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―― 論文受付日 20169 23大学院研究論集委員会承認日 20161031―― 教養デザイン研究論集 112017. 2 日本語新聞の死亡記事にみる F・ブリンクリーの業績と評価 The Evaluation and Achievements of Francis Brinkley by Viewing the Obituaries of Japanese Newspapers 博士後期課程 教養デザイン研究科 2010年入学 智惠子 SAWAKI Chieko 【論文要旨】 幕末に来日して45年間,日本を世界に紹介しつづけた英国人ジャーナリスト,フランシス・ブ リンクリー(Francis Brinkley 1841 1912)は,1912(大正元)1028日に7011か月で死去し た。当時の有名外国人死亡のニュースは日本語新聞各紙にとりあげられ,全国各地に配られたが, 現在までその全容は明らかにされてこなかった。そこで本稿では,訃報記事に書かれた F・ブリン クリーについての情報を整理し,明治日本における彼の足跡を探り,業績と評価を分析・検証し た。それによって,明治時代の日本人の目にブリンクリーはどう映ったのかを確かめ,日本人のブ リンクリー観を明らかにすることを論文の主眼とする。 【キーワード】 F・ブリンクリー,日本贔屓,勲二等叙勲,条約改正,乃木将軍自刃 はじめに 『新聞総覧(大正 2 年版)』 によれば,F・ブリンクリーの死亡当時,日本語新聞は旧日本帝国の 周縁部,すなわち北は樺太から南は沖縄,台湾,大陸の朝鮮,満州までもれなく発行されており, さらには隣国の清国,香港,ハワイ(布哇)においても発行され,総数212紙にのぼっている。ブ リンクリーはこのうちの何紙に,どのように報道され,その内容にはどんな特徴がみられるのか, また,彼に対する日本人の評価がどのようなものであったのか。調査は,ブリンクリーが死亡した 1912(大正元)10月,および11月の新聞紙面から,彼に関係する記事を抽出する作業からはじめ

日本語新聞の死亡記事にみる F・ブリンクリーの業 …...― ― 論文受付日 2016年9 月23日 大学院研究論集委員会承認日 2016年10月31日 教養デザイン研究論集

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論文受付日 2016年 9 月23日 大学院研究論集委員会承認日 2016年10月31日

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教養デザイン研究論集

第11号 2017. 2

日本語新聞の死亡記事にみる

F・ブリンクリーの業績と評価

The Evaluation and Achievements of Francis Brinkley

by Viewing the Obituaries of Japanese Newspapers

博士後期課程 教養デザイン研究科 2010年入学

澤   木   智 惠 子

SAWAKI Chieko

【論文要旨】

幕末に来日して45年間,日本を世界に紹介しつづけた英国人ジャーナリスト,フランシス・ブ

リンクリー(Francis Brinkley 18411912)は,1912(大正元)年10月28日に70歳11か月で死去し

た。当時の有名外国人死亡のニュースは日本語新聞各紙にとりあげられ,全国各地に配られたが,

現在までその全容は明らかにされてこなかった。そこで本稿では,訃報記事に書かれた F・ブリン

クリーについての情報を整理し,明治日本における彼の足跡を探り,業績と評価を分析・検証し

た。それによって,明治時代の日本人の目にブリンクリーはどう映ったのかを確かめ,日本人のブ

リンクリー観を明らかにすることを論文の主眼とする。

【キーワード】 F・ブリンクリー,日本贔屓,勲二等叙勲,条約改正,乃木将軍自刃

はじめに

『新聞総覧(大正 2 年版)』によれば,F・ブリンクリーの死亡当時,日本語新聞は旧日本帝国の

周縁部,すなわち北は樺太から南は沖縄,台湾,大陸の朝鮮,満州までもれなく発行されており,

さらには隣国の清国,香港,ハワイ(布哇)においても発行され,総数212紙にのぼっている。ブ

リンクリーはこのうちの何紙に,どのように報道され,その内容にはどんな特徴がみられるのか,

また,彼に対する日本人の評価がどのようなものであったのか。調査は,ブリンクリーが死亡した

1912(大正元)年10月,および11月の新聞紙面から,彼に関係する記事を抽出する作業からはじめ

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た。主として国立国会図書館の保有する日本語新聞を用いた。

1912年発行の212紙のうち,国会図書館が保有しない新聞と,同年1011月号が欠けている新聞

が合わせて139紙。また,新聞はあるが,そのうち24紙に死亡記事が掲載されていなかった。した

がって,現在確認できるブリンクリー訃報の載る新聞は49紙であった。これら訃報と病状の経過

や葬儀など関連記事を報じた新聞名と発行府県名は,「ブリンクリーの死亡関係記事掲載新聞49紙」

(「掲載紙一覧表」と略称)として一覧表を作成し1617ページに掲載した。

病状悪化から葬儀までの各新聞の報道

ブリンクリー死亡記事を掲載した新聞を道府県別にみると,東京府16紙,大阪府 5 紙,愛知県 4

紙,兵庫県・福岡県・鹿児島県・北海道がそれぞれ 2 紙,あとは 1 県(地区)1 紙の発行であり,

以下の各県である。神奈川・栃木・長野・山梨・三重・石川・富山・岡山・広島・山口・長崎・熊

本・樺太・台湾・朝鮮・満州。

以上をみると,東北と四国地方発行の新聞をのぞいて,ブリンクリーの訃報は,北の樺太から南

の台湾,大陸の朝鮮,満州まで,ほぼ旧日本帝国全土に伝えられたといって差し支えないだろう。

生前から彼の動向や発言,たとえば日本に対する論評,外国事情に関する談話などが新聞に載るこ

とが少なくなく,日本国民に名を知られた有名外国人だったことが,反映していると考えられる。

以下,新聞名については二重括弧(『 』)を省略し,例えば『ニ六新報』はニ六と表記する。

. 危篤と叙勲

「掲載紙一覧表」をみると,ブリンクリー死亡に関する記事の最初は,10月16日であり,病状悪

化を伝える。「氏は今夏軽井沢に避暑し,帰来自邸に於て専ら療養中なりしが,数日前より激烈な

る神経衰弱に中風症を併発し,昨今やや重態となれり」(二六。国民もほぼ同文。以下,掲載月日・頁

については文末の「掲載紙一覧表」を参照のこと)と記し,この内容に「自邸に於て聖路加病院副院長

ブリツスマ マ

氏を始め,青山博士等の診断を受け」(読売)と診察の様子を加えた新聞もある。

翌17日の記事は,叙勲を他紙にさきがけて報じたものであり,内容は「ブ氏へ特旨叙勲 ジャ

パンメール社長勲三等ブリンクリー氏病気危篤の趣おもむき

,天聴に達し十八日特旨をもって勲二等に

陞叙しょうじょ

し旭日重光章を賜る旨,御沙汰ありたり」(国民)。天聴とは天皇がお聴きになることをいい,

ブリンクリー危篤の報を聴いて勲章の等級を上げたというニュースである。外務大臣内田康哉の勲

二等陞叙の上奏文の日付は10月17日であり,「十八日勲二等に叙し」(横浜貿易)たので,他紙は

叙勲の記事を1920日に掲載した。また,遺族が出した死亡広告には次のように書かれている。

英国退職砲兵大尉 勲二等フランシス・ブリンクリー 病気の処養生不相叶,今二十八日午前

九時五十分死去致候間,此段御通知申上候。追而,葬儀は来十一月一日午後二時半,築地三一

教会堂に於て,執行仕候。(都,10月29日,p.5.中外商業,10月30日,p.4.)

