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Title 漢晋時代における東海繆氏一族について Author(s) 劉, 萃峰 Citation 歴史文化社会論講座紀要 (2017), 14: 1-12 Issue Date 2017-02-28 URL http://hdl.handle.net/2433/219622 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 漢晋時代における東海繆氏一族について Issue …...漢晋時代における東海繆氏一族について 一 はじめに 本稿は、前漢から西晋の東海地域(現在の江蘇省北部)における繆

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Page 1: Title 漢晋時代における東海繆氏一族について Issue …...漢晋時代における東海繆氏一族について 一 はじめに 本稿は、前漢から西晋の東海地域(現在の江蘇省北部)における繆

Title 漢晋時代における東海繆氏一族について

Author(s) 劉, 萃峰

Citation 歴史文化社会論講座紀要 (2017), 14: 1-12

Issue Date 2017-02-28

URL http://hdl.handle.net/2433/219622

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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漢晋時代における東海繆氏一族について

はじめに

本稿は、前漢から西晋の東海地域(現在の江蘇省北部)における繆

氏一族について考察しようとするものである。

家族史はこれまでも漢晋史研究の重要なテーマの一つであった。但

し、その研究の中心は政局を左右し得る高門望族であり、彼らに比べ

社会への影響が小さいとされる次等士族についての研究は不足してい

る(1)。しかし実際には、次等士族も中央政権あるいは地方社会にお

いて、その影響を及ぼしている。次等士族について考察することはそ

の時代の歴史認識をさらに深めることに繋がる前漢から西晋東海の繆

氏一族はその中のこうした一つのある。

繆氏一族についてこれまで行われできた研究は、大きく二つに分る

ことができる。

一つは、後漢末から西晋末までの一族の世系を再現するものであり、

魏晋南北朝の特定の一族に関する研究によく見られる手法である。例

えば潘光旦「存人書屋歴史人物世系表稿」(2)や矢野主税『改訂魏晋

百官世系表』(3)、鶴間和幸「漢代豪族の地域的性格」(4)などである。

これらは基礎的研究をなすものとして重要であるが、一族の具体的な

論説は少ないので、研究する余地が十分に残っていると考えられる。

もう一つは、繆氏一族中の重要な人物、即ち繆襲の礼楽・文学に関

する研究である。これについては松家裕子(5)や劉全波(6)らによる

成果がある。

残念ながら、こうした研究はいずれも、東海繆氏一族の漢魏晋時代

における様相の全てを解明してくれるものではない。そこで、本稿で

は、漢晋時代における繆氏一族について史料に基づいて解釈し、その

政治社会上の地位の変化について検討を加えていきたい。

一、漢代の東海繆氏一族

史書の中で、繆氏一族が最も早く出現するのは『史記』巻六一、儒

林列伝である。

漢晋時代における東海繆氏一族について

  

劉  

萃  

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劉  

萃  

(申公)弟子爲博士者十餘人。孔安國至臨淮太守、周霸至膠西內史、

至城陽內史、

魯賜至東海太守、蘭陵繆生至長沙內史、徐偃

爲膠西中尉、鄒人闕門慶忌爲膠東內史。

蘭陵県は漢代においては東海郡の所属であり、繆生は著名な儒者た

る申公の弟子となって、前漢の初め頃には二千石まで出世した。また、

北宋代に成立した地理書である『太平寰宇記』には以下のような記載

がある。

繆斐、東海朐人也。其先楚元王大夫繆生、謝病去、遂居此。(『太

平寰宇記』巻二二、河南道海州條)

