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西谷啓治と近 Ol 一九四五年 J W ・ハイジック 近代の諸問題に対する西谷啓治(一九 OOl 一九九 O 年)の考えは彼の思想全体からみれば周 「自覚」という太陽の周りを回り、光や重 覚にあまりにも重きを置きすぎる一歩手前まで の問題は、日本の近代において目を引く主体性、文 題の端女にすぎなくなるかもしれない。しかし、西谷 ことは彼の思想の全体像を査めてしまうことになるであろ て注意すべき点は、西谷自身による志向と異なった方向づけ に割り当てた高い優先度によって、彼の近代に関する思想はどれ 理念から遠く隔たってしまったことであろうかという点にある。いく していたとしても、近代の諸問題について彼が論じたことは、その思想 するだろう。 95 このような問題を提起することは簡単だが、それを描写することはきわめて難し うフォーラムのように自由討論を享受できるような状態とは異なり、当時の発言者 全体主義を背景にすると、描写はさらに難くなる。とはいうものの、まさに一九四 O 年から一九四五年にわたる

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西谷啓治と近代の超克(一九四

Ol一九四五年)

J・W・ハイジック

近代の諸問題に対する西谷啓治(一九OOl一九九O年)の考えは彼の思想全体からみれば周辺に位置を占め、

「自覚」という太陽の周りを回り、光や重力をその太陽から受け取る副次的惑星の一つである。西谷の思想は自

覚にあまりにも重きを置きすぎる一歩手前まで来ているといえよう。より政治的、社会的な視点からみれば自覚

の問題は、日本の近代において目を引く主体性、文化的特性、倫理性、国家的性格、民主主義的正義といった問

題の端女にすぎなくなるかもしれない。しかし、西谷の宗教的世界観に立てば、自覚を端女の地位にとどめおく

ことは彼の思想の全体像を査めてしまうことになるであろう。西谷が残した思想体系を歴史的に評価するに際し

て注意すべき点は、西谷自身による志向と異なった方向づけが可能であるか否かではなく、むしろ、彼が「自覚」

に割り当てた高い優先度によって、彼の近代に関する思想はどれほど現代の我々が尊重する人間存在に関する諸

理念から遠く隔たってしまったことであろうかという点にある。いくら当時西谷が現実を首尾一貫した形で理解

していたとしても、近代の諸問題について彼が論じたことは、その思想的営み全体を見渡せば深刻な問題を提示

するだろう。

95

このような問題を提起することは簡単だが、それを描写することはきわめて難しい。しかも本日われわれが集

うフォーラムのように自由討論を享受できるような状態とは異なり、当時の発言者に覆いかぶさっていた軍事的

全体主義を背景にすると、描写はさらに難くなる。とはいうものの、まさに一九四O年から一九四五年にわたる

難局つづきの時期から語りはじめなくてはならない。当時西谷の近代に関する発言は主要資料である五つの文書

から読み取れる。すなわち西谷が参加した一九四

O年から一九四二年にかけて三回にわたって開催されたいわゆ

る「中央公論座談会」、「近代の超克」と題された一九四二年開催のシンポジウム、西谷単独の著書『世界観と国

家観』(一九四一年)、さらに「近世欧羅巴文明と日本」(一九四O年)および「世界史の哲学」(一九四四年)という

こ点の論文である。それ以外のヨーロッパ神秘主義、文学、宗教哲学をめぐる六つの論文は本テ1マとほとんど

無関係である。

右に述べた資料をすべて考察し叙述することは、一論の域をはるかに超えてしまう。したがってここでは多く

の研究者と同じく、西谷の近代への抵抗において焦点となる絡み合う三つの課題を選び取りたい。すなわち、

「世界史」という概念の再考、西洋文化を脱ぎ捨てる日本の主体性、学問や理性における単純な科学的世界観か

らの離脱という三つである。いずれの場合も、私の狙いはただ西谷の立場を明白にするだけではなく、むしろそ

の裏に潜める論理を浮き彫りにすることにある。

世界における日本の再配置

明治初期以降、西洋文化が突然襲来し日本の伝統的精神を脅かすに至ったことは、あらゆる社会層にとって明