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したがって,「掲載紙一覧表」の10月29日11月 1 日の記事が訃報であり,それ以前は病状の変

化および危篤の記事がほとんどで,11月 2 日以降は葬儀の記事となる。

読売,中外商業,東京朝日,二六などが病状をたびたび伝え,関心の高さをうかがわせる。地方

紙では三重県の伊勢と兵庫県の神戸又新の報道が目立つが,伊勢はブリンクリーが以前,津藩から

『英国銃隊練法―1870年式銃術書』を出版した関係,神戸又新は居留地発行の英字新聞ジャパン

・クロニクルがジャパン・メールのライバル紙とされ,記事の応酬が話題を呼んだことが影響して

いると考えられる。他の地方紙は危篤と叙勲を 1 本の記事として扱い,訃報も生前の活躍の紹介

も簡略である。横道にそれるが,死後叙勲に異論を唱える追悼談が東京朝日(10月29日 p.5)に載っ

ている。筆者は40年の親交がある鎌倉在住の英国人モリソンで「氏は又過日,勲二等に叙せられ

たる由なるが,(略)死際に叙勲さるヽ価値ある人ならば,当然存生中ぞんしょう

にも叙勲さるべき価値あら

んと思ふが如何」と日本の叙勲システムに疑問を投げかける。しかし,危篤のときの陞叙だったか

らこそ記事にとりあげられた可能性もある。なぜなら,叙勲の理由が披瀝されたことで,ブリンク

リーの日本における活躍と貢献が,報道陣の耳目を集めたと考えられるからである。

. 死亡関連記事の新聞別ランク

訃報と葬儀の記事について書く前に,死亡に関する記事の総字数(上位10紙)と内容の特徴を

紹介する。総字数は新聞紙面 1 段の字数(例外を除き18字)に行数を掛けて割り出した。ブリン

クリーに対する関心や評価の度合いがある程度推測できると考える。

1. 時事新報 4428字…大隈重信,コンデル〔コンドル〕らの追悼談。経歴と功績の詳細。

2. 中央新聞 3762……佐藤顕理の追悼談で,条約改正の活躍などの打ち明け話。

3. 日本 3451……日本郵船社長近藤廉平の追悼談,日英国際結婚のトピック。

4. やまと新聞 3132……外国通信記者ケネディ,友人モリソン,家令・橋本信の追悼談。

5. 東京朝日新聞 2808……友人モリソンの追悼談。

6. 読売新聞 2592……病状の変化,危篤,叙勲,訃報,葬儀等ほぼ 1 日おきに報道。

7. 国民新聞 2286……門外漢(徳富蘇峰の号)の追悼談。

8. 神戸又新日報 1848……「精力主義の人」と題し経歴・功績・家庭・人柄なども記述。

9. 中外商業新報 1692……重患の容態,および祖先や出自などを詳記して哀悼深し。

10. 報知新聞 1638……葬儀報道に紙面を割き,美文調の哀切な記事を掲載。

以下,大阪毎日新聞1584,二六新報1314,万朝報1071,東京日日新聞1044,大阪朝日新聞1037,

都新聞990,伊勢新聞900,満州日日新聞828,東京毎日新聞798,小樽新聞684とつづく。

10位まで東京府発行の新聞が占める中,地方紙では唯一,神戸又新が 8 位に入り,ブリンク

リーへの関心の高さを示す。1 位の時事は大隈重信,親友 J・コンドル,公私ともに長年の親交が

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あるという邦人某の 3 人の追悼談を掲載。2 位中央はブリンクリーの側近ともいうべき存在の英語

学者の佐藤顕理,3 位日本はブリンクリーが長年顧問をつとめた日本郵船会社社長近藤廉平,4

位やまとは外信記者ケネディと友人モリソン,ブリンクリーの家令・橋本信の追悼を載せた。

訃報・葬儀に関しては,時事と読売は訃報のみで葬儀に関しては報道せず。中央は,訃報を死亡

当日の28日に自宅が弔問客で混雑する状況から,葬儀当日は自宅から教会,墓地に埋葬の様子ま

で詳細に伝える。10位の報知も葬儀に紙面を割き,美文調の文章で哀悼を表している。

訃報については,やまとの記事を例とする。まず,やまとの記者が「持病のパーキンソンパラリ

ンシスが脳を冒して肺炎を併発し(略)療養中なりし(略)氏は,既報の如く両三日来容体激変し

昏睡状態に陥り,(略)薬石効なく」と知らせ,次いで家令・橋本信に病気の次第を語らせる。「急

に悪くなつたのは十九日の晩で,築地聖路加病院のグリースマ マ

氏を呼んで診て貰つた其時には,もう

見込がないと申されたので,家人も大におおい

驚きグ氏の外,朝鮮李り

王おう

世子せいし

殿下の主治医たる岩井貞三氏

を頼んで診察して貰ひました。愈危いよいよ

篤に陥つたのは二十五日で,二十六日午後三時から二十七日の

午後九時までカンフル注射を施すこと九回に及びましたが,二十八日午前九時四十〔50〕分遂に

七十一歳を一期いちご

として逝かれました」。新聞各紙の訃報は概ねこれに準じるが,「体温三十四度より

三十六度の間を上下し,脈拍は百三十より百四十の間を往来し」(大阪日日・大阪・大阪時事・信濃毎

日)と危篤の容態を子細に伝えた新聞もあった。

. 葬儀と会葬者

葬儀の内容についての報道は東京発行の新聞のみが取り上げている。なかで,力の入った報知と

中央の記事を中心に紹介する。なお,遺族の様子や執り行った司祭名などは省略した。

報知の大見出しは「雨に萎るヽ花環 武倫克理ぶりんくりー

氏の柩を送る」。一方の中央は「荘重を極めたる

ブ氏の葬儀 宛然さながら

花環の花壇」。葬儀当日の11月 1 日は時雨が降り,濡れた花環がことに印象深か

ったようである。自宅に届いた幾多の花環は馬車に積まれ,霊柩車を先導して葬儀場の築地三一教

会へ向かう。報知の記者はブリンクリーの葬列を築地明石町の路上で目撃,記事にする。「黄菊

白菊ローズダリアなどとりどりに秋の姿を集めたる数十の花環は,降りそぼつ雨に頂垂うなだ

れたるも哀

れ深く,二台の馬車に積み重ねられたるに続きて,黒塗に金線入りたる柩車は六つの花環に護ら

れ,黒色の窓飾りを越して微見ゆるは故国なる英国の国旗もて包まれたる柩なりけり」。教会に着

いた「鯰形の棺は(略)英国大使マクドナルド,逓信省雇スーム,コンデル,副島伯,朝吹英二其

他九氏」(中央),「コンデル,カービー,ケネデー外六名の近親の手に抱へられて」(報知),祭壇の

前に安置される。「式は(略)正面の祭壇に霊柩を安置し英国旗を覆ひ,其上に我が勲二等旭日瑞

宝〔重光〕章を乗せ,霊柩の左右には諸方より贈られたる大小の花輪数十個を列なら

べあり。(略)一

同席定まるや先づオルガンの奏楽あり。次で讃美歌の合唱,聖書の朗読あり。最後に会葬者一同黙

祷して同三時式を了れり」(東京毎夕)とキリスト教の式次第がすむと,「柩は再び親しき人々の腕

に抱へられつヽ,マウスデン氏の捧持せる数々の勲章に続きて(略)遺骸は秋雨蕭条なる巷を青山

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墓地に送られ,故人の遺志に基きて故国の例に拠らず,『ブリンクリー之墓』と記されたる日本式

