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カハー曲史からみた台湾における日本のポピュラー音楽 [論文] カ バ ー 曲 史 か ら み た 台 湾 に お け る 日 本 の ポ ピ ュ ラ ー 音 楽(1) Japanese Popular Music in Taiwan through History of Cover Songs 屋葺素子× YABUKI Motoko 和文要約 本稿では、台湾で 日本のポピュラー音楽が広 まっている背景の一端 を明らかにするために、 カバ ー 曲 を取 り上 げ 考 察 を行 う。 日本 の メ ロ デ ィ に 中 国 語 の 歌 詞 が つ け られ た カ バ ー 曲 は 戦 後 より現在まで存在 し続けている。 しか し、時代時代に応 じてカバー曲が持つ意味は変容 してお り、 そ の 特 徴 は次 の よ う に ま とめ る こ とが で きる 。1)戦 後 か ら1960年 代 で は 、言 語 の 政 策 な ど に よ っ て 台 湾 語 の 楽 曲 が不 足 して い る代 わ り と して カ バ ー 曲が 制 作 され た 。2)1970年 代 か ら80 年代では とにか く楽曲を大量に必要 としたため、「穴埋め」 としてのカバー曲が求められた。 日本 の メ ロデ ィで あ る こ とを 隠 す とい う こ と も行 っ てい た。3)1990年 代 以 降 にお い て は、 日本 ・ 台 湾 の歌 手 の 互 い の プ ロ モ ー シ ョン に使 用 さ れ る な ど 、 カバ ー 曲 が 積 極 的 な意 味 を もち 、 再 び 日本を意識 したカバー曲が増加 した。 英文要約 This paper focuses on analyzing cover songs to explain the background of Japanese popular music in Taiwan. The cover songs, that Chinese words add to Japanese melody, have continued existing after WW II until now. However, depending on the time, the meanings of cover songs have changed; 1) after WW II to 1960s, cover songs were made as a last resort because of the linguistic policy. 2) From 1970s to 1980s, they wanted a large number of songs, and sought for cover songs as •gstopgap•h. They often hid that those melody were from Japan. 3) After 1990s, cover songs have used for the promotion between Japanese and Taiwanese singers. Cover songs have positive meanings and those with appearance of exist of Japan have increased. Key words: cover songs, Japanization, Japanese popular music, Japanese popular culture, •g Japan•h 0. じめ に 1990年 代に入り、東アジアでは日本のポピュラーカルチャーの人気が高まり、人々の間で深 ※ 大 阪大学 大学院人間科学研究科 Osaka University Graduate School of Human Science 17

[論文] Japanese Popular Music in Taiwan through History of

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Page 1: [論文] Japanese Popular Music in Taiwan through History of

カハ ー曲史からみた台 湾における 日本のポ ピュラー音楽

[論文]

カ バ ー 曲史 か らみ た 台湾 にお ける 日本 の ポ ピ ュラ ー 音楽(1)

Japanese Popular Music in Taiwan through History

of Cover Songs

屋葺素子×

YABUKI Motoko

和文要約

本稿では、台湾で 日本のポピュラー音楽が広 まっている背景の一端 を明らかにするために、

カバー曲を取 り上げ考察を行 う。日本のメロディに中国語の歌詞がつけられたカバー曲は戦後

より現在まで存在 し続けている。 しか し、時代時代に応 じてカバー曲が持つ意味は変容 してお

り、その特徴は次のようにまとめることがで きる。1)戦 後か ら1960年 代では、言語の政策など

によって台湾語の楽曲が不足 している代わ りとしてカバー曲が制作 された。2)1970年 代から80

年代では とにか く楽曲を大量に必要 としたため、「穴埋め」 としてのカバー曲が求められた。

日本のメロディであることを隠すということも行っていた。3)1990年 代以降においては、日本 ・

台湾の歌手の互いのプロモーシ ョンに使用されるなど、カバー曲が積極的な意味をもち、再び

日本を意識 したカバー曲が増加 した。

英文要約

This paper focuses on analyzing cover songs to explain the background of

Japanese popular music in Taiwan. The cover songs, that Chinese words add to

Japanese melody, have continued existing after WW II until now. However, depending

on the time, the meanings of cover songs have changed; 1) after WW II to 1960s, cover

songs were made as a last resort because of the linguistic policy. 2) From 1970s to

1980s, they wanted a large number of songs, and sought for cover songs as •gstopgap•h.

They often hid that those melody were from Japan. 3) After 1990s, cover songs have

used for the promotion between Japanese and Taiwanese singers. Cover songs have

positive meanings and those with appearance of exist of Japan have increased.

Key words: cover songs, Japanization, Japanese popular music, Japanese popular culture,