白であった。新しいアイデンティティを促す刺撤を歓迎する一方、他方では外来の物資、制度、政治、思想形態

などの出現と、日本の歴史や伝統を継続すべしという要求との間で、多様多彩な拠り所が模索された。国家の精

神を植民主義的かつ軍事的な理念に服従させようとした戦争中の考え方は、日本の「独自的」な精神の復興でも

なんでもなく、ましてやそれを他国に押し付けることなど非日本人的な振る舞いであり、たとえそうした言説が

いまだ散見されようとも、往時の名残にすぎないとの理解に達したことはたしかである。にもかかわらず、隣国

にいまだ生きている苦い記憶を念頭に置かないわけにはいかない現代の日本は、過去を簡単に超克することもで

96

きない。過剰な日本批判は減退しつつあるとはいえるが、明治時代から刻み込まれた本来の問題は日本の意識か

ら消えたとはいえないであろう。

日本文化や日本の主体性を西洋やアジアの諸国から区別する、西谷の戦後から晩年までの論文を読めば、思想

の文脈が根本的に変化したといった示唆が

|l少なくとも表面的には|!見られるが、彼自身の思想が戦争中の

軍国主義を支持するものとしてどの程度機能したのか、またどこまで当時の主張を否定すべきかについて触れら

れているとはいえない。本来の意図とは何であろうと、西谷の思想が維持されたと考えるにたる十分な根拠があ

る。おそらくもっとも重要な手がかりは中央公論座談会の主張に顕れるが、それは生まれつつある「新世界秩序」

とその必須条件である「モラリッシェ・エネルギー」に見て取れる。以下に西谷の言葉を長く引用するが、それ

は西谷哲学が根本的にもつ性格から論理的に以前の思想が保持されたのだと早めに結論付けたいからではない。

むしろその内容が単なる包宮古宮田

(H歩調を乱す小石)ではなく、まさにお

Emu-zB(つまづきの石)であるこ

とを主張したいからである。

固定した世界秩序の中へ新しく登場して自分自身の生存を積極的に主張し得るような民族は、モラリッシ

ェ・エネルギーをもった民族でなければならない。又そういう民族にして初めて、民族自身に立脚した国家を

形成し得たわけだ。そういう民族に於ては、国家とは民族自身のモラリッシェ・エネルギーの発現を意味した

ともいえる。だから民族主義とか国家主義とかいって、デモクラシーの側から悪く言われながら、それがやは

り大きな倫理的意義を含んでいるところがある。

ところで、現在日本が指導的だというのはどういうことかというと、やはり自分のモラリッシェ・エネルギ

ーを大東亜圏内のいろいろな民族に伝え、それを彼等の裏から喚ぴ覚し、彼等に民族的な自覚を与える、或い

は民族としての主体性を自覚させる。

西谷啓治と近代の超克97

その共栄圏総力戦ということから:::大東亜共栄圏内の諸民族の或るものを日本人化する、教育によって徹

底的に日本人化するということも、空想じゃないと思うね。:::例えば朝鮮の場合は、外の場合と違うかも知

れないが、しかしやはり今迄の一般の考え方のように「朝鮮民族」というものを固定した動かせぬ観念のよう

に考えることは、現在では不充分になってきている。一一の既成の「民族」を固定して考える、そういった立

場から民族自決主義のようなものも出てきたのだが、しかし現在のように朝鮮に徴兵制が布かれ、「朝鮮民族」

といわれたものが全く主体的な形で日本というもののうちに入ってくる場合、つまり主体的に日本人となって

くる場合、今迄固定したものと考えられていた小さな「民族」の観念は大きな観念のうちに融け込むとは言え

ないだろうか。いわば大和民族と朝鮮民族とか或る意味で一つの日本民族になるという風に言つてはいけない

だろ、っか。

大東亜圏内の民族で優秀な素質をもったものを、いわば半日本人に化するということはできないものかと思

うんだが。それも支那民族とか泰の国民とかは、固有の歴史とか文化をもったものだから、これはやはり一種

の同胞的な関係で、半日本人化ということはやれない。またフィリッピン人のように自分の文化というものは

何ももたずに、しかも今までアメリカ文化に甘やかされてきた民族というものは、恐らく一番取扱いにくい。

それに対して、自分自身の歴史的文化をもっていないが、しかも優秀な素質をもった民族、例えばマライ人・:

