜を捕えたシーンを描いたモニュメントは、石碑 11の裏面(写真 10)と「宝石頭蓋骨」を捕えたリンテル

    図 15. 21号建築の 5号墓とリンテル 16の模式図。黒い部分は建築の柱に相当する。空白の部分は入口で、その上にリンテル 15、16、17が設置されていた。墓の断面図の中央に丸印で示したものが、蓋石から垂直に立てられていたナイフである。(CMHI 3:43, 3:39, 3:41 と García Moll, et al. 1990:51を合成して著者作成)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 15 ─

    8(図 16)、そしてリンテル 16(図 10、写真 9)の 3つしかない。この 3つのモニュメントを比較すると、石碑 11は 3人の捕虜、リンテル 8は副将とともに鳥ジャガーが「宝石頭蓋骨」を捕えた戦闘での 2人の捕虜が描かれ、リンテル 16だけが一人の捕虜を描いている。しかも、リンテル 8の「宝石頭蓋骨」や石碑 11の 3人の捕虜と比べると、リンテル 16の捕虜はとりわけ綿密に描かれている点から、鳥ジャガーにとって非常に重要な意味をもった捕虜だったと考えられる。捕虜の出自については、マヤ文字の音節に基づく解読によって、パイ(Pay)という都市のラカン・チャック(Lakam Chahk)に従属するヤシュチラン近隣のサンタ・エレナ(Santa Elena)に比定されるワカッブ(Wak’ab)の統治者チャク・キブ・トック(Chac-Cib-Tok)と呼ばれる戦争の捕虜だと考えられている(Martin y Grube 2000:132; Alejandro Sheseña Hernández 2016, comunicación personal)。本稿の最後に述べるように筆者は音節によるマヤ文字の読解法に疑問を抱いているが、百歩譲って上記の解釈が正しいとした場合でも、政敵が近隣のサンタ・エレナを頼って最後に鳥ジャガーに降伏したという可能性を想定しえる。

    6-2 5号墓とリンテル 1621号建築の 5号墓の被葬者は、墓前の台座の石碑 35に浮き彫りされた人物がイック頭蓋骨妃

    であることから、前述したように西暦 751年 3月 13日に死去した鳥ジャガーの母の墓であるのは確実である。一方、鳥ジャガーがリンテル 16の捕虜を捕えたのは 752年 2月 10日であり、鳥ジャガーの母イック頭蓋骨妃はヤシュチランの王位継承争いが未だ決着がつかない前に亡くなり 5号墓に埋葬されたのである。従って、埋葬時の時点では、21号建築の中央入口にはリンテル 16は設置されておらず、鳥ジャガーがヤシュチランの王として即位した後に、リンテル 16を製作して21号建築の中央の入口に設置したことになる。それ以前に 21号建築の入口に設置されていたリンテルが無地か浮彫りがあったかは分からないが、古いリンテルを取り外して新たにリンテル 16をはめ込み、且つ他の 2つのリンテル 15、17を古いリンテルと取り換える作業には、控え壁(Contrafuerte)を増築して建築構造を補強する必要があったであろう(図 4参照)。この経緯を考えると、21号建築がヤシュチランでも最も増改築が繰り返された建物だった(García Moll 

    写真 10.石碑 11(Maler 1903) 図 16.リンテル 8(CMHI:3:27)

  • 金子 明

    ─ 16 ─

    2003:59)理由を説明できる。そして 5号墓とリンテル 16の関係で最も重要な点は、政敵を捕えた図柄のリンテル 16を母が

    葬られた 21号建築の中央口に新たに設置した理由が、ヤシュチランの後継者争いの渦中で息子の行く末を案じながら亡くなった泉下の母に、鳥ジャガーが自らの勝利を報告するのが目的だったと考えられる点にある。5号墓の上の大型の燧石のナイフは、鳥ジャガー自身の手により母イック頭蓋骨妃の埋葬時に蓋石の上に立てられたと考えられ、中央入口の上にリンテル 16を設置する際にも、墓の蓋の上のナイフが上を指向していることは、政敵の怨霊を防ぐために重要な意味を持っていたと推測できる。

    6-3 21号建築の彩色漆喰レリーフの人物1983年に発見された 21号建築の壁の彩色漆喰レリーフに描かれた 5人の人物像は、2人の男性と 3人の女性であることまではわかっている(García Moll 2003:58-59, 165)。このレリーフには人物名を特定できる文字は残っていないが、21号建築内の石碑 35が鳥ジャガーの母イック頭蓋骨妃である点を考慮すると、この 5人の人物を特定することはさほど難しいことではない。中央の男性は鳥ジャガー自身、向かって右側の男性は息子の盾ジャガー二世で、その横の女性は盾ジャガー二世の母である正妻の大頭蓋骨后、左側の 2人の女性は第 2、第 3夫人のモトゥール・デ・サン・ホセ(Motul de San José, Ik イック妃)の女性とジャガー夫人(Señora Jaguar, Ixイッシュ妃)と考えるのが妥当であろう(図 17)。彩色漆喰レリーフが鳥ジャガーの家庭生活を表現し、石碑 35に母イック頭蓋骨妃が顕彰され且つ 5号墓に埋葬されている点から、21号建築は鳥ジャガーにとって極めてプライベートな空間で

    図 17.漆喰人物像(作図 Daniel Juárez Cossío)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 17 ─

    あり、古代マヤ社会で死者が生前に住んでいた家の床下に葬られる葬制の習慣があった点(Ruz 1968: 76, 152-3; Landa 1973:59)を想起すると 15)、21号建築は幼少の鳥ジャガーが母イック頭蓋骨妃と住み育った家だったとも考えられる。