•g Japan•h

0. は じ め に

1990年 代 に 入 り、 東 ア ジ アで は 日本 の ポ ピ ュ ラ ー カ ル チ ャ ー の 人 気 が 高 ま り、 人 々 の 間 で 深

※ 大阪大学大学院人間科学研究科

Osaka University Graduate School of Human Science

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ポ ピュ ラー音楽研究 Vol 8 2004

く浸透 し始めた。 このような現象は 「ジャパナイゼーシ ョン」 と呼ばれている。「ジャパナイ

ゼーシ ョン」 とは、「1980年代後半以来、日本の経済の東 アジアへの大規模 な経済進出と並行

し、その影響力 に後押 しされて、 日本のポピュラーカルチ ャーがこの地域に浸透 し、一定の影

響 を及ぼ している状況」 と定義されている[五 十嵐, 1998, 6]。 日本は文化などを欧米か らひ

たすら輸入することに力を注 ぎ、海外へ輸出しようとはしない傾向が強かったことを考えると、

このような現象はこれまでになかった新 しいものである といえる[五 十嵐, 1998]。

東アジアのなかでも、台湾(2)はジャパナイゼーシ ョンの動 きが活発に起こった地域のひとつ

である。1993年11月 に日本語のポ ピュラーカルチャーが全面的に開放され、台湾には日本の音

楽をはじめ としたポピュラーカルチャーが急速に流入 していった。その結果、現在では 「日本

マニア」 「日本が大好 きな人たち」 という意味である 「哈日族(ハ ーリーズー)」 と呼ばれる若

者があらわれ、一種の社会現象となっている(3)。歴史的に見て、台湾は 日本の植民地になって

いた経験 をもっている。 しか しそれにもかかわ らず、台湾 は同じ日本の植民地経験 をもつ韓国

とは異なった感情 を日本に対 して抱いていると言われる。また、東アジアにおける日本のポピュ

ラーカルチ ャーの流れか らみると、まず台湾で取 り入れられ、そ して中国をはじめ としたアジ

ア各国に伝えられてお り、台湾は受信地 としてだけではな く発信地 としての役割も果た してい

るといえるだろう。

日本のポピュラーカルチャーの中で もポピュラー音楽は、 ドラマ番組やマ ンガと並んで台湾

では人気がある。 レコー ド店ではいわゆる 「J-POP」 のCDが 店の中でも最 も目立つ場所に置

かれ(4)、書店では日本の歌手が表紙 を飾る音楽雑誌が並び(5)、テ レビか らは 日本のCDの 宣伝

やプロモーションビデオが流れる。また台湾の若者による日本のポ ピュラー音楽情報のホーム

ページも数多 くある。このように台湾の若者は日本の若者と同様 に日本のポピュラー音楽の情

報を入手 し、音楽を聴いているのである。日本の音楽業界 も市場 としてのアジアに目を向け始

め、台湾を訪れる日本の歌手 も増加 してきている。たとえば、2001年 の8月 から9月 の2ヶ 月

間に台湾 を訪れた 日本人歌手は、安室奈美恵 ・Klroro・Sakura・CHEMISTRY・B'z・ 小野

リサの6人/グ ループを数え、彼 らは台湾でコンサー トに出演 した り、プロモーション活動を

行った りしていた。日本ではこの様子はあまり知 られてはいないが、台湾では新聞に大 きく取

り上げられるほどの出来事であった。

現在、台湾で 日本のポピュラー音楽が広 まっている背景 としては、次の4つ が挙げられる。

まず、第一 に 「大型レコー ド店の進出」である。 日本のCDを 取 り扱っている、タワーレコー

ドなどのグローバル資本のレコー ド店や台湾の大型 レコー ドチェー ン店の展開によって、いた

るところで 日本のポピュラー音楽のCDを 手に入れることがで きる。第二 に、「インターネッ

トとケーブルテレビの普及」がある。1999年 の台湾におけるインターネッ ト利用者の割合は

21.1%で あ り、アジアではシンガポールに次 ぐものであった。インターネ ットによって人々は

外国の情報 をタイムラグなしに受け取ることができるようになった。 また、台湾ではケーブル

テレビが1993年 に合法化 されたのち、1996年 には普及率が73%ま で上昇 してお り、現在では多

くの家庭にあるといえる。平均70チ ャンネル以上が視聴可能であるといったような多チャンネ

ルの中で大 きなポピュラー音楽専門チ ャンネルが 「MTV Chinese」 と 「CHANNEL[V]」 の2

局あ り、 日本の音楽番組や音楽情報を流す番組 もある。第三は、ケーブルテ レビを通 して、

「日本のテレビ番組が放映 されていること」である。ケーブルチャンネルには日本専 門チャン

ネルが3局(緯 来日本台 ・国興台 ・JET-TV)あ り、そこでは ドラマ番組、バラエティ番組、

旅行番組、料理番組などがほぼ24時 間放送 されている(6)。日本と同様、 タイアップされた音楽

を台湾で売 ることが可能であ り、実際に ドラマの主題歌は人気がある。 これ らのチャンネルの

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カバー曲史か らみた台湾における 日本のポ ピュラー音楽

ような、ある特定の国の専門チャンネルは日本以外の国に関 しては見 られない。最後に第四と

して、「カラオケの普及」があげられる。台湾では1980年 代末にカラオケボ ックスが現れは じ

め、日本 と同 じように普及し、いまや一般的な娯楽となっている。台湾のカラオケでは、中国

語や英語の曲だけでなく日本のポピュラー音楽 も数多 く取 り扱 われ、歌うことが可能である。

しかし、日本のポピュラー音楽が台湾で受け入れられているという現象は、上の4つ の要因、

すなわち近年に見 られるような変化だけからおこっているものではない。台湾のポピュラー音

楽の歴史を見てみると、 日本のメロデ ィが 「カバー曲」 という形で戦後 より常に存在 していた

ことが見受けられるのである。

なぜ現在これほどまでに日本のポピュラー音楽が受容 され、広 まっているのか。その背景の

端を明 らかにするために、本稿ではカバー曲の歴史を時系列的に探る。そこで、日本のポピュ

ラー音楽のカバー曲は、台湾において どのような意味を持っていたのかについて考える。

1. カバ ー曲 とは

カバー曲とは、「ある歌手が歌っていた歌 を他の歌手がアレンジを加えて、 もしくはアレン

ジなしで原曲に忠実に唄った曲」 と定義することができる[馬,2000,85]。 本稿でカバー曲を

扱 うに際 して、「歌詞の言語が違 うこと」 と 「歌手が違 うこと」をカバー曲であるという基準

とする。同じ歌手が同 じ歌 を異なる言語で歌うというセルフカバーについては、歌詞の言語が

異なっている点を重視 し、今回の研究対象に含むこととする。

台湾 においてカバーされている曲の出自は、 日本の ものが最多である。アメリカや他の国の

ものもあるが、日本の ものは特に重要な供給源 となっている。

ところで、台湾における、または東アジアにおける日本のカバー曲に関する研究はほとんど

なく、記述 も決 して多 くない。その中で例 を挙げると以下のようなものがある。アジアの芸能

に詳 しい原智子は、1980年 代からの香港における日本のカバー曲について、歌詞の内容や曲の

印象がかわって しまうことを香港ファンの 日本人たちは楽 しんでいる、 と述べている。また、

カバー曲のなかには トルコまで広がっている曲もあることから、「伝言ゲーム」のようである

と例えている[原,1996]。

市川隆によると、東アジア諸都市のポ ピュラーカルチャーの状況は、それまでの日本が先行

して東 ・東南アジアの国々が相前後 しなが ら後方に続 くという 「雁行形態型発展モデル」から

逸脱 し始めている という。 日本に追いつ くためだけではなく、アジア各国で独 自に日本の もの

をアレンジして違うものを作 り出す ようになっている。そして、市川はその例 としてカバー曲

の動向を取 り上げている。そこから、「欧米音楽を段階的に受け入れ、徐々にアジア的な品種

改良 を加えた末の果実」が 日本製のポピュラー音楽だとすると、「東アジア諸地域 は、それを

じかにもぎ取 り、自前で切 り分け味わっていることとなる」[市 川,1994,154]と カバー曲の

状況を示 している。 しか し、市川はアジア諸国が 日本のような発展段階を踏んでいないと悲観

しているのではな く、 日本のポ ピュラー音楽をカバー曲という形で輸入することによって、

「自国製ポップスの発生(商 品開発)」 を刺激することとなる、 と評価 している[市 川,1994]。

また、カバー曲は、ジャパナイゼーションの概念の中で例として取 り上げられ、語られている。

東アジアで受け入れられている日本のポピュラーカルチャーは、「純粋に固有の文化 としてではな

く、欧米文化の翻訳あるいはほとんど 『無国籍』的な文化として伝わることが少なくない」ため、

「東アジアの人々は無 自覚のうちに 『日本』文化に接 し、受容する」のだという[五十嵐,1998,

16-7]。岩渕功一は、そのジャパナイゼーションの流れの中で、カバー曲を 「日本が世界に向けて

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ポ ピュ ラー音楽研究 Vol 8 2004

輸 出 ・発信 している主な文化商品の4つ めの 「C」である」[岩 渕,2001,157]と 位置付けてい

る。その他の 「C」と呼ばれるものは、「コンシューマー ・テクノロジーconsumer technologies」、

「マ ンガcomics/cartoons」 、「コンピュー ター ・ゲームcomputer/video games」 である。

どれも 「日本 らしさ」があまりみ られない という特徴 を持っている。それは、カバー曲の場合、

現地の言葉で歌われているため、そ してアメリカのポップスを 「アジア化」 していることで、

聴 き手によって 日本の曲であると意識 されることが困難であるからだという[岩 渕,2001]。

台湾での研究においても、ポピュラー音楽研究そのものは少なくないのだが、カバー曲につ

いて触れているものは数少ない。たとえば、張純琳や曽慧佳は戦後の台湾の都市におけるポピュ

ラー音楽の状況の中で日本の演歌などが多 くカバーされたことについて述べている[張,1990]

