17
『フッサール研究』第 17 号(202070–86 70 社会的世界の間人格的構成 ――フッサールとシュッツ:再考―― 浜渦 辰二 (大阪大学) はじめに 「社会の現象学」とは何だろうか。社会(society, Gesellschaft)の中で起きる個々の 現象を、あるいは社会の中で存在するとみなされているものを記述することだろう か。それとも、社会の中で起きる現象の普遍的な「構造」や「根拠/成り立ち」、あ るいは「可能性の条件」を解明することだろうか。前者は、現象学的社会学ないし社 会的存在論と呼ばれるかも知れないし、後者は社会の超越論的現象学と呼ばれるか も知れない。フッサールによれば、前者は自然的態度にとどまるものであるのに対し て、後者は自然的態度を括弧に入れる(還元する)ことによって可能となるもので、 二つの課題は別々のものであり、はっきり区別されねばならない。そうは言いながら も、実は、両者は絡み合っており、一方なしには他方は完成されず、互いに補完的な 関係にあるのではないだろうか。筆者はかつて、晩年のフッサールに接したアルフレ ッド・シュッツが、自然的態度にとどまりながら現象学的心理学をやがては現象学的 社会学として展開しようとしたことは、フッサールからすれば超越論的現象学へと 至る有力な道として評価すべきことであっただろうと考え、両者の間に相互補完的 な関係を読み取ろうとした 1 そのことと連動しながら、「社会の現象学」としてもう一つ考慮したいのは、フッ 1. 本稿は、2019 3 16 日(土)関西大学にて行われたフッサール研究会のシンポジウ ム「「社会」の現象学の可能性」における提題を活字にしたものであるが、そもそも、これま で書いてきたものをもとにした発表であったため、旧稿「社会学と現象学の対話のために」(拙 著『可能性としてのフッサール現象学――他者とともに生きるために――』晃洋書房、 2018 3 月、第三部第四章)などを要約したところがある。

社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

『フッサール研究』第 17 号(2020)70–86

70

社会的世界の間人格的構成

――フッサールとシュッツ:再考――

浜渦 辰二

(大阪大学)

はじめに

「社会の現象学」とは何だろうか。社会(society, Gesellschaft)の中で起きる個々の

現象を、あるいは社会の中で存在するとみなされているものを記述することだろう

か。それとも、社会の中で起きる現象の普遍的な「構造」や「根拠/成り立ち」、あ

るいは「可能性の条件」を解明することだろうか。前者は、現象学的社会学ないし社

会的存在論と呼ばれるかも知れないし、後者は社会の超越論的現象学と呼ばれるか

も知れない。フッサールによれば、前者は自然的態度にとどまるものであるのに対し

て、後者は自然的態度を括弧に入れる(還元する)ことによって可能となるもので、

二つの課題は別々のものであり、はっきり区別されねばならない。そうは言いながら

も、実は、両者は絡み合っており、一方なしには他方は完成されず、互いに補完的な

関係にあるのではないだろうか。筆者はかつて、晩年のフッサールに接したアルフレ

ッド・シュッツが、自然的態度にとどまりながら現象学的心理学をやがては現象学的

社会学として展開しようとしたことは、フッサールからすれば超越論的現象学へと

至る有力な道として評価すべきことであっただろうと考え、両者の間に相互補完的

な関係を読み取ろうとした1。

そのことと連動しながら、「社会の現象学」としてもう一つ考慮したいのは、フッ

1. 本稿は、2019 年 3 月 16 日(土)関西大学にて行われたフッサール研究会のシンポジウ

ム「「社会」の現象学の可能性」における提題を活字にしたものであるが、そもそも、これま

で書いてきたものをもとにした発表であったため、旧稿「社会学と現象学の対話のために」(拙

著『可能性としてのフッサール現象学――他者とともに生きるために――』晃洋書房、2018 年

3 月、第三部第四章)などを要約したところがある。

Page 2: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

71

サールの間主観性の現象学のうちにその可能性を探ることである。フッサールにと

って間主観性の現象学とは、第一に、「他者経験(Fremderfahrung)」の問題、つまり

「我は他の我をどうやって経験しているのか」という問題であり、それは、経験的な

次元における他者経験への問いとなる。しかし、それとともに第二に、「間主観的構

成(intersubjektive Konstitution)」の問題、つまり「いかにして客観的世界が、他者経

験を通じた間主観的構成の相関者である」(Vgl. III/1, 354)、と言うことができるかと

いう問題であり、それは超越論的な次元に他者がどのように関わっているかという

問いとなる。特に後者の問題は、どのようにして社会が成立するのかということに関

わるものと考えることができる。これら二つのことが不可分のこととして論じられ

ているのが、フッサールにおける間主観性の現象学の特徴である。ここでも、二つの

問題は相互補完的に考えられていたように思われる。

小論では、以上二つの問題が交差するところで、かつて論じたシュッツとフッサー

ルの思想的関係を踏まえながら、フッサールのテキストに戻って二つの課題の相互

補完的関係を積極的なものとして捉えつつ、そこで展開された「間主観的構成」とい

う超越論的現象学の考え方を手がかりに、現代日本社会における死をめぐる議論を

“間人格的〔ひと/人称とひと/人称の間での〕(interpersonal)構成”の一つの例とし

て考察することを試みることにしたい。

1、旧稿の論点の確認

フッサールとシュッツの関係について、筆者はかつて論じたことがある2。以下に

その基本的な論点を五つにまとめておく。

2. 前注に記した拙稿に先立つ、以下三つの拙稿も参照いただければ幸いである。

・“Schütz und Edmund Husserl - Zur Phänomenologie der Intersubjektivität” - International

Conference “ALFRED SCHUTZ AND HIS INTELLECTUAL PARTNERS”, April 3, 2004, at Waseda

University International Conference Center → Alfred Schutz and his intellectual partners, ed. by

Hisashi Nasu, Lester Embree, George Psathas, Ilja Srubar, 2009, UVK Verlagsgesellschaft, pp.49-6.

