7
日皮会誌:no (7), 1121―1127, 2000 (平12) 慢性枇素中毒後遺症についての1考察 一土呂久慢性炭素中毒症長期追跡の経験からー 出盛 允啓 黒川 基樹 緒方 克己 1.土呂久慢性枇素中毒症認定患者162名の後遺症 を検討した. 2.心疾患死と多発性神経炎の合併が多く,皮膚,肺, 尿路癌の多発が実証された. 3.後遺症の病態を非分裂細胞系(心筋,神経)と分 裂細胞系(皮膚,粘膜上皮系)とに大別して対処すべ きであると提唱した. 4.無機枇素の標的因子であるSH基が極めて豊富 に存在する表皮ではボーエン病(被覆部)が多発し, 高齢化とともに日光角化症(露光部)が追発する機序 を考察した. はじめに 近年,地球的規模で,特にアジア各地(中国新彊ウ イグル自治区・内モンゴル自治区,台湾,タイ,イン ド西ベンガル,バングラディシュ,フィリピンなど)で 枇素中毒による健康被害が多発し,深刻な問題になっ ている1)2) これらの地域での枇素汚染の原因は鉱山などによる 鉱業汚染ではなく,飲料水や濃漑用水として掘られた 井水(地下水)中の枇素による自然汚染である,二十 一世紀は湖沼,河川などの表層水が不足し,地下水利 用の時代に突入すると予測されている3).したがって 地下水枇素汚染による健康障害が今後多くの国で発生 する可能性がある. 批素による障害の重要な点は,放射線による晩発性 障害と同様,過去に許容濃度以上に曝露されていれば, 現時点では曝露がなく,体内枇素濃度が基準値以下で あっても後遺症としての健康障害が発生することにあ る. われわれは宮崎県土呂久地区の鉱山汚染で発生した 慢性枇素中毒症認定患者162名を25年間にわたって 宮崎医科大学皮膚科学教室(主任 井上勝平) 平成11年11月9日受付,平成12年1月12日掲載決定 別刷請求先:(〒889-1692)宮崎県宮崎郡清武町大字木 原5200 宮崎医科大学皮膚科学教室 出盛 允啓 井上 勝平 検診し,その後遺症を追跡してきた. その検診結果によれば,心疾患死と多発性神経炎の 患者が多く,また皮膚癌(ボーエン病,日光角化症), 肺癌,尿路上皮癌などの悪性腫瘍が多発していること が実証された. これらの事実から,慢性枇素中毒後遺症を非分裂細 胞系(心筋,神経)と分裂細胞系(皮膚,粘膜上皮)と に大別して検診,予防,治療に当たるべきであると提 唱した. また,無機枇素の標的因子であるSH基が極めて豊 富な表皮ではボーエン病(被覆部)が多発し,高齢化 とともに日光角化症(露光部)が多発する機序につい て諸家の知見や見解を勘案して考察した. 対象と資料 平成10年(1998年)10月までに環境庁により上呂 久慢性枇素中毒症と認定された162名(男性81名,女 性81名)を対象とした.認定要件を表1に示す. 全国民との比較対照は,国民衛生の動向(1998年 版4))を参照し,日光角化症の対照としては,当教室の 行っている「清武町民皮膚癌検診」の資料を使用した. 1.土呂久慢性枇素中毒症患者の平均死亡年齢と全 国民,宮崎県民の平均余命 土呂久慢性枇素中毒症認定患者(以下土呂久患者)で 現在(1998年10月現在)までに死亡したものは88 名(男48名,女40名)で平均死亡年齢は男76.3歳, 女76.0歳であり,宮崎県民の平均余命(平均寿命)は 男76.5歳,女83.6歳,全国民のそれは男76.7歳,女83.2 歳である(表2). 土呂久患者の女性は全国民,宮崎県民と比較しても 7歳短命である.男性には差はない. 2.土呂久患者と国民(55歳以上)の3大死因死亡 土呂久患者の上位3死因をみると,心疾患死率が男 33.3%,女45%とともに1位を占め,55歳以上の国民 と比較すると2.3倍,女2.5倍である.悪性腫瘍死率は 両群に男女とも差はない(表3).