[曽,1998]。 また葉叔明は、1980年 代以後の台湾における日本のポ ピュラー音楽の状況におい

てカバー曲はコンス タン トに存在するようになったと記 している[葉,1998]。 張梯明は、台

湾の音楽と日本の演歌の関係のなかで1960年 代までのカバー曲をとりあげている。そしてカバー

曲が台湾 と日本のポピュラー音楽が相似 している要因の一つであると述べている[張,2003]。

これ らのようなカバー曲に関する記述 などがあるものの、どれ も戦後す ぐ、または1980年 代

から1990年 代 にかけてといったように時代が限定された ものである。 しか し、カバー曲があっ

たのはその時期だけだったというわけではなく、後に示す ように、戦後 より現在 までカバー曲

は存在 している。日本のポピュラー音楽が受容 されていった要因や、台湾 に対する影響の一端

を明らかにするためにも、カバー曲の歴史を時代 を追 って網羅的に示 してい くことが必要であ

るだろう。

2. カバ ー 曲の歴 史

1895年 から1945年 までの50年 間、台湾は日本の統治下にあった。公に使用する言語は日本語

に限られていたが、生活上では方言である台湾語(7)などが用いられることが可能であった。

1932年 に台湾で初の レコー ドが作 られ、ポピュラー音楽産業の基本的な形がうまれた後、戦時

体制に入るまでの間ではあったが、台湾語の歌の創作 は比較的 自由であった[鄭,1992]。 し

かし、当時は日本のカバー曲どころか、 日本語の歌詞 をつけたり、台湾語化 した日本語の単語を

混ぜた りすることは全 くなかった。台湾文化を守るため、台湾人が台湾語によって台湾人の思想

や感情 を描いた歌を作 り、意図的に日本の曲を拒んでいたのである[大 竹,1997][方,2000]。

1936年 に小林躋造が総督に着任することにより武官総督が復活 し、翌37年 の 日中戦争開始に

ともない、皇民化運動が推進 された。内容 としては、 日本式姓名への改名の奨励、日本語使用

の強制、新聞の漢文欄の禁止、神社参拝の強制などがあった。民衆の娯楽である伝統的演劇、

音楽、武術なども上演 と学習が禁止 された[戴,1988]。 ポピュラー音楽に関 しては、鄭淑儀に

よると 「日本当局は流行 している台湾語の歌 を日本語 に翻訳 した り、 日本の歌に台湾語の歌詞

をつけた りなど、台湾語の歌の普及 を抑制 していた」[鄭,1988,44]。 たとえば、<雨 夜花>

とい う台湾語の歌は<誉 れの軍夫>と いう日本語の歌 に、<月 夜愁>は<軍 夫の妻>と いう歌

にそれぞれ歌詞の言語 と内容が変えられ、曲調 も行進曲風 となった[莊,1994]。

本稿では、台湾におけるカバー曲の歴史 を3つ に区分する。すなわち、1)戦 後から1960年

代、2)1970年 代か ら1980年 代、3)1990年 代以降、の3区 分である。

1) 戦後から1960年 代

1945年 に終戦を迎えた後、国民党政府によって 「去 日本化」すなわち日本 と関係のあるもの

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カハー曲史からみた台湾における日本のポピュラー音楽

を取 り除 く政策が採 られ、1946年 に日本語の使用禁止、 日本語の新聞や雑誌の廃刊、そして レ

コー ドの取締 りが行なわれた(8)[蘇,1999,38][張,2003]。 その後1949年 に国民党中央政府

が中国大陸から台北へ移転 し、同年から1987年 までの38年 間にわたる戒厳令が施行 される。国

民党政府によって、台湾語などの土着言語の使用が制限 され、北京語を 「国語」 とし、その使

用が言語政策として実施 された。 しか し、実際には当分の間この国語普及政策は徹底されてな

かったため、台湾語の歌は1930年 代前半以来の黄金期 をむかえ、多 くの曲が作 られた[曽,

1998,59]。1956年 、学校における台湾語 などの方言が禁止 され、1966年 には学校のみならず、

映画館における方言の放映や方言への翻訳、各種運動会や公共の場所の宣伝 などでの方言の使

用 も禁止 された[陳,1998]。 「1960年代まではそれで も、家庭などの日常生活ではまだまだ台

湾語が圧倒的に主流で」[酒 井,2001,185]あ り、映画や歌などが台湾語で作 られていたが、

歌詞の内容が検査 され、「禁歌」 も多 くあった。それ らの要因から、制作 コス トがかけられず、

さらに発売に際 してもプロモーションがで きないため、おのずと曲の発行数 も減少 し、それに

ともない作者の創作意欲 も次第に減退 した。そのかわ りに作 られるようになったのが、日本の

曲のコピーである 「カバー曲」であった。当時、 日本のポピュラー音楽を用いればコス トがあ

まりかか らず、人々に受け入れられる確実性 も見込 まれたため、勝手に歌詞 を翻訳 して歌われ

ていたようだった[蔡,1997]。 このカバー曲は大量に生 まれ、庶民の生活に浸透 していった。

つ まり、 日本の音楽は日本統治時代に拒まれていたのだが、日本が去 った後 に歓迎 されること

となったのである[大 竹,1997]。

当時の状況を、台湾の音楽家である林二は次の ように述べている。

「戦争が終わって、これでようやく日本人がいなくなった、大陸から同胞がやってきた、 と

台湾人はとても喜んだ。 しか し、自由を与 えてくれるはずの彼 らは、かえって台湾人を抑圧

した。北京語を強要 し、台湾語の歌 を禁 じた。大いに失望 した台湾人は、日本統治の時代の

ほうがまだましだったのではないか、 と思 うようになったのだ。 … あの頃は、台湾語で

作詞 しても世に出すことが出来なかったから、 日本の曲を台湾語に して、これは作詞をして

いる じゃな くて訳 しているんだ、と言ってごまかして出したわけだ。台湾語で歌えるか ら、

みんな喜んだのです。」[大 竹,1997,48-9]

