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Title <一般論文>プロイセン改革期におけるギムナジウム数学 教育の発展--ギムナジウム教育プログラムの分析から-- Author(s) 橋本, 雄太 Citation 科学哲学科学史研究 (2015), 9: 52-76 Issue Date 2015-03-31 URL https://doi.org/10.14989/197251 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title プロイセン改革期におけるギムナジウム数学 教 … · 橋本「プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展」(52–76)

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Title <一般論文>プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展--ギムナジウム教育プログラムの分析から--

Author(s) 橋本, 雄太

Citation 科学哲学科学史研究 (2015), 9: 52-76

Issue Date 2015-03-31

URL https://doi.org/10.14989/197251

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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一般論文

プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展

――ギムナジウム教育プログラムの分析から――

橋本雄太∗

The development of mathematical education in Prussian gymnasium inthe reform period

Yuta HASHIMOTO

abstract

This paper examines the history of the development of mathematical education inPrussian gymnasiums in the first half of the 19th century. The Prussian gymnasiumsystem emerged from educational reform at the beginning of the 19th century underthe significant influence of the neo-humanism movement and formal Bildung theory.Prussian bureaucrats and teachers who participated in the reform put a high valueon mathematics as a means of training student’s mental capacity. This was reflectedin the educational policy of the Prussian government. The so-called Suvern’s planwas the first standard curriculum announced by the Prussian government in 1816and brought an increase of the hours of teaching mathematics in Prussian gymna-siums around 1820. This situation did not last long, however, because in responseto student demands, the Prussian gymnasiums had to reduce mathematical educa-tion. However, the author’s analysis of the annual reports published by gymnasiumsshows that Suvern’s plan brought a quantitative change in gymnasium education; themathematical education in gymnasiums transformed from practical and utilitarian inorientation to academic and scientific and this was vital for higher mathematical ed-ucation in universities.

∗ 京都大学大学院文学研究科情報・史料学専修

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§1 序

1.1 本研究の背景と目的

ギムナジウム(Gymnasium)は,ヨーロッパ諸国において現在も中等教育の中核をなす 9年制の学校制度である1.基幹学校(Hauptschule)や実科学校(Realschule)など主に職業訓練を目的とした他の学校制度とは異なり,歴史的にギムナジウムは大学進学を予定する子弟のための教養学校(Bildungsschule)として位置付けられてきた.数学史,特に 19・20世紀ドイツにおける数学研究の歴史を考える上で,ギムナジウム数学教育の形成史の研究が重要である理由は,それが 19世紀ドイツでなされた数学研究の志向に少なからぬ影響を及ぼしたと考えられるからである.以下これについて説明する.

18世紀中葉から,ドイツ語圏には数学の諸分野を「純粋数学」(reine Mathematik)と「応用数学」(angewandte Mathematik)とに区分して扱う伝統が存在した2.両分野の境界はけっして明確ではないが,一般的には,前者には幾何学,算術,代数,解析学が,後者には物理学の諸分野や数学の産業的・商業的応用に関する理論が含まれる.19世紀後半から 20世紀前半にかけ,ベルリン大学やゲッティンゲン大学などの名門大学を筆頭に,プロイセン‐ドイツ帝国の諸大学は数学研究の世界的中心としての栄華を極めたが,そこでもっとも重要な研究対象とされたのは数論・代数・解析といった純粋数学分野に属する研究であった3.多くの数学史研究者は,ドイツにおける純粋数学研究の流行の背景として,19 世紀初頭にプロイセンで実施された教育制度改革の影響を指摘している.たとえば数学史家 J. Ferreiros は,20 世紀の数学基礎論史・集合論史についての研究書(Ferreiros

1 ギムナジウムの進級制度は 6 つの級から構成されており,上級から順に Prima, Sekunda, Tertia,Quarta, Quinta, Sextaと呼ばれる.簡便のため,本稿ではこれらをアラビア数字で 1級,2級,...と表記する.なお,上級学年の Prima, Sekunda, Tertiaは 2年制,他の級は 1年制である.2 Google Ngram (https://books.google.com/ngrams/)では,1760年代からこれらの単語の最初の用例を確認することができる.3 純粋数学研究の流行を象徴する代表的媒体として,1826年に刊行された学術誌『クレレ誌』(Crelle’s

Journal)が挙げられる.『クレレ誌』は正式名称を『純粋および応用数学雑誌』(Journal fur die reineund angewandte Mathematik)といい,数学者・土木技術者のアウグスト・クレレ (August LeopoldCrelle, 1780–1855)によって創刊された数学研究専門の学術誌である.誌名が示す通り,クレレ誌は純粋数学と応用数学の両分野を包括する目的で創刊された学術誌であった.ところが,創刊当初こそクレレ誌には流体力学や土木工学に関する論文が掲載されていたものの,1850年代には,掲載される全ての論文が純粋数学に属する研究で占められるようになってしまった.

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2008)において,次のように述べている.

19世紀の国際的文脈において,ドイツの科学コミュニティはいくぶん特異な存在に見える.数学も含めた科学一般に対するドイツのアプローチは,ある特有の知的雰囲気をまとっているような印象を与えるのである.このことは,数学研究がおこなわれた制度的文脈を考慮に入れることでより良く理解されるのだが,それはナポレオン侵攻後に実施された,教育改革の結果として生じたものである4.

同書で Ferreiros は,19 世紀ドイツの教育体制の変遷についての記述に一章を割き,純粋数学,特に数学基礎論の発展において教育制度の転換がもたらした影響を論じている.ギムナジウムは教育機関であり,数学研究が直接行われる場所ではなかった.しかしながら 19 世紀初頭の教育改革の結果,ギムナジウムは大学で施される高度な数学教育を支える土台として機能してきた.19世紀後半に重要な功績をなしたドイツの数学者は,ほぼ例外なくギムナジウムの卒業生である.ギムナジウムにおける教育が,Ferreirosの言う「特有の知的雰囲気」の醸成に果たした役割は小さくないと思われる.また,ギムナジウム教師の中には数学研究において卓越した貢献をなした人物も少なくない.例えば,現代的解析学の基礎概念を整備した K.ヴァイエルシュトラス(Karl

Theodor Wilhelm Weierstrass, 1815–1897)は,ギムナジウムの教員出身であった.こうした事情から,ギムナジウムにおける数学教育の歴史は早くからドイツの教育史家と数学者の関心を集めてきた.すでに 20 世紀初頭には教育史家 F. Pahl が数学教育についての歴史研究を著している(Pahl 1913).また,数学者 F. Klein も 19 世紀の数学研究において教育が果たした役割に関心を寄せ,みずからが編集長となって中等数学教育史に関する報告論文集を刊行した(Klein 1913).20 世紀後半には,18