ア1ヂルフォルク

ハウソホlファ!なんかマライ族を貴族的民族と言っている。日本人もその血が混入しているというんだ。

ヘルレンフオルク

尤も日本人は治者的民族だろうがね。で、ああいう民族とか、フィリッピンのモロ族とか||受け売りの知識

だが、モロ族などもいいそうだーーーそういう素質のいい民族を少年時代からの教育によって半日本人化すると

いうことはできないかと思、つんだ。

98

以上の引用に関し、西谷の意見には疑う余地がない。むろん、座談会で語られた内容がもっている構造や時間

的制約という理由から、意見を裏付けるために必要な慎重さは失われていたし、また議論形式も合理的論証を可

能とするフォーラムではなかった。しかも多くの場面で参加者が諸概念を、特別に弁護する必要も感じず、単純

な応用に向けた基盤を伴って共有したにすぎないといった印象がある。ぞれはともあれ、西谷は自分の哲学的前

提についていくつかの示唆を対談のなかで垣間見せている。日本に歴史上初めて指導的役割を充当する「新世界

秩序」について語るとき、往々にしてヨーロッパが懐く「危機意識」があまりにも狭く利己主義的なものであり、

世界全体にとって役に立たないものとされる。その意識は他国の民族に対する「優越感」を含み、「搾取」や

クルトゥ1ル・シャツフエンド

「偽善」を苧む「隠れた策略」にほかならず、したがってヨーロッパは自分こそが「文化創造的」であり、

タルトゥ

1ル・トラlグンド

日本人は一段下の「文化保持的」とみなして「旧世界秩序」に執着していると断じられる(二一、一九、一入

四、二人三、三五一頁)。他方「世界史的民族」としての日本国民がみせる「特色」は、「歴史的に自覚」する点に

ある限り、自分の独立を守りながら「支那の植民化を遮った」と主張される(一五人1六O頁)。西谷によるとそ

の「自覚」とそれに伴うモラリッシェ・エネルギーこそが「一方では国民各自の中へ徹底させられ、他方では新

世界秩序という世界性へ拡大」きれなければならない。このようにして「植民地の再分割」に抵抗しながら、

「万邦をして各々の所を得しむる」という日本の理念を実現できるのである(一九二、一九八、三七九頁)。東西は

対照的であり、その様態は大雑把に描かれる。「デモクラシーの建て前から」ヨーロッパとアメリカは「住民に

或る程度安楽な生活を保障し」ながらも、実際は「搾取政策を行っていた」。つまり「阿片政策」だった。要す

るに、「その形式的な自由を一皮めくると、欲望の無制限な横行と弱肉強食が一層陰険に行われているよ大東亜

では日本だけが西洋並みの「非常に高い水準」に達しているので、他国の「各民族に民族的自覚を喚ぴ覚まし自

主的な能動力をもったものに化する」日本の「特殊の使命」へと参加させるべきであり、同時に、各民族にその

「独立を与える」ためには、全体主義的な自己拡大でも単なる自由主義的な放任でも足りないとされる(二O四l

99 西谷啓治と近代の超克

O五、二三九i

四O、三五一、三五六頁)。

西谷は「国家の主体的性格」が順調に発展し、さらにヘ

lゲルのいわゆる「客観精神」にまで高められる必要

を認める。しかし「国民全体の雄大な陶冶」が史上初めて「プラトンの夢を実現」する水準まで一般の人々のあ

いだに広げられるかどうかについては、自らの「相当悲観的」な判断を告白する。とにかく、「国民は存亡を賭

して共栄圏の建設を行いつつあ」るので、努力を尽くすのみである。その意味で西谷は「内に向かっては国民各

自の意識の深い根底にまで」国全体||経済、政治、文化、軍事の各領域ーーを包括する戦争において「総力戦」

という名の「圏内の戦争体制」を強調する。そこでは長い歴史のなかで洗練され、大政奉還にも見出せる「肇国

の精神」が基盤とされる。西谷はここで総力戦をニ

lチェの「善き戦争」に相即して、戦争と平和を矛盾しあう

正反対物と考えるのであり、戦争を単なる「逸脱」あるいは「一時の変体現象」とみなすことは「非常に大きな

間違い」であり、しかも無力だと主張する。「戦争体制を戦争と平和との底を一貫しているような基盤から築き

上げることが必要である」と理解しない限り、「戦争遂行ということにも大きな障害となる」。その視点に立ち西

谷は「この間のハワイ戦争に:::実に光明というものを感じた」と付けくわえるのである(二四八、二八一子八六、

二九三丁九四、三O九、コ一九四頁)。

中央公論座談会における西谷のレトリックと比べて、「近代の超克」をめぐるシンポジウムは一段と落ち着い

たものだが、まさしく同時期に実施されたこともあって、当然ながら発想の重複が見られる。世界における日本

の位置づけについての意見はいっそう一般化され、発想の背後にある彼の哲学的推論もさらに明瞭なものとなっ

ている。西谷はシンポジウムのために用意したエッセー(後年『著作集』からは省かれた)で、日本の「新世界

秩序」への参加を、その実現に必要とされるモラリッシェ・エネルギーを擁護するためにも、まさに根源から宗

教的な要求に基礎付けられたものとしている。論議の軸となる「主体的無の立場の自覚」は個々の国民にとって

も国家全体にとってもともに「極めて現実的」にして「具体的」な手段とされる一

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国家は個人の恋意的な自由を抑圧せねばならぬ。国家の存立にとって不可避の要請である。そこから西洋近世