また、作曲家のなかには日本統治時代に日本へ留学 して音楽を学んでいる経験 ももつ者が少

なくなかった。日本では西洋音楽を学んでいた と考えられるが、戦後台湾へ帰国 し、創作を始

めたとき、 日本での生活や音楽教育の影響からか、おのず と日本風のメロディを作っていたと

いわれ[張,1990,45-6][張,2003]、 日本の カバー曲が自然 と受け入れ られていった要因の

ひとつであると考えられる。

当時のカバー曲の特徴 としては、台湾語へのカバー曲が多いことと、カバーされた楽曲は演

歌が中心であった ということの2点 がある。 この特徴 は、以後の台湾語の音楽に影響 を与えた

と考えられる。なぜなら、現在で も 「台湾語の曲」 とい うと 「日本の演歌みたいなもの」 とい

うイメージがあ り、そのイメージはこの頃から作 られ始めたのでないか と想像で きるか らであ

る。

カバー曲の数は1960年 代に最初のピークを迎える。「日歌台唱(日 本の歌を台湾語で歌 う)」

と呼ばれ、庶民の生活 に深 く浸透 していった。この頃の 日本のカバー曲の総数は、公式なもの

はなく、500と も600と も言われている。

また、ヒットした日本のポピュラー音楽のカバー曲は多数映画化 されるようになった。1960

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ポピュラー音楽研究 Vol 8 2004

年代の台湾は、日本、インドに次 ぐ商業映画生産国であ り、映画黄金時代であった。すでにヒッ

トした曲を映画化することにより、曲とともに映画が売れる、そして映画 とともに曲が さらに

売れるとい う循環が生 まれたと考えられる。映画化 された曲としては、美空ひば りの<花 笠道

中>(映 画 「弧女的願望」、1961、 唄:陳 券蘭)や 、小林旭の<旭 のソーラン節>(映 画 「素

蘭小姐要出嫁」、1963)、 近江敏郎の<湯 の町エ レジー>(映 画 「温泉郷的吉他」、1966)な ど

がある。

当時、カバー曲が生 まれたさらなる要因としては、日本時代への懐旧があげられる。国民党

政権による規制があまりに厳 しかったため、その代わ りにカバー曲を聞き、また歌 うことによっ

て日本時代 を懐か しんでいた。このことは次の記述からも読み取れる。

「精神的に圧迫 された台湾人は、比較の問題ではあるが 『昔はよかった』 という郷愁をもつ。

心の唯一のはけ口は、戦前の 日本人か ら引き継いだメロデ ィに しがみつ くことであり、それ

こそ悲哀や苦悶を移入で き、感性的に容認できる音楽の形態であった。また、戦後20年 が経っ

て、台湾社会の中堅層になった日本教育 を受けた世代の人達が、昔な じみの日本音楽 に感情

を託すのも無理はない。 したがって、 日本の流行歌のコピーが次々と公共の電波から登場 し

てきた。」[蔡,1997,41]