白標の地下深く『日本の親しき友』なる亡き人は安らかに長き眠りに就きたり」(報知)。

会葬者数は,「七百余名」(東京毎日・東京毎夕),「数百名」(報知・中外商業),「五百余名」(中央),

「四百余名」(やまと),「数千人」(二六)とばらつきがある。参列の顔ぶれは大臣はじめ政財界の大

物が列席する豪華さで,「近年稀なる盛儀」(二六)。主な会葬者として林董逓ただす

信相,斎藤実海まこと

軍相,

内田康やす

哉や

外務相の三大臣,英国大使マクドナルド卿,仏・露・米各大使,徳川圀くに

順ゆき

上院議長,阪谷

芳郎東京市長,菊池大麓,益田孝,団琢磨,大蔵喜八郎,福沢捨次郎などの名が記されている。

ブリンクリーはどう伝えられたか

新聞各紙はブリンクリーの危篤・訃報・葬儀の報とともに,出自・経歴・結婚・家族を紹介し,

彼が日本でどんな働きをし,いかなる貢献をしたのか,について筆を競った。日本の新聞ジャーナ

リズムはブリンクリーをどう捉えたのか。それは新聞紙面の見出し(表題),すなわち記事の内容

の核心部分の言葉に端的に表れてくる。そこでブリンクリー死亡記事に使われた見出しを分析した。

. 見出しに使われた言葉

見出しは,内容の訴求力や使用する活字の大きさの順に,大見出し,中見出し,小見出しにわか

れ,小見出しは本文中の項目を分けるときに使われる。ブリンクリーの訃報記事に用いられた見出

しは,「紹介」「貢献,尽くす,功労者」「日本の理解者」「恩人」「日本贔屓」などが多く使われて

いた。本文で使用されている表現もとりあげながら,明治日本のブリンクリー報道を検証した。

◯ 「紹介」の見出し

大見出しは 4 紙。「新日本の紹介者」(東京毎日・読売),「新」のない「日本の紹介者」(満州日日),

「日本を西洋に紹介した一大恩人」(中央)。中央は「三十余年終始日本の為に日本の事情を西洋に

紹介」と小見出しにも使用する。中見出しは「日本を世界に紹介せし人」(時事)。本文中には「日

本を海外に紹介して幾多彼方の誤解を解き」(東京毎日),「日本を最も能よ

く西洋に紹介」(読売)。ま

た,「数種の日本に関する著書を公にし,英米に日本を紹介したる事多し」(北陸タイムス)など,

「紹介」はよく使われ,多くが「功績」や「貢献」として語られる。

◯ 「貢献,尽くす,功績,功労者」の見出し

大見出しは「生涯を日本に尽くす」(国民)。小見出しは「領事裁判権の撤回(略)の隠れたる勲

功者」(中央)。本文中には「我邦わがくに

の為貢献する」(二六),「日本の国情思想を精確に外国に紹介して

(略)外国の誤解を防ぐに努めた功績」(神戸又新),「真に日本を解し世界に向かつて之が紹介に努

め,我帝国の為に勲功少なからざる」(二六),「日本の為には随分と骨を折つた。日本人たる者は

大おおい

に感謝すべき」(やまと),「日英同盟の締結に際し,隠れたる功労者」(日本),「日本の為には影

になり日向になりできる限りの力を尽くしてくれた」(都)と伝えた。

◯ 「日本の理解者」という意味の見出し

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大見出しは「真に日本を解せし人」(時事)。中見出しは「能く日本を解した人」(東京日日),「最も日

本を解せる人」「日本魂の誤解を虞おそ

る」(読売),「熱心な日本研究者」(やまと)の 3 紙。小見出しは

2 紙,「日本をよく知り」(万朝報)の小見出しに,本文が「よく日本語を解し(略)外人にして維新

前及び明治年間の思想変遷をよく知る人と云へば氏を第一としても可よ

い」とつづく。もう 1 紙は

「国語に精通」「日本語に精通し広く日本の書物を読破」(中央)。本文中に「日本という国柄と日本

人の心意気を知つて居た事は,沢山の西洋人の中で最も深かつた」(都)と書く。

◯ 「日本贔屓」の見出し

大見出しはない。中見出しは「極端な日本贔屓」(日本)。小見出しは「日本贔屓」(都),贔屓と

同じ意味の「日本の味方」(時事),つづく本文には「四十年間倫敦タイムスの通信員として日本を

賞揚」(やまと)。なお,各紙とも本文中に贔屓という言葉を使用しているのが目につく。「日本贔屓」

(万朝報),「すこぶる日本贔屓」(東京毎日),「稀にみる日本贔屓」「非常なる日本贔屓」「日本贔屓の

通信」(読売),「大いなる日本贔屓」(中外商業),「極端なるまでに日本好きなりし」(東京朝日・大阪

朝日),「日本好き」(伊勢)。徳富蘇峰は,「『タイムス』も彼の日本贔屓を知れども,彼が存在する

間は又如何いかん

ともす可べ

からざりし也」(国民)と書いた。また,「日本を愛することは実に熱烈」(日本),

「日本に篤かりし英国紳士」(中外商業),と報じられた。

◯ 「恩人」の見出し

大見出しは「日本恩人の一」(中外商業),「日本の恩人」(都),「日本の恩人逝く」(中央),「紹介」

の項と重なるが「日本を西洋に紹介した一大恩人」(中央)の 4 本。本文中では,「氏は熱心なる日

本研究者」(やまと)と多々功績を述べ「とにかく[日本の]恩人である」と結論づける。恩人の上

をいく「神」に模した記事もある。「我が国政に対しては,一個の護神を偲ばしむに足り」(二六)。

◯ 「友」「日本人」他の見出し

大見出しは「ブ氏は日本人」(時事)。中見出しは「多能多技なりし日本の友人」,本文に「日本

の最善なる友人を以て自ら任じたり」(国民。伊勢もほぼ同文)と書く。小見出しは「日本人以上の

日本人」(日本),「日本の国友」(時事)。本文は,「日本の親しき友」(報知),「我国民の老友」(二六)。

. 功績と評価

見出し文字などの検証で,日本の新聞に「恩人」「日本贔屓」といわれる「紹介」や「貢献」を

したブリンクリーのはたらきがあったことが判明した。その主要な出来事は,危篤のブリンクリー

を勲三等から勲二等旭日章に陞叙するための外務大臣,子爵内田康哉の上奏書に書かれている。

勲二等旭日章 英国人勲三等 フランシス・ブリンクリー

右者夙つと

ニ本邦ニ渡来シ去ル明治四年ニ海軍兵学校教官ニ傭聘セラレ後又工部大学校傭教師ヲモ

努メ熱心本邦学生ノ薫陶ニ従事シ又語学独案内及英和辞典等ヲ著ハシ本邦学生ヲ裨益ひえき

シ我邦海

軍並教育界ニ貢献セル(略)本邦ノ事情ニ精通セルヲ以テ日本ヲ世界ニ紹介スルニ力つと

メ或ハ米

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国ミレット会社ヨリ日本美術文学歴史ト題スル八冊ノ著書ヲ公ニシ或ハ最近ニ在リテハ倫敦タ

イムス社ヨリ歴史家ノ歴史ト題スル叢書ノ一トシテ無慮一千頁ノ日本歴史ヲ公ニシ其他種々ノ

有益ナル著書ヲ刊行シ終始日本の真相ヲ外国ニ伝フルコトニ尽瘁じんすい

シ又倫敦タイムス東京通信員

トシテ常ニ我政治財政経済實業等ノ実状ヲ海外ニ宣伝スルニ努力シ其ノ積年本邦ノ為ニ致シタ

ル勲功実ニ偉大ナルモノ有之候(略)

陞叙の上奏書はブリンクリーの生涯を辿っており,まさに日本にささげた人生そのものが叙勲対

象であったと思わざるを得ない。彼の死亡関連記事はこの文章を骨子として構成され,新聞各紙は

自社の取材力を駆使して肉付けをおこなったと考えられる。なかでも時事は豊富な人脈をたどり,

大隈重信,コンドルら親しい人物の追悼談をとり,陞叙上奏文を補う事実を紹介している。大隈重

信は上奏書の文面を補う内容にもふれながら,以下のように述べている。

ブリンクリー氏は日本の国情に最も通暁して,(略)維新草創の際,我外交の難境に対し満腔

の同情を注ぎ(略)誤解され居たる我日本を外国に紹介するに努め,以て隠然我外務省の後援

を以て任じたる功労(略)条約改正其他の問題に際し,陰に陽に氏が日本の為に尽くしたる事

実は争う可べ

からず。さらにジャパンメールの経営者として日本の真相を世界に紹介吹聴するに

全力を傾注し,日露戦役の如き倫敦タイムス通信員として正鵠なる通信を伝へ,或は各種著述

の筆者として,我邦に対する諸外国の迷想誤解を一掃するに尽くしたる其徳は,我国民が長とこ

へに感謝して可か

なり。

大隈は,西洋列強の脅威をうけ孤軍奮闘する明治政府の外交政策に関するブリンクリーの力添え

を明かし,最後に「在留外人中,最も親愛にして功多き氏」と敬愛の情を示している。

条約改正と日英同盟

大隈の談話に登場する条約改正は,幕末に徳川幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正で,明

治初年以来日本政府がいく度もの挫折をくりかえして,1894(明治27)年に日英通商航海条約で改

正の端緒を開いた。条約改正に導いたブリンクリーの表立たない国際外交の活躍を知る人物,佐

藤顕理が,中央と都の 2 紙の追悼談のなかで秘話を打ち明けている。中央の記事を紹介する。

日本が永らく屈辱を蒙つて居た領事裁判権の撤回をさしたに付つい

て,表面の功労者は随分ある

であろうが,隠れたる功勲者としての氏を逸してはならぬ。初の井上候の条約案なるものが出

来た時,其全文がロンドンタイムスに現はれた。之は政府が私ひそ

かに外国の意向を探るが為に氏

を通じてタイムスに掲げさしたものであつたとの事だ。しかし,此案は全然領事裁判権の撤回

ではなく(略)所謂いはゆる

混合裁判所を設くるのであつたから,国内に反対の世論が起ると同時に

外国でも余り賛成せず,到頭ものにならなかつた。次で大隈案も同様反対が熾さか

んで成立たず。

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漸く陸奥伯に至つていわゆる対等条約が出来た。此間氏の尽力は非常なもので,今日でこそ英