に於ける、個人と国家との聞の深い困難が生じたのであった。然かも現在では国家はこの要請に於て徹底的で

あることを迫られている。即ち滅私奉公ということが強調されている所以である。:::滅私とは根本的には、

恋意の小我、利己主義の我の滅却を意味する。:::それ自身のうちに深い宗教性への道が聞かれているといえ

る所がある。そしてそこに聞かれている道は、小我の絶対否定が直ちに現実の生活に於ける自身の活動の主体

性であり得る如き道である。:::国家は何故私を滅した職域奉公を国民に要求せねばならぬのであるか。それ

は言う迄もなく、国家としての内的統一をできるだけ強化するためである。

国家の内的統一を体現するのは「統一的世界観」に従う「人間の新しい自覚的形成」であるが、日本の場合そ

れは聖徳太子に遡る精神的伝統とつながっている。この点について一四世紀の『神皇正統記」が引用される。

「鏡は一物をたくはへず、私の心なくして万象を照らす」という「清明心」のはたらきを滅私奉公にたとえて、

それは神話的にいえば天照大神の「心源」であり、哲学的に言えば「主体的無の宗教性」であるとされるつ一九l

一一一一頁)。エッセーの終盤では中央公論座談会の論理に戻り、国家を中心にする滅私と、世界全体の新秩序のため

「国家が自らの根底に」もつ「自己否定性」との両面を結ぶ「国家倫理の原動力である道徳的エネルギー」の必

要性が強調される。その背景としてあいかわらず「わが国の使命として荷われている:::亜細亜に於けるアング

ロサクソンの支配に対して対決を迫られた」状況が繰り返し語られる。「わが国の国家生命は世界史のうちへ注

ぎ出され、いわば世界史の血脈となっている」のであり、いまこそ国の肇めからの理念を実現する格好の機会に

至ったと西谷は言うのである(一三一、三四|五頁)。

シンポジウムの段に至って西谷も他の参列者と同じくこうしたテlマや論理を避けている。最もそれに近づく

ところは、プラトンの「哲学する精神」は「不易」な観念のみを扱いるのであって、現代的な問題を考慮するも

のではないと主張する学者を西谷が批判し、そうした偏った考えの背景に不易と流行との区別を喪失させる私的

西谷啓治と近代の超克101

で誤った歴史観があるからだという主張に見出せるが、具体的な示唆は何ひとつもない合コ二一工一七頁)。しかも

モラリッシェ・エネルギーという概念はこのシンポジウムだけではなく、当時の論文のなかで自然に出てくると

思われるが、実際には出てこないのである。たとえば一九四一年の「宗教哲学l|序論」という長い論文では、

倫理や道徳の目標を、超越者に対する「何者にも従属しない〈自由〉」、あるいは「利己主義」の克服において見

出すが、そうした主張のなかで国家や君主を扱っているかと言えば、論文のなかでただ一度だけ他の文脈におい

て「国家或いは君主」が触れられているに過ぎない(六一入、七六、九九頁)。

むしろ西谷の論証を一層明白に示しているのは、一九四四年に発表された「世界史の哲学」と題された論文で

ある。大東亜における日本の使命||東亜の指導者として日本の民族的優越、西欧のデモクラシーを相殺する国

家主義、日本人化に値する民族の指定、共栄圏の名のもとでの総力戦争の正当化||に対する具体的な意見は完

全に欠けているが、言葉遣いや論法は中央公論座談会の場合と同じ性格を示している。西谷にとって「世界史の

哲学は、或る世界意識のうちに特定の世界構造の反映を見、世界史観の自覚的表現を見る」(四一二二五頁)もの

とされる箇所である。

右の引用に先立つ文章における西谷の調子は一音階高いものである。いくどもヨーロッパが近世にその勢力を

全世界に広げてきたため、いまや近世的世界に生きる「吾々の自然観、五口々の国家観や世界意識、五口々の歴史観

などは、西洋近世をそれ以前の時期から画」したとまで述べる。西洋にも東洋にも近世の精神に挑む世界観がな

く、世界がヨーロッパ的世界になると同時に客観的な事実になってしまった。したがって、ヨーロッパの「精神

の世界的普遍性」に対してより回

25-となろうとしても、「かかる正しい立場と従来の偏僑との聞の動揺とその

克服の困難とがあることも必然的といえるであろう」。そういった状況において現在西洋にも日本にも、近代的

世界を超えるために「古代への単なる復帰」へと向かう種々の傾向が見られるが、西谷にとってこれらは現世界

に生きている主体性や歴史性における自覚から背を向ける堕落であり、「不可能を襲う誤謬」にすぎない。同時

102

に、近代を克服しようとする努力という現象は、近代の真理がまだ十分に把握されていなかったがゆえに近代を

さらに徹底すべきだという発想を受け入れない。むしろ現在の必然的課題である近世の克服は、近世ヨーロッパ

が世界や世界史に対して保持する「客観的立場」そのものがはらんでいる内的矛盾を自覚することから始まる

(四一二三了二四、二二人l二九頁)。

