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『冷血』試論 く事実>とく虚構>に関する一考察 <贅言> この夏(1984年)トルーマン・カポーティが死んだ。彼が死んだ日,私はロサンゼ ルスに滞在して居り,その死をテレビのニュース報道で知った。その報道内容はごく 短いもので,彼がアルコールとドラッグの常用者であったという点だけが奇妙に強調 され,それが彼の死と何らかの因果関係にあるというアナウンサーの口吻であったが, カポーティ自身について,あるいは彼の作家としての業績については殆ど何の言及も なされなかった。無論,その必要がない程カポーティはアメリカ社会の中で有名人だっ たのかも知れない。その意味では彼の扱いは作家と言うよりは芸能人並だったとも言 えるだろう。だが,やはりこれは淋しかった。その華やかなるジャーナリズムの寵児 としての貌とは裏腹に,カポーティはアメリカ社会の中で静かな拒絶に会っていたの ではなかったか。カポーティが死んだ日,私の脳裏を横切った第一感がこれであった。 一方,私は彼の死と照してアメリカについての,これまたひどく主観的な印象を抱 いていた。ひょっとしたらアメリカは再び健康を取り戻しつつあるのではないか。一 介の旅行客としてアメリカの街並を歩きながら,私は心の中でひそかにこのことを反 紹していた。霧しい犯罪と危険に満ちたアメリカーだが,ジャーナリズムにたびた び登場するこの常套句はむしろ実感からは遠いのである。成程,ニューヨークでは多 くの警官が街頭に立っていたが,夜中の12時を回っても街路を歩く人々の群は絶える ことがなく,それでいて何一つ起こるというわけでもなかった。私がたまたま立ち寄っ た寿司屋の職人は,最近,特にタイムズ・スクエアあたりの治安がいかによくなった かを強調した。無論,犯罪は私の知らぬニューヨークの路地裏で日常茶飯に発生して いたはずであるが,通りすがりの旅行者が一体どうしてそのような危険を感得できた