世紀以来の代数的解析学の伝統と数学教育の関係に焦点を当てた H. Jahnkeによる研究(Jahnke 1990)や,ギムナジウム教員制度の発展を描いた G. Schubringによる研究(Schubring 1983)が刊行されている.このようにプロイセンの中等数学教育史は長年の蓄積を有する分野である.しかしながら,先行する諸研究は専らプロイセン政府の刊行資料や,当時利用されていた教科書などの史料に依拠しており,実際に数学教育が運用されていた各地のギムナジウ

4 Ferreiros 2008, p. 4.

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ムの実態までは十分に検討されてこなかった.特にギムナジウム制度の開始期は,中央政府がギムナジウムに期待した機能と現場のギムナジウムが実際に果たしていた教育的役割との間に大きな隔たりがあった.教育制度改革の影響を正しく評価するためには,プロイセン政府の文教政策と,その運用主体であったギムナジウムの相互関係を明らかにせねばならない.そこで本稿では,19 世紀前半に各地のギムナジウムから刊行された年次報告書

(Jahresbericht)を史料として採用した.これを定量的に分析することで,教育改革期を通じたギムナジウム数学教育の発展を記述する5.その準備として,続く §2ではギムナジウム数学教育の制度的発展過程を概観し,§3では教育改革期の思想的背景について検討する.§4および §5では年次報告書の記述にもとづきギムナジウム数学教育の形成過程を検討し,§6で結語を述べる.

1.2 使用史料について

本稿で参照したギムナジウム年次報告書の大部分は,名古屋大学中央図書館・長谷川文庫に収蔵されていたものである.同文庫は本稿で参照したギムナジウム年次報告書のほか,19世紀にドイツで刊行された学位論文など,およそ 83,000冊のドイツ語資料から構成される.このコレクションはもともと名古屋の「長谷川時計舗」店主長谷川與吉氏が,ドイツに留学時代に当地の書店から一括購入したものであったが,1924

年に当時の名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)に寄贈された6.図 1は,ベルリンのフリードリヒ=ヴェルダー・ギムナジウム(Friedrichswerdersches

Gymnasium)が 1829/30年度に発行した報告書の最初のページである.この図に見られるように,一般的な年次報告書には,各教科の授業時間数や授業内容などの情報が学年別に記載されている.したがって,その内容を検討することでギムナジウム教育の運営状況を把握することができる.ただし,19世紀前半,プロイセン全土で運営されていた 90校あまりのギムナジウムのうち,本研究にあたって筆者が年次報告書を検討できた学校は 36校にとどまる.特に,1800~1820年頃のギムナジウム制度開始期には,そもそも報告書の存在を確認

5 なお,本文中で年次報告書を引用する際には次の記法に従って指定する.

(ギムナジウム名称報告書の刊行年度)

また,筆者が検討した年次報告書の一覧を本稿末尾に附録として記載する.6 長谷川文庫の来歴は長谷川(1980)に詳しい.

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図 1 フリードリヒ=ヴェルダー・ギムナジウムの年次報告書(1829/30年)

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できなかったギムナジウムもある.しかしながら,筆者が年次報告書を検討したギムナジウムは,プロイセン最西部のヴェストファーレン州から,最東部シュレジエン州にまで分散しており,特定の地方に偏ることなくギムナジウムの運営状況を把握することが可能である7.

§2 ギムナジウム数学教育の形成

本節では,ギムナジウム学校制度とその数学教育制度がプロイセンにおいて形成された歴史的経緯を概観する.特に,1816 年に告示されたプロイセン最初の標準カリキュラムの内容を詳しく検討する.

2.1 ギムナジウム制度の確立

18世紀のプロイセンにおいて,大学進学者向けの一般教育を担当していたのは「ラテン語学校」(Lateinschule)と呼ばれる古典語学校であった.この種の学校は 18世紀後半にはプロイセン全土に約 400校ほどが運営されていたが,長期にわたってプロイセンにはこうした学校や大学を監督する専門機関が存在せず,学校教育と大学教育の接続に困難が生じていた.その理由は,大学入学希望者の学力を適切に保証する手段が存在しなかったからである.もちろん大学が個別に実施する入学試験は設けられてはいたが,試験内容に関する共通の規程は存在せず,講義が開始される直前にやってくる大量の入学希望者に対して,大学側が適切な試験を実施することは困難であった8.このような状況の改善を求める大学と学校双方の声を受け,また,それまで立場の曖昧だった各種の教育機関に対する国家の管理を強化する目的もあって,プロイセン政府は 1787 年に大学教育及び中等教育を監督する機関として「高等学校委員会」(Ober-schulkollegium)を設置した.翌 1788年,同委員会は既存のラテン語学校から90校あまりを選抜し,これらに「アビトゥーア」(Abitur)と呼ばれる卒業試験を実施する権限を与えた.アビトゥーアに合格した生徒は大学入学を認められたため,アビトゥーアの実施権限を与えられた学校は大学進学者の養成校として,特別な地位を享受することができた.これらの学校がギムナジウムの原型である.その一方で,アビ

7 プロイセン政府は「州(Provinz)」という行政単位で領土を管理していた.本研究の対象となる 19世紀前半には,プロイセンは西部 3州と東部 5州から構成されていた.8 望田 1999, p. 34.

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トゥーア施行を許されなかった学校は,都市学校や実科学校として 1830 年代まで非公認の地位に留まった9.学校制度の整備がさらなる進展を見るのは,1809年に始まる教育改革期以降のことである.当時のプロイセンは,対ナポレオン戦争の敗北(1806年)を受け,重い賠償金支払いの義務と領地の没収に苦しむ困難な状況にあった.この状況を打開すべく,1807年から宰相シュタイン(Heinrich Friedrich Karl vom Stein, 1757–1831),ハルデンベルク(Karl August von Hardenberg, 1750–1822)の指揮のもとで大規模な国政改革が実行に移されていた.教育制度の諸改革もそうした改革運動の一環をなすものであった.

1809 年,高等学校委員会に代わる機関として,プロイセン内務省内部に文教局が設置された10.同年には,高名な言語学者・哲学者であるヴィルヘルム・フンボルト(Wilhelm von Humboldt, 1767–1835)が文教局局長に就任した.彼の指揮のもと,プロイセンの高等教育改革の象徴ともされるベルリン大学の設立(1810年)が実行に移されている.これと並行して,中等教育分野においても中等教員資格試験(1810年),アビトゥーア制度の改定(1812年),ギムナジウム標準カリキュラム制定(1816年)といった各種学校制度の整備が進められた.