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日皮会誌:no (7), 1121―1127, 2000 (平12)

慢性枇素中毒後遺症についての1考察

一土呂久慢性炭素中毒症長期追跡の経験からー

出盛 允啓 黒川 基樹  緒方 克己

          要  旨

 1.土呂久慢性枇素中毒症認定患者162名の後遺症

を検討した.

 2.心疾患死と多発性神経炎の合併が多く,皮膚,肺,

尿路癌の多発が実証された.

 3.後遺症の病態を非分裂細胞系(心筋,神経)と分

裂細胞系(皮膚,粘膜上皮系)とに大別して対処すべ

きであると提唱した.

 4.無機枇素の標的因子であるSH基が極めて豊富

に存在する表皮ではボーエン病(被覆部)が多発し,

高齢化とともに日光角化症(露光部)が追発する機序

を考察した.

           はじめに

 近年,地球的規模で,特にアジア各地(中国新彊ウ

イグル自治区・内モンゴル自治区,台湾,タイ,イン

ド西ベンガル,バングラディシュ,フィリピンなど)で

枇素中毒による健康被害が多発し,深刻な問題になっ

ている1)2)

 これらの地域での枇素汚染の原因は鉱山などによる

鉱業汚染ではなく,飲料水や濃漑用水として掘られた

井水(地下水)中の枇素による自然汚染である,二十

一世紀は湖沼,河川などの表層水が不足し,地下水利

用の時代に突入すると予測されている3).したがって

地下水枇素汚染による健康障害が今後多くの国で発生

する可能性がある.

 批素による障害の重要な点は,放射線による晩発性

障害と同様,過去に許容濃度以上に曝露されていれば,

現時点では曝露がなく,体内枇素濃度が基準値以下で

あっても後遺症としての健康障害が発生することにあ

る.

 われわれは宮崎県土呂久地区の鉱山汚染で発生した

慢性枇素中毒症認定患者162名を25年間にわたって

宮崎医科大学皮膚科学教室(主任 井上勝平)

平成11年11月9日受付,平成12年1月12日掲載決定

別刷請求先:(〒889-1692)宮崎県宮崎郡清武町大字木

 原5200 宮崎医科大学皮膚科学教室 出盛 允啓

井上 勝平

検診し,その後遺症を追跡してきた.

 その検診結果によれば,心疾患死と多発性神経炎の

患者が多く,また皮膚癌(ボーエン病,日光角化症),

肺癌,尿路上皮癌などの悪性腫瘍が多発していること

が実証された.

 これらの事実から,慢性枇素中毒後遺症を非分裂細

胞系(心筋,神経)と分裂細胞系(皮膚,粘膜上皮)と

に大別して検診,予防,治療に当たるべきであると提

唱した.

 また,無機枇素の標的因子であるSH基が極めて豊

富な表皮ではボーエン病(被覆部)が多発し,高齢化

とともに日光角化症(露光部)が多発する機序につい

て諸家の知見や見解を勘案して考察した.

          対象と資料

 平成10年(1998年)10月までに環境庁により上呂

久慢性枇素中毒症と認定された162名(男性81名,女

性81名)を対象とした.認定要件を表1に示す.

 全国民との比較対照は,国民衛生の動向(1998年

版4))を参照し,日光角化症の対照としては,当教室の

行っている「清武町民皮膚癌検診」の資料を使用した.

          結  果

 1.土呂久慢性枇素中毒症患者の平均死亡年齢と全

国民,宮崎県民の平均余命

 土呂久慢性枇素中毒症認定患者(以下土呂久患者)で

現在(1998年10月現在)までに死亡したものは88

名(男48名,女40名)で平均死亡年齢は男76.3歳,

女76.0歳であり,宮崎県民の平均余命(平均寿命)は

男76.5歳,女83.6歳,全国民のそれは男76.7歳,女83.2

歳である(表2).

 土呂久患者の女性は全国民,宮崎県民と比較しても

7歳短命である.男性には差はない.

 2.土呂久患者と国民(55歳以上)の3大死因死亡

 土呂久患者の上位3死因をみると,心疾患死率が男

33.3%,女45%とともに1位を占め,55歳以上の国民

と比較すると2.3倍,女2.5倍である.悪性腫瘍死率は

両群に男女とも差はない(表3).