これによれば、繆斐は繆生の子孫であるという(7)。注目すべきは、

繆生がかつて劉邦の弟である楚元王劉交の大夫を務めていたことであ

る。前漢の初め、大夫は議論を担当する官職であり、郎中令の下に置

かれ、太中大夫・中大夫・諫大夫などがあった。諸侯王国もまたこの

官を設置していた。繆生が就任した大夫の具体名は不明であるものの、

いずれにせよ、内史より低い地位であった(8)。従って、この大夫へ

の任官は長沙内史への就任以前のことであったと思われる。楚国と東

海郡は隣接しており、繆生はその才能が評価され、楚王に召されて大

夫となったのであろう。以上のことは、前漢の初期より東海繆氏の一

族が、東海の地において一定の影響力を有していたことを示唆してい

る。

前漢から後漢に至るまで、上記以外に文献史料の上で東海繆氏があ

らわれることはないが、一九八〇年代に出土した二つの後漢中期の墓

誌に注目したい。

この二つの繆氏の墓誌はともに今の江蘇省

州市西北にある青龍山

から出土した。墓誌の主は繆宇と繆紆である。この二つの墓の距離は

一二〇メートルほどしか離れておらず、このことからこの地は繆氏一

族の墓地であると推測されている。繆宇墓誌については尤振堯・周曉

陸・永田英正らによって釈読がすすめられ(9)、もう一方の繆紆墓誌

については李銀德・陳永濤・周曉陸らによって釈読が行われた(10)。

いずれの墓誌も摩耗が激しく、先行研究の釈読には多くの差異がある。

とりわけ繆宇墓誌については中央部分不解明な部分があるため、明確

になっている部分は多くない。しかし、繆宇の就任した官職や、卒年

などに関する部分については、釈読に異同はなく、本論に関係する部

分を、以下に抜粋する。

〔繆宇墓誌〕

故彭城相行長史事呂守長繆宇字叔異。(中略)君以和平元年七月

七日物故、元嘉元年三月廿日葬。(図一)

〔繆紆墓誌〕

繆君者諱紆字季高。幼聲州署郡仕、周竟徐州從事・〔武〕原長行事、

民四假望。歿年七十一、永壽元年太□在乙未、十二月丙寅遭疾終、

卒至丙申十月□□成葬。夫周訖于乙巳、夫人亦七十一、七有〔閏〕

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漢晋時代における東海繆氏一族について

□丁巳、不起徦疾、其十一月葬。(中略)時皇漢之世、武原縣屬

彭城。君父關內侯、冢在

□、〔比〕南吉位造迫、故徙于茲。(図二)