・“ Identity and alterity: Schutz and Husserl on phenomenology of intersubjectivity ” , 1st

Phenomenology for East-Asian Circle Conference, 24-29, May, 2004, The Chinese University of Hong

Kong → Identity and Alterity - Phenomenology and Cultural Traditions -, ed. by Kwok-Ying Lau,

Chan-Fai Cheung, Tze-Wan Kwan, 2010.12, Orbis Phaenomenologicus, Königshausen & Neumann,

pp.99-112.

・「フッサールとシュッツ――対話としての臨床哲学のために――」, 2008.12.25, 大阪大学

大学院文学研究科哲学講座編『メタフュシカ』第 39 号, pp. 13-23. → その後、前掲拙著に収

録された。

Page 3: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

72

基本的な論点(1)

初期シュッツは、『社会的世界の意味的構成』3(以下、『意味的構成』と略記する)

において、フッサールの超越論的現象学に対して、自らの立場を、「現象学的心理学」

とし、「自然的態度の構成的現象学」であると限定していた。にもかかわらず、フッ

サールがシュッツを高く評価したのは、フッサールの「現象学的心理学と超越論的現

象学」という枠組みそのもののなかに、シュッツの現象学的社会学を受け入れる素地

があったと言うべきであろう。後期シュッツは、『デカルト的省察』のドイツ語版

(1950)、『イデーンⅡ』(1952)、『イデーンⅢ』(1953)を踏まえたうえで、「超越論

的間主観性の構成を説明するフッサールの試みは、成功していない」と結論づける。

「本質的な難点」はどこにあったかと言えば、「現象学の展開過程において構成の概

念が被る意味の変容」つまり「解明から創造へと変わった」ことにある、という。

基本的な論点(2)

フッサールの文献のなかで、「構成」という語の用法には揺らぎがあり、大きく分

類すると、「構成する(konstituieren)」(能動形)と、「構成される(sein/werden konstituiert)」

(受動形)と、「構成される(sich konstituieren)」(再帰形)の3種類があり、フッサ

ール自身必ずしも一貫しているわけではないが、筆者の見る限り、「構成される」と

いう再帰動詞の形が最も重要で、フッサールの思想の核心を示している。『意味的構

成』のシュッツが読んだ『論理学』のなかでも、フッサールは、「構成」を「形成さ

れる(sich bilden)」と言い換えていた。『意味的構成』のなかでもシュッツは、「構成」

の概念を説明しながら、「私の眼前にあるのは既に構成されてしまった世界ではなく、

絶えず新たに構成される世界である。……出来上がった世界としてではなく、むしろ

自らを構成する世界として、この世界は、自我の意識生活という最も根源的な事実を

遡って示しているのである」と述べていた。シュッツは自らの課題を、超越論的現象

学とすることは断念しながらも、「自然的態度の構成的現象学」と呼んで、「構成」と

いう語をためらいはしなかった。

基本的な論点(3)

1950 年から刊行が始まった『フッサール全集』のうち、1959 年に亡くなったシュ

ッツが参照することができたのは、第7巻の『危機』書までであり、そのあと、現在

3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende

Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbau と略記)

Page 4: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

73

第 42 巻まで刊行されている、残りの『フッサール全集』をシュッツは見ていない。

そのあとに刊行された『フッサール全集』のうち、めぼしいものだけを挙げても、『第

一哲学』(第7・8巻)や『現象学的心理学』(第9巻)といったフライブルクでの講

義録でも、他者経験について論じられているし、『間主観性の現象学』3巻(第 13〜

15 巻)には、現象学の最初のアイデアが浮かんだ頃の 1905 年から始まり晩年の 1935

年までの 30 年間におよぶ、フッサールの間主観性の問題と取り組んだ草稿が集めら

れているが、シュッツはこれらをまったく知らなかったわけだ。

基本的な論点(4)

フッサールが間主観性の問題を超越論的現象学において解明しようとしていたの

に対して、シュッツは、それを生活世界の存在論にとどまって解明しようとした。こ

のように構図を描く時、生活世界と超越論的主観性を相反するものとして対立させ

て考えているように思われるが、フッサール自身は、この両者をそのように考えてい

たわけではない。むしろ、生活世界は超越論的現象学に至る一つの道と考えられてい

た。現象学的心理学(あるいは、現象学的社会学)と超越論的現象学は、平行して進

んでいくものであり、微妙な差異があるだけで、領域的な違いではない。ここに、さ

まざまな仕方で、現象学的心理学あるいは現象学的社会学と超越論的現象学あるい

は現象学的哲学の交流(対話)の可能性が示されているのではないか。

基本的な論点(5)

フッサールはかつて、「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題

が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし

深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄(Trivialitäten) についての学であるとさえ