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  •       『冷血』試論

    く事実>とく虚構>に関する一考察

    前 川 裕

    <贅言>

     この夏(1984年)トルーマン・カポーティが死んだ。彼が死んだ日,私はロサンゼ

    ルスに滞在して居り,その死をテレビのニュース報道で知った。その報道内容はごく

    短いもので,彼がアルコールとドラッグの常用者であったという点だけが奇妙に強調

    され,それが彼の死と何らかの因果関係にあるというアナウンサーの口吻であったが,

    カポーティ自身について,あるいは彼の作家としての業績については殆ど何の言及も

    なされなかった。無論,その必要がない程カポーティはアメリカ社会の中で有名人だっ

    たのかも知れない。その意味では彼の扱いは作家と言うよりは芸能人並だったとも言

    えるだろう。だが,やはりこれは淋しかった。その華やかなるジャーナリズムの寵児

    としての貌とは裏腹に,カポーティはアメリカ社会の中で静かな拒絶に会っていたの

    ではなかったか。カポーティが死んだ日,私の脳裏を横切った第一感がこれであった。

     一方,私は彼の死と照してアメリカについての,これまたひどく主観的な印象を抱

    いていた。ひょっとしたらアメリカは再び健康を取り戻しつつあるのではないか。一

    介の旅行客としてアメリカの街並を歩きながら,私は心の中でひそかにこのことを反

    紹していた。霧しい犯罪と危険に満ちたアメリカーだが,ジャーナリズムにたびた

    び登場するこの常套句はむしろ実感からは遠いのである。成程,ニューヨークでは多

    くの警官が街頭に立っていたが,夜中の12時を回っても街路を歩く人々の群は絶える

    ことがなく,それでいて何一つ起こるというわけでもなかった。私がたまたま立ち寄っ

    た寿司屋の職人は,最近,特にタイムズ・スクエアあたりの治安がいかによくなった

    かを強調した。無論,犯罪は私の知らぬニューヨークの路地裏で日常茶飯に発生して

    いたはずであるが,通りすがりの旅行者が一体どうしてそのような危険を感得できた

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    であろうか。

     ロサンゼルスでも事情はさして変らなかった。たしかにダウンタウンのビルの谷間

    には濫襖をまとった住居不定者の群があったが,日中の猛暑のせいか彼らは一様にお

    となしく・その重たげな身体を無気力にアスファルトの上に投げ出していた。この

    光景をハリウッドやビバリー・ヒルズの高級住宅街と重ね合わせて見る者は,早速,

    天国と地獄の図柄を思い浮べ,この極端な貧富の差の中にこそアメリカ社会の病巣

    を認めるはずである。だが,それとてく危険>という印象とは結びつかなかった。四

    年前に私が訪問したロサンゼルスの町はこうではなかった。そこには危険な不健全さ

    が禰漫しており,私はひどく緊張したのを覚えている。

     無論,以上の観察が全く主観的なものにすぎないのは先刻承知である。犯罪統計学

    的には,あるいは私の観察とは全く正反対の事態がアメリカ社会の中に起こっている

    のかも知れない。そうだとしたら,その事実を否定しようとは思わない。だが,たし

    かに私の心象の中では,カポーティが死んだことと私が旅行中純粋な観光客として眺

    めたアメリカの街並には奇妙な符合があった。カポーティがr冷血』の中で描き出し

    たアメリカの狂気はすでに凪の中にあるように見える。少なくともアメリカ社会の腐

    敗にようやく歯止めがかけられ始めたという印象を私は抱いた。その意味でカポーティ

    の死は象徴的であった。カポーティはもはやアメリカ社会の中では不要だったのであ

    り,彼自身そのことをよく知っていたのではなかったか。

    1

                                    の 私がトルーマン・カポーティという作家に引き寄せられたのは彼がr冷血』を書い

    たからである。率直に言って,私は『冷血』以外のカポーティの作品をあまり好きで

    はない。いや・それは私にとって好悪の問題というよりはむしろ評価の問題と言うべ

    きであろう。何と言ってもカポーティはr冷血』の作家なのである。この作品がなけ

    ればカポーティは一流半の作家にすぎず,この作品があったからこそカポーティがア

    メリカ社会の中で占める位置は重要であり,同時に悲劇的だったように思われる。

     我々がr冷血』について論ずる時,大きく分けて二つの視点が可能であろう。一つ

    は,r冷血』が示している小説技法に関する特殊な方法論(いわゆるnonfiction novel

    という概念)を純粋に文学論的文学史的観念から捉えて論ずることである。今一つは,

                     じ  のこの作品が示している内容それ自体を必ずしもく文学>という領域に拘泥することな

    く・むしろ文化論的に論じてみることであろう。無論,この二つの視点は互いに補完

  • 35

    的な関係にあるが,従来,nonfiction novelという言葉の流行と相侯って,文学方法

    論としての視点が重視される傾向にあったことは否めない。もっとも,日本はもとよ

    りアメリカにおいてさえも,カポーティについて生真面目に論ずる批評家の数は少な

    く,r冷血』の方法について言及している書物もそれ程多くはない。

                          (2) Mas’ud ZavarazadehのThθ躍y疏opoeεo Rεα配ン及びJohn HellmanのFαδZθs   (3)o∫ Fαcεがnonfiction novelという概念について本格的な論及を行なった注目すべ

    き出版物である。ただ,この二書はカポーティのみを扱っているわけではなく,r冷

    血』の中に示されている方法論の特殊性,及びそれがアメリカ小説の文学方法論の中

    でどのような歴史的流れに属するかについて論じ,結局は現代アメリカ文学の新しい

    方向性を模索している。

                      (4) また,Robert Meri11の1〉or肌απMα‘Zθr はメイラー論でありながら,メイラーと

    カポーティの接点をよく捉え,カポーティがr冷血』において開発した方法論がメイ

    ラーのいくつかの作品に確実に影を落していることを示唆している。

     だが,実は私の考えでは,r冷血』の本当の価値はその斬新な小説技法としてのス

    タイルにあるのではなく,1960年代から70年代にかけてのアメリカ社会に関する歴史

    的文化的把握とその的確な時代認識にあるように思われる。従って,もしその方法論

    が論じられなければならないとするならば,そのような把握や時代認識との関連にお

    いてなされるべきなのであり,方法論の問題は独目の問題ではあり得ないのである。

     例えば,Zavarazadehが試みていることは,その意味において示唆的である。彼

    はアメリカ文学史における一般のモダニストによる戦後小説がく現実の統合化>を基

    本としていることを指摘しながら,スーパー・モダニストと呼ばれる作家達の作品が                        (5)<現実の統合化>を拒否するものであることを述べている。すなわち,一般の戦後小

                              説の理念がく現実>をく解釈>してそこ・に総合的な意味を付与するのに対して,スー

    パー・モダニストによるnonfiction novelはく現実>のく解釈>を拒絶する。前者

                                             じが〈現実>を虚構化するものであるとするなら,後者はく現実>の中に存する虚構的

             

    なものを抽出すると言ってよかろう。これはけっして言葉の遊びではない。それどこ

    ろか,その意味内容は正反対である。<現実>を虚構化するのはく現実>がく事実>

    に裏打ちされていることへの抵抗であり,<現実>の中に虚構性を認めるのは,<現

    実>がむしろ虚構的であることへの服従なのである。従って,この情報化時代の中に

    存する個々の現実の虚構的要素を表出する言語の創造は当然のごとく必要なのであり,

    nonfiction novelはその言語が集積された総体としての方法論的概念なのである。

                          (6) この意味で,Zavarazadehの言うく解釈の零地点>とは,個々の言語が有機的な

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                                        意味の付与を拒否して,最終的にはその言語の連鎖の彼方にあるく現実>としての意