    6-4 婚姻同盟(Alianza matrimonial)とリンテルの配置鳥ジャガーの治世の記念碑の特徴は、后、妃、副将、息子などの同伴者が多々現れることである。これは鳥ジャガーが権力の座に就くにあたり、婚姻同盟や協力者が欠かせかった経緯に求められ、鳥ジャガーは細心の注意を払って協力者の姿をヤシュチランの記念碑に含めている。21号建築の東西の入口のリンテル 15(東入口) のモトゥール ・ デ ・ サン・ホセ(Ik イック妃)の女性とリンテル 17(西入口)にジャガー夫人(Ixイッシュ妃)が表されているのは前述したが、この鳥ジャガーの二人の妃は 1、16、42号建築の両側の入口のリンテルにも、向かって右に Ixイッシュ妃、左に Ik イック妃と決まった配置で描かれている(図 18)。一方、後継者の母である正妻大頭蓋骨后は、両妃が配された建築のリンテルには全く登場せず、鳥ジャガーの最大の建築 33号のリンテル 1(図 19)において特別に扱ったうえで、5歳の息子を 33号建築のリンテル 2に描くことで自分の後継者であることを明確に宣言している。これらのリンテルの配置は、鳥ジャガーの 3人の配偶者の間に序列があり、正式の后と 2人の妃を明確に区別して扱ったうえで、我が子に自分が体験した王統の乱れを繰り返させない配慮が感じられる。正妻である大頭蓋骨后の兄弟および 2人の妃の父親すなわち舅達の政治的支援は、鳥ジャガーがヤシュチラン王朝の権力を奪取する過

    図 18.2人の妃のリンテルの配置図(CMHIの 12のリンテルの図版を組み合わせて著者作成)

    図 19.リンテル 1(CMHI 3:13)

  • 金子 明

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    程および治世に不可欠だったと考えられる。大頭蓋骨后とその親族を別格扱いしつつも 2人の妃を平等にあつかうことで、やはりその親族への配慮を示しながら政治権力の均衡を図ったことがうかがえる。

    7 結論

    マヤ王朝の歴史は祭儀や天文学に支配されたエキゾチックで神秘的な観点からではなく、古今東西の歴史と同様に幾多の王や戦士が織りなす人間の視点から描かれるべきだと説いたリンダ・シーリー(Linda Schele)は『王者の密林(A Forest of Kings)』を著わして、ヤシュチラン王朝の王位空白期間の鳥ジャガーの活動を歴史物語風に生き生きと活写した(1992:19, 262-305)。シーリーを師としたメキシコでのマヤ文字研究のパイオニアであるメキシコ国立自治大学(UNAM)マヤ研究センター(Centro de Estudios Mayas)のマリセラ・アヤラ(Maricera Ayala)博士は「マヤ碑文の解読に際しては行間に秘められた意味を読み取る必要がある」と説いて倦まなかった。二人のマヤ文字解読の先学の教えに従って、盾ジャガー在世中はショク后の陰になりつつ庶子の鳥ジャガーを育てた母イック頭蓋骨妃を多くの記念碑に刻んだ鳥ジャガー親子を軸にして、西暦742-752 年のヤシュチランの王位空白期間の出来事を鳥ジャガーの視点から再構成してみたい。

    60年余りの長きにわたり盾ジャガー王が君臨した、正妻ショク后の影響が強かったヤシュチラン王朝で、イック頭蓋骨妃の庶子として育った未来の鳥ジャガーは大頭蓋骨后と結婚して、その一族の支持と援護を受けるようになった。父である盾ジャガーが 742年に亡くなったヤシュチラン王朝では、盾ジャガー一世の正妻ショク后の係累である正統な後継者を推戴するグループと、近い将来に鳥ジャガー四世ないし鳥ジャガー大王となるイック頭蓋骨妃の庶子を王座に推すグループの間で激しい権力闘争が展開された。鳥ジャガーが球技や放血などの一連の儀式を行って将来の王位継承への布石を打ちつつあったなか、749年 4月 3日に盾ジャガー王の正妻ショク后が亡くなり、23号建築の西側の部屋の床下の 2号墓に豪華な副葬品とともに葬られた。その後、鳥ジャガーはウスマシンタ川の下流の都市ピエドラス・ネグラスの 4代目の王の統治 20年を祝う儀式にヤシュチランを代表して参列した。ショク后の死後から 2年たった 751年 3月 13日、鳥ジャガーの母親イック頭蓋骨妃が、ヤシュチランの後継者争いの渦中にある息子の行く末を案じながら死去した。正妻ショク后の陰になりながら、庶子として生まれた鳥ジャガーを育ててくれた母イック頭蓋骨妃を、おそらく生前から住んでいたであろう 21号建築の 5号墓に葬った鳥ジャガーは、墓の蓋石に大量の黒曜石の破片と燧石の大きなナイフを垂直に立てて亡き母に危害を加えようとする者から守ろうとした。西暦 752 年初頭のマヤ暦の周期完了 9.16.0.0.0.の儀式を執り行って権威を高めつつあった鳥ジャガーは、752年 2月 10日に正妻ショク后の係累で盾ジャガー一世の孫ないし曾孫にあたる政敵「逆さポット」を捕縛した。この政敵への勝利に続いて、正妻の大頭蓋骨后に将来は盾ジャガー二世となる正嫡の息子が生まれた。かくして盾ジャガー王とイック頭蓋骨妃の間に生まれた庶子は、マヤ長期暦 9.16.1.0.0 Ahau Tzec(752 年 4月 29日)に「鳥ジャガー四世」としてヤシュチランの王座に就き、その即位は石碑 11、12、リンテル 1、30などの多くの碑文に記録され、後世に「鳥ジャガー大王」と称される輝かしい治世が始まる。しかしながら、それまで正妻ショク后の係累を後継者として推しながら権力闘争に敗れたヤ