国人は日本の同盟国であると云つて威張つて居るが,日清戦争前の如きは全然支那の味方で事

々に日本の不利のみを図つたものであつた。然るに氏が一管の筆は能くこの態度を転ぜしたる

事を得たのである。(略)対等条約の成つたのは日清戦争の結果であるかの様に思ふかも知れ

ぬが,其実大体は戦争前に出来上つて居たので,氏が支那贔屓の英国を漸漸此方に引付けた功

労は,実に国民の共に感謝すべき所であろう。

条約改正は日本にとっては不平等を是正するものだったが,諸外国はそれまでの利益を見込めな

くなるため大反対となった。賛成に回った外国人はごく少数で,なかでもブリンクリーはジャパン

・メール紙上で改正賛成の論評をつぎつぎ発表するなど熱心に動いた。母国英国の損害になること

に手を貸していると同胞から非難され,売国奴,日本の犬とけなされる苦しい立場に立たされ

た。しかし,彼は条約締結は平等であるべきとの主張を変えなかった。

当時の横浜居留地の様子とブリンクリーの状態は次のようであった。「治外法権の制度が頑張つ

て居て,居留外人は其下に得手勝手な真似をして居た(略)氏はジャパン・メール新聞を引き受け

て盛に日本の文明を説き,無論治外法権撤去も唱へ(略)従つて横浜神戸辺の外字新聞は挙こぞ

つて氏

一人を目の敵にして攻撃し(略)獅子身中の虫と許ばか

りに氏を罵つたのである。然し

かし氏は斯かか

る四面

楚歌の間に立つて毅然として其論鋒を止めず,私情から出た罵詈讒侮ばりざんぶ

に却かえ

つて益々心胆を鍛へ,

愈々いよいよ

筆を呵か

して日本文明の説明者となり解述者となつて居た」(日本)。

また,もう一つの功績,日英同盟については,「日英同盟の締結に際し,隠れたる功労者を挙げ

れば,先づ指を同氏に屈せざるべからず」(同)と近藤廉平日本郵船会社社長が言及している。

日本の精神文化・芸術の理解者

ブリンクリーが日本人から,日本贔屓・味方・親友といわれる理解と信頼を得ているのは,一に

語学力,二に「我国の自然美と人情味は痛く氏の趣味に適ひて」(東京毎日),「日本趣味を解するこ

と深く」(東京日日)と新聞各紙は筆をそろえる,なかでも佐藤顕理は「氏は実に日本語に精通し広

く日本の書物を読破したので,早くから日本の精神的進歩を看取し,日本は物質的文明には後れて

いるが精神的進歩に付ては大いに学ぶべきものがあると唱道して,文明は単に欧米のみの独占すべ

きものでない事を喝破した」(中央)と日本の文明をブリンクリーが認識する経緯に,日本語の習

得と日本の書物の読破があったことを指摘する。

コンドルによれば,ブリンクリーは来日直後の青年士官のころから「勤勉篤学の好士官として友

人間に畏敬せられてあつた」(時事)。その成果が既述のように和英辞典や日本の歴史・文化・芸術

など多くの本の出版となってあらわれる。なかでも米国ミレット社が日本と中国の豪華な肉筆画や

版画,写真をふんだんに使った叢書12巻(8 巻まで「日本」)の編著者をフェノロサではなく,ブ

リンクリーを起用したのはその才能と実力を見込んだからだった。こうしてすぐれた美術工芸品

をつくりだす日本の文化レベルは西欧諸国に勝るとも劣らないことが,ブリンクリーによって世界

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に紹介されていった。佐藤顕理によれば晩年の彼は「日本が輸出奨励の為め,西洋人に歓迎せらる

べく粗悪品を作るを慨し,是れ日本美術の特色を失墜するものである」と嘆き,「下劣なる西洋趣

味に迎合せん事を望むよりも,宜しく西洋人に高尚なる日本趣味を教ゆべきものである」(中央)

と語っていた。ブリンクリーの日本趣味にあふれる生活を次のように日本が書いている。

ブ氏が海軍省出仕の当時,報酬として毎月三百円を受けて居たが,馬車と馬丁と自分の生活と

で七八十円しか費かゝ

らなかったから,残余の金で日本の美術を研究した。現に其の邸宅の応接室

には,暁斎や文晁やぶんちょう

北斎の肉筆が沢山掛けてある許りでなく,日本,支那の陶器類に関する知

識の深いこと,並にならび

夫それ

に関する著書の多数なことも有名である。画家では暁斎を最も愛して自

邸で書かしたものも有る。其他又庭園に趣味が有つた。

優れた美術品,骨董品を身近に置くことで,ブリンクリーは審美眼に磨きをかけ,美意識を高め

たに違いない。それにしても御雇時代の月給は350500円という大臣並みの高給であった。美術

研究のみならず,ジャパン・メール社の購入資金を蓄えるに十分だったろうと推察される。

さて,自宅には,「日本の古画骨董品の貴重なるもの頗る多く,就中陶なかんずく

器に対する鑑識眼高く斯

道の大家も遠く及ばざる程にて富豪貴族等実物を携へて氏の鑑定を乞ふもの少からず」(大阪毎日)。

以下の記事は,ブリンクリーのもとを訪れた外国人の話を引き合いに出したものである。

メールのブリンクリーはとうとう亡くなった。恐しい慾の浅くないお爺さんで,先年英国のキ

チナー元帥が来た時,ブリンクリーに訪問するから骨董品をみせて呉れと申し込んだ。する

とブリンクリーは何のかんのと理屈をつけて元帥の訪問を謝絶して仕舞つた。元帥に骨董品の

無心を言はれると困ると言ふ処からであつたげな。此位にして集めた骨董も,まさか棺と一緒

に冥土へ持つて行く事も出来まい。(名古屋,10月30日,p2)

この記事の出た前日の10月29日の大阪毎日に「先年英国キッチナー元帥来朝せる際同元帥は切

に氏を訪わんとせしに『元帥は屹度きっと

古画骨董を欲しがるから』とて,遂に其の来訪を断りたりとて

日頃氏自ら笑話の種となし居たり」という記事が載った。英国陸軍の英雄キッチナーの来訪を断っ

たことを日頃から皆の前で平然と笑い話にしているというから,キッチナーという人は誰もが知る

ねだり癖の強い人だったらしい。だが,名古屋はそうは解釈せずに,ブリンクリーを欲深爺と批判

している。賛辞一色の追悼報道のなかで異色の批判記事だが,目を転じれば,もう一つの日本人の

本音のように思われなくもない。なぜなら,東京広尾の北條遠江守の屋敷跡地 6 千坪の豪邸に,

一流の美術品に囲まれて暮らすブリンクリーの豊かさを嫉妬する人のないはずはないからである。

ところが,長年ブリンクリーと公私を隔てぬ親交をもつ近藤郵船社長は,追悼文の最後に「唯ただ

氏の資産とては殆ど視るべきものなかるべく。従つて同家の後事については聊かいささ

気遣はるヽ所あ

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り」(日本)と,にわかには信じられない意外な不安を述べているのである。