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1122 出盛 允啓ほか

   表1 土呂久慢性硯素中毒症の認定要件

I.砥素濃厚汚染地区居住の既往

n.次のいずれかに該当すること.

 1.皮膚に慢性枇素中毒に特徴的な色素異常および角化の

  多発が認められること.

 2.鼻粘膜姫痕または鼻中隔穿孔が認められること.

 3.1を疑わせる所見または枇素によると思われる皮膚症

  状の既往があって,慢性批素中毒症を疑わせる多発性

  神経炎が認められること.

 4.砥素によると思われる皮膚症状,またはその既往があ

   り,かつ長期にわたる気管支炎症状がみられる場合に

   は総合的に検討し判断すること.

 付 記

  認定された患者については,ボーエン病,皮膚癌,肝

  癌,肺癌,尿路上皮癌などの悪性腫瘍を慢性枇素中毒

  症によるものとみなして差し支えないとされている.

 3.土呂久患者における悪性腫瘍発症の実態

 土呂久患者162名の悪性腫瘍発症状況を性別・年齢

別に図1に示す.ボーエン病(51名,発病率31.5%),

肺癌(17名, 10.5%) ,日光角化症(15名, 9.2%) ,胃

癌(5名, 3.1%) ,尿路上皮癌(4名, 2.5%)の順であ

る(表4).

 4.土呂久患者の悪性腫瘍死率

 表5に土呂久患者,全国民,宮崎県民の悪性腫瘍死

率(総悪性腫瘍死数/総死亡者数)を示す.どのグルー

プも悪性腫瘍死率は30%前後で差はない.しかし内臓

悪性腫瘍の種類別に腫瘍死率をみると,肺癌,尿路上

皮癌の死亡率は全国のそれに比してそれぞれ4倍,8

倍と高い.胆道系癌,胃癌には差はない(表6).

 5.土呂久患者の皮膚悪性腫瘍発病率

 土呂久患者の皮膚腫瘍の発症について,当医大のあ

る清武町(人口約27,300)町民の皮膚癌検診データと対

比すると,日光角化症の発現率は10倍(9.2%:0.91

%),ボーエン病は210倍(31.5%:0.15%)である.基

底細胞癌の発症は土呂久患者1名(0.06%),清武町民

(0.3%)と両群とも少ない(表7).

 6.ボーエン病発症から内臓悪性腫瘍発見までの期

 ボーエン病発症から内臓悪性腫瘍発見までを追跡で

きた症例が8例(男5例,女3例)あり,その期間は

女性群では平均13年,男性群では平均3年である(表

8).

 7.土呂久患者におけるボーエン病,日光角化症発

症者の死亡年齢比較

 ボーエン病と較べて,日光角化症がより高齢者に発

表2 土呂久慢性硯素中毒症患者の平均死亡年齢と全

 国民,宮崎県民の平均余命

ご犬 男 女

慢性砥素中毒患者

宮崎県民('95)

全国民(■95)

76.3歳

76.5歳

76.7歳

76.0歳

83.6歳

83.2歳

表3 土呂久慢性枇素中毒症患者と国民(55歳以上)

 の疾患別死亡率比較

/男 性(55歳以上) 女 性(55歳以上)

土呂久 国民('%) 土呂久 国民(・96)

悪性腫瘍16名

(33.3%)147,079名

 (35.5%)11名

(27.5%)91.869名(24.6%)

心疾患16名

(33.3%)61,452名(14,8%)

18名(45%)

66,894名(17.9%)

脳血管疾患 6名

(12.5%) 61,139名(14.7%)  4名(10%)71,069名(19.0%)

その他10名

(20.8%)143.942名(34.8%)

 7名

(17.5%)143,191名(38、3%)

計48名(100%)

413,612名 (100%)

40名

(100%)

373,023名

 (100%)

症しているかを確認するため,それぞれのグループの

平均死亡年齢で比較してみた(表9).ボーエン病発症

者の平均死亡年齢の76.1歳に比して,日光角化症発症

者(ボーエン病合併5名)のそれは84.4歳であり,統

計学的にも有意差がみられる(t検定, p<0.05).