1812年のアビトゥーア制度更新によって,アビトゥーアの合格はプロイセンの大学に進学するための必須条件とされ,大学進学者の養成校としてのギムナジウムの特権的立場はいよいよ強化された.また,1812 年以降は,アビトゥーア実施を認められた学校が公的にも「ギムナジウム」という呼称をもって呼ばれるようになった.したがって,ギムナジウム制度はこの時点をもって正式に開始されたと言うことができる.

2.2 標準カリキュラム(ジュフェルン・プラン)の告示

1810 年代前半までに,ギムナジウム教育と大学教育を接続させるための諸制度は整備されていたが,ギムナジウムで施される教育の具体的内容については統一的な指針が与えられておらず,教育カリキュラムの編成は各学校に一任されていた.そこで 1816 年にプロイセン政府文教局は,ギムナジウムにおける生徒の教育指針や,具体的な教授内容を規程する標準カリキュラムを,全国のギムナジウムに向けて告示した.教育史の分野ではこのカリキュラムを,当時の文教局参事官 J. W. ジュフェルン

9 アビトゥーア制度導入の歴史的経緯については,Heafford(1995)に詳しい.10 文教局は 1818年に文部省に格上げされる.

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科目名 6級 5級 4級 3級 2級 1級語学 ラテン語 6 6 8 8 8 8

ギリシャ語 - - 5 5 7 7ドイツ語 6 6 4 4 4 4

諸学問 数学 6 6 6 6 6 6自然学 2 2 2 2 2 2歴史地理 3 3 3 3 3 3宗教 2 2 2 2 2 2ヘブライ語 - - - - (2) (2)

実技 図画 3 3 2 2 - -習字 4 4 - - - -

計 32 32 32 32 32 32

表 1 ジュフェルン・プランにおける週あたりの教科別授業時間数 12

(Johann Wilhelm Suvern, 1775–1829)の名前をとって「ジュフェルン・プラン」と呼ぶことがある.本稿でも以下ではこの呼称にしたがう.実際のジュフェルン・プランの内容は,文教局の下部組織である「学識代表団

(wissenscahftliche Deputation)」によってとりまとめられた.学識代表団は 1810年に設立された,識者で構成される諮問機関であり,プロイセン政府の文教政策立案に際して種々の助言を行った.表 1は,ジュフェルン・プランにおいて定められた,週あたりの授業時間数を学年別・教科別にまとめたものである.教科は語学(Spracheen)と諸学問(Wissenschaften)の2つに大別されている.全学年を通してもっとも授業時間数の多い教科はラテン語であり,毎週 6~8 時間の授業時間が確保されている.同様にして,中級で教育が開始されるギリシャ語の授業にも高い比重が置かれている.一方で注目すべきは,全学年において数学の授業に毎週 6 時間が割かれており,総授業時間の 2 割近くが数学によって占められているという点である.F. Pahl によれば 1800 年前後の段階では,もっとも数学教育の充実した学校においても数学の授業は週 4時間程度しか行われていなかった13.したがって,ジュフェルン・プランが提示したカリキュラムは,当時の基準からすれば過剰と言えるほど数学の占める比重の高い内容であった.

12 Schweim 1966, pp. 96–97.上級学年のヘブライ語授業は選択制になっており,ヘブライ語を受講する生徒の週あたり授業時間数は 34時間となる.

13 Pahl 1913, p. 279.

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学年 教授内容1級 3次・4次方程式,多角数,ディオファンティス方程式

論,テイラー級数,確率計算,応用数学(力学)2級 方程式の近似解,級数論の初歩,不定係数,組み合わせ

論,空間三角法,代数的数の解析幾何学,円錐曲線3級 2次方程式の応用,冪乗計算,対数の理論,2項式の冪

乗,立体幾何学,円関数,解析幾何学,作図の発展演習4級 1次・2次方程式,平方根の理論,ユークリッド原論 5,

6, 11, 12巻,作図練習5級 形式的算術の初歩,ユークリッド原論 1~4 巻の諸定

理.6級 十進数,小数,分数,またその他の数体系についての四

則演算表 2 ジュフェルン・プランにおける数学の教授内容 15

ジュフェルン・プランでは,各教科の教授内容についても指定がなされていた.表2は,数学の教授内容を学年別にまとめたものである.下級クラスでは,初等的な算術やユークリッド原論の学習など,伝統的数学の学習によって教授内容が編成されているが,上級クラスでは,高次方程式の解法や級数論,確率論など,高度かつ現代的な内容も扱われるようになっている.全学年を通じた教授内容について特筆すべきは,そのほとんどすべてが学問的・純粋数学的な内容から構成されており,商業・産業における応用を見越した訓練が,カリキュラムから徹底して排除されていることである.次節で詳しく述べるように,1800年前後の段階では,ギムナジウムの数学教育の大部分は会計計算など実用的な計算訓練に費やされていた.そうしたギムナジウム教育の実情に対して,ジュフェルン・プランが定めた数学の教授体系は,理論的・学問的数学に偏重するものであった.F.クラインは,数学教育史についての講義の中でこのジュフェルン・プランのカリキュラムに触れ,その内容を「著しく形式的な内容が目立つ」構成であると評している16.ジュフェルン・プランは,各地のギムナジウムがカリキュラムを編成する際の目安として設定されたものであり,実際にはギムナジウムがその規程に則って授業を実施

15 Schweim 1966, pp. 75–77.16 Klein 1907, p. 83.

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する必要はなかった.しかしながら,1830年代後半に法的拘束力を持ったカリキュラムが制定されるまで,20年あまりにわたって,ギムナジウム教育における唯一の公的指針として機能することになった.

§3 教育改革期の数学教育論

3.1 新人文主義と形式陶冶論

ギムナジウム諸制度が整備された 1800年代から 1820年代のプロイセンは,のちに「新人文主義(Neuhumanismus)」と呼ばれる思想的潮流の強い影響下にあった.新人文主義とは,18世紀中頃からゲッティンゲンを中心に知識人層の間で興った一種の文化復興運動である.特に古代ギリシャの文化を模範とし,古代語や古典の学習を中心とする教養教育(Bildung)を通じて調和的な人格を形成することが目指された.新人文主義は,伝統・慣習の価値を否定的にとらえる合理主義哲学への反発として,前工業時代に形成された古典回帰運動であった.しかしながら,一方でそれは近代的な古典文献学や教育学の成立をもたらし,19 世紀初頭にはプロイセンの大学教養層の間で普遍的な価値体系として機能した17 .大学教育を通じて新人文主義に強い影響を受けた国家官僚や学校教師が,教育改革において主導的な役割を果たしたため,19

世紀初頭の中等教育制度には新人文主義的な教育理念が色濃く反映されることになった18.新人文主義者に強い影響を受けた官僚・教員たちは,ギムナジウム制度の設計に際して「形式陶冶(formale Bildung)」と呼ばれる教育理論をとりわけ重視した.形式陶冶とは,端的に言えば,教授対象の実質的内容よりも,その対象の学習を通じて生徒が獲得する思考能力・判断能力を重視する教育方法である.この教育方法は古代ギリシャにその起源を持ち,18世紀初めには哲学者 C.ヴォルフ(Christian Wolff, 1679–1754)らによって数学教育と結び付けられた.さらに 18 世紀末から 19 世紀初めにかけ,F. A.ヴォルフ(Friedrich August Wolf, 1759–1824),ペスタロッチ(Johann Heinrich

Pestalozzi, 1746–1827),J. F. ヘルバルト(Johann Friedrich Herbart, 1776–1841)といった有力な教育家・哲学者の手によって教育理論として体系化され,新人文主義的

17 たとえば新人文主義運動の主導者のひとり F. A.ヴォルフは,18世紀末にハレ大学において初めて近代的なゼミナール教育を開始したことで知られている.