この二つの墓誌の文中に彼らの本貫地を記した部分はなく、繆宇墓

誌を整理した尤振堯氏らは、墓誌の出土場所が後漢の武原県であるこ

とから、繆宇が武原県の人である可能性を指摘している(11)。周曉陸

氏は繆紆墓誌釈読の際に、繆宇墓誌と合わせて、彼らの本貫地が武原

であったという説を支持している。また周氏は、繆宇が生前に任城相

領呂守長となっていて、その地は武原県ではないが、埋葬地は青龍山

であり、繆紆墓誌の関内侯の墓という記載から、故郷に埋葬されたと

考えられる、ともしている(12)。

しかし、これらの説には再考の余地があろう。まず第一に、文献史

料中に彭城武原を本貫とする繆氏の記載がない点である。前述の如く、

漢魏晋時代の徐州の繆氏としては、東海蘭陵の繆氏が見えるのみであ

る(13)。また、唐代の『元和姓纂』に蘭陵繆氏の条はないが、既に岑

仲勉氏が明らかにしたように、これは前段の富氏の条に繆氏の条が混

入した結果である。繆氏と富氏を書き間違えてしまっているものの、

『元和姓纂』にも蘭陵の繆氏のみが記され、彭城武原の繆氏は確認で

きない(14)。

第二の理由として立地上の問題がある。地図を見てみると、東海郡

蘭陵県と彭城国武原県は非常に近いことがわかる。尤振堯氏や周曉陸

氏は繆氏一族の墓所を蘭陵県ではなく武原県であるとしているが、明

確な論拠を欠く。筆者が文献史料の記載などと照らし合わせたところ

図一 

繆宇墓誌拓片

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劉  

萃  

(前掲、注13)、むしろ繆氏一族の墓所は武原県ではなく蘭陵県にある

ことがわかった。さらに、この一帯の墓所は現在の江蘇省

州市と山

東省棗莊市の境界線上近くにあるため(図三)、この二つの地を取り

違えてしまう可能性は十分にある。

第三は、就任した官職にかかわる問題である。繆宇の任ぜられた官

職は「彭城相行長史事呂守長」であるが、この部分については多く議

論がなされている。尤振堯氏と周曉陸氏は繆宇の官職を彭城相・長史

代行・呂県の県長を兼任と解釈している。しかし、宋治民氏と于淼氏

は呂長が彭城相と長史の事を行ったと解釈しており、彭城相への就任

を認めていない(15)。ただ両説ともに、確定的な論拠に欠ける。もし

尤振堯氏と周曉陸氏の説が正しいとすれば、任官の際に本貫地を回避

することが盛んだった漢代において、なぜ繆宇が本貫地である彭城国

に任官することができたのであろうか。(16)。従事は州郡の僚佐であ

り、慣例によって本州の人が就任することになっていたため、特に問

題はない。しかし、武原長は基本的に武原の人が就任することができ

ない。繆宇と繆紆の官歴を考慮すれば、彼らが彭城国武原県の人であ

る可能性は排除してよいように思われる。

最後に、前述した『太平寰宇記』中の「繆斐、東海朐人」という記

述についてである。管見の限り、この説は『太平寰宇記』にしか見ら

れない。漢から唐の文献史料中の「東海蘭陵繆氏」に関する記述は、『太

平寰宇記』と同じ時期に作られた『太平御覧』にも引用されているが、

そこでは繆斐が東海蘭陵の人と記している(17)。『太平寰宇記』の記

述は誤りである可能性が高い。

図二 

繆紆墓誌拓片

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漢晋時代における東海繆氏一族について

以上の文献史料、出土資料の記述を総合すれば、漢代の徐州の繆氏

の本貫地は東海郡蘭陵県であって、彭城国武原県ではないと見てよい。

史料の不足によって、二つの墓誌の主人

―繆宇と繆紆

―が、繆氏

の世系の中でどこに位置するのかについては不明である。ただ、墓誌

の記した繆氏の官職に基づく限り、彼らが積極的に地方行政に関与し、

当地に影響力を有していたことは間違いない。

二、曹魏時代における東海繆氏一族の地位の上昇

漢代の繆氏は地方に一定の影響力を持つ存在であり、徐州の行政の

中で一定の地位を築いていた重要な存在であったが、その活動範囲と

影響力はあくまで地方にとどまるものであっただろう。しかし後漢末

から曹魏にかけて、繆氏一族の状況は大きく変わる。その

を握る人

物が繆襲である。

繆襲は、『三國志』巻二一、魏書、劉劭伝に附伝されている。その

記載は極めて簡略なものであるが、幸い裴松之の注釈に引く諸史料に

よって、多くの情報を得ることができる。

(劉)劭同時東海繆襲亦有才學、多所述敍、官至尚書・光祿勳。

【裴松之注】『先賢行狀』曰「繆斐字文雅、該覽經傳、事親色養。

徵博士、六辟公府。漢帝在長安、公卿博舉名儒。時舉斐任侍中、

並無所就。即襲父也。」『文章志』曰「襲字熙伯。辟御史大夫府、

歷事魏四世。正始六年、年六十卒。子悅字孔懌、晉光祿大夫。襲

図三 

繆宇墓と繆紆墓の位置

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劉  

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孫紹・播・徵・胤等、並皆顯達。」

『先賢行狀』によると、繆襲は繆斐の子である。前述したように、

繆斐は漢初の儒者である繆生の末裔である。さて『太平御覽』に引用

される(注17参照)繆斐は親孝行な存在として記述されているが、そ

れは裴松之が注引している『先賢行状』中の「事親色養」という記載

と合致する。それだけではなく、繆斐は祖先から家学として儒学を受

け継いでおり、相前後して辟召されたり、察挙に選ばれたりしていた

が、彼は「並無所就」であった。また「漢帝在長安」という記載から、

これが後漢の献帝が董卓によって長安に拉致されていた時期の話だと

いうことがわかる。かかる情勢の下、複雑化する政治局面を嫌ったた

め、もしくは董卓やその部将の行状を憎んでいたため、繆斐は朝命を

拒否したのかもしれない。

一方、その子の繆襲は曹魏に仕えることを選択した。曹操政権の初

期、繆襲は御史大夫の僚佐として辟召を受け、その後、曹魏の文帝、

明帝、斉王に仕え続け、尚書・光禄勲まで出世した。それだけではな

く、繆襲は侍中や散騎常侍といった皇帝近臣の官を歴任してもいる。

魏明帝爲外祖母築館于甄氏。既成、自行視、謂左右曰「館當以何

爲名。」侍中繆襲曰「陛下聖思齊于哲王。罔極過於曾・閔。此館

之興、情鐘舅氏、宜以渭陽爲名。」(『世說新語』言語篇)

魏散騎常侍繆襲集五卷、梁有錄一卷。(『隋書』卷三五、經籍志四)

光禄勲や散騎常侍、侍中といった官は、単に官秩官品だけを比較す

れば、彼の先祖の繆生が就任した長沙内史や、後漢中期に繆宇が就任

したかもしれない彭城相と比べても遜色ない。但し、繆襲の就任した

官は、すべて中央の高官であって、地方の官職ではない点は留意する

べきであろう。さらに特に散騎常侍と侍中は、曹魏時代に非常に重要

視された官である(18)。では繆襲はどのようにして曹魏政権の中枢部

に入り込んだのであろうか。

既に述べてきたように、東海繆氏は歴代儒学を学んできた一族であ

り、繆襲の祖先である繆生や、父親の繆斐らはみな著名な儒学者であっ

た。そのような一族に生まれ育った繆襲であれば、その儒学の知識は

まず儒家が最も尊ぶ「礼」において発揮されるはずである。現存する

書籍目録の中に、「礼」に関する繆襲の著作は見えないけれども、彼

が「礼」に対して造詣が深かったこと文献中に見い出すことができる。

『宋書』巻一四、礼志の記述はその一例である。

明帝即位、便有改正朔之意、朝議多異同、故持疑不決。(中略)