この時期のカバー曲は、当初一種の苦肉の策 として生 まれたものであったが、人々には喜ん

で受け入れられていったのだった。そこには 「日本」 というものが明らかに存在 していた。演

歌調のいかにも日本らしいメロディを取 り入れてお り、そのカバー曲は 「日歌台唱」 と呼ばれ

ていたほ ど、「日歌(日 本の歌)」 として意識 されていたのである。

しか しながら、台湾語で流れている曲が実は日本の曲であるとい うことを認識 していたのは

日本統治時代 を知る世代のみであ り、戦後に生 まれた人たちは幼い頃からそれらの曲を聴 き、

親 しんでいたために、それらのメロデ ィは初めから台湾の ものであると思い込んでいた人が多

かった。知 らず知 らずの うちに日本のメロデ ィに慣れ親 しんできた世代 によって、カバー曲は

次の段階を迎えることとなる。

2) 1970年 代か ら1980年 代

1970年 以前より、台湾ではレコー ド会社が次々とあらわれ、ポピュラー音楽の産業化が始まっ

ていった。また、 日本 との関係で大 きな出来事は、1972年 の国交断絶である。

1970年 代か ら、全体的に台湾語の歌 曲が衰退 していった。その代わ り 「国語」(北 京語)の

音楽が広まっていった。その原因としては、政府側が国語政策を遂行 し、メデ ィアにおいても

使用言語が制限 されていたことがあげ られる。1976年 に制定 された 「広播電視法(ラ ジオ ・テ

レビ法)」 では、国内放送における言語 は国語(北 京語)を 主 とし、台湾語 などの方言の使用

は逐年減少させることとした。同年末には 「広播電視法施行細則(ラ ジオ ・テレビ法施行細則)」

が作 られ、国語(北 京語)を 用いる割合は、AM放 送局で55%以 上、FM放 送局 とテレビ局は

75%以 上でなければならないと規定 された。ポピュラー音楽については、1983年 の 「電視節 目

製作規範(テ レビ番組制作規範)」 によって、放送する歌は 「広播電視歌 曲輔導小組(ラ ジオ ・

テレビ歌曲指導 グループ)」 の審査 を通過 した ものに限 り、同 日中に同 じ歌 を二度以上放送 し

ないことが定められた。歌の言語に関 しては、「国語の歌番組において、方言の歌曲は放送す

る順番を考慮 し、1日 に2曲 を超えないようにする」 と制限された(9)[曽,1998]。

日本のカバー曲にも変化が生 じ、台湾語から北京語によるカバー曲が誕生 し、増加 してい く

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カハー曲史からみた台湾における日本のポピュラー音楽

こととなった。また、カバーされる曲は、それまでの演歌中心か ら、演歌以外のポップスのよ

うな曲にまで拡大 していった。この時代 に日本のカバー曲が広がってい く大 きな役割 を果たし

たのが、鄭麗君(テ レサ ・テン)で あった。1960年 代 にコンテス トによってデビュー した鄭麗

君は、日本のポピュラー音楽だけでな く欧米の楽曲のカバー曲を多 く歌い、その歌声でアジア

の人々の心をつかみ、多 くの名曲をうみだした。

その頃の日本のカバー曲が多 く生まれた要因としては、新人コンテス ト番組などの人気によっ

て歌手が激増 したことと、録音技術の進歩によって比較的簡単 にアルバムが製作で きるように

なり、アルバム量産時代の状況 となったことから、多 くの楽曲を必要 としたが人材が不足 して

いたため、その需要にこたえられなかったことがあげられる[鄭,1992][葉,1998]。 さらに

コス トがかからず楽曲製作が可能であることも要因であったと考 えられる。それ らの点か ら

「穴埋め」 の役割を日本のカバー曲は求められていたのだった。当時、香港では台湾以上に広

東語版のカバー曲が多 く作 られ、1枚 のアルバムの全曲が 日本のカバー曲だとい うものも存在

したほどだった[壬 生,1997]。 台湾では、香港でカバーされた同じ日本の曲を北京語でカバー

するなど、香港 との関係が強 く、1980年 代は香港 ・台湾両地域 においてカバー曲が特 に氾濫 し

ていた時期であった。

カバー曲は日本側の戦略 としても使われはじめていた。CHAGE&ASKAが 当時所属 してい

たプロダクション、 リアルキャス トの共同原盤出版会社にあたるヤマハ音楽振興会は、香港な

どで曲が不足 していることを知 り、当時のポニーキャニオンの香港支社であるゴールデンポニー

と組んで現地の歌手にプロモーションし、楽曲の提供を行った。その結果、周華健(エ ミール ・

チ ョウ)の<譲 我歓喜譲我憂>の 原曲である<男 と女>を は じめ とした20曲 近い楽曲が香港や

台湾でカバーされた。オリジナルの楽曲1曲 を複数の歌手がカバー していたものも珍 しくなかっ

たほどCHAGE&ASKAの 曲は広 まり、認、知 されるのをきっかけとして、その後オリジナルの

CHAGE&ASKAの ベス トアルバムをアジアで積極的にリリース していった[天 野,1996]。

当時のほとんどのカバー曲には作曲者が 日本人であることが明記 されてお らず、「作 曲者不

詳」 と書かれた り、台湾人の名前や台湾風の名前に変えられた りしていた。 また、音符を1つ

だけ変えたりすることで 「これは日本の ものではない」 とすることもあったそうだ。これは意

図的に日本のものであることを隠 していたといえる。背景 に、 日本の音楽 を公に流すことがで

きなかったという状況や、著作権の問題などがあった といえるが、この ような操作 によって、

人々は 「日本」 を意識することなく、初めから台湾で作 られたメロデ ィであると信 じていたこ

とで、すんなりと日本の楽曲が受け入れられていった。

音楽だけではなく、台湾では日本の 「アイ ドル」 というスタイルも受容 され、浸透 していっ

た。た とえば、「小虎隊」 という男性アイ ドル3人 組 グループは、 日本の 「少年隊」 を真似た

もので有名になった。他にも、中森明菜や松田聖子 などのアイ ドルを意識 し、イメージを模倣

したアイ ドル歌手が次々 と登場 していった。これまで、グループの歌手や若いアイ ドル歌手が

少なかった台湾の音楽業界に、 日本のポピュラー音楽は新たな変化をもたらしたといえる。

3) 1990年 代以降

これまで公には禁止 されていた日本のポピュラーカルチャーが1993年 に開放 された。そ して、

翌年、日本のテレビ番組が解禁され、放映 されるようになった。その結果、台湾では日本人歌

手によって 日本語で歌われる 「オリジナル」 曲に触れる機会が増加 していった。同じ時期、香

港では 「オリジナルを重視する」 といったことからカバー曲は激減 してい く。香港ではカバー

曲を一切流さないと決めたラジオ局 も現れたほどだったが、台湾でカバー曲は香港ほど極端 に

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ポピュラー音楽研究 Vol 8 2004

減少 してい くことはなかった。

1990年 代か らの日本のカバー曲の特徴 としては、カバーされる曲がポ ップス中心、それ もバ

ラー ドが中心 となったことがあげられる。それは、台湾において好 まれるポピュラー音楽がそ

ういった傾向をもっていたからだといえる。資料2は 、1980年 代以降に作られた北京語のカバー

曲の一部 を表にした ものである。そ して、この頃より変化 したことは、カバー曲には日本の作

曲者やオリジナルの歌手名を明記するようになったことである。それまで人々には日本の曲で

あると気付かれることがほとんどなかったのだが、先 に述べたようにテ レビ番組をは じめ とし

た日本のポピュラーカルチャーが開放 されることにより、 日本のポピュラー音楽に接する機会

が増 えるにつれて聞 き手によってカバー曲であることに気付かれてしまうことを製作者側が懸

念 したか らであろう。

カバー曲が作 られる要因としては、 まず 「ドラマの宣伝のため」があげられる。1990年 代前

半 には、日本の ドラマ番組が台湾で社会的認知 を得るまで、その ドラマへの入口として主題歌

のカバーを作 った。そ うすることによって、 日本の ドラマを台湾の人の身近 なものに しようと

していた。その策が影響 したのか、現在 日本の ドラマ番組は大変 な人気 を得ている。つ ぎに

「カラオケで歌 うため」があげられる。台湾の若者がカラオケに行った とき、歌 うのはもっぱ

ら中国語の歌であるという。 日本語学習経験のある人で も日本語の歌 を歌 うという人はほとん

どいないようだ。日本語では歌えないけど、 カバー曲を歌 うことによってあたか も日本語の曲

をうたっているような体験ができると思われている(10)。

現在のカバー曲制作に関 して、台湾のレコー ド会社のひとつ、ユニバーサル ミュージックの

東洋部(11)マネージャーは以下の点 を長所 にあげている(12)。まず、「日本で売れた曲を用いるこ

とが多いため、台湾で も売れる見込みがある」ということである。日本には 「オリコン」のチャー

トがあ り、す ぐに日本で人気のある曲がわかるので、そのなかか ら台湾でカバーするのに適す

る曲を選択することが可能である。現在 は日本の音楽情報が同時に台湾 にも伝わっているため、

日本で売れる曲でなければ台湾でも売れない。そ して次に、「いい歌を作 ることがで きること」

をあげている。台湾の人々にとって 日本のポピュラー音楽は魅力があ り、新 しい刺激を日本の

曲に求めている。最後に、「コス トがかからないこと」 をあげている。その点についてチンは、

カバー曲のような日本からの模倣や借用は、台湾の会社が生 き残ってい くためには必要な手段

であったと述べている。台湾の音楽などの制作会社は中小企業サイズの ものが多 く、投資 をし

た り能力 を作 り出 したりするような資本や人力をもっていない。そのような中で、日本で成功

したモデルを模倣 し借用することは、財政的なリスクが最小限に抑えられ、 しかも高い利益 を

あげることが可能であったという魅力をもっていたのだった[Ching,1996]。

そ して先の東洋部マネージャーは、 カバー曲の短所 として、「カバー曲は模倣するだけのも

のなので歌手のアイデンティティが喪失 してしまい、自分(歌 手)の 魂が歌 えないこと」 をあ

げている。 また同 じ曲を様々なアレンジを加 えて複数の歌手が歌 うことか ら、「リサイクルの

ようだ」 とも述べている。

2000年 代 に入ってか らのカバー曲はオリジナル曲と共存を しているように見うけられる。台

湾ではオリジナルとカバーの両方とも聴 くことが可能であることに加 え、どの歌がカバー曲で

あ り、オリジナルはどの曲か という情報をテレビやラジオで流す ことも行 っており、カバー曲

に対する認識がある人は多い。 しか し、その情報に触れない限 りカバー曲だと気がつかないと

いうの も実状である。

その ような現状で、カバー曲は日本 と台湾のお互いの歌手のプロモーションに用いられてい

ることが最近の特徴である。たとえば、 日本のSakuraと いう歌手を台湾で有名にするために、

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Page 9: [論文] Japanese Popular Music in Taiwan through History of