論文の終盤になって初めて「国家的主体性と世界的普遍性との止揚」になりうる「新しい世界の構造」が触れ

られる。ここで宗教が果たす役割が重要であるが、それは「古代の国家宗教に於る如き神話的信仰とも中世の世

界宗教に於る如き教派的信仰」とも異なり、「現実の世界的現実に於いて日本の八紘為字の精神が現しつつある」

という意味においてである。それ以外に日本のことについては述べられていないが、編輯上の都合により「我が

国の精神のもつ世界史的意義」と古代の神話や中世の宗教との関連を扱う余裕がないという旨が付記されている

(四一二五五、二五七頁)。

西谷は当時自分が立脚する哲学的立場を「根源的主体性」と名づけており、この概念を一九二七年から一九四

O年のあいだに書かれた論文をまとめた最初の本を出版するに際して書名のなかに取り入れた。この概念は「わ

れ在り」の究極の根底において「脚を著ける何者も無いという所」を説くとともに、「脱底の自覚から新しい主

体性が」現れるという発想である(一一一一一頁)。近代の超克に関する討論がこの概念の発展にどのような影響を与

えかたという点からは、西谷にとり二冊目の本となった一九四一年出版のモノグラフ『世界観と国家観』に浮か

び上がってくる。西谷が中央公論座談会と近代の超克をめぐるシンポジウムに招聴されたことは、この書とかか

わりがあるに違いない。その基本的態度は右に述べたものと変わらない。要するに基本的目的は全体主義と植民

主義へと国家を導かないために必要な、世界観と国家観を結ぶ新しい視野を獲得することである。この本の後語

に書かれているように「マルキシズムに対しては国家というものの意義を肯定し、他方極端な国家主義に対して

は国家に含まれる世界的普通性の面を考」えるための「第三の立場」を訴える(四一一一一八一頁)。その実現にあた

っては、各国がより広い世界を共有すると意識しつつ特定の民族であることを自覚しなければならない。西谷自

西谷啓治と近代の超克103

身が認めたように、理念の段階では新しい発想ではなかったが、論理性と具体性の両面で貢献できると西谷は考

えていた。

まず論理面において西谷は、個人における自覚過程の解釈を「国家の民族的自覚」にまで延長する。彼の文体

は晦渋かつ反復が多く、個人、国家、世界の関係におけるあらゆる可能性を述べるものの、時として基本的な論

点を妨げてしまう。同じ文句が頻繁に登場するいたって単調な文章に翻弄されて、読者は著者がどこに向かって

いるかがわからなくてしまい、場合によっては、歴史的記述であってもそれはデマにすぎないと誤解してしまう

のである。

この本の冒頭から西谷は、「個人が直接に世界そのもののうちで自らを捉え」、しかも「天賦の人権をもっ」と

いう近世的発想に目を向ける。なぜなら国家存在を飛び越えて個人まで進むと、国家が単に一連の人々の聞に法

を守らせる役割へと解消さてしまうからである。けれども、絶対的個人主義を非難すると同時に、「血と土」に

訴えて個人の人権を飲み込む「国民共同体」を正当化しようとするドイツの国家社会主義をも拒絶する。西谷に

とって「国民共同体乃至民族との関係は、根本に於いて、同一と差別との結びつきという矛盾的統一の関係であ

る。」つまり国家は自分の絶対性を否定してはじめて真の国家となる。彼のことばで言えば国の中心は「超越的

にして内在的」であるが、自己否定を含む「超越の面に国家の最も深い中心が存在する」のである(四二一六一、

二六五l七O、二八五、二八九頁)。

こういった統一を実現するため「国家倫理的な滅私と宗教的な滅私の函蓋相合う」必要がある。西洋の場合、

キリスト教と愛国とのあいだでこうした統一を実現することは難しいが、日本では「仏教や儒教によって得られ

た宗教的悟道と国家への献身との津融」によって普遍的かつ世界的な側面を国への愛に織り込む傾向がある

(四一二九四1

五頁)。しかしここには東西を抱える新しい文化の基を探しながらも、世界についての日本の目覚が

国の内的構造という見地から簡単に達成されてしまうという問題点がある。西谷の意図はそれとは明白に異な

る。

104

つづいて具体的な面において西谷は、この本のなかで大東亜の「日本化」や「共栄圏」の促進といった話題か

ら距離をおくが、アジア諸国のうちで初めて自覚的に西洋に対面する態度を確立した国である日本が「決定的契

機」において特別な位置を占めるという基本的確信は、終始一貫ひときわ目立っている。西谷は自分が世界史の

重心が移転しつつある時代に生きていると信じていたが、この移転が意味するのは新Lい「世界帝国」の誕生や

現在の大国が新たに征服地を拡大するといったことではなかった。むしろ彼の視点から見れば、旧い覇権を揮う

より真正な統一、つまり「全世界の主要な海面が、政治的に一つの海面となった」という意識がますます広がる

という意味であろう。「現在欧羅巴と東亜とに行われている戦争:::が英吉利と独逸との聞の欧羅巴的ヘゲモニ