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 19 ─

    シュチラン王朝内の反対勢力から見れば、新しく王座に就いた鳥ジャガーは「王位の簒奪者」以外の何者でもなく、新政権の発足時から王位継承の正統性への疑念は鳥ジャガーの権力基盤を揺るがす大問題であった。鳥ジャガーは父王から継承した王位の正統性を正当化するために、自分自身は勿論のこと、父の治世下で正妻ショク后の陰になっていた生母イック頭蓋骨妃をショク后と対等の存在とすべく、多くの記念碑に繰り返し記録した。この新王権の正統性の自己正当化をはかる大規模な政治プロパガンダは、統治者自身のみならず生母と配偶者を含む家族に及び、鳥ジャガー大王の治世の特徴の 1つになっている。例えば石碑 11では、前面に盾ジャガーから指揮 を受け取る歴史的には起こらなかった儀式を描いて正統な王位継承が行われたとするプロパガンダを行う一方(写真 2参照)、裏面では 3人の捕虜を捕らえた鳥ジャガーを、石碑の上部で盾ジャガーとイック頭蓋骨妃が対話しながら見守るシーンを描いて生母を正妻であったかのように記録している(写真 12参照)。本来は盾ジャガーの側妻だったイック頭蓋骨妃を盾ジャガーの正妻であるかのように正当化する鳥ジャガーの意図は、基本的には継承した王権の正統性を認知させる政治的なものだが、同時に、ショク后が大きな力を持っていた盾ジャガー治世下のヤシュチラン王朝内で、庶子である自分を守り育ててくれた母親への思慕と愛情のなせる業ではなかったろうか。鳥ジャガーが正式に王座に就いた後も、政敵「逆さポット」の捕縛はヤシュチラン王朝内で表立って公に表現するのは憚れる事件だったからこそ、未だ王朝内に残る政敵の支持者を刺激して挑発するのを避ける為に、鳥ジャガーは「逆さポットを捕えた者」という称号は生涯を通じて使わなかった。この状況の中で、王座についた鳥ジャガーが政敵を捕えた勝利を伝えたかった唯一の相手は、未だ決着のつかないヤシュチラン王朝の王位継承の渦中の息子の運命を気遣いながら亡くなり、21号建築の 5号墓に自ら葬った母親であったであろう。それ故に、鳥ジャガーは政敵を捕まえたシーンを描いた唯一のモニュメントであるリンテル 16を製作させて、5号墓に眠る母へのメッセージを伝えるために 21号建築の中央の入口に設置させたのである。記念碑の言説は、単に図柄や碑文テキストの内容によってのみ表現されるものではなく、モニュメントが置かれる場所にも非常に重要な意味がある。鳥ジャガーから母親へのメッセージは「親愛なる母上。もう心配しないで下さい。政敵『逆さポット』を倒して、ヤシュチランの王になることができました。安らかにお眠りください」といった内容であったに違いない。21号建築に残る彩色漆喰レリーフが鳥ジャガーの家族を描いたものだとすれば、この建築は母イック頭蓋骨の祠であると同時に鳥ジャガーの「プライベートな空間」だったと考えられる。このように考古学、銘辞学のマヤ文字解読に基づく王朝史、美術のデータを総合することにより、初めて 21号建築が鳥ジャガーの治世に持つ意味が明瞭に解釈できるとともに、鳥ジャガーの称号に「逆さポットを捕らえた者」という戦士の称号が欠如している原因、リンテル 16がイック頭蓋骨の 5号墓のある 21号建築の中央入口に設置された理由、墓の上に垂直に立つ燧石のナイフの問題を、「リンテル 16の捕虜は鳥ジャガーの政敵」という仮説により矛盾なく説明できることから、この仮説が正しいものであると結論づけられる。

    おわりに

    本稿では考古学、銘辞学、美術を統合する方法で鳥ジャガーの政敵に関して検討してきたが、

  • 金子 明

    ─ 20 ─

    冒頭に述べたように、統治者すなわち王の名前や称号の『読み方』を提唱する新マヤ文字銘辞学の方法論は採用しなかった。その理由は、新マヤ銘辞学の音節にチョル語をあてはめる読解法への疑問 16)、グアテマラ考古学民族学博物館所蔵のカカオ・ポットにまつわる疑念 17)、及び、新マヤ文字解読法が流行するにつれて欧米の古美術市場に大量に出回り始めた出自不明の彩色杯を「マヤ研究」資料 18)として利用する現在のマヤ銘辞学が、方法論と史料批判の両面で看過しえない問題を含んでいると考えるからである。現在のマヤ銘辞学に関する問題は稿を改めて論ずるつもりだが、「偽物を研究に使わない」という至極当然の一般常識に基づかない専門知識は無意味だと肝に銘じつつ、今後も発掘調査で発掘された考古資料に基づくヤシュチランの研究を続けていくつもりである。

    1) この王の名前は英語では Bird Jaguar IV, Bird Jaguar the Great, Yaxum Balam IV(Martin y Grube2000)、スペイン語では Pájaro Jaguar IV, Pájaro Jaguar el Grande (Mathews 1997)と表記される。王朝の系譜では、それ以前に同名の王が 3人いるとされるので鳥ジャガー四世と呼ばれるのが普通だが、12号建築の一連のリンテルに記録された初期王朝の系譜で 3代目と 8代目にあたる同名すなわち鳥ジャガーの文字で表される王達が実在したかどうか確認できないことと、ヤシュチランに隆盛をもたらした歴史的に実在した鳥ジャガーの尊称として「大王」という名称を使う。文中でも記したように本稿では単に鳥ジャガーとするが、実はこれも即位した後に名乗ったものであり、幼名や即位前の名前は不明なので、即位前でも鳥ジャガーと呼ぶことにする。

    2) リンテル(Lintel)は、建物の入口の上にはり渡された硬いチコサポーテ(Chicozapote)の木や石の梁を意味する建築用語で、スペイン語ではディンテル(Dintel)だが、本稿では英語読みのままリンテルとする。