カハー曲史からみた台湾における日本のポピュラー音楽

台 湾 で 人 気 の あ る 歌 手 の 蕭 亞 軒(エ ル バ)がSakuraの 曲<OHI>を<薔 薇>と い う 曲 に カ

バ ー し、 ヒ ッ トさせ た 。 そ うす る こ と に よ っ て 台 湾 で のSakuraの 知 名 度 が 上 が る こ と とな る 。

この 同 じ例 と して 、Kiroroと 劉 若 英(レ ネ ・リウ)の 関 係 もあ げ られ る 。 劉 若 英 は 、Kiroro

の<長 い 間>や<未 来 へ>、<逢 い た い>を 次 々 と カ バ ー した 。 こ れ らの 曲 で劉 若 英 自身 も話

題 と な り、Kiroroが 台 湾 の 人 々 に知 ら れ る き っ か け と もな っ た(13)。ま た 、 反対 に 台 湾 の 歌 手

の 知 名 度 を上 げ る た め に 、 日本 の カバ ー 曲 を戦 略 に用 い る と い う こ と もあ る。 た と え ば 、 台 湾

の 「4 in Love」 とい う グ ル ー プの 歌 手 は 、 台 湾 です で に知 られ て い る モ ー ニ ング娘 の 曲<ラ ブ

レボ リュ ー シ ョン>を<懸 愛 革 命>と い う曲 ヘ カバ ー す る こ とに よ っ て、 彼 女 た ちの 「か わ い い

グ ルー プ」 とい うイ メー ジ を付 加 して 、 広 め よ う と した。 他 に、2001年 の 夏 に 平 井 堅 の 曲<gain

ing through losing>を カバ ー して<流 星 雨>と い う 曲 を歌 っ た男 性 グ ル ー プ 「F4」 も こ

れ と同 じ例 で あ る とい え る。

また 近 年 、 カ バ ー 曲が 持 つ 意 味 が 変 化 しつ つ あ る 。 日本 で も歌 手 自 身 が 影 響 を 受 け た歌 や 尊

敬 す る歌 手 の 歌 を カバ ー した ア ル バ ム を制 作 した り、 一 人 の 歌 手 の 歌 を 多 くの 歌 手 が カ バ ー す

る とい う 「ト リ ビ ュ ー トア ル バ ム」 と呼 ば れ る よ う な もの が 次 々 と発 売 され た り して い る 。 台

湾 も 同様 で 、 た と え ば2000年 に発 売 さ れ た 王 開 城 の 《街 灯 が い と う》(14)とい う ア ル バ ム は 、

全10曲 の う ち9曲 が 桑 田佳 祐 や 久 保 田利 伸 な どの 日本 の 楽 曲 を台 湾 語 に カバ ー した もの で あ る 。

そ れ らの 曲 は彼 が 日本 で3年 以 上 暮 ら して い た 経 験 か ら選 ば れ た 曲 で あ り、 単 な る 「売 る た め」

とい う販 売 戦 略 の た め の カ バ ー 曲 と断 定 す る こ とは 難 しい 。 他 に も、 シ ン ガ ポ ー ル 出 身 で 台 湾

で 活 躍 して い る 孫 燕 姿 は 、2002年 に発 売 さ れ た ア ル バ ム 《start yan-zi》 で 、 日本 の 曲 で は な

い の だ が 、幼 い 頃 に 好 きだ っ た英 語 や 中 国 語 の 歌 を言 語 を 変 えず に カバ ー し た。 これ らの傾 向

は 、 カバ ー 曲 を単 な る 「コ ピ ー」 や 「盗 ん で きた もの 」 の よ う な 否 定 的 な 見 方 か ら、 オ リ ジナ

ル を意 識 した肯 定 的 な 見 方 へ 変 化 した あ らわ れ で あ る と い え る 。

これ らの よ う に 、 この 近 年 に台 湾 で あ らわ れ た カ バ ー 曲 は 、 再 び 「日本」 が 意 識 され る よ う

に な っ た と解 釈 で き る。 こ れ まで 、 特 に1980年 代 まで は 「カバ ー 曲 」 の み を売 る こ と だ け が 目

的 で あ り、 そ の た め 「日 本」 の もの で あ る こ と を 隠 して い た 。 しか し今 で は 、 台 湾 で 知 名 度 の

な い 日本 の歌 手 を売 り出す た め に カ バ ー 曲 を作 る 、 ま た は 台 湾 の歌 手 の イ メ ー ジ戦 略 の た め に

既 に 知 ら れ て い る 日本 の 曲 を カバ ー す る 、 とい う よ う な ど ち ら に して も 「日本 」 が 意 識 され 、

自覚 され た カバ ー 曲 が 作 られ る よ う に な っ た と い え るの で あ る。 この 特 徴 は 、 カ バ ー 曲 は 「無

国 籍 」 的 で 、 日本 の も の だ と 自覚 され な い も の で あ る とい う こ れ まで の ジ ャパ ナ イ ゼ ー シ ョン

の概 念 か ら説 明 す る こ とが で き な い 。 日本 臭 の す る もの が 受 け入 れ ら れ て お り、 そ れ が 言 語 の

違 う カバ ー 曲 に な っ て も同 様 で あ る 。 しか しな が ら、 こ の よ うな 新 しい動 き は 、 カバ ー 曲 とい

う形 式 に特 有 の もの で あ る 可 能 性 が あ り、 ま た 日本 に 関 す る情 報 量 を多 く持 つ 台 湾 と い う地 域

に特 有 の もの だ と い え る可 能 性 も残 っ て い る。

以 上 み て き た よ う に、 日本 の ポ ピ ュ ラ ー 音 楽 に 中 国 語 の 歌 詞 を つ け る とい う カ バ ー 曲 の 形 式

は1940年 代 か ら変 化 して い な い が 、 時 代 時代 に お い て カ バ ー 曲 が もつ 意 味 は そ の 時代 背 景 や 目

的 に よ っ て 変 容 して い る 。 カバ ー 曲 は今 や 台 湾 の ポ ピ ュ ラー 音 楽 マ ー ケ ッ トで は 一 種 の 確 立 し

た形 式 とな って お り、 単 な る 「ソ フ トの穴 埋 め」 と して の 消 極 的 な カ バ ー 曲 か ら 「プ ロモ ー シ ョ

ンの た め 」 とい う積 極 的 な もの へ 、 そ して 「日本 」 が 見 え な か っ た カバ ー 曲 か ら見 え る もの へ

と変 化 して い っ た とい え る。

また 、 近 年 中 国語 で カ バ ー さ れ た 日本 の ポ ピ ュ ラー 音 楽 は 、 日本 で も見 出 さ れ 、 利 用 され る

よ う に な っ て い る 。 た とえ ば 、 サ ン トリー の ウ ー ロ ン茶 の コマ ー シ ャ ル に1992年 か ら カ バ ー 曲

が 使 わ れ 、 話 題 に も な っ た そ の コ マ ー シ ャル ソ ン グ はCDと して も制 作 さ れ た 。 また 、 カ バ ー

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ポピュラー音楽研究 Vol 8 2004

曲は中国語の発音や表現を学習する手段の一つ とな り、本 も出版 されるようになった(15)。その

ほかにも、歌詞の言語が違 うというカバー曲の物珍 しさから、カバー曲ばか りを集めたアルバ

ムが日本でい くつか制作 され発売 されている。なかで も2001年 に発売 された、ロックレコー ド

という会社 に所属する歌手のカバー曲を集めたアルバム 《J-POP裏 ベス トin Chinese》 のジャ

ケットには次のようにカバー曲について述べ られている。

「あの曲がこうなった!