18 改革期のプロイセンにおける文教政策と新人文主義との関係については McClelland(1980)に詳しい.

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な教育論との接続をなした19.形式陶冶論においては,教育を通じて生徒が獲得する知識の実質的内容よりも,その体系性・形式性が重んじられる.学校で教えられる諸教科のうち,もっとも重要な教科とされたのはラテン語・ギリシャ語といった古代語の教育であったが,一方で「精神的能力の訓練」を生徒に施す学問として,数学は古代語と並ぶ重要な教育的役割を与えられた20 .新人文主義時代の代表的知識人であり,文教局局長を務めた言語学者・哲学者ヴィルヘルム・フンボルトもまた形式陶冶論の熱心な支持者であった.フンボルトは,『ベルリンにおける高等学問機関の内的および外的編成について』と題された書簡において,中等教育のありかたを次のように規定している.

諸学校は,生徒の全能力を調和的に発達させることのみを熟慮せねばならない.そして,生徒の知的能力を,最小の学習内容によって,可能な限り多くの面において訓練せねばならない.理性,知識,精神的創造は外的な環境ではなく,内的な精密さによってその調和と美を勝ち得るということを,生徒の心に刻み込むようにして,あらゆる知識は教授されなければならない.そのための手段として,また,純粋な学問に向けた頭脳の訓練として,思考力の最上の訓練である数学が必要とされるべきである21.

1816年のジュフェルン・プランにおいて数学教育に高い比重が置かれた理由は,フンボルトのような形式陶冶論を信奉する学者・官僚が,カリキュラムの策定にあたって主導的な役割を果たしたためである.

3.2 学問的数学教育と実用的計算教育の対立

形式陶冶論を支持した教育者たちは,数学の形式的・体系的側面に精神的訓練としての価値を見出し,その実用的・応用的な価値には注意を払うことがなかった.しかしながら,実際には当時のギムナジウム数学教育の大部分は,形式陶冶的な体系的・学問的教育ではなく,主に市民生活における実用を目的とした計算訓練で構成されていた.たとえば,1809 年のベルリンのヨアヒムシュタール・ギムナジウム(Joachimsthalsches Gymnasium)では,全学年合計で毎週 15時間の数学授業が設けら

19 Lehmensick 1926, pp. 3–4.20 形式陶冶論における数学教育の位置付けについては,Pyenson(1983)に詳しい.21 Boenicke and Kempter 2005, pp. 43–44.

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橋本「プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展」(52–76) 63

れていたが,このうち 7 時間は実用的な計算訓練の授業によって占められていた22.実用を目的とした計算教育は「実用計算術」(praktisches Rechnenkunst),「実用算術」(praktische Arithmetik),「市民的計算術」(burgerliche Rechnen)といった名称で呼ばれ,幾何学や代数学,解析学に代表される学問的数学(wissenschaftliche Mathematik)とは区別されていた.その実際の内容としては,多くの場合,金利の計算など簡単な会計計算を中心とした訓練が行われていたようである.1788年に刊行されたギムナジウムの数学教科書には,「実用的計算術」の課題として次のような練習問題が記載されている.

課題.ある商品を年賦で,支払いに 5年かけて 1000クローネで購入した.年利が 6パーセントだとすると,この商品の本来の値段はいくらか23.

大半のギムナジウム生徒にとって.こうした計算に熟達しておくことは,ユークリッド原論の学習といった学問的数学の訓練を受けることよりも必要性が高かったと考えられる.なぜなら,ギムナジウムに所属する生徒の大部分は大学へ進学することなく中途で退学し,商人や職人といった市民的職業に移行していたからである24.そのため,大学に進学を予定しない生徒の需要に対応するために,ギムナジウムは数学教育の大部分を学問的数学教育ではなく,市民生活に必要な実用的計算訓練によって編成しなければならなかった.ギムナジウム数学教育の大部分が実用的訓練によって構成されているという認識は,ベルリンで標準カリキュラムの策定に携わった官僚と教育者にも共有されていたが,教養層の出身であり,新人文主義的教育論の影響下にあった彼らの多くは,このようなギムナジウムの現状に対して不満を抱いていた.そうした学者のひとりに,先に挙げた教科書の著者であり,ベルリン大学の初代数学教授であった J. G. トラレス(Johann Georg Tralles, 1763–1822)がいる.トラレスは数学研究において目立った業績を残した人物ではないが,プロイセン政府の文教政策立案においては重要な役割を担った.というのも,トラレスは 1811年から 1814年までベルリンの学識代表団の数学教育に関するアドバイザーを務めたからである.

22 Pahl 1913, p. 277.23 Tralles 1788, p. 126.24 たとえばミンデン・ギムナジウムでは,1835年から 1849年の間に在籍した生徒のうち,大学に進学したものの割合は 4割にも満たなかった(Lundgreen, Kraul, and Ditt 1988, p. 226).

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文教局の諮問機関である学識代表団は,哲学者 F. シュライアマッハー(Friedrich

Daniel Ernst Schleiermacher, 1768–1834)を始めとする各学問分野の識者で構成されていたが,数学に関しては適切な人材がいなかった.そこで,ベルリンにいたトラレスが数学教育のアドバイザーを務めることになったのである.このため,ジュフェルン・プランにおける数学教授内容は.トラレスの草案がそのまま反映されたものとなった.

1810年にトラレスが学識代表団に宛てた書簡の中で,彼は中等数学教育に関する持論を展開している.

教養学校 [ギムナジウムのこと]は大学入学を予定する者だけではなく,教育を完了して様々な市民的職業に就く者にも対応すべきである.したがって数学の教授対象は,多様性と特殊性が精密さと一般性よりも有益である場合においては,そうでない場合に必要とされるものよりも多様でなければならない25.

このようにトラレスは,大学に進学を予定しない生徒にも配慮した数学教育を実施すべきであると述べている.ところが一方で,「実用的な利益追求のために数学の科学的文脈が損なわれることは許されない」という理由から,数学教育に実用的な計算訓練を導入することに関しては強い懸念を表明している.