    3) ヤシュチラン遺跡の概要と調査略史は、Graham y Euw 1977、García Moll et al. 1990、金子 2015を参照されたい。

    4) ヤシュチランでは 35の石碑、57のリンテル、14の祭壇、2つの玉座、6つの神聖文字階段が見つかっている。ヤシュチランのモニュメントの特徴は、建物の入口の上にかかるリンテルと呼ばれる梁石の前面ないし下面に浮彫りが施されている点である。リンテルに浮彫りをする例はウスマシンタ地域のボナンパック (Bonampak)やピエドラス・ネグラス (Piedras Negras)、そしてユカタン半島の幾つかの遺跡に見られるが、浮彫りされたリンテルの数でヤシュチランに及ぶマヤ遺跡はない。

    5) 本稿では統治者の配偶者として「后」を正室・本妻・正妻ないし第 1夫人、「妃」を側室ないし第 2、第 3夫人という意味で使うことにする。

    6) ヤシュチラン遺跡の最南端の最も高い位置にある南アクロポリスの 40号建築の前に立っていた石碑 11(写真 10参照)は、1964年にメキシコ市のチャプルテペック公園に国立人類学博物館が建設された際に、現在マヤ室に展示されている他のリンテル・石碑と一緒に遺跡から運び出された。しかし、石碑 11は重すぎてセスナ機では運べないまま上流に放置され、1965年に再びヤシュチラン遺跡へ戻されたが、原位置まで運び上げるのは無理だったので、大広場の東端の 5号建築の横に雨水による浸食から守る屋根に保護された状態で現在に至っている。

    7) これまで、主要建築の床下から 6基の墓が見つかっており(García Moll 2003)、最も豊富な副葬品をともなう 2号墓は、1980年に 23号建築の西側の部屋の床下から発見された。なお、2号墓

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 21 ─

    の被葬者を盾ジャガーだと解釈する異論があることを付け加えておく(García Moll 2004)。8) 考古学、歴史文献、銘辞学、美術などを総合的に研究する方法論は、故大井邦明先生から教わっ

    た角田文衛先生の『古代学序説』(1991)と『古代学の展開』(2005)から多くの示唆を受けた。9) 角田文衛は銘辞の概念を「自己を記念的に表現しようとする当事者が、その目的を意識した物に、

    それと不可分の内面的関係を前提として記した文詞」と定義して、「銘辞が一般文献と異なる所以は、それが物や所と融即している点であり、銘辞を物や所から取り剥がして考察することは、全き理解を得る途ではないのである」とモニュメントが置かれた場所に大きな意味があると説いている(角田 2005:164-165,169)。

    10) 図像学が美術作品に表された外形の各部の事物の意味や由来を研究するのに対して、美術史家エルヴィン・パノフスキー(Erwin Panofsky 1892-1968)が創始した図像解釈学 (Iconología)は作品全体の主題と意味を取り扱って、図像を生み出した社会や文化全体と関連づけて歴史意識、精神、文化を研究する方法論である。

    11) ヤシュチランではリンテル 4、8、26、45、46, 41,石碑 18、20にも同じ装束が見られる(Kaneko 2009:76-77)。

    12) プロスコリアコフが「柔らかい盾」と呼んだ、柄のある太く長い綱に幾つもの結び目から紐が垂れる攻守兼用に使われた武器(Proskouriakoff 1950:89)。この武器はヤシュチランのリンテル 45では盾ジャガーが戦闘で敵を捕虜にする場面で槍先の下から垂れ下がり、リンテル 26ではショック后が持ち、リンテル 16では鳥ジャガーが左手に持っている。ボナンパックの壁画にも描かれているが、他の遺跡では見られないウスマシンタ流域の特有の武器として、槍やナイフ、そして防御用の胸当てと常に同伴している(Kaneko 2009:77-78; 金子 2015:32-33)。

    13) リンテル 16は、重量を減らすために浮彫り以外の部分を金鋸で切り取られて、1883 年にイギリスに運ばれて現在は大英博物館に収蔵されている。リンテルの寸法は高さ 78.8センチメートル、幅 76.2センチメートルで厚さ 7センチメートルで、浮彫り部分は幅 60センチメートル、 高さ 70 センチメートルで彫りの深さ 0.7 センチメートルである(Graham et al. 1977 3:41)。

    14) Alejandro Sheseña Hernández博士の教示による。彼はユーリー・クノゾロフ(Yuri Knórozov)の流れをくむ「ロシア学派」で マヤ銘辞学を学び、現在はチャパス州立大学(Universidad de Ciencias y Artes de Chiapas: UNICACHI)で教 をとっている。但し、その方法論は基本的には欧米の新マヤ文字読解法と同じである。

    15) 1976年の Proyecto Can Cunのエル・レイ(El Rey)遺跡では、建造物の床下から多くの埋葬が発見された。

    16) マヤ諸語の分布を顧みずに、全マヤ地域の碑文はチョル語であるとする新解読法に対して、筆者はマヤ文字がユカテコ、チョル語のみならず各マヤ諸語の発音は違っても同じ意味をもつ文字として理解されていたと考えている。日本人と中国人が各母国語で話せば会話は成立しないが、筆談すれば意思疎通できるのと同じである。現今のマヤ学界で圧倒的多数を占める欧米露墨の研究者が音節の音価によるマヤ文字解読を支持する根底には、表意文字体系への無理解のみならず、表音文字体系が唯一の言語だった欧米の文化・歴史風土を背景にした西欧文化中心主義があると言わざるを得ない。

    17) 現在の音節的な読解法は、グアテマラのリオ・アスール(Río Azul)遺跡の 19号墓から 1985年に出土した容器 15とされるカカオ・ポット(Adams 1999: 97-99, Plate 5)(写真 11)の側面に貼り付けられていた文字を、デービッド・スチュアート(David Stuart)が音節的にカカオ(Cacao)と読めると解釈してから大々的に始まったのが発端だが(Stuart 1988)、この容器には多くの疑惑がつきまとっている。1985年に筆者が大阪の国立民族学博物館の八杉佳穂助手(当時)と資料収集のために訪れたグアテマラで、児島英雄氏とともにグアテマラ考古学民族学博物館の館員