みなさんがよ~ くご存知のあの曲この曲は、アジアで もす ご~ く有名なんです。

中国語でカバーされたJ-POPの 名曲を一堂に集めてみました。知ってるメロディで も歌

詞が違 うとこんなに新鮮に聴 こえるんですね。さあ、あなたもお聴 きあれ!」

カバー曲は 「新鮮」である という強調は、これまで 「パクリ」や 「単 なるコピー」だと思われ

ていたことを考える と、今まで示 されなかった新 しいものであるだろう。そ してカバー曲を変

化 した日本の曲として楽 しむのは、香港や台湾 ファンとい う一部の日本人だけでな く、それ以

外の多 くの人々にまで拡大 している。

3. 今 後 の カバ ー曲-ま とめ にか えて-

本稿では、現在の台湾 において日本のポピュラー音楽が受容されている背景を明らかにする

一つの視点 として 「カバー曲」 をとりあげ、その受容の特徴 を示 した。台湾における日本のポ

ピュラー音楽の受容 自体 は、1990年 代 に入ってか らのもので、歴史も浅い。 しかし、その以前

か ら 「カバー曲」 という形で日本のポピュラー音楽のメロデ ィは台湾で受 け入れられてお り、

現在のようなポピュラー音楽が広まっている状況が生 じる基盤 となっていたのである。現在で

も 「カバー曲」 はオリジナルである日本語のポピュラー音楽 との並存関係 にある。これは、東

アジアの中でも台湾のみに特徴的であるといえる。また、ジャパナイゼーションの概念からみ

て も、台湾における現在のカバー曲の動向は新たなものであるだろう。すなわち、カバー曲の

出自が日本であるということが明 らかにされず、聴 き手 も気付 くことがなかった1980年 代 まで

とは異 なり、現在では日本のものであることを明確 にし、聴 き手 にも認知されるようになった

のである。

台湾のレコー ド会社の人 とのインタビューによると、現在で も一人の歌手が半年か ら1年 に

1枚 のアルバムを発売するとい うように、アルバムを発行するペースが比較的速い。よって、

た くさんの曲を早 く必要としている。 しかし、自分で作詞 ・作曲している歌手、つまりシンガー

ソングライターが台湾では非常に少ない というのが現状である。なぜなら、台湾では歌手が自

分で詞 を書 くことや曲を作ることに対 して、あまり積極的ではな く、重要視されていないか ら

である。その結果、今でも作曲家が不足 している状況が続いている。「カバー曲は今後 もな く

ならない」 と先 にあげたレコー ド会社のマネージャーは断言 していた。

現在台湾では、 日本の曲だけでな く、韓国やタイなどの曲のカバー曲が作られている(16)。曲

だけでなく、人材 も韓国 ・タイ ・シンガポール ・マレーシアなどの国々からやってきて交流が

盛んになっている。その結果、誰が台湾で、誰が香港で、という線引 きは困難 とな り、線引 き

自体 も重要でない と考えられている。 このように、現在すでに国家単位ではなく、「中華圏」

「アジア圏」 といった範囲でアジアのポピュラー音楽がハイブリッドされ、 ミックスされつつ

ある。今後、そこから新 しいアジアのポピュラー音楽が生まれるのではないか、と考えられる。

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カハー曲史からみた台湾における日本のポピュラー音楽

台 湾 は 、 地 政 学 的 に も、経 済 的 に も 、 そ して音 楽 マ ー ケ ッ トの 大 き さか ら見 て も、 今 後 注 目 し

て い くべ き場 所 で あ る こ とは 間 違 い な い 。

謝 辞

本 稿 の一 部 は 、2001年 度 財 団法 人 交 流 協 会 日台 交 流 セ ン タ ー 歴 史 研 究 者 交 流 事 業 で の 成 果 に

よる もの で あ る。 また 、 レコ ー ド会 社 の 方 々 を は じめ と して 、台 湾 で力 を貸 して い た だ い た方 々

す べ て に感 謝 を 申 し上 げ た い 。

(1) 本 稿 は 日本 ポ ピ ュ ラ ー 音 楽 学 会 第13回 大 会 個 人研 究 発 表 「台 湾 にお け る 日本 の ポ ピ ュ ラ ー

音 楽-カ バ ー 曲 を 中心 に-」 の 原 稿 に加 筆 ・修 正 を加 え た もの で あ る 。

台 湾 の 基 本 デ ー タ は以 下 の 通 りで あ る[外 務 省,2003][行 政 院 主 計 處,2004]

面 積: 約36,000平 方km(日 本 の 約10分 の1)(2003年)

人 口: 2,214万 人(日 本 の 約6分 の1。 そ の う ち台 北 市 約263万 人)(2003年)

GDP: 2,889億 米 ドル(ひ と り当 た り12,900米 ドル)(2002年)

ひ と り当 た りの 国 民 所 得: 407,434新 台 湾 ドル

為 替 レ ー ト: 1台 湾 ドル=3.53円(2002年7月)

台 湾 の 音 楽 マ ー ケ ッ トに 関 す る デ ー タ は 以 下 の 通 りで あ る 。(2000年 現 在)[Universal

Music Taiwan, 2001]

全 体: 67億5700万 新 台 湾 ドル(2億4380万 米 ドル)

そ の う ち 日本 の ポ ピュ ラー 音 楽: 8億4300万 新 台 湾 ドル(約3000万 米 ドル)(全 体 の12%)