日本贔屓が過ぎて

ブリンクリーを非難した記事は名古屋以外にみつからないが,日本贔屓の実例として綴られた中

に「外人間には稍やや

不評」(東京朝日・大阪朝日)という小見出しの記事がある。避暑地軽井沢での外

国人の横柄さを怒るブリンクリーの発言にはじまる話は,以下のような結論に導かれる。

一外国児童が肩聳かして人も無げに歩むを見,『本国に居て彼か

のように威張れるか。日本に居

ると思つてあの高慢気の面憎さよ』と語れるとあり。又西洋人が通行の日本人をば人とも思は

ぬ風情にて乱暴に自動車を飛ばし廻るを見て太いた

く憤慨されし(略)。斯かく

の如く常に日本の為に

謀り条約改正及び外国人徴税問題等に関しても日本の主張を正当となし,多数外人に媚びざり

しを以て在留外人間には余り気受の善き方にはあらざりしと云ふ。

日本への熱心な肩入れが外国人に不利になることがあり,ブリンクリーを快く思わない外国人が

少なくないと報じる。日本贔屓が過ぎてひと悶着おこるのは,外国人間ではわりあいあったことの

ようである。コンドルの話によれば,「克よ

く日本の表裏を尽して,当時の一個の未成品として多く

の外国人より半眼冷侮を以て扱はれて居た日本帝国の前途に就つい

て,多大の望みを属して往々友人抔など

と議論を戦はすことがあると,『特種の空気を呼吸し来たつた此の国民は,泰西人の盲評を許さな

い』杯と云つた様な一種峻烈な語気を以て,日本の為に弁する事もあつた」(時事)。日本を見下し

たり,軽んじたりする白人の同朋に対し,ブリンクリーは気色ばんで抗議するというのである。

タイムズの仕事にも日本贔屓は波風をたてた。「氏が非常なる日本贔屓なるは今更いうまでもな

く,先年目下清国外交顧問たるモリソン氏が北京にありてタイムス通信員たりしとき,常に清国

贔屓の通信をのみ為し,ブリンクリー氏の日本贔屓の通信と齟齬するものあるより,ついにタイム

ス社は外交主任チロル氏を東京に派遣して,ブ,モ両氏の仲を直したることもあり」(読売)と。

北京通信員モリソンと東京通信員ブリンクリーが贔屓贔屓を争って険悪になったのを,ロンドンか

ら外信部長のチロルが飛んできて仲裁に入ったというのである。その 3 人の会合写真が時事に

載っており,法人某がチロルの言葉を引きながら,ブリンクリーへの感謝の言葉を次のように述べ

ている。「倫敦タイムス社の外事局長たりしチロル氏が『ブリンクリー氏は余り日本贔屓過ぎはせ

ぬか』と問われた事があるが,要するに世界各国が日本を了解し得たのは,ブ氏のタイムス通信

と外に日本人として我々が氏に感謝すべき氏の著書が與つあずか

て力ありということが出来る」(時事)。

経歴,家庭,人柄

. 経 歴

出自―偉大な祖父とフランス革命の影響

ブリンクリーの出自を紹介する新聞は10紙を数え,記事は内容のばらつきやまちがいもみられ

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るが,次のような内容が記された。「英国名門の出 ブ氏の家は英吉利愛蘭土いぎりすあいるらんど

の古い家柄で,祖先

はローマン系の人。代々学者肌の人を続出したものと見へて,ブ氏の祖父は例のニュートンと並び

称せられた有名な天文学者,父〔兄弟〕も亦また

仏法学者であつた。然しか

し乍なが

ら,ブ氏が常に自分で『自

分の家柄は一代置に飲んだくれが出来るのだ』と云つたやうに,父なる人は毎いつ

も酒に親しんだ人だ

つた。母は仏国革命の時,英国へ亡命した仏国貴族の娘であつた」(日本)。「仏国の大革命に際し

貴族子弟の斬首せらるヽもの多く,氏の実母は英国に逃れたる貴族の一人なりと」(大阪毎日)。

祖父ジョン(17661835)は,「例のニュートンと並び称せられた有名な天文学者」(日本)であり,

時事・東京毎日・国民・満州日日の 4 紙もニュートンを引き合いに出し優秀さを強調している。

彼はまた,クレイン教会のビショップであり,数学,法学,植物学にも卓越した人物であった。

「其肖像は今日でもダブリン大学に掲げられて後進者の尊敬を受けて居る」(時事)。一方,新聞各

紙が父とした仏法学者はフランシスの兄弟の一人で,父の名は新聞紙上に載っていない。仏法学

者以外のきょうだいの消息については,「姉はキングストン伯爵に嫁し,実兄は学術研究の目的を

もって亜米利加に遊び,鮫に食はれて非業の死を遂げたり」(大阪毎日)と報じられている。

英国軍人として日本へ

ブリンクリーは,「ダブリン大学を卒業後,軍人となり,慶応年間パークス公使に従ひ,砲兵

中尉の資格にて赤隊と称する一隊の砲兵を率ゐて来朝せり」(国民・大阪毎日・北陸タイムス)と書か

れている。しかし,パークスはブリンクリーの 2 年前に来日しており,この記事は正確ではな

い。来日以前,ブリンクリーは従兄の香港総督サー・リチャード・マクドネルの副官として香港に

3 年間滞在していたが,「日本に来遊し,風光の明媚に惚れ込,日本永住の決心をするに至つた」

(神戸又新)。そのため,駐日公使パークスの許へ参じたと考えられる。また,代々学者を輩出す

る家に生まれ,「氏も亦天文数学に長じ」(東京日日)と祖父の才能を受け継いだにも拘わらず,軍

人になった理由については「幼時より軍人を志し」(大阪毎日)と伝えられる。

英国公使館付武官となったブリンクリーは,さっそく英国公使館の護衛兵訓練の任務にあたる。

洋式戦術の必要をさとった各藩が,赤い軍服姿の護衛兵の訓練を見学に全国から訪れる。なかに

は「津軽,長州,熊本等の各藩士にして氏を砲術の師と仰ぎたるもの少なからず」(満州日日)。

「[ブリンクリーの]調練を見るたびに一度は是非氏の教をおしえ

受たいものと希望し,遂に氏に教を乞ふ

ことになった」(時事)。やがて,「幕府から英国公使を通じてブ氏に砲術の指南を申し込んだから,

ブ氏は横浜の天沼でチョン髷の兵隊サンを教練した。今でもドウかすると唄われる『野毛の山から

ノーエ……』は実に当時の光景を唄つたものだ相な」(日本)。『足を揃へてトッピキピー』(満州日

日)ともども俗謡を生み,流行になった。「其後,徳川政府の委託を受け各藩に砲術を教授し」(国

民),「勝海舟,河村海軍卿等に知られ,我が海軍省に在勤すること七年,後工部大学にて数学の教

鞭をとること三年,明治十四年遂にメール社を買つて社長となり」(東京日日。表現はやや異なるが,

時事・日本・国民・大阪毎日・神戸又新も報じる)。なお,工部大学教師時代,学生にのちの政治家・尾

崎行雄,京大教授・田辺朔朗博士がいたと時事・日本が伝えている。

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. 結婚と家族,家庭生活

ブリンクリーの結婚と家族,家庭生活については,東京と大阪から発行された新聞のほとんどが

取りあげているが,地方紙では伊勢と神戸又新が短くふれたにすぎない。結婚・家族について詳

しく報じたのは,時事と日本。それ以外は「日本女性の夫人との間に二男(ハリ,ジャック)二女

(英子,稲子)がいる」との家族構成と彼らの消息を簡潔に記している。たとえば,「長男は工学研

究の為英京倫敦に留学し,二男はセーロママ

フレーダママ

ーに在勤」(東京毎日・報知),「嗣子ジョン・ブリ

ンクリー氏は目下丸の内セールフレーザー会社に在勤せり」(東京日日)と報じる。ちなみに長男

ハリは内縁関係にあった大工の娘若林セイとの間に生まれた。しかし,セイはハリ出産後まもなく

死去,後添えに入った安子が乳飲み子のハリを養育し,わが子として入籍した。次男を「嗣子ジャ

ック」(東京日日)と書いたのは安子の実子であることを考慮してのことと推測される。

家庭生活については,「夫人は英語を語らぬが,氏が日本語を語るので家庭は和気に満ちてゐた」

(万朝報)と夫婦円満を伝える。教育方針は,「子女教育に関しては努めて日本の美点を注入するこ

とに注意し,殊に次男ジャック氏の如きは柔道好きの青年として名あり」(東京朝日・大阪朝日)と

記述。時事は,安子夫人が面目をほどこした子女教育の逸話を次のように載せた。

夫人は三十有余年間常に其夫たるブ氏に貞淑を以て仕へ,家庭に於ける子女の教育にも充分意

を用いた様である。曾かつ

て令嬢ヒデ子氏が英国に渡り,ローヤル・アカデミーの選抜生として一

躍合格入学の許可を得た時,英国におけるブ氏の親戚は夫人に向て「善良なる家庭教育を施さ

れた事は,今回令嬢ヒデ子の優越なる成績に由つて判断し得る」と云ひ,且か

つ令嬢の日本風の

美点を列挙して賞賛した書面を寄せて来た事がある。(邦人某)