言えるほどである」(『論理学研究』XIX/1, 350)と述べていた。自然的態度とは「自

然に実践的に経過する人間生活全体の遂行形態」(VII, 244)のことであり、この自然

的態度においては「匿名的」に機能している「隠れた構成的能作」(I, 84; VI, 96) を

明るみにもたらすことこそ、超越論的現象学の課題とされた。彼にとって哲学とは、

自然的態度にあるふつうの人にとってあたりまえのこと(自明性)を否定することで

も、覆すことでも、除去することでもなく、その「自明性(Selbstverständlichkeit)を

理解(Verständlichkeit)にもたらすこと」(VI, 184) に他ならず、現象学的還元とは

そのための方法に他ならなかった。シュッツは、すでに『構成』のなかで、「自然的

態度の構成的現象学」という立場を説明するにあたって、「自然的見方における他我

Page 5: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

74

の一般定立(Generalthesis)」(Aufbau, 137)という表現を使っていた。これは、フッ

サールが自然的態度を特徴づけるのに使った「自然的態度の一般定立」(I, 60)とい

う言い方を、他者問題へと転用した表現である。この言い方をシュッツは後期になっ

ても使っている。 シュッツは、「日常生活における“自明のもの”をなんの吟味もせ

ずに受け入れてしまうことは、社会学にとって、重大な危険を背負うことにほかなら

ない。……社会学の課題は、まさにこの“自明のもの”を問いに付すことにある」

(Aufbau, 17)と述べていた。これは、上述のように、フッサールが哲学について述

べていたことにほかならない。フッサールは、この「日常生活における“自明のもの”」

を、世界のみならず他我へも広げ、二つのことは根底で繋がっていると考えようとし

たが、シュッツは、ここで世界についてはフッサールに賛同しながらも、他我につい

ては一般定立をむしろ認め、そこに留まろうとする。そこから二人の間の「微妙な差

異」が生まれているように思われる。

以上が、旧稿「社会学と現象学の対話のために」の基本的な論点であったが、それ

を踏まえたうえで、小論ではフッサールのテキストに立ち返って、フッサールとシュ

ッツの関係を再考しながら、社会の現象学の可能性を検討することにしたい 4。

2、『イデーンⅡ』から

『イデーンⅡ』第3篇「精神的世界の構成」は、「自然主義的(naturalistisch)な世

界と人格主義的(personalistisch)な世界との対立」から始め、後者の「精神的世界の

構成(Die Konstitution der geistigen Welt)」を解明しようとする。人格主義的な態度は、

「自然な態度であって、人工的な態度ではない」とし、そこでは、「人格的関係

(personale Beziehung)」のうちで、「私たちは一緒に生活し、互いに言葉を交わし、

握手して挨拶しあい、愛情と反感、心情と行為、発言と反論(Rede und Gegenrede)

のなかで互いに関わりあっているときや、私たちを取り巻く事物をまさに私たちの

周囲(Umgebung)と見なして、自然科学の場合のように“客観的”な自然としては

4. 前述のように、本稿は、「ケアの現象学と人称性」(科研プロジェクト「ケアの現象学の

具体的展開と組織化」第4回研究会、2013.06.29、大阪大学)として口頭発表したものを加筆

修正し、拙著『ケアの臨床哲学への道』(晃洋書房、2019.3)の第三部「ケアの臨床哲学へ」に

第五章「ケアの現象学と人称性」として収録した旧稿の続編にもなるものである。あわせて、

参照いただければ、幸いである。

Page 6: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

75

見ていない」としている(183)5。それは、「実践的な態度」であり、「他の主観」を

「物件(Sache)」ではなく、「人格としての精神(Geist als Person)」として接してい

る(190)。「他者を経験し相互理解し合意することで構成される周囲世界を、私たち

はコミュニケーション的な世界と名づける(Die sich im Erfahren von den Anderen, im

Wechselverständnis und im Einverständnis konstituierende Umwelt bezeichnen wir als