 8.土呂久患者の多発性神経炎合併状況

 土呂久患者162名のうち156名が神経学的に検診さ

れ,91名(58.3%)に多発性神経炎が認められた.死亡

82症例(男45名,女37名)の多発性神経炎合併状況

を表10に示す.同症有りの44名(男25名,女19名)

の平均死亡年齢は74.6歳であり,同症無しの38名(男

20名,女18名)の平均死亡年齢は76.3歳である.多発

性神経炎合併の有無による平均死亡年齢の比較では統

計学的有意差はない.

          考  察

 宮崎県高千穂町土呂久鉱山での亜枇酸生産は大正9

年(1920年)に始まっており,一時休出した時期もあっ

たが昭和37年(1962年)に廃鉱になるまで40年以上

も操業が続けられていた≒

 本稿の対象とした162名の認定患者は過去において

同地区に居住歴があるか同鉱山での従業歴があった.

 この地域は周囲を険しい山に囲まれた集落であり,

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患 者 数

肺癌{゜゛

(17名) ○・

慢性枇素中毒後遺症

べU

尿賢゛{呂

≒昌゛{日日憐げ{弓

  女生存○   啖さ●

胃 癌 {゛□ 他悪性腫瘍{・□

(5名)  ゛○  (9名)  ・○

基底細胞癌

  (1名)心

11

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 □ □ □ □○ □○ □○ □

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11 I-:

55-59  60-64 65-69 70-74 75-79 80-84 85-89 90-99 (歳)

図1 土呂久慢性枇素中毒認定患者!62名の年齢・性別悪性腫瘍発現状況

表4 土呂久慢性枇素中毒患者の悪性腫瘍(平成10年10月現在)

言づて ボーエン病 日光角化症 肺 癌 尿路上皮癌 胃 癌 その他*

死亡者 88名 39名 11名 17名 4名 3名 9名

生存者 74名 12名 4名 0名 O名 2名 0名

計 162名51名

(31,5%)15名(9.2%)

17名(10.5%)  4名(2.5%)  5名(3.1%)

9名

*その他:乳癌,子宮癌,盲腸癌,胆管癌(2例),上顎洞癌,上顎癌,悪性リンパ腫,脈管肉腫

その中で採鉱・精錬が行われていたため,煤煙が拡散

することなく高濃度に集積し,さらに村の中を流れる

土呂久川は生活用水としても用いられていたので経口

的にも枇素が侵入したと推察される.つまり同地区で

は鉱山従業者だけでなく居住者の多くが経皮的,経気

道的,経口的に枇素に曝露された.このことが土呂久

患者の特徴である.

 土呂久患者の皮膚病変6),死因7),発癌8)については

すでに報告してきたので本稿ではその発症機序を中心

に考察する.

 自然界に広く分布している枇素の多くは硫化鉄

(FeAsS)あるいは他の金属硫化鉱物として存在し,硫

黄との親和性が強い.従って三価の亜硫酸は酵素蛋白

表5 土呂久慢性枇素中毒患者,全国民,

 宮崎県民の悪性腫瘍死率比較

つ二慢性能素中毒患者(・98)

30、6%(27/88)

全国民('96)    30.2%(271,183/896,211)

宮崎県民(■96)  28.5%(2,661/9.320)

1123

中のシステインSH基にブロック剤として結合するこ

とで細胞代謝に影響を与え,SH基のない核酸には直

接影響しないとされている9).また無機枇素はDNA

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1124                 出盛 允啓ほか

表6 土呂久慢性枇素中毒患者(55歳以上),国民(65歳以上)の内臓悪性腫瘍死率比較

総悪性腫瘍死二心

匹二 づ二 匹二 づ二慢性砥素

中毒患者(■98)30.6%(27/88)

 19%(17/88)

 4%(4 */88)

3.4%(3/88)

2.3%(2/88)

国民(65歳以上)

    (■96)27.3% 5.4% 0.5% 5.1% 1.7%

*膀胱癌 3名 尿管癌 1名

表7 土呂久慢性枇素中毒患者と宮崎県清武町民の皮膚悪性腫瘍発現率比較

           皮膚悪性腫瘍

対象グループ・対象ボーエン病 日光角化症 基底細胞癌

清武町民(60歳以上) 662名 1名(0.15%) 6名(0.91%) 2名(0.30%)