太尉司馬懿・尚書僕射衞臻・尚書薛悌・中書監劉放・中書侍郎刁

幹・博士秦靜・趙怡・中候中詔季岐以爲宜改。侍中繆襲・散騎常

侍王肅・尚書郎魏衡・太子舍人黃史嗣以爲不宜改。

曹魏明帝の即位の初め、正朔を変更するか否かという議論があり、

この問題について朝臣は二派に別れた。その中で正朔変更を支持した

朝臣は、太尉の司馬懿を中心とした一派であり、反対派の一人として、

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漢晋時代における東海繆氏一族について

当時侍中であった繆襲がいた。この議論については、その背景にある

当時の政治闘争も影響しているため、背後関係等々についてはひとま

ず置措くが、この礼志の文章は、多くの注目すべき点を提供してくれ

る。まず河内司馬氏は「礼」を学んできた一族であり、これはすでに

多くの先行研究が指摘するところでもある(19)。繆襲の後ろに名前を

連ねる王肅についても、司馬懿と同様に経学の一族に生まれた人であ

り、父の王朗や、師匠の宋忠らはともに漢魏時代の大儒であった(20)。

また『隋書』経籍志は、彼らの経学に関する著作として二十余種を著

録する。この『宋書』礼志にでてくる人の多くは、当時の有名な儒学

者たちであるが、繆襲はその一方の首領であった。このことは、繆襲

の礼学に関する造詣の深さを示しており、また同時代的にも彼の見識

が高く評価されていたことを示している。

他の史料からも彼の「礼」に関する広範な知識を垣間見ることがで

きる。たとえば祭祀の制度についての意見や追尊・追諡に関する見解、

喪葬儀礼に関する事項など、彼の「礼」に関する知見を随所に垣間見

ることができる。その一例として、『續漢書』祭祀志の中に立秋十八

日の祭祀に関する記述がある。南朝梁の劉昭が附した注に、繆襲の学

説が見える。

『續漢書』祭祀志中

先立秋十八日、迎黃靈于中兆、祭黃帝后土。車旗服飾皆黃。歌朱

明、八佾舞雲翹、育命之舞。

【劉昭注】魏氏繆襲議曰「漢有雲翹、育命之舞、不知所出。舊以

祀天、今可兼以雲翹祀圓丘、兼以育命祀方澤。」

上述の内容からもわかるように、繆襲は祭祀・喪葬・追諡などの「礼」

の重要な部分に独自の見解を有していた(21)。史料が不足ので、繆襲

の礼学知識の全てを知ることはできないが、それでも繆襲が極めて高

い礼学の知見を持っていたことは疑いない。

以上に「礼」について述べてきたが、その「礼」を表象するのが「楽」

である。礼と楽はともに儒学の重要な構成要素であって、王朝の統治

が確固たるものであることを示すのに極めて重要な役割を果たしてい

た。漢魏禅譲革命の時、典章制度の多くは改変され、その中には国家

儀礼の象徴的意味合いを持つ「楽」の改変も含まれていた。その改変

の中、繆襲は曹魏が漢に取って代わった功徳を礼賛する歌を完成させ

た。

漢時有短簫鐃歌之樂、其曲有朱鷺・思悲翁・艾如張・上之回・雍

離・戰城南・巫山高・上陵・將進酒・君馬黃・芳樹・有所思・雉

子班・聖人出・上邪・臨高臺・遠如期・石留・務成・玄雲・黃爵

行・釣竿等曲・列於鼓吹、多序戰陣之事。及魏受命、改其十二曲、

使繆襲爲詞、述以功德代漢。(『晉書』卷二三、樂志下)

漢魏交替の際、繆襲は国家の楽曲の改革を主導しており、そのこと

が彼の礼楽に関する造詣の深さを証明している。『魏書』や『通典』

などの中に、繆襲の「楽」に関する理解が記されている部分が少なか

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劉  

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らずあるが、紙幅の都合もあり一々列挙することはしない。また、繆

襲は礼楽のみならず文学上にも大きな足跡を残している(22)。

礼・楽を中心とする儒学によって、繆襲は立身出世を果たし、曹魏

の文帝や明帝の時代に親任された。『三國志』は信頼される繆襲のす

がたを記述している。

黃初中、詔公卿舉獨行君子、歆舉管寧、帝以安車徵之。明帝即位、

進封博平侯、增邑五百戶、并前千三百戶、轉拜太尉。歆稱病乞退、

讓位於寧。帝不許。臨當大會、乃遣散騎常侍繆襲奉詔喻指曰「朕

新莅庶事、一日萬幾、懼聽斷之不明。賴有德之臣、左右朕躬、而

君屢以疾辭位。夫量主擇君、不居其朝、委榮棄祿、不究其位、古

人固有之矣、顧以為周公・伊尹則不然。

身徇節、常人爲之、不

望之於君。君其力疾就會、以惠予一人。將立席几

、命百官總己、

以須君到、朕然後御坐。」又詔襲「須歆必起、乃還。」歆不得已、

乃起。(『三國志』巻一三、魏書、華歆傳)