kommunikative.)」(193)、とフッサールは述べる。

彼はさらに、「精神的世界の構成」を次のように述べている。「社会性は、特別な社

会的・コミュニケーション的行為において構成される(Die Sozialität konstituiert sich

durch die spezifisch sozialen, kommunikativen Akte)」(194)。「それぞれの主観の“立場

(Standpunkt)”から、それぞれに応じた(主観ごとに別様に)統握意味をもって捉え

られ措定されているにもかかわらず、同一の精神世界( eine und dieselbe …

Geisterwelt)が構成される」(197)。「こうして初めて私は本来の意味で、他者に対す

る自我となり、いま初めて“我々(wir)”と言えるようになる。こうして初めて私は

“自我”になり、他者も他者となる。……こうしたことすべては、精神的な態度にお

いて行われる」(242)。

その世界は、空間的には、「各自の“ここ”」を中心に広がっている。「事物はさま

ざまに射映して現出しながら空間内の“中心的なここ”の周囲に群がり集まってい

る」(202)。「誰もが各自の“ここ”をもってはいるが、しかしそれは同じ現象的な今

にとっては、私の“ここ”とは別の“ここ”である。誰もが各自の現象的な身体をも

ち各自の主観的な身体運動をしている」(ibid.)。「“間主観的な空間”および“間主観

的な時間”という言い方がここでは正当性をもつ」(ibid.)。「どの人格も人格である

以上、各自の周囲世界をもっている」(203)。

「ただし各主観はお互いの位置を交換できるのであるから、今まで或る一定の現出

様態で私に与えられていた同じ事物が、その後、他者たちにもまったく同じ様態で与

えられることもありうるし、この逆もありうる」(206)。つまり、間主観的な世界は、

それぞれの人格の“ここ”(視点とそこからのパースペクティヴ)が、互いに交換さ

れることで“同じ”世界として構成されるわけである。

そこからフッサールは「正常(normal)と異常(abnormal)」についても次のように

論じている。「正常とは、意思の通じ合う集団に属する多数の人たちと関係しており、

彼らの場合は平均して彼らの経験とそれに相応する発言とは通常はほとんど一致し

ているが、それに反して同じ集団に属する他の〔異常な〕人たちの場合は、彼らの周

5. 以下、『イデーンⅡ』(Husserliana Bd.IV)からの引用は、頁数のみを本文括弧内にアラビ

ア数字で表記する。

Page 7: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

76

囲世界について筋違いの発言をするため、多数の正常な人たちの理解力では、同じ事

物を別の仕方で、自分たちには経験的に実現できない仕方で経験する人たちと思わ

れる」(207)。「精神的な自我は一個の有機体として、しかも少年、青年、熟年、老年

の諸段階につれて正常かつ類型的な様式で発達する能力を備えた有機体として統握

される」(254)。「誰にとっても青年期における感性の権能は老年期とはまったく別で

ある」(266)。「ひどい転倒をすれば人は身体障害者になり、そしてそれが彼の精神生

活にいろいろな結果をもたらし、その時から一部の動機づけは欠落する」(276)。こ

のテーマは、『間主観性の現象学』で展開されるが、これについて詳しく論ずるのは、

紙数の制約から、ここでは控えざるをえない。

ここで、『イデーンⅡ』の次の有名な注を思い出す。「これまでの我々の論述によれ

ば、自我−我々(Ich-Wir)という概念は相対的である。自我は汝と我々と“他者”を

必要とする(das Ich fordert das Du, das Wir, das “Andere”)。そしてさらに、自我(人格

としての自我)には事象世界(Sachenwelt)への関係も必要である。したがって、私

とわれわれと世界は共属関係にあり(ich, wir, die Welt gehören zusammen)、このこと

によって共通の周囲世界としての世界は、主観性の刻印を帯びている」(288Rb.)。こ

れは、1924/25 年にラントグレーベが編集作業をした時に注として補足されたもので

ある。

これと関連して、『イデーンⅡ』の補論 13 に目を向けたい。この補論は、おそらく

1920 年代前半に由来するものと思われる。「自然科学は実在の全体を研究するが、人

格たちの生活世界(Lebenswelt der Personen)はそれをすり抜けてしまう」(374)。「他

者たちとのコミュニケーション、他者たちとの相互交流の経験についても、同様のこ

とが当てはまる。私たちが互いに目を見つめ合えば、主観と主観が直接に触れ合う。

私が彼に語りかけ、彼も私に語りかけ、私が彼に命令し、彼が従う。こういうことが

直接に経験する人格的な関係である」(375)。「生活世界は自然な世界である。自然に

生き続けているときの態度では、私たちは機能している他の主観たちの開かれた集

団と一つになって生き生きと機能している主観である」(375)。要するに、ここ『イ

デーンⅡ』第3篇「精神的世界の構成」は、自然的態度にあるとき、私たちが生きて

いる生活世界の構造を記述した「生活世界の存在論」「自然的態度の現象学」の試み

だと言える。それは、シュッツ『社会的世界の意味的構成』に近い立場に立っている

と言えよう。

フッサールはここで、「社会的な主観性」を「共同精神(Gemeingeist)」(199, 243)

とも言いかえている。『間主観性の現象学』第2巻に収録されたテキスト9番「共同

精神Ⅰ」(1921)、テキスト 10 番「共同精神Ⅱ」(1989/1921)、付論 26「共同精神Ⅱ」

Page 8: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

77

(1922)で「共同精神」という語を表題につけているが、これらも、ほぼ同じ頃に執

筆されたものと考えられる。「共同精神」という語はもともと、ディルタイの『精神

科学における歴史的世界の構成』6に登場するもので、フッサールが同書を丁寧に読

んでいた痕跡でもある。

3、「共同精神」へ

ここに、ディルタイからフッサールを通じてシュッツへと繋がるラインが浮かび

上がってくる。小論のタイトル「社会的世界の間人格的構成」は、シュッツの『意味

的構成』(1932)を念頭に置いたものである。「構成(Aufbau)」という語は、当時ウ

ィーン学団の論理実証主義の代表的論客だったルドルフ・カルナップの主著『世界の

論理的構成』(1928)7にならって使われたものという。しかし、遡って見れば、ディ

ルタイの『精神科学における歴史的世界の構成』(1910)で使われていた語でもあっ

た。フッサールの「精神的世界の構成」は、ディルタイ『精神科学における歴史的世

界の構成』とシュッツ『意味的構成』を橋渡しするものとも言えよう8。

ここで、『間主観性の現象学』第2巻に収録されたテキスト「共同精神」の論点を

五つにまとめたい。

テキスト「共同精神」の論点(1)

フッサールは、「感情移入以前の」「まだ人格ではない」ような「衝動的な(triebhaft)

主観」について語っている(165)9。「私は他者を衝動的に助けようとすることがあ

る。衝動的な“母の愛”や“親の愛”があり、衝動的なケア(Fürsorge)がある」(166)。

「しかし、これらはまだ社会的行為(soziale Akte)ではなく、本来の社会的な愛の行

為でもない」(ibid.)。これは、同じ時期の「幼児と動物への感情移入」(第 14 巻テキ

スト8番、1921 年)などに見られる、「本能・幼児・動物」を射程に入れた「発生的

現象学」のテーマであるが、紙数の制約から、ここでこのテーマに立ち入ることは控

6. Wilhelm Dilthey, Der Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften, 1910.

7. Rudolf Carnap, Der Logische Aufbau der Welt, 1928.

8. ディルタイ、カルナップ、シュッツが使っている"Aufbau"という語と、フッサールが使

っている"Konstitution"という語をともに同じ「構成」という語で訳すのは問題を残すが、さ

しあたりここでは、それぞれに定着している訳語でもあり、そのままにしておく。

9. 以下、『間主観性の現象学Ⅱ』(Husserliana Bd.XIV)からの引用は、頁数のみを本文括弧

内にアラビア数字で表記する。

Page 9: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

78

えておく。

テキスト「共同精神」の論点(2)