  • 金子 明

    ─ 22 ─

    に招かれた地下の倉庫に、リオ・アスールのカカオ・ポットと形状と寸法が全く同じ 1ダース以上の素地の土器が民芸市場に出まわっていたものを同館が買い求めて収蔵していた事実がある。この容器は、蓋の内側の突起が壷口の側面に L状に掘られた溝に嵌まって回転して閉まり、壺を持ち歩ける形状(写真 12)となっている。マヤ・メソアメリカのみならず世界の古代文明を見渡しても、このような形状の土器は存在しないので、古代マヤ人の手になるものではなく現代の職人が作ったと推測される。筆者はグアテマラの友人・研究者 に再三にわたり非破壊的な分析方法で真贋を明らかにするよう薦めているが、現在まで検証は行われていない。将来、新マヤ文字解読法の基礎となったカカオ・ポットの正体が判明するのを待ちたい。

    18) 新マヤ銘辞学者は、出自不明の大量の彩色土器を集成した写真カタログ の発行者 Kerr(カール)の頭文字 Kという番号をふった彩色杯(Kerr 1987-1997)を、あたかも本物であるのが証明されたかのごとく、資料・史料批判の手続きを踏まずに碑文研究や美術史の研究対象として扱っている。

    参考文献

    金子 明2015 「マヤ古典期の戦争」、『京都ラテンアメリカ研究所紀要』、第 15号、pp.23-50.

    角田文衛1991 『古代学序説』、山川出版社2005 「銘辞学の方法論」、『古代学の展開』山川出版社 pp.154-174.

    Adams, Richard E. W.

    1999 Río Azul. An Ancient Maya City. University of Oklahoma Press, Norman.

    Fierro, Rafael

    2019 El consumo de cerámica entre la elite de Yaxchilán durante el Clásico Tardío. Consideraciones a

    partir de la colección de contextos funerarios y ofrendas. INAH, Secretaria de Cultura, México.

    写真 11.カカオ・ポット(Adams 1999; Plate 5)

    写真 12.蓋の内側の突起と壺口の溝(Bruni 2009:213)

  • ヤシュチランの鳥ジャガー大王の政敵

    ─ 23 ─

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  • メキシコにおける「慣習」による先住民行政区選挙

    ─ 25 ─

    〈論  文〉メキシコにおける「慣習」による先住民行政区選挙

    小 林 致 広*

    はじめに

    ニカラグア、コスタリカ、パナマ、コロンビア、ブラジル、エクアドル、ボリビア、ペルーなどでは、先住民領域での行政権の限定的行使は認められている。先住民領域の法的認知がないメキシコでも、先住民族の内的規範体系に基づき行政区当局を選出することは可能となっている。その契機となったのは、1994年初頭にチアパス州で武装蜂起したサパティスタ民族解放軍(EZLN)と連邦政府との間のサンアンドレス対話で「先住民の権利と文化」が取り上げられたことである。サンアンドレス対話が継続していた 1995年、オアハカ州法が改正され、慣わしと慣習(usos y costumbres)による選挙(以下、慣習選挙)で行政区政府(ayuntamiento)の選出が可能となった。

    キーワード慣習選挙(elección por usos y costumbres)、先住民行政区(municipio indígena)、共同体的議会(concejo comunitario)、共同体集会(asamblea comunitaria)、実質的自治(autonomía de hecho)

    Resumen

    En la última década, Cherán en Michoacán, Ayutla en Guerrero y Oxchuc en Chiapas,

    han conquistado el derecho a elegir a sus autoridades por “usos y costumbres”, mientras que los 418 municipios oaxaqueños se han regido por “usos y costumbres” desde el año 1998. A pesar de la considerable oposición del Estado, estos tres municipios indígenas han

    luchado con éxito por su derecho a implementar sus sistemas legales propios, superando

    la inseguridad y la descomposición social. No hay un solo tipo de organización política

    indígena por “usos y costumbres”. Los municipios oaxaqueños tienen unos sistemas mixtos, en los que conviven la asamblea comunitaria y la presidencia municipal. Cherán

    constituyó un “Concejo Mayor de Gobierno Comunitario”, y Ayutla se dio la figura de un “Concejo Municipal Comunitario” compuesto por tres grupos étnicos, sustituyendo al ayuntamiento del municipio libre. Pero Oxchuc no tomó esta forma concejil de gobierno

    indígena por la falta de certidumbre jurídica, y mantiene el ayuntamiento “tradicional” sin participación de partidos. Estos tres municipios indígenas comparten de la premisa de

    “autonomía de derecho”, o ser reconocidos por el Estado mexicano, y pueden acceder al presupuesto municipal de manera directa.

    * 神戸市外国語大学名誉教授・京都大学名誉教授

  • 小林 致広

    ─ 26 ─

    1998年以降、オアハカ州内の約 500行政区のうち 418行政区で慣習選挙が行われてきた(Hernández-Díaz y Juan Martínez 2007:78-85)。しかし、2010年代に入るまで、オアハカ州以外では行政区の慣習選挙が実現することはなかった。2012年の行政区選挙では、複数の州で行政区における慣習選挙が追求されたが、実現したのはミチョアカン州の先住民族プレペチャが居住するチェランだけである。チェランの共同体統治行政区議会は、2014年に最高裁において正式な行政区政府として認知され、2015・2018年にも同じ手続きで共同体統治行政区議会が組織された。2015年にもいくつかの州で慣習選挙を要求する運動があったが、慣習選挙を実施できた行政区はなかった。しかし 2018年の行政区選挙では、ゲレロ州アユトラで慣習選挙によって選出された共同体的行政区議会が成立することになった。また、深刻な内部対立のため同年の行政区選挙が中止となったチアパス州オシュチュックでは、2019年 4月に実施された慣習選挙によって行政区役職者が選出された。本報告では、2019年時点で慣習選挙によって行政区権威者が選出されているミチョアカン州