明帝即位の後、華歆は太尉を拝命していたが、彼はそれを辞退した。

朝会の前に明帝は人を派遣して詔を華歆に下しているが、この派遣さ

れた人こそが当時散騎常侍であった繆襲であり、ここから彼が当時明

帝の信頼を深く受けていたことが分かる。皇帝の信任を受け、積極的

に国事に参与するということは、個人の身分表象の中で最も重要な部

分であり、なおかつ最も表出しやすい部分である。この他にも、同僚

の中での序列も一個人の地位を反映させる側面を持っている。前掲の

『宋書』礼志に記された、曹魏明帝期における正朔改変問題の時に記

された二派の大臣の序列は、まさにその格好の事例である。あの名前

の順番は、繆襲の礼制に対する見解に独自のものがあることを証明し

ていると同時に、彼が当時の朝廷における重要な政治案件にも参与で

きる存在であったことをも示している。これはまさしく繆襲が当時の

政局における重要人物の一人であったことを示している。

「事魏四世」の繆襲はその個人の才能によって、曹魏の政権中枢部

に登りつめていった。これは彼の努力によって得たものであり、それ

によって東海繆氏の一族は三国時代に地方の有力者から、全国へ影響

を及ぼす全国的な一族に変貌したのである。

三、西晋時代における東海繆氏の動向

繆襲は正始六年(二四五)に死去したが、その時、曹魏朝廷では曹

氏と司馬氏の対立が表面化いた。正始十年(二四九)には高平陵の変

が起こり、司馬氏が朝廷の権力を掌握し、その後の魏晋革命への道を

切り開いた。正始の党争から魏晋革命に至るまで、当時の人たちは、

曹氏か司馬氏か、という政治上における最大の選択を迫られていた。

この時期における東海繆氏の代表的人物が繆襲の子の繆悅である。

前掲の『三国志』裴注や『晋書』によると、繆悅は西晋の光禄大夫

となっており、ほかにも『南史』巻四八陸澄伝によれば、繆悅は国子

博士に就任していたこともあたという(23)。『晋書』巻六〇 

繆播及

從弟繆胤伝によると、「字休祖、安平獻王外孫也、與播名譽略齊」と

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漢晋時代における東海繆氏一族について

あり、繆悅の甥の繆胤は安平献王の外孫だとされる。安平献王とは即

ち司馬懿の弟の司馬孚であり、曹魏・西晋を通じて高位高官にあった

人物である。繆氏一族が司馬孚と婚姻を結んでおり、西晋になって繆

悦が高官に就任していることから、曹魏の末年の政争中に、東海繆氏

が司馬氏に傾倒したことは間違いないだろう。これによって、繆氏は

政治的地位を強固なものとすることに成功した。

先に引用した『文章志』が伝える繆襲の孫たちは「紹・播・徵・胤

等、並皆顯達」とされ、四人が確認されるが、現存する史書の中で繆

紹の記載は僅かにこの箇所に見えるに過ぎない。一方、繆徵の記述は

比較的多く残っており、『宋書』巻四〇百官志下に「晉武世、繆徵爲

中書著作郎」とあり、『晋書』巻二四職官志にも同様のことが書かれ

ている。また繆徵は「賈謐二十四友」の一人としても有名である(24)。

これは一時期、西晋の朝廷において大きな存在感を持っていた賈謐の

文学・政治的集団であり、石崇、潘岳、劉琨、陸機、陸雲、左思らも

その一員であった。繆徵もそこに属しているということは、彼に文学

の修養があることを意味していると共に、繆徵が当時の政治における

中心的な存在の一人でもあったことも示している(25)。

注意すべきは、繆徵が西晋時代における繆氏の出世頭ではないとい

うことである。現存する史料に基づけば、繆襲の四人の孫の中で、名

望が最も高かったのは繆播と繆胤の二人であった。

繆播は『晋書』巻六〇に立伝されている。司馬泰が司空であった時、

その祭酒となり、後に皇太弟中庶子に遷ったので、恵帝の末年には、

河間王司馬顒と東海王司馬越との仲を取り持ち、長安と洛陽の間を往

復した。恵帝が崩御すると皇太弟の司馬熾(懐帝)が即位するが、繆

播はその近臣となって中書令に至った。懐帝と東海王司馬越との抗争

の最中、繆播とその従弟である繆胤は司馬越に殺されてしまう。

西晋末年の繆氏一族の地位の上下を明らかにするためには、繆播と

繆胤の政治的行状を系統的に整理する必要があるだろう。そこで以下

に繆播と繆胤の官歴を追うかたちで、彼らの動向を整理してみる。

まず、繆播の就任した司空祭酒について。そもそも司馬越の父であ

る司馬泰が司空になったのは、恵帝即位の年であり、当時彼は隴西王