ーの争奪:::諸国の個別的利害の前に欧羅巴全体の利害を優先せしめる」ということは、実際に旧秩序を振り捨

てて新秩序を迎え入れている表象であると西谷は述べる。それに伴って「日本が世界史的となった時代」となる

歴史的の流れが見えてくるのだ(四一二九八、三二六二人頁)。

「新世界秩序」の要求はある特定の国の意向から、または持てる固と持てぬ固との衝突から、あるいは思想的

な因縁から生じるのではない。「最も単純な然も最も普遍的な原因」、つまり「世界的必然性の最後の根底の現わ

れなのである」。それゆえ重心の移転がすでに始まっている以上、自らの内部から復元力が発し続けるかのよう

考えられるのである(四二二0010一頁)。

国家と個人との関係を新たにするためには、中心的特殊性の自覚およびその特性の超越性を前提とする限り、

共通の基盤が不可欠である。この辺で西谷が普遍的「世界」という概念に依拠することが予想されるが、じつは

そうならない。なぜなら世界の普遍性とは政治的な意味で||いわんや哲学乃至宗教的な意味をや

ll絶対的な

概念ではないからである。私と公、国内外におけるすべての「自覚」は「無の普遍の立場」を必要とする。西谷

にとってこれは、日本を世界へと開いてく当時における指導者が担うべき使命の歴史的必然を支える最も深い根

底となる一

西谷啓治と近代の超克105

在来の封鎖的な歴史系のうちに生じた文化や宗教に対して、一方ではその封鎖性の否定によって反ってその

精神の特殊性を高めて生かし、他方では相互を精神的に結ぶものは、無の普遍の精神の外にはない。:::そし

てこの絶対無の精神が、東亜の精神史のうちに最も自覚的に形成されたということに、東亜の精神が今後の世

界精神史の上にもつべき意義があるであろう。その際の中心は日本である(四一一一一一一一一頁)。

106

以上が、西谷がこの論文のなかで長々とヨーロッパ史を解釈している箇所を省いた上で明らかとなった、新世

界秩序の構築を日本の歴史的使命として正当化しようとする西谷の「自覚の宗教哲学」の概要である。

脱欧入亜する日本の精神

近代の真の成果を拒否することなく日本的精神を再生かつ強化することは、ここで取り上げている資料の行聞

を貫く課題であるが、表面に浮かび上がる言説を読む限り、理論的構造を欠いた印象だけ残りがちである。中央

公論座談会では、過去の復興以外には、日本の世界的意義を訴える基盤がないという見解が賛同を得るようであ

る。この点について西谷の特色があるとしたら、その復興において宗教が特別の役割を果たすという主張であろ

う。つまり宗教は、たとえしばしば歴史を離れた抽象的な立場へと退いたことが事実だとしても、宗教にとって

過去は本来的にいつでも手が届く身近なものであり、同時に宗教は現在必要な「近世的な進歩の観念とか実践上

のイデアリスムとかを包み得るような」立場を可能にするものでもあるという見解である。しかし西谷が考える

宗教的立場は宗派的あるいは日本的でさえもなく、大東亜圏における宗教的多様性を是認するものである。それ

は「世界のほとんどすべての宗教が混在している点で、他の諸国には見られない問題を蔵している」。その際こ

の問題とは宗教の本質に、つまり個人と絶対的なものとの関係を中心とする立場に帰還することを指している

(三三、二二二頁)。

近代とともに輸入された個人概念は絶対的なものから切り離され、「近代ではパーソナリティは絶対的なもの

への関係のうちで成立するということから個人の絶対という意味に変わった」と西谷は主張する。「近代の人間

アーベントイエルリァヒ

の生活は根本に官険的」であり、「経験とか体験とかというものを生活の中心にする」ことを一切放棄すべ

きではない。むしろ「これが近世の非常な進歩で、個人主義の克服ということも一遍ここまで帰って出発しない

と、本当にはできないと思うんだ」と西谷は語る。ところが現代の日本人は「人間としての理想型」を与えられ

ていない。知識人の大部分は、明治維新により伝統的なパラデイグマとの連続が切れた事実に応じて「西洋文化

に繋がりを求め、単に表面的な所調〈教養〉の断片」で満足した。が、女性を含めて一般大衆は「日本の伝統的

文化からも西洋文化からも本当に実になるものを与えられなかった」(五二、二四六l四七頁)。

新しい日本の精神の構築と過去の復生との関係について西谷は、「日本歴史ばかり力癌を入れる教育方針」や

「愛国心を酒養する」政策が「ひどく脆弱」な地盤にすぎず、「悪くすると井戸の中の蛙」だけに終わるものだと

して、その危険性を警告する。何らかの一形で近代の現実と取り組む能力が必要であり、しかもそれこそが外来の

文化と技術を取り入れる「自信をもった精神」を証明する日本のモラリッシェ・エネルギーに地盤を置くとされ

る。その精神の認識が「支那人の日本観に欠けているのではないか。その点をハッキリ飲み込ませることが非常