学校における商用計算術(kaufmanischen Rechnungen)の訓練は,私には無駄な時間潰しとしか思えない.その単調さのために,ただでさえ興味の惹かれないこの計算に,少年達は倦み飽きるに違いない.また,学校の要求に対応できる生徒は,おのずとこうした計算にも熟達するはずである26.

トラレスにとって,数学教育においてもっとも優先されるべきはその学問的・科学的体系性であり,その教育は大学に進学を予定しない生徒にとっても有用であるという立場を取っていた.ジュフェルン・プランが定めた数学の教授内容からは,計算訓練に関する一切の内容が排除されているが,それはこうした実用的な知識・技能の獲得を目的とした教育に対する,強い忌避感が反映されたものであったと考えられる.

25 Jahnke 1990, p. 344.26 Jahnke 1990, p. 344.

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橋本「プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展」(52–76) 65

学校名 所属州 年度 6級 5級 4級 3級 2級 1級アーヒェン ラインラント 1816/17 5 5 5 5 5 5デュッセルドルフ ラインラント 1818/19 4 4 4 4 4 4トリエ ラインラント 1818/19 4 5 4 6 6 4アーヒェン ラインラント 1820/21 5 5 5 5 6 6ザルツヴェーデル ブランデンブルク 1820/21 5 5 6 4 4 3ケーニヒスベルク シュレジエン 1822/23 6 6 6 5 5 5F.ヴェルダー ベルリン 1822/23 5 5 7 7 4 4ミンデン ヴェストファーレン 1823/24 6 6 4 4 4 4シュトラルズンド ポメラニア 1824/25 3 3 4 4 4 4

表 3 学校別週あたりの数学授業時間数(1820年前後)28

§4 ギムナジウムにおける数学教育の運用

1816年のジュフェルン・プランの告示によって,ギムナジウムにおける数学教育に初めて統一的な指針が示された.ジュフェルン・プランの告示後,各地のギムナジウムにおいて数学教育がどのように運営されたのか,以下では筆者が検討した年次報告書の記述をもとに確認する.表 3は,ジュフェルン・プランの告示直後(1816–1825年)の各地ギムナジウムの数学の週あたり授業時間数をまとめたものである.学校によって授業時間数にばらつきはあるものの,多くの学校で週 4~6時間程度の授業時間数が確保されていた(ジュフェルン・プランのカリキュラムでは週 6時間).1800年前後の段階ではもっとも数学教育の充実した学校でも週 4時間程度の授業時間しか確保されていなかったことを踏まえると,1820年代までに多くのギムナジウムで数学教育が大幅に拡充されたことが見て取れる.これは,各地のギムナジウムがジュフェルン・プランに準拠すべくカリキュラムを編成した結果と考えるべきだろう.しかしながら,このように数学教育に高い比重が置かれた状態が長く続いた形跡はない.1820年代後半には各地のギムナジウムにおいて数学授業の削減が開始され,1830年代には教育改革以前の水準近くにまで数学の授業時間数を削減したギムナジウムも見られるようになる.表 4に,1830年代の各地のギムナジウムの数学授業時間を

28 Aachen 1816; Dusseldorf 1819;Trier 1821;Aachen 1821;Salzwedel 1821;Konigsberg 1823;Friedrich-swerder 1823;Stralsund 1824.ミンデン・ギムナジウムの授業時間は Lundgreen, Kraul, and Ditt 1988,p. 217による.

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66 『科学哲学科学史研究』第 9号(2015)

学校名 所属州 年度 6級 5級 4級 3級 2級 1級F.ヴェルダー ベルリン 1830/31 3 3 3 4 4 4グライヴィッツ シュレジエン 1830/31 4 3 3 3 4 4マグダーレン シュレジエン 1831/32 4 4 4 4 6 4ヨアヒムシュタール ベルリン 1834/35 - 4 4 4 4 4ミンデン ベルリン 1834/35 5 4 4 4 4 4シュトラルズンド ブランデンブルク 1835/36 4 4 4 4 4 4マリエンヴェルダー 西プロイセン 1835/36 4 5 4 4 4 4ノイルッピン 西プロイセン 1836/37 4 4 3 4 4 4ケースリン ポメラニア 1836/37 4 4 5 5 4 4リーグニッツ シュレジエン 1836/37 4 4 4 4 4 3

表 4 学校別週あたりの数学授業時間数(1830年代)30

示す.ほとんどのギムナジウムにおいて,数学の授業時間数は週 3~4時間に抑制されている.1820年代には毎週 5時間数学を教えるギムナジウムは珍しくなかったが,そうしたギムナジウムはほぼ姿を消してしまっている.数学の授業時間が削減された理由は複数考えられるが,もっとも直接的影響を与えたと考えられるのは,新教科を導入する学校の増大である31.1820年代半ばから,各地のギムナジウムは相次いでジュフェルン・プランに指定のない現代語の授業を開始した.これは全体の授業時間の増大を招き,その埋め合わせとして数学の授業時間数が削減されたと考えられるのである.たとえば,プロイセン東部ポメラニア州のシュトラルズンド・ギムナジウム(Gym-

nasium zu Stralzund)では,ラテン語,ギリシャ語,ヘブライ語,ドイツ語のほか,上級学年では英語とフランス語の授業が実施されていた(図 2).このため最上級の学年の生徒は毎週 40 時間以上の授業に出席しなければならなかった.このようなカリキュラムを維持することは,教師にとっても生徒にとっても相当な難行であったはずである.週あたり 5~6時間行われていた数学授業が削減された背景には,このような現代語授業の導入に伴う授業時間数の増大が背景にあったと考えられる.

30 Friedrichswerder 1831;Gleiwitz 1831;Magdalen 1832;Joachimstahl 1835;Stralsund 1835;Marien-werder 1836;Neu-Ruppin 1837;Coslin 1837;Liegnitz 1837.

31 数学の授業時間数が削減された他の理由としては,担当教員の不足などの原因も指摘されている(Schweim 1966, p. 364).33 Stralsund 1825.