ここで、「我−汝−関係(Die Ich-Du-Beziehung)」という用語が登場する。他にも、

『間主観性の現象学』第1巻の付論 54「“内的経験”としての感情移入。モナドは窓

をもつ」(1920 年夏学期)にも「我−汝−作用(Ich-Du-Akte)」(473)という語が登場

する。これらの表現は、ブーバー(1878-1965)の『我と汝』(1923)10を思い起こさ

せるが、その出版より早く、当時フッサールがブーバーの同書を読んだ形跡はなく11、

ブーバーがフッサールの講義を聞きに来て言葉を交わしたのは 1928 年なので、ブー

バーからの影響で使った用語とは思われない。しかし、とすると、この表現はどこか

ら由来するのか、いまのところ私にはつまびらかでない12。

どこに由来するかはともかく、この時期(1920 年)以来、「我−汝」という対概念

を使うようになった。前述のように、『イデーンⅡ』では、自我と他者の関係は、「私

たちが互いに目を見つめ合えば、主観と主観が直接に触れ合う。私が彼に語りかけ、

彼も私に語りかけ」と、一人称に対する三人称で語られていた。ところが、「我−汝」

という対概念によって、「私たち両者、私とあなたは“お互い見つめ合う”」と、一人

称に対する二人称という捉え方が現れる。しかも、「我−汝の関係」は必ずしも直接に

「触れ合う(sich berühren)」ことを要求しない。「両者は時間の隔たりを超えて、精

神的な手を差し延べる」(168)。例えば、「故人もいま生きている人も同様に精神的に

手を差し延べ合う。かつて生きていた人からいま生きている人に向けられ、受け止め

られることとして理解されるような伝達が可能である」(169)。ここでは、他者との

関係が、三人称との関係と二人称との関係に分けられるように見えるが、フッサール

はこれをはっきり区別しているとは言い難い。

テキスト「共同精神」の論点(3)

フッサールは、こうした「我−汝−関係」の一つとして、「人格的な愛(Personale Liebe)」

(172)を語るが、それとは区別して、「隣人愛(Nächstenliebe)」も語っている。後者

は、「ただ他者と、その倫理的存在と生成にたいして愛しつつケアをすることにあり、

10. Martin Buber, Ich und Du, 1923.

11. フッサール文庫の蔵書にはブーバーの著作は見当たらない。

12. フォイエルバッハからの可能性もあるかもしれないが、フッサール文庫の蔵書に、『宗

教の本質』(1908)はあっても、「真の弁証法は、孤独な思想家の自分自身との独白ではな

く、我と汝との対話である」と主張する『将来の哲学の根本問題』(1843)は見当たらない。

Page 10: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

79

他者、共同体、人類全体への熟慮ではあるが、共同体関係そのものではなく、何ら人

格的結合や人格的結びつきを作り上げるものではない」(173)と述べている。言うな

れば、「人格的な愛」は二人称の他者との関係であるのに対し、「隣人愛」は三人称の

他者との関係である、と言えようか。家族は、「家族の仲間への自然な愛という基盤

の上に成り立つ」「一時的な共同体(Gemeinschaft)」「生の共同体」である(178)。「家

族の成員は、それぞれの活動に入り込み介入し、ともに生きながら、多様な我−汝−関

係のうちで人格として一つになっている」(179)。

テキスト「共同精神」の論点(4)

フッサールは、テンニエス(1855-1936)の『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』

(1887)13にならって、「共同体(Gemeinschaft)と社会(Gesellschaft)」を区別してい

る。前者は「自然に生じる(natürlich erwachsen)」のに対し、後者は「人為的に創設

される(künstlich gestiftet)」という。例えば、「自然に生じる家族共同体」において

は、「最初のものは、子どもに対する自然で素朴に生じる母のケア(Fürsorge)であり、

妻として子の母としての母に対する夫のケアである」(180)。他方、「人為的に創設さ

れた、同等関係や従属関係の共同体〔社会〕では、それぞれの役割や義務が取り決め

に基づいて自発的に課される」(181)。そこでは、「人格的結合が、互いの人格が“知

られない(unbekannt)”まま、間接的な道において創設される」(182)。「私の精神的

な働きかけは、私のことを知る必要もない見知らぬ人格や周囲に、私の意図なしに伝

播していく」(195)。つまり、社会の場合、「我−汝」という直接的な関係を持たない

ままに、人格的結合が創設されるわけである。

テキスト「共同精神」の論点(5)

こうした共同の人格的世界の構成には、「一方的な関係と相互コミュニケーション

的な関係」とがある(198)。例えば、「歴史的な精神の統一はすべて、一方的な関係

であり、……より後の時代の人格がより前の時代の人格へと感情移入している」(ibid.)

と言える。それに対し、例えば、「共存(Koexistenz)における共同事業は、相互的な

理解(Komprehension)による共同体活動の構成」(ibid.)である。こうして、私たち

は「個々の人格を超えながらも人格的に機能するような一般的意識の層」(200)を持

つことになり、それが「コミュニケーション的な人格の多数性が基体(Substrat)」と

13 . Ferdinand Tönnies, Gemeinschaft und Gesellschaft. Abhandlung des Communismus und des

Socialismus als empirischer Culturformen, 1887.