日本 の ポ ピュ ラー 音 楽 を扱 う大 手 レ ー ベ ル: 1.avex 2.EMI 3.SONY 4.BMG 5.UMI

「哈 日族 」 とは 、 哈 日杏 子 とい う 台 湾 人 の 少 女 漫 画 家 で エ ッセ イ ス トの 女 性 が 作 っ た言 葉

で あ る とい わ れ て い る 。 謝 に よ る と 、 「哈 」 は 「『何 か が 好 き で た ま らな い』 とい う意 味 の

台 湾 語 」 に漢 字 を あ て は め た もの で あ り、 日本 語 の 「マ ニ ア 」 「狂 」 「オ タ ク」 とい う ニ ュ

ア ンス が 強 い 。 しか し、 「哈 」 とい う言 葉 は 「ど ち らか とい う と、 け な す 意 味 で 使 わ れ る こ

とが 多 」 か った の だ が 、最 近 で は この 語 の ニ ュ ア ンス が 「好 意 」 「憧 れ 」 に変 わ りつ つ あ り、

実 際 こ こ で は 否 定 的 な ニ ュ ア ンス は 少 な い[哈 日,1998;2001][謝,2000,26-7]。 「日」 は

日本 の こ と を指 し、 「族 」 は 日本 語 の 「族 」 とほ ぼ 同 じで 「仲 間」 を意 味 す る 。

李 と陳 の 観 察 に よる と、1990年 代 初 め に は 、 台 湾 の レ コ ー ド店 に お い て 日本 の ポ ピ ュ ラ ー

音 楽 は 少 数 の 専 門 店 で しか扱 わ れ ず 、 販 売 さ れ て い た 商 品 も 日本 で 流 行 して い る もの で は

な く、 ア ニ メ の 曲 や 海 賊 版 が 主 で あ っ た 。 しか し、1995年 の 終 わ りご ろ よ り 日本 の ポ ピ ュ

ラ ー音 楽 は 一 般 の レ コー ド店 で も扱 わ れ る 空 間 が 大 き くな り、 商 品 の位 置 も店 の 入 口付 近

の 最 も 目立 つ とこ ろ に な り商 品 も流 行 して い る 音 楽 ば か りに な っ た[李 ・陳,1998,13]。

台 湾 で は 日本 の 音 楽 雑 誌 も多 く輸 入 され て い る 。 そ して台 湾 の 音 楽 雑 誌 で は 、 日本 の ポ ピュ

ラ ー音 楽 に 関 す る 情 報 を載 せ て い る もの が 多 い 。 日本 の ポ ピ ュ ラ ー 音 楽 専 門誌 と して は 、

以 下 の よ う な もの が 近 年 次 々 と創 刊 され て い る。

『The ICHIBAN ASIA』:1999年9月 創 刊 。 日本 の オ リ コ ンの 週 刊 誌 を再 編 集 し、 月刊

誌 に した もの 。

『Wink Up』:2000年5月 創 刊 。 日本 の 同 名 誌 を 中 国 語 に翻 訳 し、 再 編 集 した もの。 ジ ャ

ニ ー ズ事 務 所 に所 属 す る歌 手 に 関 す る情 報 を掲 載 して い る。

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ポピュラー音楽研究 Vol 8 2004

『音楽 と人』: 2000年7月 創刊。 日本の同名誌を中国語に翻訳 し、再編集 したもの。 日本

だけではな く、台湾の情報が掲載されることもある。

これ らの放送はすべて 日本語放送で放映 し、中国語(北 京語)が 字幕に用いられている。

日本のテ レビ番組は、 日本専門チャンネルだけでな く、地上波のチャンネルにおいて もド

ラマ番組を中心に放映されている。

台湾で話 されている言葉は、「国語」 と呼ばれる中国語 と、台湾語 に大 きく分けられる。政

府が公用語 として認めているのは中国語である(し かし、ここでいう 「中国語」 と中華人民

共和国で用いられている 「中国語 ・北京語」 は全 く同じとはいえない)。 その一方で台湾人の

多 くが日常使用 しているのが台湾語(台 語、閲南語 とも呼 ばれる)で ある(詳 しくは、[樋

口,1995]な どを参照 のこと)。 本稿では国語 と台湾語の違いを出すために、便宜上、前者

を 「北京語」、後者を 「台湾語」 と表記する。ただ し、一般的に示す ときに 「北京語」のこ

とを 「中国語」 と表記することもある。

その後、1962年 に監察委員 より日本の映画 とレコー ドの大量輸入が指摘 され、修正案が提

出された。1963年 には政府側が学生 に働 きかけ、 日本文化をボイコットする 「五不運動」

(日本の音楽を聴かない、日本の書物を読 まない、 日本語 を話さない、日本製品を買わない、

日本映画を読 まない)が 起 こった。1978年 には、教育庁が娯楽場所において日本の音楽 を

うたうことを禁止 した[張,2003]。

ラジオやテレビ放送における方言使用の制限は以前から行われていた。1952年 に広播事業

管理委員会によって議論 されるようにな り、1959年 の 「広播無線電台設置及管理規則(ラ

ジオ局の設置及び管理規則)」 と 「広播無線電台節 目規範(ラ ジオ局番組規範)」、1963年 の

「広播及電視無線電台節 目輔導準則(ラ ジオ ・テ レビ番組指導準則)」 によって方言使用の

番組の割合は定められていた。 しか し、1976年 の 「広播電視法」はそれまでの法律 と違い、

影響力 をもっていた と考えられる。この 「広播電視法」 による言語の規制 は1993年 に削除

され、言語の多元化が可能 となった[曽,1998,129-35]。

台湾の20歳 代の男女 との個人的なインタビュー。2000年7月 と2001年8月 、台北市において。

「東洋」 とは、日本、または日本と韓国を指す。この東洋部では日本 と韓国の音楽を取 り扱っ

ている。

ユニバーサル ・ミュージック東洋部経理 との個人的なインタビュー。2001年9月20日 、台

北市において。

Kiroroは2001年 に台湾で行われた 「MTV夏 日音楽高峰會」(MTV Chinese主 催)と いう

ライブイベ ン トにおいて、中国語で劉若英のカバー曲を歌い、観衆から大 きな歓声を受け

た。Kiroroは ケーブルチャンネルのインタビューにおいて、「私たちは中国語の歌詞 を書

きたいけど書けないので、カバー曲によって歌えるのが嬉 しい」 という旨を述べていた。

このアルバムには 「がいとう」のいう日本語がアルバムタイ トルとして使われている。

た とえば、[神部,2000]や[フ ァンキー末吉 ・古川,2000]な ど。

たとえば、陳慧琳(ケ リー ・チャン)の2001年 に発売されたアルバム 《飛唱》の<飛 唱>

や<數 到三就不哭>は 韓国の曲のカバーである。

参考 文 献

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カハー曲史か らみた台湾 にお ける日本の ポピュラー音楽

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出典)林 穂 紅 編,『チャイニー ズ ポップスの す べ て 香 港 ・台 湾 ・中 国』,36-41・56-57頁 より作 成

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ポピュラー音楽研 究 Vol 8 2004

資料 2 カバー曲 リス ト1980年 代~

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カハー曲史か らみた台湾における 日本のポ ピュラー音楽

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ポ ピュラー音 楽研 究 Vol 8 2004

出典) 『ヒッ ト曲で 覚 えるア ジアの こ とば vol.2北 京語 』,98-101頁 よ り作成

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