    味を中性化する現象を指している。そして,r冷血』はそのような構造を持つ典型的

    な作品であり,それが伝える意味内容自体がその方法論とすぐれて合致しているので

    ある。このことをr冷血』の作品論という形を取りながら実証することが本稿の目的

    と言ってよかろう。

    2

     『冷血』がカンザス州のHolcombという小さな町で現実に起こった一家四人殺し

    に取材した作品であることはよく知られている。だが,「~に取材した作品」の意味

    はこの作品においては必ずしも分明ではない。我々が知っていることは,カポーティ

    がこの現実の事件にともかく興味を抱き,それを徹底的に調査したということだけで

    ある。その調査がこの作品を書く上でどのような形で反映されたかは,カポーティ自

    身の明確な主張とは相反して,いささか微妙な問題を含んでいる。いや,この作品が         (7)immaculately factualであるこ.とに対するカポーティのこだわりから,むしろある

                                     じ   種の疑念が生じてくるのである。何故,カポーティはこの作品が彼が調査した事実に

    厳密に基づくもとであることをそれ程までに強く主張する必要があったのか。

      r冷血』は四つの章から構成されている。(I The Last to See Them Alive H

    Persons Unknown 皿 Answer W The Comer)そして,これらの各章のサブタ

    イトルの連想から,我々読者はサスペンス仕立ての推理小説さえ思い浮べることがで

    きる。それにもかかわらず,この作品が推理小説と異なるのは,それが例えばクラッ

                        たぐいター家の人々を殺害した犯人が誰なのかといった類の疑問を一切喚起しない点である。

                                                 我々はr冷血』の中で起こる事件をあらかじめ知らされているのであり,その事件を

    引き起こす人間が誰であるかも初めから予測可能なのである。第1章において,カポー

    ティはすでに起こった殺人事件を次のように報告している。

     しかし,11月のある日曜日の早朝,聞き慣れぬ音がホルカムのいつもの夜の騒音

      コヨーテがヒステリックに泣き叫ぶ金切り声,風にたなびく雑草が互いにこす

    れる乾いた音,疾走して来ては再び遠去かっていく機関車の汽笛等一の中に侵入し

    て来たのである。その時刻にはホルカムの町はしんと静まりかえっており,この町に

    住む人間の誰一人としてその音を聞いたものはなかった。  結局六人の人間の命

    を奪うことになった四発のショットガンの銃声を。しかし,それまでは,普段戸に

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    鍵をおろすこともない程互いに恐れることを知らなかった町の人々は,その後・再

    三再四幻想に脅え,その銃声を頭の中で再現するようになった。その陰気な爆発音

    が,昔からの多くの隣人の心の中に不信の焔をかき立て,互いに相手をよそよそし

    く,見知らぬ人として眺めるようにさせてしまったのである。(p・17・)

     Holcombという町の地形上の特徴に関する冒頭の説明に続くこの一節は,これか

    ら語られようとする事件に対して作者が立つべき位置を示唆している。つまり,この

    一節を読んで我々読者が共通に抱くであろう印象は,作者が事件を少なくともその外                            じ                                              

    貌においては,すでに知っているということなのである・「結局六人の人間の命を奪

            うことになった四発の銃声」といういささか不合理な記述が何の説明もなく唐突に挿

    入されていることが,そのことをもっともよく表している。このマイナス2の誤差が

    そのまま作者と読者の事件に対する知識の差であるのは明白である。我々読者は,お

    そらくこの物語を読み進むにつれて,この誤差の意味を次第に認識するはずである。

    無論,四発の銃弾に倒れたのはクラッター家の四人の人間だけである・だが・この殺

    人の実行行為者達目身正にその行為により,後に絞首台の上に立つことになるのである。

     このように作者は,事件に対する自身の知識の一部を暗示的に示しながら,それで

    いてすべてを開陳してみせるというわけではない。いわば,これは始めと終りが明示

    された組み合わせパズルのごときものである。二人の男達によって四人の善良な家族

    が殺された。そして,犯人がペリー・スミスとリチャード・ユージン・ヒッコック

    (ディック)であることは,おそらく初めから暗示的に知らされているのである。何

    故なら,作者は第1章においてハーバード・W・クラッター氏とその家族の最後の土

    曜日の日常生活,及びその時点にまで至る彼らの生活史を克明に描きながら・一方で

    はペリーとディックがクラッター家を襲うために刻一刻Holcombに近づいて行くそ

    の緊迫感に富んだ状況を描写しているのである。この二つの場面はそれぞれ映画の

    くショット〉のように同時的に進行し,殺人事件が発生するまで平行的に続き,文字

    通りクラッター家の人々の死亡によって一本化されることになる。

     つまり,この作品の中に存在するサスペンスの質は,結果に対する原因の不分明さ

                                   のに他ならない。言葉を換えれば,作者は明らかにこの事件がく事実としてあった〉よ

    うにしか書いていないのである。少なくとも表面上は,カポーティが調べて分ったこ

    としか書かれていないのであり,その場合作者は全智全能の神ではなく,その知る能

    力には限界があることを我々読者に思い知らせていると言えよう。従って,クラッター

    家の人々に関する描写と後に起こる殺人事件との間には,必ずしも論理的な関連性が

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    存在していない。例えば,クラッター夫人のヒステリー性の心の病(“little spells”)