Page 11: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

80

なる。それが「共同精神(Gemeingeist)」として語られることになるのである。

そしてここで(先に小論では立ち入ることのできない問題として触れたが)、「共同

精神」のテキストから 10 年ほど後に書かれた「正常と異常」に関するテキスト群(Hua.

XV 所収、和訳のⅡに所収)が関わってくる。「正常な人たちの世界構成には、異常

な人たちも参加している」(133)。「異常性の構成」(140)の問題圏では、「成熟した

大人」と「幼児(Kinder)」や、「誕生と死(Geburt und Tod)」や、「精神病者や病人

(Verückten, Kranken)」も問題となり、「どのようにして一つの生活世界が構成される

か(wie konstituiert sich eine Lebenswelt)」(141)が考察されることになる。

4、小括:社会的世界の間人格的構成

こうして見ると、『イデーンⅡ』の第3篇「精神的世界の構成」からテキスト「共

同精神」において論じられているのは、フッサールなりの、「自然的態度の現象学」

であり、「生活世界の存在論」である。しかも、それは「我」「我−汝」「彼/彼女(見

知らぬ人)を通じて「人格的/人称的」に構成される生活世界である。それは、「人

格的方位づけのゼロ点」を中心に、「“より近くの”人格から“より遠い”人格へと前

進しつつ、次第に多くの人格をそれに与えられる人格にもたらすこと」ことで形成さ

れる「人格的空間」(216)でもある。それは、「世界の共同主観的存在構造」(廣松渉)、

「生活世界の構造(ルックマンによって編集されたシュッツの著作)にも匹敵するよ

うな「間主観的に構成される生活世界」の現象学的考察とも呼べるだろう。しかも、

それは基本的には、一人称の「我」、二人称の「汝」、三人称の「彼/彼女」のパース

ペクティヴの違いを通じて、その違いを乗り越えて「一つの共通の生活世界」が間主

観的に構成されるというあり方をしていると言えよう。人格(Person)の差異が、人

称(Person)の差異として論じられているのである。

小論では、人格が成立する以前の前人称的な次元がその構成にどう関わるのかと

か、正常と異常がどのように間主観的構成に関わるのかについては、簡単な紹介に終

わったし、フッサール自身十分に展開できているわけではない。にもかかわらず、私

たちは『イデーンⅡ』や「共同精神」のテキストに、さまざまな刺激を与えてくれる

議論の萌芽(種)を見出すことができるだろう。それを踏まえたうえで、最後に、人

称的なパースペクティヴの違いを超えて共同での決定を下す場面の例として、現代

日本における終末期医療の問題を取り上げたい14。

14. 以下の第5節は、旧稿「日本における終末期ケアの現状」(拙著『ケアの臨床哲学への

Page 12: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

81

5、一つの例:終末期医療における共同決定

日本では、 終末期ケアをめぐる問題については、厚生労働省の委員会などで長く

議論されてきた。しかし、最近になってその議論が再燃するきっかけとなったのは、

2006 年3月、富山県の射水市民病院で、がんなどの末期患者7人の人工呼吸器が担

当の外科部長によって外されたことが発表された「事件」だった(結局、不起訴とな

ったため、事件とは呼べない)。翌 2007 年から、それがきっかけになった議論がさま

ざまな組織や学会などでずっと続いてきた。

そこで浮かび上がって来た問題点は、次の四つである。

1)患者本人の意向について、確認していないケースがほとんどだった。〔一人

称の問題〕

2)家族の意向について、書面はないが、「阿吽(あうん)の呼吸」で同意して

いたと、当の外科部長のみならず、家族も言っていた。〔二人称の問題〕

3)この外科部長が他の医療スタッフとは相談しないまま、単独で決断した可能

性が高かった。〔三人称の問題〕

4)そこで、病院や国で終末期医療のあり方についてルールを作るべきだという

声が高まった。

その間に、厚生労働省「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(2007/5)