夫人の名前は新聞により,ヤス,ヤス子,やすこ,やす子,安子など表記がわかれるが,墓碑銘

は安子である。安子の出自に関しては「水戸藩士田中某の女じょ

」(時事),「水戸藩の尾羽打ち枯した

侍田中某の二女」(日本),姉の「政まさ

を頼つて横浜に来て居る内に縁あつてブリンクリー氏に嫁ぐ」

(同)と馴初めが語られる。「親戚田中直方氏」(大阪時事)として兄の名もみえる。

ブリンクリーと安子の結婚は,日英両国政府が正式に認めた国際結婚であった。この件にふれて

いるのは時事と日本の 2 紙である。時事では「明治十四年ブ氏と正式の結婚を挙げたが,当時英

国法ではこれを正式の結婚と認めなかつたので,氏は非常の忿怒を以て英国高等法院に訴え,莫大

の費用を投じて遂に此訴訟に勝ち,英人と日本人との結婚に便宜な新例を作つた」と伝える。

葭本伊都子の『国際結婚の誕生』によれば二人の婚姻は「1886(明治19)年 3 月35日に内外人婚

姻条規に基づき,内務大臣山県有朋より許可を受けている」。しかし,日本政府が公認した結婚を

英国政府が認めないため,ブリンクリーは英国法院の法務総裁を相手に裁判をおこし,4 年後の

1890(明治23)年 2 月 8 日に勝利の判決を得る。日本政府の婚姻許可を英国が認めなかった事情を

葭本は「イギリス側にとってみれば正式ではない妻,つまり「現地妻」政策を奨励していたのでは

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ないかとも考えられる」と書いている。現地妻をラシャメンと言い換え,「日英結婚の魁さきがけ

故ブリ

ンクリー氏の正式結婚,倫敦法廷に争ふて勝つ」(日本)の見出しで次のように報じた記事がある。

ブリンクリー氏は当時の所謂『ラシャメン』制度の記録れこーど

を破つて断然,安子を英国紳士の正妻

として容れると云ふ挙に出い

でたのであるから堪らない。益攻ますます

撃の鉾先を向けて非常に喧騒を極

めたので,氏は益憤ますます

慨して遂に本国なる倫敦の法廷に堂々と訴訟を起し,其の結果,勝訴とな

つて大手を振つて此れ見よがしに正式の結婚式を挙げたのであつた。これは当時英国法廷の

新記録しんれこーど

であつたのだ。

同記事の太文字は新聞表記のまま。同記事は,「氏の斯かか

る意気込みがあればこそ,夢とせられた

治外法権の撤去も又条約改正の事業も,左さ

したる年月を要せずして出来たのであろう」とつづき,

条約改正に尽力したブリンクリーの功績と結びつけて報じた。

. 暮らしぶりと人柄を表すエピソード

晩年の暮らしや出来事から人となりが紹介されている。規則正しい生活からみていこう。

「朝七時には必ず起床し,夜十時に就寝する事規則すこぶる正しく,隙ひま

さへあれば庭内を逍遥し

て健康上の注意を怠らざりき。娯楽は読書,庭造り,テニス,美術等にて,テニスは少年時代より

大なる趣味を持ち晩年に至る迄之を続け,又庭造りに熱心(略),彼の美事なる同邸庭の如きは少

しも他人の手を煩はさず,自ら鍬を揮ふる

ひ鋏を持ちて造り上げたるものなりと」(中央)。職人任せに

せず自ら勤しむ姿は「精力主義の人」(神戸又新)であり,門下生に「人間は一生働かねばならん,

而しか

して働はたらき

の功績には死が伴う」(同)と諭しているという。自らも実行の人であり,「未だ曾て一日

も読書と運動を怠つた例が無い。出勤の途中も運動だと云つて俥にくるま

は断じて乗つた事が無い。其風

采は半ズボンに長靴。夫それ

で坂道に差し蒐かか

ると必ず荷車の後押しをして遣る」(同)。

風采の目撃談はほかにもある。麻布区広尾 3 丁目(現在の港区南麻布 5)に住むブリンクリーは,

自宅近くの「赤十字停留場より,電車に依よ

りて通勤するを常としたり。打ち見たる処,其洋服は氏

が渡日前に調製したるものかと訝いぶ

かられ,其帽子も其靴も亦みな総てこれに適ふ。一見したる処日

本人とせば村長也。西洋人なるが故に学校の先生位に踏むが関の山也き」(中外商業)。日本に来る

以前なら50年近く前に誂えたもので,相当な年季が入っている。そんな古びた姿を一向気にせず

通勤するブリンクリーが,村長か学校の先生のように見えたというのである。さらに「非常な衛生

家で酒は勿論煙草も吸わなかつた」(日本)という謹厳実直ぶりである。

他紙の報道も,「英国風の紳士にして勤勉端正。別に奇事奇行なく又能く各種の屋外運動を好み,

嗜好としては日本陶器に趣味を有し,その鑑定が優に斯道の専門家を凌ぐものあり」(東京朝日・大

阪朝日),「義理堅くお世辞を嫌ひ,喜怒色に表はれず,華美な風を避けた。四十年間勤続の日本人

ボーイがあるのを見て,其人となりが偲ばれる」(万朝報),「召使はボーイから俥夫しゃふ

まで四十年間代

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へた事が無く,曾てマクドナルド大使夫人が四十年も同じ下婢を使つて居ると誇つた時,宅にはそ

んなのはザラに在ると云つて一本参らせたと云ふ話もある」(神戸又新)と筆をそろえる。

. 人間性―よく知る人々の追悼談

追悼談を寄せた 3 人の知己,佐藤顕理,近藤廉平日本郵船会社社長,コンドルが,ブリンク

リーの人間性について語っている。佐藤顕理が,「絶好紳士の典型で一言にして云へば正直で温和

で,何等のお世辞もなく,実に円満なる紳士であつたが,然し

かも一たび論陣を張るや鋭鋒当たるべ

からざるの概がい

があつた。神戸クロニクルとの論戦は実に花々しいものであつた」(中央)とブリン

クリーのもう一つの特徴である「論争好き」に触れる。徳富蘇峰はこの点を次のように書く。「彼

は論争を以て一種の快楽となしたるものの如く。其論鋒は相手の何人たるを択えら

まず。其問題の大小

軽重を問はず。時としては論争の為めの論争を事とするにあらずやと思はれたる程にて。其真面目

腐りたる皮肉や,其軽妙なる反語や,其鋭敏なる揚足取りや」(国民/号門外漢)。

近藤廉平は,「勿論主義主張を固執する人なるを以て,時に他人と意見を異にし,意外の辺に意

外の敵ありしならんも」(日本)と論争好きを肯定しながらも,ブリンクリーの知られざる一面を

披歴する。「個人として人情に厚く。現に日本婦人を妻にせし外人,或は外国婦人を妻にせし日本

人中,種々の関係にてその夫婦間に産れし児女を養育する能あた

はざる場合には,之を引取りて肉親も

及ばぬ迄に面倒を見,又教育を授けたり。尾崎前市長に嫁したるテオドラ夫人の如きは,矢張り

其一人にして他にも三四人あるが如し」(同)と。ブリンクリーは慈善に熱心だったが,他言され

るを嫌ったと友人ウォルター・デニングが語っている。人に知られないように恩恵を施すことを

「陰徳」というが,この古い日本の道徳に則る生き方をした英国人だった。

コンドルは,公私にわたりブリンクリーをよく知るだけに,「皎こう

潔けつ

の人格と云つて,性来軍人仕

込みの故人は苟いやしく

も言を為すに,決して感情や情実の為めに筆を曲げると云ふ様な事はなく,常に公

正と云ふ一点に於て筆者の本分を忘れなかつた。(略)既に七十近い高齢であつたが大の運動家で,

例の白髪の痩躯をワイシャツ一枚で若い者と一緒にテニスコートを駆け廻つて居た所などが,今眼

について忘れ難いのである」(時事)と,人間性への信頼が厚い。

おわりに

ブリンクリーの一連の追悼報道は唯一の例外(名古屋10月30日の記事)を除き,彼の日本への貢献

を讃えたものであった。「日本の親しき友」(報知),「日本の国友」(時事),「我国民の老友」(二六),

「日本の恩人」(中外商業・都・中央・やまと)などの文字が新聞紙面に踊っている様は,勲二等の勲

章が霞むかのような印象さえうけた。と同時に明治維新という封建社会から近代日本の船出が,い

かに社会を混乱させたかが伝わってきた。アジアの国々が西欧諸国の植民地になっていった時代

に,独立は守ったが,幕末の不平等条約改正の交渉に腐心し,風俗や生活様式を西欧化する欧化政

策を講じ,殖産興業を促進して軍事・経済力を強化しようとした日本。しかし,努力によって国力

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がついても,長い鎖国暮らしゆえの不慣れな国際外交には大きな不安が残ったに違いない。