    はクラッター家の悲劇と何らかの関係がありそうなサスペンス仕立てでありながら,

    実は全然無関係なのである。あるいは,酒やタバコを一切たしなまないメソディスト

    派の熱心な信者であるクラッター氏が実はタバコを吸うことにひそかな慰めを見出し

    ていることに,娘のナンシーが気づく場面がある。だが,この場合も何故クラッター

    氏がタバコを吸うのか一行の説明もないままに事件との関連性を否定されてしまう。

     要するに,事件が起こる当日及びその前後のクラッター家に関して我々が知り得る

    情報は,ペリーとディックの不可思議な行動を何ら説明してはいないのである。おそ

    らく・「第一幕でピストルのことが言われたら,それは第三幕で発射されなければな

                         らぬ」と語るチェーホフなら,このような小説を不可とするのは明白であろう。プロッ

    トというものは互いに緊密な連関を示す幾すじかの線によって構築的に構成されるべ          きものなのだから。だが,我々がこの作品の中に著しい緊迫感を感得し得るのは,一

    つには我々の知りたいと思う意欲のせいなのである。同時的進行をなす二つのプロッ

                                  ロトがその細部において整合性を欠いているのは,正にそれが事実だからなのだという

    逆説的な体験が我々読者の中に芽ばえる。それは事実というものが解釈を拒絶すると

    いう定理を髪麗させ,事実の中に存するく虚構性>を証明するかのような作用をなす

    ことになる。

     だが・カポーティのあくまでも調査をよそおった描写法とは裏腹にペリーとディッ

    クの二人の関係については奇妙に内面的な描写がなされている。プロットにおいては,

    Zavarazadehの言うく解釈の零地点>から足を踏み出すことをかたくなに拒絶して

    いるにもかかわらず,二人の描写がひどく内面化されているのは矛盾と言えばそれま

    でだが,この矛盾は不条理なことに見事な成功を収めている。

     ペリーとディックは双子の兄弟のような親密な関係にありながら,その内実は全く

    異なっている。ペリーは女性的で嫉妬深い性格だが,それ故に豊かな感受性を有し,

    文学を好む。一方ディックは,男性的で文学等とは全く無縁な実際的な精神の持ち主

                     ホジ   ネガである。言わばこの両者はフィルムの陽と陰の関係にあり,彼らの友情がその著

    しい性格の相反性に基づいているのは明白である。事実,そのような関係は我々の日

    常生活の中で頻繁に起こり得るのだ。だが,問題なのは,そのような友情が逆に彼ら

    の外面的な特徴の一致と照される時,極度なあやうさを露呈しているということであ

    る。この外面的な特徴の一致はおそらく偶然の一致でありながら,彼らの内面ではあ

    る種の運命的な必然性を帯びることになる。というのも,彼らは二人とも車の事故を

    経験しており,例えばディックの場合,その傷痕が自身の身体に次のように深く刻み

  • 39

    込まれているのである。

     その事故のせいで,顎の突き出た細長い彼の顔は傾斜し,左側が右側より低くな

    り,その結果唇がやや斜めに傾いており,鼻もゆがんでいた。そして,彼の両目は

    不釣り合いに並んでいるだけでなく,その大きさも異なっていた。特に左目は本当

    に蛇の目にそっくりで,毒々しく青光りする斜視の目は,目ら進んでそうするわけ

    ではなかったけれど,彼の性質の根底に苦々しい沈殿物が沈んでいることを警告し

    ているかのようであった。(p。42.)