を筆頭に、さまざまな機関・組織からさまざまなガイドラインや提言などが発表され

た15。厚生労働省のガイドラインについては、後に詳しく紹介するが、要点は、きち

んとした決定プロセスを踏みさえすれば、医療行為の不開始や中止(延命治療の中止

=尊厳死)も選択肢としてありうる、という姿勢が示された。この「ガイドライン」

は、2015 年には「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライ

ン」と名称のみ変更され、さらに 2018 年には、名称のみならず、中身も大幅に改訂

された。また、その間にさまざまな医療系各学会にもガイドラインや提言を発表する

動きが広がった16。いずれも、厚生労働省のガイドラインに沿うように、終末期にお

道――生老病死とともに生きる――』晃洋書房、2019 年3月、第二部第十章)を要約したも

のである。

15. その他、尊厳死法制化を考える議員連盟「臨死状態における延命措置の中止などに関す

る法律案要綱(案)」(2007/6)、日本救急医学会「救急医療における終末期医療に関する提言」

(2007/11)、日本医師会第Ⅹ次生命倫理懇談会「終末期医療に関するガイドラインについて」

(2008/2)、全日本病院協会「終末期医療に関するガイドライン~よりより終末期を迎えるた

めに~」(2009/5)などである。

16 . 例えば、次のようなものである。「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライ

ン― 人工的水分・栄養補給の導入を中心として」( 2012 年、日本老年医学会)、「血液透析の

開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言」(2014 年、日本透析医学会)、「救急・

Page 13: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

82

いて延命措置と呼ばれるような治療を不開始・中止するという選択肢がありうるこ

とが述べられている。

前述のように 2018 年3月に、厚生労働省の「ガイドライン」は、「人生の最終段階

における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」として改訂された(名称

に「・ケア」が追加された)。この改正点を紹介するにあたってまず言及したいのは、

この改訂(しかも、その「解説編」)において初めて、「ACP(アドバンス・ケア・プ

ランニング:人生の最終段階の医療・ケアについて、本人が 家族等や医療・ケアチー

ムと事前に繰り返し話し合うプロセス)」が(突然のように)強調されたことである。

このことに歩調を合わせるかのように、日本医師会は『終末期医療ーアドバンス・ケ

ア・プランニング(ACP)から考えるー』(2018 年 3 月)というパンフレットを発行

した。そこから急速に、さまざまな医療・ケア分野で ACP の学習会が行われるよう

になっている。

要は、従来の「リビングウィル」にしても、「事前指示書」にしても、その書式を

作成・準備したのは、医療関係者かも知れないが、基本的には、患者が医療関係者に

対して、患者自身の意思を表明するために書くものと言える。(医療関係者も含めて)

周りから、書くように促されることがあるとしても、その本来の精神からすると、患

者の「自己決定」を尊重する精神から生まれたものだった。その点、改訂において強

調された「事前ケア計画(Advance Care Planning: ACP)」は、基本的には医療・ケア

関係者が立てる計画に患者とその家族にも参加してもらう、ということだと言える。

ACP は、終末期医療だけでなく、その前からの包括的なケアを考えようとしてい

る点、患者だけでなく家族の思いも大切にしようとしている点は、評価することがで

きる。しかし、他方で、 ACP は、あくまでも医療・ケア従事者の主導で、ケア・プ

ランとして考えられているものであり、患者・家族とのコミュニケーションを大切に

するとはいえ、へたすると患者・家族が置いてきぼりになる恐れもある。その点で、

患者・家族を誘導することにならないかという疑念を ACP はクリアすることができ

るかが、課題となろう。

ところで、世界医師会がかつて発表した「患者の権利に関するリスボン宣言」(1981

年)は、「自己決定(self-determination)の権利」を強調したものだったが、それから

30 年を経て発表した「終末期医療に関するモンテビデオ宣言」(2011 年)では、「患

集中治療における終末期医療に関するガイドライン」(2014 年、日本循環器学会・日本集中治

療医学会、日本救急医学会の3学会共同)、「高齢心不全患者の治療に関するステートメント」

(2016 年、日本心不全学会)、「成人肺炎診療ガイドライン」(2017 年 4 月、日本呼吸器学会)、

「人生の最終段階にある傷病者の意思に沿った救急現場での心肺蘇生等のあり方に関する提

言」(2017 年 4 月、日本臨床救急医学会)。

Page 14: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

83

者、その家族および医療ケアチームの間で情報を共有し話し合うこと(information and

communication)」、および、「患者の自律と共同の意思決定を促し(promote patient

autonomy and shared decision-making) 、患者とその家族の価値観を尊重する」ことが

強調されるようになった。今回のガイドラインの改訂は、この世界医師会の方針転換

に沿うものと考えられる。

あらためて、厚生労働省「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関

するガイドライン」を見直すと、以下のようなところにその特徴がある。まずは、前

述のように、きちんとした決定プロセスを踏みさえすれば、医療行為(延命治療)の

不開始や中止(尊厳死)も選択肢としてありうる、という姿勢が示された。患者の「自

己決定権」を重視しながらも、患者が一人で決定することではなく、「医療従事者と

の話し合い」が前提とされている。「医療従事者」として単独の医師ではなく、「多専

門職種の医療従事者から構成される医療・ケアチーム」が考えられている。「緩和医

療・ケア」とともに、「患者・家族の精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療及

びケア」(トータルケア)の充実の必要性が強調され、「延命治療の中止」(尊厳死)