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橋本「プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展」(52–76) 67

図 2 シュトラルズンド・ギムナジウムの時間割表(1824/25年)33

§5 モデルケース:フリードリヒ=ヴェルダー・ギムナジウム

前節では,複数のギムナジウムについて数学教育の運用状況を年代別に確認した.議論を明瞭にするため,以下ではベルリンのフリードリヒ=ヴェルダー・ギムナジウム(Friedrichswerdersches Gymnasium, 以下 FW ギムナジウム)を取り上げる.同校は 17世紀に設立された王立名門校のひとつである.熱力学第一法則で知られる R.クラジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius, 1822–1888)は同校の教員を務めていた.数学の分野では,数論と解析学において目覚ましい業績を残した F.アイゼンシュタイン(Ferdinand Gotthold Max Eisenstein, 1823–1852)を輩出している.同校は,同じくベルリンに位置するフリードリヒ=ヴィルヘルム・ギムナジウム(Friedrich Wilhelms

Gymnasium)と並び,プロイセンにおける模範的ギムナジウムと目されていた.また,1787年にはプロイセンで初めて教員養成ゼミナール(Lehrerseminar)が開催されたこ

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68 『科学哲学科学史研究』第 9号(2015)

年度 6級 5級 4級 3級 2級 1級1787/88年 3 3 2 2 2 21820/21年 4 4 7 7 5 31830/31年 3 3 3, 2 4 4 61851/52年 4 4 3 4 4 4

表 5 FWギムナジウムにおける数学と計算の授業時間数(1787–1852年)

年度 学問的数学 実用的計算術 計1787/88年 2.4% 6.0% 8.4%1820/21年 15.4% 5.1% 20.5%1830/31年 8.5% 4.8% 13.3%1851//52年 8.2% 5.7% 12.0%

表 6 FWギムナジウムの全授業時間数に占める数学と計算の割合(1787–1852年)

とでも知られており,このゼミナールで訓練を積んだ多数の教師たちが各地のギムナジウムにおいて教鞭をふるった.上記を考慮すれば,FWギムナジウムはモデルケースとして最適な学校のひとつであると言えよう34.

FW ギムナジウムでは,数学教育のカリキュラムは実用的計算訓練(praktisches

Rechnen)と学問的数学教育(wissenschaftliche Mathematik)とに区分して編成されていた35.表 5は,1787/88,1820/21,1830/31,1851/52の各年度における,同校の週あたり数学の授業時間数を示したものである36.下線が引かれた数字は計算教育の授業時間を,下線が引かれていない数字は学問的数学教育の授業時間数を示している.また,表 6は,上記の年度に FW ギムナジウムで開講されていた全授業時間のうち,学問的数学教育と実用的計算訓練がそれぞれ占めた割合をまとめたものである.

18世紀末の段階では,実用的計算訓練も含めた同校の数学の授業時間数は毎週 2~3時間しか確保されておらず,全授業時間数に数学授業が占める時間数も 8.4%と低い水準に留まっている.ところが,ジュフェルン・プランの告示直後,1820/21年までに数学の授業時間数は飛躍的に増大し,数学の授業時間数が占める割合は実に全授業時

34 FWギムナジウムの歴史は Trankmann(1900)に詳しい.35 他の多くのギムナジウムにおいても,数学教育のカリキュラムは学問的数学と計算訓練に区分されていた.ただし,デュッセルドルフ・ギムナジウムのように両者に区分を設けていない学校もある(Dusseldoft 1825, pp. 21–22).36 1787/88年の授業時間編成は Jeismann(1966, p.61)を元に作成した.その他の年度は Friedrichswerder(1821, 1831, 1852)より作成した.表 6も同様.

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橋本「プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展」(52–76) 69

間数の 20%に達している.ただし,こうした数学に偏重したカリキュラム構成は長くは維持されなかった.

1830/31 年の段階では,数学授業が全体の授業に占める割合は,教育改革以前と同等とまでは行かないものの,それに近い水準にまで低下している.前節で指摘したように,数学教育が縮小された主な原因としては標準カリキュラムに無い新教科が導入されたことが考えられる37.その一方で,授業時間数という量的側面ではなく,授業の編成内容に目を向けてみると,教育改革を通して同校の授業は大きく変化を遂げたことが見て取れる.表 6から読み取れるように,1787/88年度の段階では,FWギムナジウムの数学教育はその大半が実用的計算の訓練によって構成されていた.この状況は 1810 年代の教育改革期を経て一変し,同校では学問的数学の教育に実用的計算訓練の 3倍以上の授業時間が充てられるようになっている.1830/31 年までに数学の授業時間数自体は削減されたものの,学問的数学教育の実用的計算訓練に対する優越性は,1830年代以降も引き続き保持されたことが観察される.つまり,FWギムナジウムの数学教育は,教育改革期を経て実用的計算訓練から学問的数学を中心とするカリキュラムに転換を遂げたのである.同校が特異なケースでなかったことは,1840 年以降の各地のギムナジウムのカリキュラムからも確認できる.筆者が検討した 11校の年次報告書38によると,いずれの学校においても下級学年 (5級,6級)では週 4時間程度の実用計算訓練が行われる一方で,中・上級学年 (4級~1級)では週 3~4時間程度の学問的数学教育の授業時間が確保されているからである.

§6 結語

本稿では,ギムナジウムの数学教育の制度的発展の経緯と,その理念的背景を概観した上で,各地のギムナジウムにおける数学教育の運用状況を検討した.形式陶冶の方法として数学教育に高い比重を置いたジュフェルン・プランは,1816年の告示当初こそ効力を発揮したものの,1830年代にはギムナジウム教育の実情と齟齬をきたし,現場のギムナジウムでは数学の授業時間数が削減されていった.他方においてジュ

37 1830/31 年度の FW ギムナジウムのカリキュラムでは,全学年でフランス語の授業が導入されている.

38 Arnsberg 1843;Aachen 1844;Neu-Stettin 1845;Trier 1845;Wittenberg 1845;Glogau 1846;Aachen1847;Posen 1848;Brieg 1848;Liegnitz 1848;Danzig 1847;Aachen 1849.

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70 『科学哲学科学史研究』第 9号(2015)

フェルン・プランは,18世紀末の時点では実用的計算訓練によって構成されていたギムナジウム数学のカリキュラムを,学問的・理論的教育を主眼に据えたカリキュラムへと転換させる役割を果たした.ギムナジウムは数学研究が行われていた場所ではなく,上記の結論をもって 19世紀プロイセン-ドイツにおける純粋数学研究の勃興を説明することはできない.当時の数学研究の志向について直接的な理解を得るためには,諸大学における数学教育と数学研究の実態を研究することが必要である.しかしながら,アビトゥーア制度を通じて大学進学者の知的能力を保証したギムナジウムが高等教育の発展に果たした役割は大きく,ギムナジウム教育に関する知見無しにプロイセンの大学について論じることは困難である.それゆえ,19世紀ドイツにおける数学研究が置かれていた社会的・科学的文脈を把握する上で,本稿で示したギムナジウム数学教育に関する知見は重要な意義を持つはずである.

参考文献

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附録: ギムナジウム年次報告書一覧

本稿では 1800年 1850年頃に刊行された,延べ 36校のギムナジウムの教育プログラムを史料として使用した.その大部分は名古屋大学附属図書館長谷川文庫の収蔵になるものである.以下では,次の記法に従って本稿で参照したギムナジウム教育プログラムの一覧を刊行年度順に示す.