     だが,ペリーの肉体的欠陥はディック以上に顕著である。彼は生まれつきの発育不

    良の未熟児であり,その上,彼がモーター・サイクルの衝突で受けた負傷は,ディッ

    クの負傷よりも重く,その小人のような足を五カ所も骨折し,そのために一生足の痛

    みに悩まされる病的なアスピリン吸飲者となっている。つまり,両者の悲劇が可視的

                              アイデンテイテイ な即物性を帯びているという点において,両者は見せかけの同一性を共有して

    いるのである。

     だが,この二人の現実認識ははるかにへだたっている。ディックは自分の前に横た

    わっている現実の壁を何の抵抗も示さずにむしろ無関心に受け入れる。そして・すべ

    ての物事に対して短絡的な思考しかできず,瞬時の快楽にしか関心を示さない。一方,

    ペリーは自分の不幸な現実をけっして認めようとはしない。同時にペリーには粘着性

    とも言える様な奇妙に一貫した思考があり,そのため彼が内面にかかえ込む苦悩は深

    化され増幅される。知的劣等感と虚栄心は彼に文法の大家としてふるまうことを強い・

    ディックの野卑な英語を訂正することに夢中にならせる。また,アカプルコの海の底

    に眠るガリオン船の中の金塊を手に入れることを本気で信じて,その実行を夢見たり

    する。要するに,ペリーの視界は四方を塞ぐ現実の壁を越えて・はるか彼方の虚空に

    据えられている。この意味で,ペリーは「アメリカの夢」の正当な継承者に他ならな

    い。

     しかし,ペリーの成功の夢が,ディックにとってばかげたものに見えたのは当然で

    ある。ディックには,宝探しの地図や古い詩等のぎっしり詰ったスーツケースを持ち

    歩くロマンティックな趣味もなければ,ラスベガスのナイトクラブのスターになりた

    いという夢もない。彼の関心はあくまでも実益であり,ペリーはそれを実現するため

    の手足となるべき存在だったのだ。

     その意味で,ディックの犯罪動機は容易に理解し得る。彼がクラッター家に押し入

  • 40

    ることを計画したのは・たしかに金が欲しかったからであり,クラッター家の人々を

    皆殺しにしなければならないと考えたのは,目撃者を残さないためであり,結局はそ

    れによって逮捕を逃れるためなのである。このようなディックの思考は,即物的であ

    るが故に一応我々の理解の範囲内に納まっている。

     真に驚くべきことは,この計画に参加したペリーの動機がある種の歪んだセンチメ

    ンタリズムに基づいているということである。ペリーは実のところ最初からこの強盗

    殺人に乗り気なわけではなかった。それにもかかわらず,彼が結局ディックと行動を

    共にするのは,ある種の「友情」のせいなのである。いや,言葉の厳密さが要求され

                                      るとするならば,ディックに対する友情への彼目身のこだわりのせいであると言い換

    えるべきであろう・クラッター家を目前にした二人が,にれの木の立ち並ぶ街路で車

    を止め・満月の月明りに照されながら交す会話は,その意味で何と象徴的であること

    か。ペリーは土壇場になってディックにこの犯罪を思いとどまらせようとする。その

    ためすっかり腹を立ててしまったディックを元の気持ちに戻すために,ペリーは次の   べ                                          くのように言うのである。一分ったよ,ディック。俺はあんたと一心同体さ。一たしか

    に,ディックに対するこのようなペリーの思い入れには,ホモ・セクシュアルのにお

    いさえする。それだけに,この二人の友情の崩壊がもたらす結果は重大である。

    3

     逮捕地ラスベガスからカンザスヘ車で移送される途中,ペリーはK.B.L捜査官

    アルヴィン・デューイからディックがすっかり自白したことを教えられる。これはあ

    まりにも当然すぎる帰結である。クラッター一家殺害後の逃走から逮捕に至るまでの

    時間の流れの中で・彼ら二人はすっかり呼吸の合わなくなった兄弟の空中ブランコ乗

    りよろしく,互いに顔をそむけ合ったまま,それでいて相手の命綱を任されていると

    いうような関係になっている。特にディックにとって,ペリーはもうただひたすらお

    ぞましいだけの存在だった。

     疑い深く,独善的で,意地の悪いペリーは厄介払いしなくてはならない妻のよう

    な存在だった。それにはただ一つしか方法がなかった。一何も言わずに逃げ出す

    こと。(p.217.)

     だが,「何も言わずに逃げ出すこと」などできはしないのだ。彼らの見せかけのアイデンテイ  

    同一性は・この場合妙に忠実にその義務を果そうとする。結局,ディックは自白

  • 41

    し,そのおぞましい妻の厄介払いを司法の手にゆだねたのである。

     ここで我々はこの恐るべき複数殺人についての二つのversionを聞くことになる。

    最初に自白したディックは,ペリーがクラッター家の四人すべてを殺したと主張する。

    一方,ペリーはクラッター氏と息子のケニヨンを自分が殺し,母親のボニーと娘のナ               (10)ンシーはディックが殺したと主張する。そして,ペリーは,最初の殺人であったクラッ

    ター氏の殺害動機について次のように告白する。

     「どうだい,ディック。何か気がとがめるかい」やつは返事をしなかった。俺は

    言ってやった。「連中を生かしておこうよ。これだけだってけっして罪は軽くない

    ぞ。最低でも10年くらうことになるだろうよ。」やつはそれでも何も言わなかった。

    そして,相変らずナイフを握っていた。それで俺はそいつをこっちによこすように

    言ったんだ。するとやつはそれをさし出した。r分ったよ。さあ,やってやろうじゃ

    ないか。」俺は言った。でも本気じゃなかったんだ。俺はわざと挑発してやつが俺

    を止めるように仕向けようと思ったんだ。あいつが見せかけだけの臆病者であるこ

    とを認めさせたかったんだ。確かにあれは俺とディックの間の問題だった。(pp.246

    -247.)