土呂久慢性枇素中毒患者(55歳以上) 162名 51名(31.5%) 15名(9.2%) 1名(O、6%)

表8 ボーエン病発症から内臓悪性腫瘍発現までの期間

症例 性ボーエン病

診断時年齢

悪性腫瘍

診断時年齢

ボーエン病ゅ悪性

腫瘍診断までの期

間(年)

1 男 69歳 71歳(肺癌) 2年

2 男 68歳 73歳(肺癌) 5年

3 男 53歳 55歳(尿管癌) 2年

4 男 63歳 67歳(転移癌) 4年

5 男 61歳 63歳(上顎癌) 2年

6 女 62歳 72歳(肺癌) 10年

7 女 73歳 80歳(乳癌) 7年

8 女 51歳 74歳(胆管癌) 23年

を直接障害せず,DNA修復酵素群への障害を介して

間接的に影響を与える1に.

 枇素によるDNA障害は核DNAとミトコンドリア

DNAとに分けて検討すべきである.分裂細胞では分

裂前にミトコンドリアDNAは倍増し,ほぼ同量ずつ

娘細胞へ分配されるが,その分配には規則性はなく,

もし一部のミトコンドリアDNAが変異を持っていた

場合それが多く伝えられる娘細胞と正常ミトコンドリ

アDNAが多く伝えられる娘細胞とが存在することに

なる.その結果,分裂回数が多くなるほど正常ミトコ

ンドリアDNAを多く待った細胞群と変異ミトコンド

リアDNAが大部分を占める細胞群への両極化がみら

れる.このことから,変異ミトコンドリアDNAを多く

待った細胞はエネルギーが枯渇してアポトーシスに到

るが,正常ミトコンドリアDNAを多く待った細胞は

変異核DNAを内在したまま生き残り,分裂系細胞(皮

膚,粘膜上皮)などでは高齢化とともに他の発癌因子

の影響も加重され発癌の可能性が高くなると推察され

る.

 一方非分裂系細胞では,詳細は不明な点が多いが変

異ミトコンドリアDNAは選択的に増加するとされて

いる.その結果,変異ミトコンドリアDNAを多く待っ

た非分裂系細胞(心筋,神経)では時がたつほどにエ

ネルギー不足による機能低下が生じ,それが高ずると

細胞死するに到ると推察される12)

 以上の諸家の知見や見解を勘案すると慢性枇素中毒

後遺症は非分裂系細胞群と分裂系細胞群に分けて対処

するのが妥当であろう.

 1.非分裂系細胞(心筋,神経)への枇素の影響

 枇素のDNA修復障害により変異ミトコンドリア

DNAが蓄積され,心筋や神経細胞のATPが減少する

結果,機能低下やアポトーシスが生じていると考えら

れる.

 事実,土呂久患者の死因の第一位は悪性腫瘍ではな

く心疾患であり(表3),しかも死亡患者における多発

性神経炎の合併率も53.7% (44名/82名)と高い(表

10).

 1955年におこった森永枇素ミルク中毒事件(被災児

12,131名,死亡130名)の被災者の15歳時の臨床心理

的検診結果では, IQ 85 以下(特殊教育対象児童・生

徒)が対照の2.04%に較べて20.64%と10倍も高値で

あると報告されている巴 しかも17歳時での死亡調

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慢性枇素中毒後遺症

表9 土呂久慢性枇素中毒症患者におけるボーエン病,

 日光角化症発症者の死亡年齢比較

ボーエン病発症者 日光角化症発症者

症 例 性 死亡年齢 症 例 性 死亡年齢

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

25

26

27

28

29

30

31

32

33

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55

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95

83

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86

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72

67

64

70

62

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88

68

66

73

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78

69

99

67

75

93

83

57

64

90

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85

71

10

83

91

88

87

88

80

81

73

92

87

78

平均死亡年齢 84.4歳

平均死亡年齢 76.1歳

査では循環系疾患の実測死亡数が予想死亡数の2.8倍

であったという14)

 2.分裂系細胞への枇素の影響

 枇素のDNA修復障害作用を介して,変異核DNA

が蓄積され,皮膚や粘膜上皮細胞では発癌の可能性が

高くなる.枇素による発癌(特に皮膚,肺,尿路上皮

癌)の報告は枚挙にいとまがなく15)16)土呂久患者で

も皮膚,肺,尿路上皮癌の多発が確認されている(図

1,表4, 6).