学校名 刊行年,題名,名古屋大学附属図書館の資料 ID(4H....)

なお,本稿で参照した教育プログラムの中には,長谷川文庫から入手したものではなく Google Books(http://books.google.co.jp/)からスキャン画像を入手したものもある.この場合は名古屋大学図書館の資料 ID の代わりに,スキャン画像が公開されているWebページの URLを記してある.

Berlin-Koln 1807 Versuch einer Erklarung der punischen Stellen im Ponulus des

Plautus: drei Programmen, http://books.google.co.jp/books?id=

KP89AAAAcAAJ\&source=gbs_navlinks_s

Dusseldorf 1819 Nachricht uber das Gymnasium zu Dusseldorf im sechszehnten

Jahrhundert , http://books.google.co.jp/books?id=U5AVAAAAYAAJ\

&source=gbs_navlinks_s

Salzwedel 1821 Nachrichten uber die jetzige innere Einrichtung des Gymnasiums zu

Salzwedel : womit zu der offentlichen Prufung am 17ten April 1821 / ergebenst

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72 『科学哲学科学史研究』第 9号(2015)

einladet Johann Friedrich Danneil. Gedr. bei G. Schuster., 4H026054

Friedrich-Wilhelms 1821 Ueber das Wesen der Gelehrten-Schule, nebst der bei Ue-

bernehmung des Directorats gehaltenen Rede : womit zu der offentlichen Prufung

der Zoglinge des Koniglichen Friedrich-Wilhelms-Gymnasiums und der damit

verbundenen Realschule, welche Freitags und Sonna, 4H027164

Friedrichwerderschen 1821 Einige Bemerkungen uber die Gegenstande des

offentlichen Unterrichts mit Rucksicht auf das Friedrichs-Werdersche Gymna-

sium, womit zu der offentlichen Prufung der Zoglinge des Friedrichs-Werderschen

Gymnasiums, welche Mittwoch den 25sten April im Gymnasium, 4H022871

Konigsberg 1823 Kurze Darstellung der Geschichte des Gymnasiums zu Konigsberg,

http://books.google.co.jp/books?id=HRgBAAAAYAAJ\&dq=intitle:

K\"onigsberg\&source=gbs_navlinks_s

Friedrich-Wilhelms 1823 Ueber die gegenwartige innere Einrichtung des Koniglichen

Friedrich-Wilhelms-Gymnasiums und der Realschule nebst der damit verbundenen

Tochterschule, womit zu der offentlichen Prufung der Zoglinge dieser Anstalten,

welche Dienstags und Mittwochs den 25ste, 4H025512

Stralsund 1824 Die Klassenvertheilung in den Gymnasien : Einladung zur offentlichen

Prufung und Redeubung der Zoglinge des Gymnasiums zu Stralsund, am 27 und

28 September 1824 / von Ernst Nizze. Gedr. in der Konigl. Regierungs-Buchdr..,

4H026056

Friedrichwerder 1827 Zu der offentlichen Prufung der Zoglinge des Friedrichswerder-

schen Gymnasiums, welche Mittwoch den 4ten April in dem Horsaale des Gym-

nasiums, Kurstrasse Nro. 52., im ehemahlingen Furstenhause, Vormittags von 9

und Nachmittags von 3 Uhr an veranstaltet wer, 4H025506

Stralsund 1830 Ueber des stralsundischen Poeten Zacharias Orthus: Leben und

Schriften, http://books.google.co.jp/books?id=r_MOAAAAIAAJ\

&source=gbs_navlinks_s

Friedrichwerder 1831 Programm, womit zu der offentlichen Prufung der Zoglinge des

Friedrichs-Gymnasiums auf dem Werder, welche Mittwoch, den 23. Marz 1831

vormittag von 8, nachmittag von 2 1/2 Uhr an, in dem Horsaale der Anstalt Kur-

Strasse No. 52 statt finden soll, die Besch, 4H035992

Gleiwitz 1831 Zu der den 18. und 19. August abzuhaltenden offentlichen Prufung und

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橋本「プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展」(52–76) 73

der auf den 20. August festgesetzten Schulfeierlichkeit ladet ergebenst ein Joseph

Kabath, Director des Gymnasiums. Gedr. bei Gustav Neumann., 4H025694

Magdalen 1832 Zu der offentlichen Prufung der sammtlichen Classen des Magdalenis-

chen Gymnasiums, welche den 12, 13, 14. April gehalten werden soll, ladet die

Beschutzer, Gonner und Freunde des Schulwesens ehrerbietigst ein Dr. Friedrich

Wilhelm Kluge. Gedr. bei Gras, 4H046046

Minden 1834 Zur offentlichen Pr fung der Schuler des Gymnasiums zu Minden

am... Sowie zu der feierlichen Entlassung der Abiturienten am... Ladet die

Eltern und Angehorigen der Zoglinge, desgleichen alle Freunde und Gonner

des Schulwesens berhaupt und der Anstalt insbesondere hochachtungsvoll...,

http://books.google.co.jp/books?id=MMBPAAAAcAAJ&printsec=

frontcover#v=onepage&q&f=false

Joachimsthal 1835 Die franzosische Sprache als Unterrichtsgegenstand fur Gelehrten-

schulen : Ankundigungsschrift der am Mittwoch den 7 October 1835 abzuhal-

tenden Oeffentlichen Prufung des Konigl. Joachimsthalschen Gymnasiums, zu

welcher ergebenst einladet Dr. August Meineke, 4H024179

Stralsund 1836 Einladung zur offentlichen Prufung und Redeubung der Zoglinge des

hiesigen Gymnasiums am 29. und 30. September 1836, von dem Director und

Lehrercollegium. Gedr. in der Koniglichen Regierungs-Buchdr.., 4H022539

Katholisches=Gleiwitz 1836 Zu der den 17. und 18. August abzuhaltenden

offentlichen Prufung und der auf den 19. August festgesetzten Schulfeierlichkeit

ladet ergebenst ein D. Joseph Kabath, Director des Gymnasiums. Gedr. bei

Gustav Neumann., 4H025700

Marienwerder 1836 Zu der offentlichen Prufung aller Klassen des Koniglichen Gym-

nasiums zu Marienwerder am 6ten Oktober 1836 / ladet ergebenst ein Joh. Aug.