     たしかに,ペリー自身が認めているようにこの直後に起こる残虐行為を誘発するも

    のは,ペリーとディックの間の心理的葛藤に他ならない。そして,そのような葛藤を

    生み出すきっかけとなったのは,ディックの計画の筋書きにあった金庫がクラッター

    家には実在しなかったこと(r何か気がとがめるかが」はそのことを指している)及

    びナンシーを犯そうとしたディックをペリーが異常な執着を示して止めたことである。

    金庫がなかったことは,「完全な計画」(perfect score)の夢をすっかり打ちくだいて

    しまった。そして,ディックは自分の失敗をそれによって隠蔽しようとするかのよう

    に虚勢をはり,クラッター家の人々を皆殺しにすることを主張する。

     一方,ペリーは金庫のことよりもディックがナンシーを犯すのではないかと心配す

    る。そして,ディックがナンシーのベッドの上に腰かけて偽りの不幸な境遇をナンシー

    に語って聞かせるのを目撃した時,ペリーは激しい憎悪を押えることができない・ナ

    ンシーの同情に値する不幸な境遇にあるのはディックでではなくペリーの方なのだ。

    この場合,ナンシーの少女らしい優しさとその美しい容貌は二人の内的葛藤に一層の

    拍車をかけるのである。

     後にこの殺人は基本的にはペリーの行為であると裁断した精神科医ジョゼフ・サタン

  •  42

                                      (11)は「この殺人は犯行者達の相互摩擦的な心理劇がなければ起こらなかったであろう」と

    語っている。そして、このような殺人の型をいわゆる「明白な動機なき殺人」に分類

    している。だが,我々がこの殺人に関して真に恐れるのは,明白な動機が欠けている

    ことではなく,ペリーとディックの間に生じた不可解な転倒である。皆殺しを主張し

    ていたはずのディックは悲鳴をあげてあとずさりし,ペリーはいつの間にかクラッター

    氏の喉をかき切り,「誰かがおぼれているような音,誰かが水の中で叫んでいるよう

    な声」(p.247)を聞いているのである。その瞬間,ペリーの脳裏を横切るものは,

    金庫をさがすために足の痛みをこらえて床に腹ばいになった時見つけた1ドル銀貨に

    こめられた憎悪であり,保釈の条件として彼が生まれ故郷のカンザスヘ戻ることを禁

    止した人々の顔なのである。

     たしかにクラッター氏はその怒りをぶつけるべき象徴的な対象として,たまたまそ

    こに横たわっていたにすぎない。だが同時に,r俺はあの人を傷つけたくなかった。

    本当にいい人だと思っていたよ」(p.246)と述懐するペリーが何故クラッター氏を

    殺害したのかは,実はそれ程困難な問いかけではない。アメリカの中西部の健全な有

    産階級を代表するクラッター氏は,アレゴリカルな意味ではやはりペリーのために死

    ぬ必要があったのだ。というのも,クラッター氏はペリーには決定的に欠けていたす

    べてのものをことごとく持ち合わせていたのである。そして,クラッター氏にとって

    唯一不運なことは,ペリーに欠けていたすべてのものをクラッター氏目身が奪ったわ

    けではないということだけである。これをクラッター氏の罪と考えるのは,たしかに

    狂気に他ならない。だが,この殺人においては,その復讐の対象が有効に選択されて

    いないことこそが事件の核心であり悲劇性なのである。その意味ではAlfred Kazin

    の主張を誰もが否定できないように思われる。

     しかし,このような事実に基づく作品では,真実以上にアイロニーがモチーフで

                             (12)あって,この犯罪はく無意味>だというのがそめ主張である。

     だが,このような主張それ自体がディックならいざ知らずペリーにとってはく無意

    味>なものであったろうと思われる。彼はこの恐ろしい殺人行為のさ中にあってさえ,

    クラッター家の人々に対して充分な人間的優しさを示そうとする。無論,これは金庫

    に関する計画の未熟さを隠蔽しようとして猛り狂うディックの姿を一方の極に置いて

    しか考えられないが,それでもあたかも自分が憎んでいるのがクラッター家の人々で

    はないということを証明しようとでもするかのようではないか。縛り上げられて横た

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    わるクラッター氏の背中の下にマットレスを敷いてやったのが,直接の殺人行為者ペ