でもあった。司馬泰は朝廷において実直であると称されており、宗室

諸王の中でも評判は良く、政治家としても特に大きな問題のない人物

であった。繆播は司空祭酒の任を受けているが、司馬泰との関係はよ

くわかっていない。しかし、少なくとも繆播個人の才能が優れていて、

司馬泰が彼を嫌っていなかったことは明らかである。

その後、繆播はいくつか昇進を重ね、皇太弟中庶子となるが、これ

は極めて重要である。恵帝期には二人の皇太弟

―司馬冏と司馬熾

―がいたが、繆播は司馬熾の皇太弟中庶子に任ぜられていた。この

間、繆播は河間王司馬顒と東海王司馬越の仲を取り持ちながら、恵帝

の長安遷徙に同行し、最後には共に洛陽へ帰った。このことから、繆

播は当時の権力者であった司馬越と良好な関係を築いていたと考えら

れる。

恵帝期の混乱する政局の中、司馬熾が皇帝位を継承し、繆播も政治

的キャリアの頂点の時代を迎える。彼は極めて短期間の間に昇進を繰

り返し、黄門侍郎や侍中を歴任し、最終的には中書令に至り、詔勅を

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専管し、皇帝たる司馬熾すなわち懐帝から深い信頼をよせられる。同

時に、従弟である繆胤もまた左衛将軍から散騎常侍に昇進し、更に太

僕まで登りつめる。この時期が彼らの政治的な絶頂期であったが、凋

落するのも早かった。懐帝と司馬越の対立が激化し、繆播は「旧主」

と「新帝」の板挟みになってしまう。懐帝から受けた恩義が大きかっ

たこともあってか、繆播は皇帝側に付くことを選択するが、そのため

に司馬越によって殺されてしまう。繆播と一緒に、繆胤、懐帝の舅父

である王延、尚書の何綏、太史令の高堂沖らも殺された。ここに懐帝

の近臣は一網打尽にされてしまったのである(26)。

西晋末年の混乱を極めた政局の中、自身や一族の状況や、時勢に迫

られた面があったにせよ、繆播は幾度か政治的な転向を行っている。

司馬越の父である司馬泰に祭酒として仕えたのが、彼の政治的キャリ

アの出発点である。その後は懐帝の即位に伴って、繆播は最終的に司

馬越と対立し、その身を滅ぼすこととなる。

西晋以降の史書の中にあらわれる東海繆氏一族は、大体において名

前のみが史書に留められているのみであり、具体的な事跡が述べられ

ることは極めて稀である(27)。南朝に入ると、かつて儒学を家学とし

て繆氏一族は、当時の恩倖である「小人」と結託することを試み(28)、

北方に留まっていた東海繆氏は、更に「數十年間、了無從官者」とい

うことになってしまった(29)。これらのことから、東海繆氏の隆盛は

もはや往時のものとなっていたのである。

おわりに

東海繆氏は代々儒学を学んできた一族であるが、後漢末までは、そ

の勢力は徐州内に限られていた。曹魏時代、繆襲の登場により、繆氏

一族は中央政界に進出し、国政に影響を与えるようになった。魏晋革

命に際し、繆悦らは正確に時勢を読み、西晋になっても一族は栄え続

け、懐帝の時代、三代に亘って蓄積してきた声望や政治的地位は頂点

に達する。しかし、繆播は、祖父や父のように一族を守ることができ

ず、政治的闘争に敗れ、西晋滅亡前夜に殺されてしまう。東海繆氏の

発展はここで止まってしまった。

魏晋政治史を整理すると、西晋時代の官僚階層は漢末から魏晋にか

けて成長発展し、一つの政治利益共同体とでもいうべき存在の上に成

立したものであることが分かる。西晋末期の動乱の中で、この共同体

は大きな打撃を被り、従来から勢力のあった一族や発展途上の一族が

大きな損害を受ける一方で。新たな一族が力をつけ、新勢力を築いて

いった(30)。かかる情勢の中で、東海の繆氏は壊滅的な打撃を受けて

姿を消した一族の一つであった。もし西晋末年の動乱で被害を受けて

いなければ、彼らもまた後世にまで強い政治的な影響力を持つ「門閥

貴族」になった可能性は十分にあっただろう。このように考えたとき、

その凋落は極めて偶然性の強いものによって招来されたといえる。し

かし、内憂外患を抱える中、崩れゆく西晋王朝の下で、繆氏一族が生

き延びようとすることは簡単ではなかったであろう。つまり、東海繆

氏の凋落は単なる一氏族の悲劇ではなく、この時代の一面を映し出し

Page 12: Title 漢晋時代における東海繆氏一族について Issue …...漢晋時代における東海繆氏一族について 一 はじめに 本稿は、前漢から西晋の東海地域(現在の江蘇省北部)における繆