に大切だ」と西谷は主張するが同時に、精神の強化は共栄圏構築に欠かせない「英米の計画的な思想侵略」から

の防衛でなければならない。その面で、「東洋の多くの民族にはヨーロッパ風の民族意識は出ていないが、これ

は大東亜共栄圏の建設ということには却って幸いだったかも知れない」と西谷は考える(七三、二ハ七、三一

O、

三四二頁)。

ところで新たな精神の構築に欠かせない「純化された精神」は文化全体におよぶが、国民一般の個人自覚へと

広がるためには一種の「アスケlゼ」が要る。なぜなら「現在戦争をやっていて、あらゆる面に統制というもの

が加わっている」が、単なる自由主義からみてそれは「窮屈という感じを起こす」に過ぎなくても、「それに却

って積極的な意義を見出し、それを進んで徹底して、そこから新しい価値転換が起こらねばならぬ」からである。

西谷啓治と近代の超克107

「非常の精神が平常心と一つになる」という真の「自覚」が必要なのである。それなしでは、人心を萎え縮める

統制や窮屈を「娯楽で持って補おう。という全く中途半端な方策」に頼ることになる。そうではなく西谷は「文

武一途」を理念とした武士道の「生活精神」を現在再び新しく樹立するべきだと提案する。政治・経済力が日本

の「倫理的な精神力」を充分客観的に具現できなければ必要な「自粛」も不可能となるのである(三六Ol六二、

四一Ol一一頁)。

近代の超克シンポジウムにおいても、個人主義に陥りやすい理由として西洋の進歩を裏付ける「高い」文化に

対して日本人が「惹きつけ心酔させ」られやすい性格を挙げる(二四O頁)。古代日本仏教の思想をたとえばハ

l

パlト・スペンサ

1の哲学といったたぐいと並べたうえで、両者を現在の立場から判断すれば、「なぜ仏教や儒

教などの思想が棄てられて、あ旨いう浅薄な思想が流行し、持て曜されるようになったか」と彼は問いただして

いる。さらに次のように語る一

108

文明開化、自由民権というものは、やはり西洋の十人世紀の啓蒙主義と結び付いて居る:::。そこに西洋の

学聞がもっている特殊性、つまり広い意味のサイエンス或はヴイツセンシャフトという言葉に表れているよう

な、学としての特殊性があって、その特殊性のために、あんな浅薄なものが仏教のような深い哲理をも押のけ

て人を捉えた理由があるじゃないかと思う:::(二四一丁四三、二四五l四九頁)。

ヨーロッパの文化をめぐる西谷の最初の論文は一九四

O年に発表され、同年『根源的主体性の哲学』という論

文集に収められた。一九六八年の再刊にあたって西谷は「その書かれた当時の歴史的境位に即した論述で終わっ

ているから」、配列を変えることでその「不十分」な論文を最後に回したと記している(一一六頁)。この書の中

で西谷は近世がヨーロッパの中世から養われた精神の孫であって、現在その終わりが身近になったと論じている。

その要は、反個人主義的な物質文明・機械文明と個人主義の内的葛藤にあるが、前者はヨーロッパでは非個人主

義者の「心術にも深く浸潤」した豊かな精神史から離れるほど、近世文化はその破綻に直面し、「新しい転換の

前夜に立っている」。とりわけ近世の個人主義はもはや「意識に上がらぬ」慣習であり、「現在一般の欧羅巴人が

生まれ乍らにして呼吸している」エトス的雰囲気なのだと主張する(一二一九|一二頁)。それに対して日本人が

担う重要な課題は、近世ヨーロッパ人が中世神秘主義者などの「先人の〈思想〉へ単に復帰する」に留まるのと

は異なり、それを「承け続いで更に発展せしめる」と同時に、さらに「日本的な精神も世界史の能動的契機」と

するところにあるとされる(一二五O頁)。

一九四

O年から一九四五年にわたる西谷の著作において、世界史の流れの中での日本の位置は、つねに近代化

のプロセスに全力を挙げて参加するなかで失われた宗教ないし精神の復興と関連していた。先に言及したばかり

の「近世欧羅巴文明と日本」のなかで西谷はヒトラーの『我が闘争」を批判するが、そこで全体主義的国家観を

拒絶しながら、そうした国家観の背景に見出せるヒトラーの本能的司

gEE円の自然主義」およびそれと結びつ

いてる「犠牲意志の実践的

EgESZ∞」によって、キリスト教の「普遍愛」や「世界市民性」が無視されてきた

ということに焦点を絞っている。西谷はここでヒトラーを「天才的政治家」と呼ぶが、しかしそれは文脈全体か

らみて皮肉に他ならない。要するに「天才」は、第一世界大戦後に顕著な近世ヨーロッパの精神的貧しさに対す

る病的に査んだ敏感さを示すに過ぎない(一二四二丁四七頁)。

『世界観と国家観』においても近代に対抗する日本的アイデンティティの確保が取り扱われるが、首尾一貫し

て文化、伝統、精神といった抽象的で一般的な言葉遣いを離れない。どこを見ても

ll自分の過去から、またア

ジアの過去から日本の精神を取り戻すといったコンテキストにおいても||皇室や天皇制、あるいは日本国民性