    リー・スミスであったことは驚くにはあたらない。そして,「殺人者達のうちの一人

    は必ずしも無慈悲だったわけではない」(p.243)というデューイの推測もけっして的

    はずれだったわけではない。事実,クラッター家殺しに関して言えば,ペリーはディック

    よりもはるかに人間的な優しさを示しながら,それでいて信じがたい程残虐にクラッ

    ター家の人々を殺害して見せたのである。

    4

     1950年代の終りにおけるこのような殺人事件の発生は,たしかに後の世代に対して

    暗い予兆を与えずにはおかなかった。この時代から優しさと残虐さという言葉はむし

    ろ同義語であり,幸福な人生を送ろうとするものは自分の感性を無色の中立性という

    安全弁の中に閉じこめなければならないのだ。おそらくr冷血』の中で描き出された

    殺人事件は,60年代から70年代にかけて登場する殺人の原型となるべきものである。                            ロ           し                      の        

    そして,その特徴は事実というものが我々が信じている事実らしさを所有していない               じ   ロ

    が故に事実であると認定される逆説にある。第IV章の「隅っこ」で実名で登場する殺

    人鬼ローウェル・リー・アンドリューズやジミー・ラーサムが犯した殺人は,クラッ

    ター家殺し以上に上記の逆説を充たしている。そして,そのような不条理な殺人を描

    く場合,カポーティのr冷血』はこのようにしか描けないという実例なのである。そ

                             まがのもっとも大きな成功は,事実の因果関係というものが常に紛いにすぎないというこ

    とを我々に示してくれたことであろう。その意味で,カポーティが提唱したnonfiction

    nove1という概念は,実は事実の中に存するように見える人為的な論理の枠組を取り

    払い,そこに存在の原型を見出そうとする試みであったとも言えるのである・

     だが,一方ではまたカポーティがどれ程まで自分の提唱したnonfiction nove1と

    いう小説技法に忠実であり得たか,たしかに疑問は残る。特にペリーとディックの絞

    首の場面,あるいはラストシーンのデューイとスーザン・キッドウェルとの偶然の遅

    遁の場面において,カポーティがく解釈の零地点>の維持を放棄しているように見える

    のは否定できない。死に行くペリーとディックのためにカポーティがいささかdramatic

    な要素を導入しすぎているという批難は,それ相応に当っている。例えば,メィラー

            (13)が『死刑執行官の歌』の中で描いたゲイリー・ギルモアの銃殺の場面は,r冷血』よ

    りもはるかに無機的な空虚感を写し出している。最後の言葉を刑務所長からたずねら

    れたギルモアは,そこに居並ぶ目撃証人には殆ど聞き取れぬような声で‘Let’sdoit』

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    と言うにすぎないのである。また,1979年マイアミにおいてジョン・スペンクリンクの

    電気椅子による処刑を目撃したHorace G.Davisは,そのあまりに機械的で即物的な

    死のプロセスに驚愕し,‘Death is Undramatic’と題する一文を窺εα舵αα〕πs痂邸む‘oπ

          (14)に寄せている。この二つの処刑の光景にくらべると,ペリーとディックの最後の言

    葉といい,ディックが四人のK.B.Lの刑事に対して向ける「まるで目分の葬式に出

    席してくれた客に挨拶でもするかのような微笑」(p.339)といい,『冷血』ははるか

    にdramaticな要素を含んでいるのである。

     だが,問題はこれを方法論的誤謬あるいは不統一と呼んだ場合,後に何が残るかと

    いうことである。およそ方法論というものは,それが自らに課する本体との関係にお

    いて重要なのであって,方法論自体が重要なのではない。だが無論,あくまでも作者

    は事実に忠実に,ということは,我々がすでに馴染んでいる用語法に従えば,事実の

    解釈を拒絶すべきであったとするのは一つの立場である。絞首の場面では二人の死刑

    囚は少しも堂々となどしておらず,魂を失なった人間のごとく青ざめ,またスーザン・

    キッドウェルがデューイに向って,かつてのナンシーの恋人ボビー・ラップが結婚し

    たことを告げるセンチメンタリズム等避けるべきだったと言うのである。円環は旧来

    の小説のように最終的に閉じる必要もなく,むしろ永遠にその結び目を失なっている

    はずだというのもまた堂々たる主張ではないか。

     ところで,Zavarazadehはウラジミール・ナボコフが『冷血』のラストシーンに        (15)            エンデイング

    対しておこなった批判を引用し,この結 末の問題を次のように論じている。

     それは構成上の問題と言うよりは,存在論的な問題であり,ノンフィクション・      クロウジヤ                                             たぐい

    ノベル全般の閉じという極めて重要な問題と結びついている。そのような類の物        エンデイング語形式のいかなる結 末もある程度までは偽りを含むものである。というのもエンデイング