ブリンクリーはそんな近代日本の黎明期に日本の土を踏み,日本政府に頼られて心意気に感じ,

持てる力をいかんなく発揮して日本に尽くしたと思われる。

日本政府が彼を頼った理由を忖度した記事がある。「数年前に於ける日本に対する海外諸国の評

論は,大抵日本に居留する外人の意見が其本国に反響して本国の世論となつたものであるが,其居

留外人は常に本国の文明を以て日本の事物を律した為めに,日本の国体とか日本人の特性とかは彼

等には全く理解されなかつたのである。斯く理解されずに横浜神戸等における外字新聞に由つて盛

に世界に日本は誤解された。然るにブリンクリー氏はジャパンメールを買ひ入れてから今日迄常に

日本の真相を外人に通ずるために,其雄麗の筆をメール紙上に走らせたのである」「同時に日清

戦後,倫敦タイムスの日本通信員となつて日本の為めに最も忠実なる親友として,常に欧米諸国に

於ける日本に対する偏見誤解を正し,真正な日本を海外に紹介した」(時事/邦人某)。

ブリンクリーの最後の日本紹介は,乃木将軍の自刃のニュースであった。「乃木将軍の自刃後,

外人間に(略)『乃木は借金があつた』とか,或は『狂人である』とか新聞紙等にて誤報するもの

あるを憤慨して自ら文を草して倫敦タイムスに打電し,又ジャパンメール紙上にも乃木将軍論を掲

げて日本の武士道を説述し,寺内総督は大に之を徳とし直に感謝状を送りたりと。是れ即ち氏の絶

筆なりき。故国にても氏に名誉博士の称号を贈らんとて頻にしきり

帰国を促し来り」(大阪毎日)。

朝鮮総督寺内正毅の謝辞は「外字新聞中貴紙の論ずる処は,我等軍人の見る処と寸毫も相違せぬ」

(神戸又新)との内容であった。コンドルもまた次のように同じ見解を語っているのが目を引いた。

「乃木大将の殉死と聞くや本国民の誤解があつてはと,病中にも拘らず自ら筆を乗つて長文の通信

を発した為め,タイムスの論調があの通り日本と云ふ特別の国体を基礎として公平なる見解を下し

たのも,全く故人の霽せい

月げつ

の如き人格が,能よ

く東洋人たる乃木大将の人格と相照合したものに外なら

ないのである」(時事)。霽月とは雨あがりの空の月で,くもりなく晴れわたった心境のたとえであ

る。不平等や偏見・高慢を嫌って条約改正を支持,妻子を英国籍に入籍する裁判をおこす。論争好

き。だが,快活なさっぱりした性格だったとコンドルは親友のブリンクリーを偲んでいた。

だれもが呆れるほど日本贔屓だった F・ブリンクリーは,来日以来一度も祖国の英国・アイルラ

ンドへ帰らず,西欧社会への日本の紹介者を自認し,日本の代弁者として生きて日本の土になった。

当時の日本人のブリンクリー観は,彼の死亡記事の見出しになった「ブ氏は日本人」(時事),

「日本人以上の日本人」(日本)が象徴するように同胞そのものだったといえるのではないだろうか。

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[注釈]

日本電報通信社,1913年。

来日直後の43年前の横浜を回想した「横浜懐古談」(東京朝日,1909年 7 月日,p.5),明治天皇の印象を

記した「外人の見たる先帝」(東京朝日,1912年 8 月 4 日,p.6)など。

1895年12月,勲三等瑞宝章を受勲。同月 5 日付の内閣総理大臣伯爵伊藤博文の裁可上奏書は「ブリンクリー

ハ日清韓交渉事件に関シ帝国ニ対シ頗ル好情ヲ表シ其社新聞紙上ニ於テ鋭意熱心帝国ノ裨益ヲ図リ終始黽勉

其功少カラス」。(梅溪昇編『明治期外国人叙勲史料集成』第 3 巻,思文閣出版,1991年,pp.167168)

国立公文書館アジア歴史資料センター 賞勲局上申第73号(1912年10月16日)。

英国大砲隊指揮官ブリンクレーイ・訳述『英国銃隊練法―1870年式銃術書』(津藩服部本之助翅良・玉置

正造和温・筆録)津・整暇堂,1871(明治 4)年。内容は,生兵,小隊,大隊,競隊,銃術書など全10冊。

記事のまちがいは〔 〕内に訂正。正誤は The Japan Weekly Male (Oct. 29, 1912. p.515)に拠った。また,

Josiah Conder (18521920)は英国人の御雇建築家。工部大学校教師。鹿鳴館,ニコライ堂らを設計・建築。

来日以前,ブリンクリーが香港駐留の頃,上海で開催されたクリケット大会に参加して知り合う。東京朝日

に掲載のモリソンと同一人物。二六では「横浜市山下町四十八番館モリソン商会主」と紹介されている。

(18591925)英語学者。英語名,ヘンリー。静岡藩出身。農商務省,英語教師,ロイテル電報社および米国

聯合通信社の東京通信員,国際通信社編集長などを歴任。英語の著書,Agitated Japan: the Life of Ii Kamon

noKami Naosuke. (開国始末―井伊掃部頭直弼の人生/大日本図書,1896.)の序文はブリンクリーが執筆。

(18481921)阿波国出身。慶応義塾らに学ぶ。三菱商会に入り炭鉱事業にたずさわったのち,岩崎弥太郎と

ともに日本郵船会社を創設し,1895年から社長として約36年間務め,海運国日本の礎を作り上げた。

John Russell Kennedy (1861)アイルランド生まれ。1907年 AP 通信東京特派員として来日。以降,AP

通信日本支局長,国際通信社を創設し総支配人,ロイター通信日本代表,ジャパン・タイムス社長。また,

数多くの外国新聞・雑誌の通信員も兼ねるなど多彩に活躍した。(鈴木雄雅,1990年。長谷川進一,1966年)

死去したブ氏の自宅は「内外諸名士より寄贈せる花環(略),ことに井上候,林逓信大臣,戸田式部長官,

広沢伯,伊集院大将,加藤高明男,大倉喜八郎,福沢捨次郎諸氏の贈れる花環は直径六尺に達し在倫敦アー

ムストロング会社代表ノーブル,英国ヴィカー会社代表者シユルツニ氏はわざわざ本国より電報をもって花

環を贈り,その他百六十余名より寄贈せる(略)花環繚乱として時ならぬ大花壇を造り出せり」(日本)。

ルビ,下線は筆者。出典は「注釈 4」に同じ。

1894年日英通商航海条約で治外法権が撤廃。1911年に他国とも関税自主権の回復に成功。

領事裁判のうち,主に民事裁判において,被告と原告の双方の国家から裁判官を出して構成した裁判所。現

在では,外国の領事裁判権を認めている国はないので,混合裁判所も存在しない。

チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman 18321891)が横浜居留地で発行した(18621887)The Japan

Punch(ジャパン・パンチ/全10巻・復刻版,雄松堂出版,2008年)の第 8 巻1881年 9 月号・10月号,1882

年10月号,1883年 8 月号・9 月号らに犬の戯画で登場。

Japan: Described and Illustrated by the Japanese written by Eminent Japanese Authorities and Scholars/Edited by

Captain F. Brinkley, Boston,(J・B・Millet co.)。

Ernest Francisco Fenollosa (18531908)アメリカの哲学者,東洋美術家。1878年に来日,東京帝大で哲学

などを講じるかたわら,岡倉天心らと東京美術学校を設立に尽力。1890年帰米後はボストン美術館東洋部長。

拙論「F・ブリンクリーと日英博覽会」,『明治大学大学院教養デザイン研究論集』(9 号),2006年 2 月,p.14.

他に「茶の湯」も嗜んでいた。「茶の湯には宗教上徳義上の意味を含めりとして嗜んだ」(万朝報)。

外務省外交史料館資料。明治 4 年兵部省砲術の月給は500元。(「外国人傭免状控え/3・9・3・6」第146号)。

明治11年通達の工作局数学教師では月給350円(「官雇入表/3・9・3・14」)。当時は 1 ドル=1 元=1 円。

Horatio H Kitchener (18501916)ブリンクリーより 9 歳年下。王立陸軍士官学校卒業の後輩。1909年元帥,

1914年陸軍大臣。巧みな駆け引きで名品を蒐集した陶磁器愛好家。1909年に伊藤博文の国葬参列のため来

日。ブリンクリーが面会を断った話はこの時のものと思われる。この百年前の英国の英雄は現在では,「醜

い英国の帝国主義的侵略の走狗とされ,本国においても批判の対象」という。(小鹿原敏夫,2015年)。

「(詳伝)F・ブリンクリ」p.337.