    チェラン、ゲレロ州アユトラ、チアパス州オシュチュックの 3事例を取り上げ、慣習選挙が実施されるに至った経緯、慣習選挙の運営、行政区政府の実態などについて解明していく。その目的は、先住民行政区における慣習選挙を先住民族の自決・自治権行使の一様態として議論することの妥当性を検討するためである。分析対象の 3事例とオアハカ州北部山地地域のカプラルパムの諸データを比較した表 1からも明らかなように、メキシコ国内の先住民行政区は極めて細分・分散化された共同体で構成され、その「慣わしや慣習」は一様ではない。しかも、先住民言語集団の境界と先住民共同体のアイデンティティの境界が異なることも少なくない。先住民行政区内の複雑多岐な利害関係を実質的に反映する代表選出制度が、慣習選挙による行政区権威者の選出であるとみなすことはできない(Sonnleitner 2013:98)。慣習選挙が実施されているオアハカ州北部山地地域の行政区の人口規模は300人前後から 1.5万人と大きな差があり、ひとまとめに論じることはできない。オアハカ州での慣習選挙の導入は、行政区全体の政治参加の推進でなく、権威主義的な行政区支配をより強化しているとされ(Benton 2016)、行政区予算分配をめぐる紛争が以前より増えたことも指摘されている(Eisenstadt y Rios 2014)。つまり、先住民行政区における慣習選挙の実施を先住民の自決・自治権行使の一環として位置づけようとする議論にはかなりの無理がある。本稿で分析する 3行政区は、2017・18年と 2年連続して開催された「先住民自決権をめぐる全国集会(Encuentro Nacional por la Libre Determinación de los Pueblos)」の中核的な参加者である。いずれの集会においても、先住民自決権行使の参照すべきモデル事例としては、激しい抵抗運動の末に先住民の自決・自治権行使を勝ち取ったチェランの事例が評価されていた(Aragón Andrade 2018)。しかし、チェランの事例をメキシコの先住民行政区における自治的運営の標準モデルとして位置づけることはできない。2回の全国集会に参加し、2018年、2019年に慣習選挙が実施されることになったアユトラやオシュチュックの事例について検討し、慣習選挙に基づく行政区運営の実態を明らかにし、チェランの事例と比較する作業を行う必要がある。そうした作業を通じて、先住民行政区における慣習選挙という国家に「認知された自治」の実態を解明し、それが抱える問題点を明らかにしなければならない。オアハカ州の事例から容易に推測できることだが、行政区における先住民自決・自治権の行使が、上級政府機関の予算や開発計画資金の行政区政府による自主管理・運営レベルに限定される傾向は、アユトラやオシュチュッ

  • メキシコにおける「慣習」による先住民行政区選挙

    ─ 27 ─

    クでも容易に看取できる。

    1 ミチョアカン州チェランの共同体統治審議会

    チェラン行政区は主邑チェランとテネンシア(Tenencia)のタナコという 2つの共同体で構成される。行政区で 3番目の人口のカシミロ・レコ農場は名目的には主邑の第 1バリオに属する。1861年設定の行政区界と二つの共同体の境界が一致しないため、境界紛争は現在まで続いている。チェランはミチョアカン州プレペチャ高原地域(11行政区)に属し、高原地域 8行政区には先住民族プレペチャが多数居住する。地域の中心都市ウルアパンを除く 7行政区の人口は 1.5~ 4万人で、先住民自己規定率は 8割超だが、3歳以上の母語話者率は 7~ 57%とかなりの差がある。チェランの母語話者率は 22%と高くないが、先住民自己規定率は 95%弱でもっとも高い(INEGI 2018)。その背景には 2011年 4月以降に展開された自治実践の歴史がある。

    1ー1 行政区政府をめぐる政党内紛争1980年代前半までのチェランは、伝統的カシケ層、行政区政府を掌握する主流派、若手専門職・

    地図 1 チェラン行政区とチェラン共同体

    表 1 慣習選挙実施の 3行政区とオアハカ州行政区との比較行政区 人口 面積㎞ ² 超千人/

    総集落先住民 母語 先住民 開始 任期

    チェラン 19,082 223 2/ 3 95% 22% プレペチャ 2012 3年アユトラ 69,716 1,055 14/ 140 54% 41% ミシュテカ、トラパネカ 2018 3年オシュチュック 48,126 417 8/ 115 98% 98% ツェルタル 2019 3年カプラルパム 1,549 19 1/ 5 90% 8% サポテカ 1998 1.5年出典:INEGI 2016、統計数値は 2015年時点、先住民は自己規定。

  • 小林 致広

    ─ 28 ─

    教師層という世代差は見られたものの、全員が制度的革命党(PRI)という時代だった。投票率は 10%前後だが、PRI支持票はつねに 8割を超えていた。しかし、1988年の大統領選挙の不正に抗議する若手専門職・教師層は、PRI派首長や共同体財産管理委員会(Comisariado de Bienes Comunales, CBC)の役職者を追放し、医師ムニョス・エストラダを「民衆の首長」として担ぎ出した(García Calderas 2016:92-94)。翌年の行政区選挙では、結成間もない民主革命党(PRD)の候補として擁立されたムニョスは得票率 68.5%で圧勝した。それから 2007年まで、PRD派候補は 50%以上の得票率で PRI候補を退け当選し続けた(IEM 2012a)。しかし、行政区政府、CBC、製材業利権などをめぐり、PRD支持者の内部で教師層を基盤とするフアレス・ウルビナ(1993~96年首長)派と非フアレス派の覇権争いが展開した 1)。2007年の行政区選挙で、社会民主代替党(PAS)から出馬したフアレスは、タナコ地区の支持を受けたPRI候補に僅差で敗北することになった 2)。首長に就任したロベルト・バウティスタはタナコ地区で教員を務めた人物で、シンディコにはタナコ地区出身者が割り当てられた。PRI派首長による 4年間統治(2008~11年)は、「悪の領主国(señorío de malos)」の時代とされる(Gabriel Ruiz 2015:11)。PRI派首長がまず着手したのは行政区警察要員を行政区外部のメンバーで固めることだった。それと相前後して、違法伐採、家畜泥棒や自動車泥棒、教育施設での麻薬売買が横行し、行政区警察が関与した殺人事件も発生するようになった。