Ot. Leop. Lehmann. Gedr. in der Buchdr. von F.A. Harich., 4H025896

Neu-Ruppin 1837 Zu der offentlichen Prufung der Zoglinge des hiesigen Koniglichen

Friedrich-Wilhelms-Gymnasiums, welche am 17. Marz 1837, Vormittags von 8

und Nachmittags von 2 Uhr an, veranstaltet werden soll, ladet die Beschutzer,

Gonner und Freunde des Schulwesens und, 4H026036

Coslin 1837 Wie kann durch die Gymnasien fur eine genugende hohere Schulbildung

auch der nicht gelehrten Stande zweckmasig gesorgt werden? : ein Versuch / vom

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74 『科学哲学科学史研究』第 9号(2015)

Oberlehrer Dr J.D. Bensemann . Ankundigungsschrift der am 28sten September

1837 abzuhaltenden offentlichen P, 4H025571

Liegnitz 1837 Zu der offentlichen Prufung der Schuler des Koniglichen und Stadtischen

Gymnasiums, welche am 16. und 17. Marz im grossen Horsaale stattfinden soll,

so wie zu der feierlichen Entlassung der Abiturienten am 18. Marz / ladet ehrerbi-

etigst ein Johann Karl Ko, 4H023938

Duisburg 1837 Zu der offentlichen Prufung und der Redeubung, welche am 14. und

15. September 1837 in dem Konigl. Gymnasium und der Realschule zu Duisburg

gehalten werden sollen, ladet ehrerbietigst ein der Director Landfermann. Gedr.

bei Schmachtenberg & Korschefsky, 4H025609

Posen 1837 Zu der offentlichen Prufung, welche mit den Zoglingen des Konigl.

Marien-Gymnasiums am 28., 29. und 30. September gehalten werden soll, ladet

alle Beschutzer, Gonner und Freunde des Schulwesens und der Anstalt ehrerbietig

ein der Direktor Stoc. Gedr. i, 4H025972

Friedrich-Wilhelms 1838 Zu der offentlichen Prufung der Zoglinge des Koniglichen

Friedrich-Wilhelms-Gymnasiums, welche am Freitag und Sonnabend, den 28. und

29. September d. J. veranstaltet werden soll, ladet ehrerbietigst ein, der Director

Spilleke. Gedr. bei A.W. Hahn., 4H032354

Arnsberg 1843 Zur zweiten Sacularfeier des Konigl. Laurentianums zu Arnsberg am

26. October 1843 ladet in Namen des Lehrer- Collegiums alle Gonner und Freunde

des Gymnasiums ehrerbietigst ein der Director Dr. Franz Xaver Hoegg, 4H023854

Aachen 1844 Programm des Aachner Gymnasiums, womit zu dem offentlichen Rede-

actus Sr. Majestat des Konigs am 14. Oktober im Kronungssaale des Rathhauses

gehalten werden wird / ergebenst einladet der J. J. Schoen. Gedruckt bei J.J. Beau-

fort., 4H025486

Neu-Stettin 1845 Programm des Furstlich Hedwigschen Gymnasiums zu Neu-Stettin,

womit zu der offentlichen Prufung und Schlusfeierlichkeit, welche den 17. Marz

veranstaltet werden soll, ehrerbietigst einladet Dr. Friedrich Roder, Director. Gedr.

bei F.E. Keilich., 4H026020

Trier 1845 Mittheilungen aus der Geschichte von Trier im dritten Decennium des

achtzehnten Jahrhunderts / von J.H. Wyttenbach. Buchdr. von Fr. Lintz. (Pro-

gramm des Koniglichen Gymnasiums zu Trier / herausgegeben von Prof. Dr.

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橋本「プロイセン改革期におけるギムナジウム数学教育の発展」(52–76) 75

Renvers)., 4H015198

Wittenberg 1845 Programm des Gymnasiums zu Wittenberg womit zu der offentlichen

Prufung der Schuler am 1. und 2. April Vormittags 9 Uhr und zur der feierlichen

Entlassung der Abiturienten am 2. April Nachmittags 3 Uhr ehrerbietigst und

ergebenst einladet Dr. Hermann Schm, 4H026182

Glogau 1846 Ueber das Streben nach Selbststandigkeit, welches sich bei jungen Leuten

auf den Gymnasien zu offenbaren pflegt : eine Schulrede / von Prorector Severin.

Gedr. in der Julius Gottschalkschen Buchdr.. (Programm des Koniglichen Evan-

gelischen Gymnasiums, 4H025711

Aachen 1847 De Academia Caroli Magni / von Fr. Oebeke. Gedr. bei J.J. Beaufort.

(Programm des Koniglichen Gymnasiums zu Aachen / herausgegeben vom Direc-

tor des Gymnasiums Dr. Joh. Jos. Schon ; Herbste 1847)., 4H026240

Posen 1848 Entwurf zu einer Geschichte des Koniglichen Marien- Gymnasiums / vom

Oberlehrer Schweminski = Szkic historyi Krolewskiego Gimnazyum Mar. Magd.

/ przez nauczyciela wy?szego Schweminskiego. Gedr. in der Hofbuchdr. von W.

Decker. (Programm des Koniglich, 4H030097

Brieg 1848 Einladungs-Programm zur Oster-Prufung der Schuler aller Klassen des

Konigl. Gymnasiums zu Brieg, Montag den 17. und Dinstag den 18. April 1848,

Anfang Vormittags um 8 Uhr, Nachmittags um 2 Uhr / ausgegeben von Karl Ernst

Georg Matthisson. Druck von C. , 4H025564

Liegnitz 1848 Programm, womit zu der offentlichen Prufung der Zoglinge des Konigl.

und stadtischen Gymnasiums zu Liegnitz und zu der Entlassung der Abiturienten,

welche Freitag und Sonnabend den 14. und 15. April 1848 in dem Horsaale der

Anstalt stattfinden werden / eh, 4H029982

Magdeburg 1848 Programm des Konigl. Domgymnasiums zu Magdeburg, zu Ostern

1848 / herausgegeben vom Lehrer-Collegium., 4H036283

Danzig 1847 Programm, womit zu der auf Dienstag den 30. Marz 1847 angesetzten

offentlichen Prufung der Zoglinge des stadtischen Gymnasiums zu Danzig erge-

henst einladet Dr. Friedr. Wilh. Engelhardt, Director. Druck der Gerhardschen

Officin., 4H047268

Aachen 1849 Programm des Koniglichen Gymnasiums zu Aachen, im Herbste 1849

/ herausgegeben vom Direktor des Gymnasiums Dr. J.J. Schoen. Gedr. bei J.J.

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76 『科学哲学科学史研究』第 9号(2015)

Beaufort., 4H045662

Friedrichswerder 1852 Programm, womit zu der offentlichen Prufung der Zoglinge des

Friedrichs-Werderschen Gymnasiums, welche Mittwoch den 31. Marz 1852 Vor-

mittags von 9, Nachmittags von 2 1/2 Uhr an in dem Horsaale der Anstalt (Kur-

Strasse No. 52) stattfinden wird, die Beschut, 4H021952