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George Ernest Morrison (18621920)ロンドン発行のザ・タイムス北京特派員となり日露戦争に従軍。「‘チ

ャイニーズ・モリソン’の異名で中国通」,のちに中華民国の政治顧問。(鈴木雄雅,1990年)

Valentine Chirol (18521929)「ザ・タイムスの国際環境に多大な影響をあたえたといわれる。1900年と

1909年の 2 度来日している」。(鈴木雄雅,1990年)

「同紙〔タイムズ〕の北京駐在員は,(略)ジョージ・アーネスト・モリソンだったが,やや反日的で,日露

戦争後の日本が満州を独占してイギリスのアジア権益を無視するとの理由で,日英同盟破棄説を唱え,これ

に反して通信員フランシース・ブリンクリーは日本の立場に理解同情を以て,日英強化説を唱えたので,さ

すがに世界第一の新聞『タイムズ』も二つの意見に接して戸惑い,外務大臣以上の勢力があるとの評判ある

チロルをわざわざ東洋に派遣したのである」(『早稲田大学百年史』第 2 巻,早稲田大学,1981年,p.212.)

『アーネスト・サトウ公使日記』(長岡祥三・福永郁雄訳,新日本往来社,1991年)に,チロルに向かって

アーネスト・サトウが,ブリンクリーの日本寄りの記事についての見解を話す場面が出ている。「彼(ブリ

ンクリー)こそ日本を知悉している点において,タイムズの特派員として資格のある唯一の人物であり,彼

の日本寄りの傾向を知っての上でその文章を読む限りにおいて,何ら問題はないと意見を述べた」(p.352)

Dictionary of Irish Biography: from the earliest times to the year 2002 (vol.1), Cambridge; Cambridge Universi-

ty Press, 2009, p.840.なお,「ジョン」と祖父の名を載せた大阪毎日は,「伯父」とまちがえて記述。

父マシュー(Matthew/17971855),母ハンリエッタ・グレイブス(Herriette Graves/1800?1855). 父母お

よび祖父ジョンの名前と生没年の出典は,Burke's Genealogical and Heraldic History of the Landed Gentry of

Ireland, Burke's peerage LTD, 1912, p‚71。

ウーリッジの The Royal Military Academy(王立陸軍士官学校)を卒業し,陸軍砲兵隊所属の軍人になる。

The Japan Weekly Male, Oct. 29, 1912. p.515.

ブリンクリーはまた,日本の英語界に多くの人材を育成した。ジャパン・タイムスの創設者で 2 代目社長・

頭本元貞,『英語青年』主筆・武信由太郎,佐藤顕理,「京都大学書記官の松永竹男,貝島太助氏会社の専務

理事中根寿の諸氏のごとき英学者をその門下から出し,その界に大いに貢献するところのあった」(日本)。

伊勢は,長女・英子婚約のニュースを,「阿嬢は近く長崎駐在米国副領事たるべきビツギンズ氏と婚約あり」

と掲載。神戸又新は,「専ら子供の教育に力を注いでいた。しかも体育に重きをおくため,長男〔次男〕の

ジャック君が相撲をとる場合などは,氏も後についていて勝つまで盛んに声援している」と父としてのブリ

ンクリーの姿を伝える。教育方針は武士道精神にもとづいた文武両道を旨とする日本流。

次男はジャックとジョンの 2 つの名を使っていたため新聞報道に食い違いが生じている。ジョンは偉大な祖

父と同名である。なお,墓碑銘はジョンだが,本人はジャック・ロナルドを自称していた。

「(詳伝)F・ブリンクリ」年表は,1881年は 1 月にジャパン・メールの経営者兼主筆となり,6 月10日に長

女の英・ドロシーが誕生。安子との結婚はそれより 3 年早い1878年に「5 月16日長男ハリー誕生。水戸藩士

の娘,田中安子と結婚」とある。時事の記事は長女誕生の年を「正式の結婚をあげた」と報じた。

『国際結婚の誕生―〈文明国日本〉への道』新曜社,2001年,pp.111121。

Yei Theodora Ozaki (18711932)日本名は英子。父の男爵尾崎三良が英国留学中に英国女性と結婚。3 姉妹

の長女として誕生。両親の離婚後,来日し翻訳家,教師。尾崎行雄(18591954咢堂)東京市長の後妻。

Walter Dening(18461913)。英国の宣教師として来日し,記者,教師などを務めた。ヒストリカスの筆名

で,The Japan Clronicle(Oct. 30, 1912, p.5)に寄せた追悼文に記されている。

ブリンクリーの文章についての記述。「日露戦争当時,タイムスに連載された世界を驚かした軍事通信およ

び日本武士道論は全く氏独特の大文でかつて露帝をして『この倫敦タイムスを一読して,初めて日本を深く

研究せざる露国開戦論者の失策を慨嘆す』と言わせたのも氏の文であった」(時事新報/邦人某)。「英国にも

現代において同氏ほど文章に堪能なる人ははなはだ少数なりといえば,この明文家がタイムス通信員として

これまで我国情を世界に紹介せしは日本にとりて此の上もなき事なりしと思う」(日本/近藤廉平)。

明治天皇大葬の1912年 9 月13日に乃木希典夫妻が殉死。殉死を野蛮と噂する西洋の誤解と偏見を正すため

に,病床のブリンクリーは「自ら令嬢ヒデ子に口述して四十字余の通信をタイムス社に打電せしめたり」

(読売)。乃木夫妻の自死を‘古風な武士道精神の復興’と書いたこの記事はタイムズ 9 月16日号に掲載され

た。

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[文献]

ウッドハウス瑛子『日露戦争を演出した男モリソン』(上・下),東洋経済新聞社,1989年.

エレン・P・コナント「フランク・ブリンクリー大尉」,『ナセル・D・ハリリ・コレクションー海を渡った日

本の美術』(第 1 巻・論文編),同朋舎出版,1995年,pp125151.

小鹿原敏夫「漱石とキッチナー元帥について」,『京都大学國文学論叢』(第33巻),京都大学大学院文学研究

科国語学国文学研究室,2015年 3 月.pp.117.

尾崎三良『尾崎三良日記』(中巻),中央公論社,1991年.

落合莞爾「疑史(66回)キッチナー元帥と奉天の古陶磁」,『月刊日本』2010年 4 月号,K & K プレス,

2010年 3 月.pp.98101.

「佐藤顕理氏略伝」,『英語青年』,英語青年社,1925年 8 月15日,p.317.

ジェイムズ・ホアー「第二章 明治日本における英国人ジャーナリスト」,イアン・ニッシュ『英国と日本人

―日英交流人物列伝』(日英文化交流研究会・訳),博文館新社,2002年,pp.4972.

昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学叢書』(第13巻),昭和女子大学光葉会,1959年,pp.289340.

「(詳伝)F・ブリンクリ」と略称。

鈴木雄雅「日本報道と情報環境の変化―情報発信に関わった外人ジャーナリスト小史」,『近代日本と情報』

(近代日本研究会編),山川出版社,1990年,pp.2350.

末広一男「男爵近藤廉平伝」,『人物で読む日本経済史』(監修・油井常彦)第12巻,ゆまに書房,1998年.

長岡祥三「尾崎行雄夫人セオドーラの半生」,『英学史研究』28号,英語史研究会,1996年,pp.5771.

『日本新聞年鑑』第 1 巻,日本図書センター,1985年.

芳賀徹他編『ワーグマン素描コレクション』(上・下),岩波書店,2002年.

長谷川進一編『ジャパンタイムズものがたり』,ジャパンタイムズ,1966年,pp.5864.

[注記]

1. 引用文は旧漢字を新字体とし,句読点を補った。

2. 差別用語は歴史的用語としてそのまま引用した。

[死亡報道の新聞に掲載された写真点]

▼「ブリンクリー氏と其同僚」

起立せるは即ちブリンクリー氏,向つて左はタイム

ス前外報部長チロール氏,同じく右は前同社北京通

信員モリソン氏。(時事新報10月29日p.6)

▼「逝けるブリンクリー氏と其家族(略)」

中央ブ氏,右上長男ハリー氏,左上次男ジョン氏,

下段右長女ひで子,中夫人やす子,左次女いね子。

(読売新聞10月29日p.3)