    4月初め、フアレス支持派が役場を占拠したため、PRI派首長は行政区警察に護られ文化会館で業務を行うようになった。5月 8日にフアレスが殺害されるという事件が起き、行政区政府の実務はフアレス派の J・ヘンベが就任していた CBCが代行するようになった。しかし、2010年 4月の親族殺害を機にヘンベ一家はチェランから脱出し、行政区は無政府状態となった。住民の共同体政治に対する無関心が醸成され、ナルコ関係者の浸透や違法伐採の歯止めは完全に失われた。長期利用が可能で実質的には家族単位の所有となっていたチェラン共同体の森林では、伝統的な松脂採取は減少し、木材伐採が急増していた(García Calderas 2016:94; Román Burgos 2014:89-90)。2008年になると、主邑に北接するサンミゲルの丘でも伐採は堂々と行われだし、高額報酬に惹かれたチェランの若年層や隣接行政区の住民が伐採に携わっていた 3)。森林法で伐採可能となる「死んだ木」に見せかけるための意図的な火入れも横行した。2008年末には、伐採現場や車両の移動に重武装の人員が付き添い始め、暴力を怖れて住民は山林に立ち入らなくなった。「悪の領主国」はチェランの街中でも存在を誇示しだした。2011年の春には、「毎日、2・300台の車が山から下り」、街中を公然と通過しだした(Velázquez Guerrero 2013:93)。「悪の領主国」の期間、共同体の森林約 1.6万 haの 3分の 1に相当する 0.6万 ha弱が伐採され(Gabriel Ruiz 2015:148)、共同体成員 15名が殺害されたという(García Calderas 2016:197)。事態が大きく変わるのは 2011年 4月 15日である。早朝、バリオ 3地区の 10名余りの女性は住民と協力して、違法伐採者を拘束した。武装集団の襲撃に備え、主要出入り口にバリケードが設置され、違法伐採車両の監視が始まった。フォガタ(fogata)と呼ばれる監視所が設営され、監視人員への食事提供も行われた。同日発足の運動全般調整委員会は、各バリオから 3名ずつ選ばれた代表 12名で構成された。違法伐採阻止、治安改善、犯罪処罰の方針が掲げられ、諸問題に対応する委員会が組織されることになった。5月になると共同体見回り活動(ronda comunitaria)の輪番制が確立し 4)、フォガタは住民が集い議論する政治空間として機能するようになった 5)。

  • メキシコにおける「慣習」による先住民行政区選挙

    ─ 29 ─

    1ー2 慣習選挙による共同体統治議会の発足PRI派首長の逃亡で行政区政府が不在となったチェランでは、自主的統治に向けた取り組みが

    展開されるようになった。6月 1日の住民総会で、従来の政党選挙ではなく慣習選挙で行政区役職者を選ぶ方針が採択され、書面で州選挙庁(IEM)に提出された。またメトロポリタン大学(UAM)と国立自治大学(UNAM)の専門家から意見を聴取し、慣習選挙による当局選出という先住民自治権行使は憲法違反でないことを確認していた。8月 24日、先住民共同体として当局選出の自己決定権の尊重を求める署名 1,942筆と 217名の名前が記された申請書が IEMに提出された。申請の冒頭には、「1540年、副王がプレペチャ民族に認めた権原」に基づいた先住民共同体という資格に基づいていると記されていた。8月末、住民集会を踏まえた同趣旨の 470の署名と 46名の名前が記された請願書がバリオ 2からも提出された(IEM 2012b:199-200)。

    IEMの無対応に対して、チェラン住民は慣習選挙の可能性に関して連邦選挙裁判所(TEPJF)に裁定を仰ぐことになった。2011年 11月 2日、TEPJFは住民の希望する慣習選挙の実施にむけて住民協議を実施すべきという裁定を下した。この裁定を受けた IEMは、12月 18日にチェランの 4バリオとタナコで慣習選挙に関する住民集会を開催した。その結果、チェランの 4バリオでは 4,845名が賛成、タナコでは 498名反対という結果になった。これを受け、2012年 1月 22日、チェランの 4バリオの住民が参加する慣習選挙が実施されることになった。

    2011年段階で 11,515人だった 4バリオの選挙人のうち、1月の慣習選挙参加者は 3,456人(参加率 30%)だった。バリオ 1・2では 2名辞退のため 3名、バリオ 3では 1名辞退と 1名欠席により 4名、バリオ 4では 5名の候補者から、委員 3名が選ばれることになった。選出された 12名の委員で、共同体的統治議会(Concejo Mayor de Gobierno Comunal, CMGC)が構成され、そこから首長、経理、監査、事務長に相当する役職者が選出された。最高得票者の首長就任という慣習に基づき、第 1期の首長には最高得票のエクトル・ドゥラン(バリオ 3)が就任し、残りの役職はバリオ 1・3から選出された委員の互選となった 6)。2014年 5月、最高裁はチェランのCMGCを正式の行政区政府として認知した。それ以降 3期にわたって、慣習選挙によって CMGCが組織されてきた(表 2)。一方、第 1期には約 3.5千人だった慣習選挙の参加者は、第 2期には約 4千人まで増加したが、第 3期には約3千人に減少した。その背景として、バリオ 1・3・4では事前に候補者が 3人に絞られ信任投票になったことや、政党支持者の不参加などが挙げられる。第 1期にはバリオ 2から 1名の女性が立候補当選したが、女性候補者は徐々に増え、第 2期以降はバリオ 2・3・4からは 1名の女性CMGC委員が選ばれている。バリオ 1の場合、第 2期には 3名、第 3期には 4名の女性候補者がいたが、男性候補の前に敗北・辞退している。第 3期のバリオ 2の場合、3位は 142票のレイナルド・ドゥラン(RDV)、4位は 142票のパトリシア・エルナンデス(PHP)だった。しかしバリオ集会では、前者が PRI関係者であること、ならびに男女対等の原則に基づき、食堂労働者パトリシアが CMGC委員に指名された(El Despertar 2018年 6月 6日)。慣習選挙の方式は基本的には大きく変わっていない。慣習選挙の投票権は 18歳以上とされ、バ