のみに焦点が当たらないように配慮している。「生命を短縮させる意図をもつ積極的

安楽死は、本ガイドラインでは対象としない」ことに注意を促しているが、「生命を

短縮させる意図」においては「医師による自殺幇助」も排除されている。

一方では、自己決定権が重視され、「患者の意思の確認ができる場合」と「患者の

意思の確認ができない場合」とに分けて考えられている。「患者の意思の確認ができ

る場合」のなかにも、直接コミュニケーションがとれる(判断能力がある)場合と、

いまコミュニケーションはとれないが、まだコミュニケーションがとれる(判断能力

がある)時に、あらかじめ書面で意思表示をしていた(書面で意思を確認できる)場

合とがある。書面には、「リビング・ウィル」「意思確認書」「事前指示書(アドバン

ス・ディレクティヴ)」が想定されてきたが、前述のように、今回の改訂で「事前ケ

ア計画書(ACP)」が前面に出てきた。このように「患者の意思の確認ができる場合」

には、できるだけ患者の意思(自己決定権)を尊重することになる。

しかし、「患者の意思の確認ができない場合」があり、いまそれが確認できないだ

けでなく、あらかじめの意思表示もないという場合だが、それは、「家族が患者の意

思を推定できる場合」と「家族が患者の意思を推定できない場合」とに分けられる。

「患者の意思を推定」というのも、できるだけ患者の意思(自己決定権)を尊重して

いることになる。

他方で、家族の役割も尊重されている。「患者が拒まない限り、決定内容を家族に

も知らせることが望ましい」としているが、それは 「医療従事者とともに患者を支

Page 15: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

84

えるのは、通常、家族だからです」とされている。とは言っても、「家族とは、患者

が信頼を寄せ、人生の最終段階の患者を支える存在であるという趣旨ですから、法的

な意味での親族関係のみを意味せず、より広い範囲の人を含みます」と解説の注で付

け加えられている(そこで、「家族等」という表記がされる)。「患者の意思を確認で

きない場合」には「家族による患者の推定意思を尊重」するが、それは「家族と十分

に話し合い」をもつことであり、家族が代理決定するのではないし、家族の言いなり

になることでもない。また、家族といっても決して一枚岩ではないため、家族の間で

の話し合いを促す必要がある。

また、「家族がいない場合及び家族が判断を医療・ケアチームに委ねる場合には、

患者にとっての最善の治療方針をとることを基本とする」とあり、患者の意思も家族

の意向も分からないときには、医療・ケアチームが、「患者にとっての最善」の方針

をとることになる。とは言っても、医療・ケアチームもまた一枚岩ではないため、チ

ームのメンバーの間での話し合いも必要となる。

ガイドラインの改訂は、「病院における延命治療への対応を想定した内容だけでは

なく、在宅医療・介護の現場で活用できるよう」、次のような見直しを実施したもの

である。

① 「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」

に改称することで、医療・ケアチームの対象に介護従事者が含まれることを明確

化し、「患者」を「(医療・ケアを受ける)本人」に変更した。

② 心身の状態の変化等に応じて、本人の意思は変化しうるものであり、医療・

ケアの方針や、どのような生き方を望むか等を、日頃から繰り返し話し合うこと

(=ACP の取組)の重要性が強調された(その後、「人生会議」という愛称が命

名された)。

③ 本人が自らの意思を伝えられない状態になる前に、本人の意思を推定する

者について、家族等の信頼できる者を前もって定めておくことの重要性が記載

された。

④ 今後、単身世帯が増えることを踏まえ、③の信頼できる者の対象を、家族か

ら家族等 (親しい友人等)に拡大、話し合いに加わることが強調された。

⑤ 繰り返し話し合った内容をその都度文書にまとめておき、本人、家族等と医

療・ケアチームで共有することの重要性について記載された。

そのうえで、患者、家族等、医療・ケアチームが繰り返し話し合うことによる合意

という理念が示された。この理念の背景を探ると、フランスの哲学者ウラジミール・

Page 16: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

85

ジャンケレヴィッチの『死』17が、死には、「一人称の死」、「二人称の死」、「三人称の

死」があると述べていることを思い出す。死に行く患者にとって自分の死を「一人称

の死」とすると、その死は家族等(広い意味で)にとっては「二人称の死」であり、

医療・ケア従事者にとっては「三人称の死」であると言える。同じ一人の人の死が、

それぞれのパースペクティヴ(視点・展望)によって異なる仕方で現れる。厚生労働

省の「ガイドライン」の根底にあるのは、三つの異なるパースペクティヴからの「話

し合い」によって「合意」をめざすべきだ、という理念である。もちろん、個々のケ

ースによっては、 「一人称」(患者の意思)が欠けたり、 「二人称」(家族等の意思)

が欠けたりすることもあるが、理想としてはそこを目指すべきだというのである。そ

の意味で、「解説編」では、「人生の最終段階における医療の決定プロセスにおいては、

患者、家族、医療・ケアチームの間での合意形成の積み重ねが重要です」と述べられ

ている。

それでも、「それは理想だが、現実はそんなにうまく行かない」という声は多いし、

残された問題は少なくない。「本人の意思」と言っても、「これまでそんなこと聞かれ

たことも言ったこともなかったのに、突然聞かれても分からない」とか、「認知症で

何が本人の意思なのか、分からない」とか、そもそも、「元気だった時に表明した意

思が、終末期になった時の意思と食い違っていたら、どうするのか」といった疑問は

多い。「家族の意思」と言っても、家族がいないケースのみならず、家族がいても味

方とは限らず敵の場合もあり、「本人の意思」を邪魔することになるのでは、という

疑問もある。「医療・ケア従事者」の意見がまとまらないケースがあるだけでなく、

「医療・ケア従事者」が本人や家族の意思を誘導してしまう場合もある。にもかかわ

らず、「理想」を見ているからこそ「現実」の何かが問題だということに気づくこと

ができるので、どこかで「理想」を語る人が必要だ、と筆者は考えている。

おわりに

以上、現代日本の終末期医療(人生の最終段階における医療・ケア)の決定プロセ

スに関するガイドライン(厚労省)の原理的な考え方として、一人称・二人称・三人

称のパースペクティヴからの「合意形成の積み重ね」という仕方での「共同決定」の

あり方を紹介した。これは、フッサールが『イデーンⅡ』の「精神的世界の構成」や

「共同精神」のテキストで論じていた、間人格的な構成に繋がり、「社会の現象学」

17. Vladimir Jankélévitch, La Mort, Flammarion, 1966.

Page 17: 社会的世界の間人格的構成3 . Alfred Schutz, Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt: eine Einleitung in die verstehende Soziologie, Springer, 1932.(以下、Aufbauと略記)

浜渦 辰二 社会的世界の間人格的構成

86

の原型になるような議論ではないか、と考えている。それぞれ細かい所では、もう少

しきちんと解明すべきところがあろうかと思うが、フッサール現象学の議論と現代

の生命倫理学に関わるような議論のそれぞれを照らし合わせることで、両者の間に

生産的な「対話」が生まれるのではないか、といま筆者は考えている。