    結 末というものは,独善的かつ人為的にしかも必然的に,ある形式を寸断する

    ことのできない人生の流れ(ノンフィクション・ノベルはその動きに従うものであ             (16)るが)に課すことだからである。

     だが,カポーティに対してかなり好意的なこの見解の最大の欠点は,それがどこか

    言い訳めいて聞こえることである。恐らくそれはZavarazadehがnonfictionnovel

    という概念を体系化するのに熱心なあまり,自らの理論にこだわりすぎているためで

    あるように思われる。そして,結局はすべてのnonfiction novelの結末は人生の流

    れを断ち切るから失敗となり得るというあまり意味のない形式論理に終っている。

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     むしろ,私にはこれは方法論とは別の領域に属する問題であるように思われる。そ

    れはカポーティがr冷血』を書いた時代の状況を抜きにしては論ずることができない

                      のである。カポーティが自ら事実に基づくものであることを宣言したこの作品の結末

    において,何故その原則を破って劇的な要素を導入したかは,別段nonfiction nove1

    の持つ存在論的問題とは言えない。むしろ,それはこの作品が書かれた60年代のアメ

    リカがその未来に暗い影を見ながらも依然として劇的な,そして時には善とか悪とか

    いった形而上的な秩序を完全には放棄していなかったことの証しと考えられるのであ

    る。基本的には70年代の犯罪者であるゲイリー・ギルモアを描くメイラーが,このよ

    うな秩序の虚構性を徹底して写し出し得ているとしても,それをもってr冷血』の不

                            ドラマタイズ徹底ぶりを批難するのは滑稽である。事実をいささかでも劇 化することを許す時代状

    況がそこには残されていたのであり,それが事実の解釈を拒絶するnonfiction nove1

    の原理に違背するとしても,その違背自体がこの作品の価値を損ねるものではなかろ

    うと思われるからだ。

    1.TrumanCapote,1πCo‘dβεooめハ丁彫9みcco剛o∫αM砒‘ρZe伽rderαηdεεs

    σoπse@επcεs(1965).引用はすべてPenguln Booksからの筆者の拙訳による。ここから

    の引用箇所は単にぺ一ジ数のみを示した。

    2.Mas’ud Zavarazadeh,Tんc1吻漉oρoe‘c Reα」εめly∫丁五e Pos伽αr∠4肌erごcαπ1Voル

    ∫‘cε‘oπNou♂(Urbana:Univ.oHlllnois Press,1976)。以下,本書に言及する場合は,

    MRで示す。

    3,John Hellman,Fα配εs oゾFαc広(Urbana:Univ.of Illinois Press,1981).

    4.Robert Meri11,ノVor7ηαπMα‘‘θr(Boston:Twayne Publlshers,A Division of G.

     K.HaII&Co.,1978)、

    5.MRのPARTI(TheNarratologyoftheNonfictlonNove1)第1章(Dlscontinu-

    ous Fact and the Shape of Supermodemist Narrative)の中で,この問題が詳述され

    ている。<現実の統合化>に相当する原語はthe totalization of reality,また同義の語

    句としてthellteraryarrangementsofrealityを用いている。そして,<現実の統合化>

    をめざす小説をtotalizing novelsと呼び,それと対立するSupermodemistの作品の概

    念をnontotalizingという形容詞で表現している・

    6、zero degree of interpretation(MR,p.3).

    7.上記のMeri11の1〉ormαπ必α泥er,p.112でこの問題が詳述されている。

    8.従って,例えばZavarazadehは“character”,“setting”,‘’plot”等の概念は本来fictive

    nove1の批評概念であることを指摘し,ノンフィクションノベルの作家でさえそのような用

  •  語に依存していることに不満を示している。(MR,p.75.)

    9 “O.K.,Dick.1’mwithyou.”(p.238,)

    10 ここでもまた〈事実>は我々の事実らしさに対する信仰を裏切っている。公平の観点から

     見て,いかにも真実らしいペリーの告白は,その細部においては非常に正確であるにもかか

     わらず,結論は真実とは異なる。カポーティ自身ペリーが四人すべてを殺害したと見ている

     ようである。

    11  。,the crime would not have occurred except for a certain frictional interplay

     between the perpetrators,._..(p.298.)

    12 rアメリカ小説の現貌』(佐伯彰一,大友芳郎,小田基,北山克彦共訳,文理,1974)pp,

     253-254.

    13 Norman Mailer,7施e翫θc画oπe南Soπ8(Boston:Little,Brown,1979)。

    14 Donald Mcquade/Robert Atwan,PoρμZαr断‘‘‘π8加湾7ηerεeαノ7施e配θrαc.

     ‘‘oπoジSεly‘eα几dハμd‘eπce(New York:Oxford Universlty Press,1980)pp.207-

     209.

    15 “I like some of Turman Capote’s stuff,particularly1πOo‘d Biood,Except for

     that impossible ending,so sentimental,so false.”(“Checking in with Vladimir

     Nabokov,”) 泓αμ‘re,July1975,P.133.

    16 MR,p.124.