 皮膚や肺は経皮的または経気道的に直接枇素に高濃

1125

表10 土呂久慢性枇素中毒症死亡患者における多発性

 神経炎発症状況

多発性神経炎(+) 多発性神経炎(-)

症 例 性 死亡年齢 症 例 性 死亡年齢

 1

 2

 3

 4

 5

 6

 7

 8

 9

10

11

12

13

14

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16

17

18

19

20

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23

24

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28

29

30

31

32

33

34

35

36

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38

39

40

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43

44

φ

φ

56

57

61

64

67

69

72

73

75

76

78

81

82

83

87

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89

90

99

55

62

63

64

64

67

67

68

68

70

70

71

72

73

75

75

77

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8(〕

81

83

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1

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13

14

15

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17

18

19

20

21

22

23

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88

88

88

91

平均死亡年齢 76.3歳

平均死亡年齢 74.6歳

度曝露し,尿路系は排泄時に必然的に曝露されるので

発癌が多いと容易に推察される.またSH基の豊富な

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1126 出盛 允啓ほか

ケラチンを産生する角化細胞が95%以上を占める表

皮と皮膚付属器(爪,毛)には硯素が集積し,その結

果慢性硫素中毒症認定の決め手となる特徴的皮膚症状

の色素異常,角化異常,種々皮膚癌が好発することに

なる.

 ボーエン病は被覆部に好発し,露光部には少ないこ

とが知られているが,その理由の1つとして大腸菌で

は枇素と紫外線の両者による同時曝露は単一被曝に比

して突然変異率が上昇し,生存率が下がるとの実験報

告がある几これと同じことがヒト表皮細胞でも生

じ,露光部では枇素の影響が大きい細胞の場合,紫外

線追加により変異がさらに強くなりアポトーシスを呈

し,ボーエン病やその他の皮膚癌発症には到らないと

も考えられる.しかし露光部でも枇素による変異が軽

微でアポトーシスを起こさず生き残った表皮細胞に,

他の種々発癌因子によるDNA変異に加えて紫外線障

害が重ねられると,枇素に汚染されていない健常者に

は無害なレベルの紫外線障害蓄積量でも日光角化症が

好発してくると考えられる(図1,表7, 9).今後の重

要な検討課題である.

 三木らは波方慢性枇素中毒症でボーエン病が進行皮

膚癌に進展するのに約10年,さらに内臓癌が発見され

                         文

  1)古城八寿子:枇素中毒の臨床症状,とくに皮膚症

   状,地学教育と科学運動(特別号,アジア地下水暁

   素汚染問題を考える):6-13,1997.

 2)堀田宣之:地下水硯素汚染地域の地理学的状況,

   地学教育と科学運動(特別号,アジア地下水枇素汚

   染問題を考える):6-13,1997.

 3)川原‥一之:アジアに広がる地下水汚染,現代農業

   (11月増刊号):24-35,1996.

 4)国民衛生の動向,財団法人厚生統計協会編, 45(9)

   東京, 1998.

 5)記録・土呂久,土呂久を記録する会編,本多企画,

   宮崎, 1993.

 6)岡崎美知治,出盛允啓,緒方克己,他:土呂久地区

   慢性枇素中毒症患者!44名にみられた皮膚病変の

   検討.西日皮膚,51:92(ト926,1989.

 7)出盛允啓,井上勝平:土呂久慢性枇素中毒症患者

   の死因, Skin Cancer・,8: 325-329, 1993.

 8)出盛允啓,黒川基樹,緒方克己,井上勝平:土呂久

   慢性枇素中毒症患者の発癌状況, Skin Cancer,

   14 : 158-163,1999.

 9)木村修……-,古川勇次:ヒ素,化学の領域(増刊126

   号):137-146,1980.