漢晋時代における東海繆氏一族について

一一

てもいるのである。

(1)

前漢初期の豊沛の軍功貴族や、後漢中期以来の儒学一族についてはこ

れまで多くの研究がなされてきた。両漢の豪族研究については、崔向

東『漢代豪族研究』(崇文書局、二〇〇三年)第一章に総括されている。

また、魏晋の豪族研究については、仇鹿鳴『魏晋之際的政治権力与家

族網絡』(上海古籍出版社、二〇一二年)第一章に詳しい。

(2)

『潘光旦文集』第四冊、北京大学出版社、一九九三年、二〇一頁。

(3)

矢野主税編著『改訂魏晋百官世系表』長崎大学史学会、一九七一年、

一五八頁。

(4)

鶴間和幸「漢代豪族の地域的性格」『史学雜誌』第八七編第一二号、

一九七八年。

(5)

松家裕子「繆襲とその作品」『アジア文化学科年報』第一巻、一九九八年。

(6)

劉全波「曹魏東海繆襲生平著述輯考」『斉魯文化研究』第一二輯、

二〇一二年。

(7)

繆斐の「東海朐人」という記述にはおそらく問題がある、この点に関

しては後に詳しく述べる。

(8)

『漢書』巻一九上、百官公卿表上。

(9)

尤振堯「略論東漢彭城相繆宇墓的発掘及其歴史価値」『南京博物院集刊』

第八輯、一九八三年。周曉陸「繆宇墓誌銘考」『南京博物院集刊』第八輯、

一九八三年。南京博物院・

縣文化館「東漢彭城相繆宇墓」『文物』

一九八四年第八期。永田英正編『漢代石刻集成(図版・釈文篇)』同朋

舍出版、一九九四年、一〇八〜一〇九頁。

(10)

李銀徳・陳永濤「東漢永寿元年徐州従事墓誌」『文物』一九九四年第八期。

周曉陸「繆紆墓誌読考」『文物』一九九五年第四期。

(11)

前掲南京博物院・

縣文化館「東漢彭城相繆宇墓」。

(12)

前掲周曉陸「繆紆墓誌読考」。

(13)

『三國志』卷二一、魏書・劉劭傳附繆襲傳

 (劉)劭同時東海繆襲亦有才學、多所述敍、官至尚書・光祿勳。

『晉書』卷六〇、繆播及從弟繆胤傳

 

繆播字宣則、蘭陵人也。父悅、光祿大夫。

(14)

(唐)林宝撰、岑仲勉校記、郁賢皓・陶敏整理、孫望審訂『元和姓纂(附

四校記)』中華書局、一九九二年、一三五九頁。

(15)

宋治民「繆宇不是彭城相」『文物』一九八五年第二期。于淼「繆宇墓誌

中的『要帶黑

』」『中華文史論叢』二〇一五年第四期。

(16)

漢代の任官時における本貫地回避については、厳耕望『中国地方行政

制度史・秦漢地方行政制度』第一一章、中央研究院歴史語言研究所、

一九九〇年を参照。

(17)

例えば『太平御覽』卷四一一、人事部・孝感所引宋躬『孝子傳』

 

繆斐、東海蘭陵人。父忽患、醫藥不給、斐夜叩頭、不寢不食、氣息

將盡。

同書卷五一〇、逸民部・逸民所引蕭繹『孝德傳』

 

繆斐字文雅、東海蘭陵人。世亂、將家避地海濱、不以遯世爲悶、不

以窮居爲傷、浣衣濯冠、以俟絶氣。。

(18)

散騎常侍と侍中らの官職が曹魏時期にどのように地位を変化させたの

かについては、多くの議論がなされており、紙幅の都合もあってここ

では詳述しない。比較的最近の研究として、禹平・韓雪松「曹魏侍中

与三省制」『史学集刊』二〇〇九年第五期、黃惠賢「曹魏侍中機構的発

展和変化」『襄樊學院学報』二〇一一年第七期などがある。

(19) 関係する研究は枚挙に暇がないが、ここで詳述することは避ける。こ

の研究史のまとめとしては仇鹿鳴『魏晉之際的政治権力与家族網絡』

三九〜四五頁を参照。

(20)