    リオ住民の認知があれば選挙登録証は不要で、支持候補者の前に整列する形で投票する。一方、立候補資格はチェラン出身で犯罪歴のない 21歳以上とされているが、実際は共同体で経験を積んだ 45歳以上が望ましいとされる。公務員(連邦、行政区)経歴や軍人経歴を持つ人物、政党に所属者、宗教組織役員などは不適格で、時間の一部しか責務に就けない人物(主に教師)は避ける

  • 小林 致広

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    表 2 3期にわたるチェランの CMGC代表選出バリオ 1期:2012年 2期:2015年 3期:2018年

    B1当選者 STS240, TEA164, SEA81 MLH281, AMJ82, AMH78 MBH416, CRH123, ESG111

    辞退:JAP, MBH ELD41, FLG25, ARP24, CDR16 辞退 :女性 4名有効 /総数 485/ 521 547/ 747 650/ 650

    B2当選者 JSR392, GFS228, TNP184 PCS 451, SCG242, MDSG236 SAG343, [SCS]259, PHP140

    辞退:PCS, LCE QTQ 186, MLTT157, 辞退 :JLS RDV142, MV90, LAL58有効 /総数 804/ 875 1,269/ 1,270 1,032/ 994

    B3当選者 HDJ437, TRT226, ADV158 ESM377, SBT261, SFT 230 JMRP303, SCR291, ASJ109

    ESM125, 辞:JR, 欠 :STT有効 /総数 946/ 987 868/ 1,077 703/ 753

    B4当選者 [JGTC]306, FFH160, GBC147 VHCS298, BNE267, MERH187 IHD240, CRH183, ARS144

    MRR133, EMD28

    有効 /総数 746/ 1,072 752/ 992 567/ 652有効/総数 2,981/ 3,456 3,436/ 4,086 2,954/ 3,049

    HDJ:首長就任、GFS:女性、[JGTC]:首長経験者、MBH:立候補辞退経験者で当選出典:IEM 2012c, 2015, 2018

    最高決定機関 行政機関 個別実務審議会 委員 共同体財産管理審議会共同体総会 CMGC 訴訟・監視・司法調停 4 代表審議会 4名

    共同体経理

    共同体財産管理審議会

    4 事務局 会計、書記委員会 委員 技師 専門職

    主要実務審議会

    地区行政 4バリオ調整 4 共同体問題 1名社会経済文化計画 4 監視 3名住民 4 鉱山(採石土) 3名 1 4女性 4 育苗事業 3名 1 14若者 4 製材事業 3名 1 6

    図 1 チェランの共同体各種委員会の構造出典:García Calderas (2016:180, 191)

    写真1 チェラン・バリオ2の第3期CMGC選出集会の様子(出典:TV Cherán. 2018年6月8日) 体育館でのバリオ集会 SC (元首長)の前に並ぶ支持者 バリオ2の当選者

  • メキシコにおける「慣習」による先住民行政区選挙

    ─ 31 ─

    ことが望ましいとされる(Resillas 2015)7)。フォガタ毎に推薦された候補者がバリオ集会で意見表明を行い、ロンダ参加経験や互助精神を判断基準にして投票がされるという。CMGCは任期ごとの完全交替が原則で再選はない。CMGCや各種委員会の更迭も可能で、特定家族が役職を独占してはならないとされる。役職者や委員には一定の報酬が支払われている 8)。チェランの共同体統治では、共同体総会(asamblea de comunidad)が最高意思決定機関と位置付けられている(図 1)。統治執行組織としては、CMGC、共同体経理と主要運営理事会(Consejo Operativo Principal, COP)がある。現在、COP管轄下に 6つの特別審議会(共同体財産、バリオ、社会・経済・文化計画、訴訟・監視・司法裁定、民生、行政)と 2審議会(若者、女性)が組織され、各バリオから審議員 1名を選出する原則となっている 9)。各種委員会の審議員には業務内容にふさわしい経歴を有することが求められる。

    1ー3 CMGC統治の成果と課題約 8年の CMCG統治のもとで達成されたものはいくつかある。まず、林業活動の活性化を挙げることができる。共同体育苗事業をもとに約 2.7万 haが植林され、森林減少に歯止めがかかった。共同体による製材事業が組織され、2011年には 50名まで減少していた松脂採取従事者は、2017年には 500名まで復活した。従来からの違法伐採監視・見回り活動も継続し、森林保護を中心とした環境教育も推進されている。また、水資源確保のためにサンペドロ火山の火口跡に巨大な集水池が設置された。建築資材であるレンガ・ブロック製造事業などが組織化され、ごみの分別・資源リサイクルの組織化も進捗した。出稼ぎを念頭に英語への関心が高かった若い世代の間でも、現在では母語に関する関心も高まり、移民は減少傾向にあるという。また、武器・違法薬物携行などの一般犯罪は大きく減少している(Cherán Keri 2018)。バリオ間の人口規模の差が拡大し、人口規模と代議員数のバランスが崩れている問題がある。同時に、地区集会の活動にもばらつきが生じている。商業・行政区で人口減少が顕著なバリオ 1では