 10) Nishioka H : Mutagenic activitiesof metal com-

   pounds in bacteria,Mutat Res.31 : 185-189,1975.

 11) Goldman M, Dacre JC : Inorganic arsenic com-

るのに約10年が経過すると報告している18)自験例

では症例数は少ないがボーエン病発症からその後内臓

悪性腫瘍の発見された症例が8例あった.男性5例の

先行期間はすべて5年以内(平均3年)であった.女

性3例の平均先行期間は13年であった(表8).

 3.慢性枇素中毒症患者への対応

 慢性砥素中毒症患者では心疾患死が多く,また多発

性神経炎の合併も多いので,日常生活の指導を含めて

循環器,神経内科などの専門医による定期的診療が必

要である.

 皮膚・肺・尿路上皮などの発癌に対しては,各専門

医による早期発見・早期治療は必須である.また日常

生活でも禁煙,直射日光を避けるなど具体的対策の指

導も徹底すべきである.

          おわりに

 最近,急性枇素中毒が注目されている19)いち早く

厚生省はその救済策を公表しているが,その際森永枇

素ミルク事件や,土呂久枇素公害などの追跡結果が重

視され,慢性枇素中毒後遺症も救済の対象となったと

仄聞している.慢性枇素中毒症への対処に本稿が多少

とも参考になれば幸いである.

   pounds : are they carcinogenic. mutagenic, tera-

   togenic?,E凹加nG飢九em Health, IS U):179-191,

   1991.

 12) Douglas cw : Mitochondrial DNA in aging and

   disease. Sci Am (August):4〔ト47,1997.

 13〕山下節義,土居 真,北條博厚,田中昌人:京都に

   おける森永硯素ミルク中毒被災児の現状,日衛誌,

   27(14):364-399,1972.

 14)日出興彦:森永批素ミルク中毒被災児の疫学的統

   計から,恒久救済,62 : 19-20,1994.

 15) Sommers sc, Magnus RG : Multiple arsenical

   cancers of skin and internal organs, C朋ぼr,6:

   347-359.1953.

 16) Shu Yeh : Skin cancer in chronic arsenicism. Hu

   Pathol.4(4):465-485,1973.

 17) Rossman TG, Meyn MS, Troll W : Effect of so-

   dium arsenite on the survival of UV-irradiated

   EshertcHiaCO/j : inhibition of a recA-dependent

   function, Mutat Res, 30 : 157-162,1975.

 18) Miki Y. Kawatsu T, Matsuda K, Machino H, Kubo

   K : Cutaneous and pulmonary cancers associated

   with Bowen's disease, jAm Acad Derm・加/,6:26-

   31,1982.

 19)井上尚英,本田 浩,岡村精一,大原郁一一:急性枇

   素中毒,日本署事新報, 3920 : 19-24, 1999.

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慢性枇素中毒後遺症

Chronic Arsenic Poisoning :A Discussion ofits Sequelae Based upon Long-range

          Follow-ups of Patients at Toroku, Miyazaki

1127

        Masahiro Idemori, Motoki Kurokawa, Katsumi Ogata and Shouhei Inoue

       Department of Dermatology, Miyazaki Medical College, Miyazaki 88(ト1692,Japan

          (Received November 9, 1999 ;accepted for publication December 1,2000)

  We studied 162 officiallydiagnosed cases of chronic arsenical poisoning at Toroku. Polyneuropathies and

cardiac deaths were increased in Toroku patients, and cancers of the skin,lung and the urinary tract were

also increased. We propose that the disease processes be classifiedinto two main categories ;non-dividing cell

systems such as the heart muscle and the nerves and dividing cellsystems such as the skin and mucous mem-

branes. The patients should be managed separately in each of these categories. In the epidermis, where SH

groups, which are the target of inorganic arsenic, abound, Bowen' s disease of covered sites appears fre-

quently ;during the process of aging, solar keratosis carcinoma of uncovered sitesalso develops frequently.

We studied these mechanisms.

 (Jpn J Dermatol 110 : 1121 -1127, 2000)

Key words : Arsenical poisoning. Pulmonary carcinoma, Urinary carcinoma. Bowen' s disease, Solar kerato-

       sis,Cardiac death, Polyneuropathy