『三国志』巻一三、魏書・王朗伝。

Page 13: Title 漢晋時代における東海繆氏一族について Issue …...漢晋時代における東海繆氏一族について 一 はじめに 本稿は、前漢から西晋の東海地域(現在の江蘇省北部)における繆

劉  

萃  

一二

(21)

繆襲の礼制に関する見解は『南齊書』卷九、禮志上や『通典』卷七二、禮・

沿革・嘉禮十七・天子追尊祖考妣、同書卷八一、禮・沿革・凶禮三・

天子爲母黨服議、同書卷八四、禮・沿革・凶禮六・設銘などで確認し

得る。

(22)

繆襲の楽に関する見解は『魏書』卷一〇九、樂志五や『通典』卷

一四七、樂七・郊廟宮懸備舞議などで確認し得る。

繆襲の文学に関しては、先行研究が極めて詳細に論じているため、そ

ちらを参照されたい孔繁信「略論東海詩人繆襲」『臨沂師専学報』

一九九〇年第二期。前掲、松家裕子「繆襲とその作品」、劉全波「曹魏

東海繆襲生平著述輯考」など参照。

(23)

『南史』卷四八、陸澄傳

 

永明元年、(陸澄)累遷度支尚書、尋領國子博士。尚書令王儉謂之曰「昔

曹志・繆悅爲此官、以君係之、始無慚德。」

(24)

『晉書』卷四〇、賈充傳附孫賈謐傳

 

渤海石崇歐陽建・滎陽潘岳・吳國陸機陸雲・蘭陵繆徵・京兆杜斌

虞・

琅邪諸葛詮・弘農王粹・襄城杜育・南陽鄒捷・齊國左思・清河崔基・

沛國劉

・汝南和郁周

・安平牽秀・潁川陳

・太原郭彰・高陽許猛・

彭城劉訥・中山劉輿劉琨皆傅會於謐、號曰二十四友、其餘不得預焉。

(25)

賈謐の二十四友については、福原啓郎「賈謐の二十四友をめぐる二三

の問題」(『魏晋政治社会史研究』第七章、京都大学学術出版会、

二〇一二年)を参照。

(26)

陳蘇鎮「司馬越與永嘉之亂」『北京大学学報』(哲学社会科学版)

一九八九年第一期。

(27)

『晉書』卷一〇八、慕容

載記に慕容

が任用した漢族の官僚を羅列し

た部分があるが、そこに「渤海封

・平原宋該・安定皇甫岌・蘭陵繆

愷以文章才儁任居樞要。」として、蘭陵の繆愷が確認できる。

(28)

『宋書』卷九四、恩倖・阮佃夫傳

 

景和末、太宗被拘於殿內、住在祕書省、爲帝所疑、大禍將至、惶懼

計無所出。佃夫與王道隆・李道兒及帝左右琅邪淳于文祖謀共廢立。

時直閤將軍柳光世亦與帝左右蘭陵繆方盛・丹陽周登之有密謀、未知

所奉。登之與太宗有舊、方盛等乃使登之結佃夫、佃夫大說。

(29)

『魏書』卷五五、劉芳傳附繆儼傳

 

初、蘭陵繆儼靈奇、與彭城劉氏才望略等。及彭城內附、靈奇弟子承

先隨薛安都至京師、賜爵襄賁子、尋還徐州、數十年間、了無從官者。

世宗末、承先子彥植襲爵、見叙、稍遷伏波將軍・羽林監。彥植恭慎

長厚、爲時所稱。

(30)

仇鹿鳴『魏晋之際的政治権力与家族網絡』結語を参照。

【附記】本論文を執筆するにあたり、立命館大学の小野響氏から丁寧かつ熱心

なご協力を頂き、また南京大学の段彬氏・山東人民出版社の崔敏氏からいろ

いろ手伝って頂き、ここにおいて心より感謝を申し上げます。

図版出典

図一

繆宇墓誌拓片

永田英正編『漢代石刻集成(図版・釈文篇)』同朋舍出版、一九九四年、

一〇八〜一〇九頁

図二

繆紆墓誌拓片

李銀徳・陳永濤「東漢永寿元年徐州従事墓誌」『文物』一九九四年第八

図三

繆宇墓と繆紆墓の位置

筆者は譚其驤主編『中国歷史地図集』第二冊(中国地図出版社、

一九八二年、第四四〜四五頁)と国家文物局主編『中國文物地圖集·

蘇分冊』(中国地図出版社、二〇〇八年、第三一八頁)に基づいて作成

した。