の結晶化が圏内や国外でどのような役割を果たすのかという点に触れない。「伝統的精神の再生」について語る

ところでも、いつも広い意味で「西洋文化の旺盛な吸収」から解脱するために、あえて西洋の受容を徹底すれば、

自らの高度な精神的教養をさらに促すことができるとした東洋全体が払う努力の一部として述べられる。しかも、

この自覚的発展は「国民一般の内的生活に深く浸透」しなければならないものであり、知識層のみの義務に留ま

西谷啓治と近代の超克109

らない。「かの新しい精神の盟醸」は誰にとっても必要であるにもかかわらず、「従来の克服さるべき気風が今な

お強い惰性を以て漏漫している。そのことを人は至る所の巷で認め得る」必要があるのだ(四二三二一一了三四、三

四七|四八頁)。

110

西谷にとって「世界観の臼本的性格」を過去から「汲み取」るためには、行と哲学と宗教という三つ契機に関

わらねばならない。行とは概ね「純粋に理論的な関心のみに従って展開された」西洋の世界観とは異なり、日本

の場合は実践的で「原始直観」に遡り、西洋の自己中心的、科学的理性的知識だけで成立しえない基盤を作るも

のである。しかしより普遍的、より客観的な理性に向って「自己批判と自他共通性の範域の開顕」を実現しうる

基盤がないと、「日本精神の主張も自己陶酔に陥る危険」がある。このような哲学的な反省は、たとえ西洋の哲

学と同じ地盤に立たなくても、「自己陶酔の国粋主義」から「真の国粋発揚」を守るために不可欠である。ここ

で宗教という契機が登場し、「行の否定である理性と科学性とを再び否定しつつ、然も自主的に之を生かすよう

な行の立場」を設立する。宗教はこの役割を果たすため「伝統の創造的継承」を根幹にすえるならば、「宗教的

信念は、現在に於ける過去と未来との相互否定の唯中から生まれて来ねばならぬ」。そこで世界を「道場」に喰

えて、「天地人を一つの〈道〉が貫くとされる如く、そこでは世界観は直ちに世界行ともいうべきものと一つで

ある」とされる。この天地人の統一は「一切即一、多即こあるいは「無」といったものに顕われるのであり、

こうした世界観と日常生活の「行住坐根臥」とを結ぶ考え方は「過去の日本が世界に誇り得る文化、然も人間そ

のものの関口

-zとであるとする。結局西谷は宗派的で抽象的な宗教概念を拡大しようとして、「華道や茶道など

に最もよく現れている」日常生活の隅々まで至る芸術化を宗教の範囲に含める。ちなみに岡倉天心が茶道につい

て、「国民の万人が精神的貴族」となることは「東洋的デモクラシー」の基盤であると示唆したことは「現在の

独逸のナチス精神」つまり「人種理論があるのみ」の全体主義的世界観とは正反対であると西谷はいう(四二ニ

五O

O入、三六O頁)。

更に宗教の役割について西谷は、国家を超えた本来的な性格を宗教から奪い取る「国家性即世界性、世界性即

国家性」という発想が秘める危険性に言及する(四一一一一六七頁)。

その警告にもかかわらず、西谷は「〈私〉を滅して〈公〉に帰る」という理念を生かす宗教と国家との「健全

な関係」をいっさい拒否していない。パスカルの言葉を借りれば「艇がか軟掛川」という長い伝統を持ち、しか

もその精神を神話においても見いだせる日本は、こうした点で西洋の「幾何学的精神」よりもバランスをとるこ

とに長けている。現在神話的なものの復活が要求されていることについて補説する際、西谷は神話の意義を認め

ながらも、古代の神話はそのままでは「私」を「公」へと移行させる宗教的自覚にとって代わるものにはになら

ないし、またその内容を「神学的にドグマ化」したり「血と土に基づく民族の倫理」を作ったりしてしではなら

ないと論じる。ようするに、神話と異なって「宗教的な生命」は哲学的懐疑と同じように「深い心的危機のうち

から生まれ」、哲学や倫理だけではなく既成宗教そのものを越える「虚無性」との対決をもとより意味している

(四二二七O、三七四l七七頁)。実際西谷は次のような調子でこの本を締めくくる一

国家はその教育に於て学を教え倫理を説いている。それは国家生活の必然であるが、宗教がこの必然との背

馳に終わらず、自らの立場から反ってこれに副い得るのも、かの大心を教えることによってであろう(四二一一

八O頁)。

科学的世界観の相対化

西谷啓治と近代の超克

西谷が近代の超克論以降精力的に論じ続けた論点のうち、恐らく一番目立つのは科学的世界観に対する批判で

あろう。中央公論座談会上でなされた言及はわずかであり、またいずれも短い。それらの大部分は、世界や人聞

に関する客観的事実を記述し、また自ら真実の基盤たりうると主張しながら宗教と哲学を無視する「実証主義」

への幻滅を言い表している。当時、科学による支配や科学と宗教との相克はキリスト教から継承した「ヨ

lロツ

111

パの一番根本の問題」とされたが、同時に日本の問題にもなりつつあった(二四五、問。、九七頁)。ここで西谷

は目を転じ、「ハワイ海戦」の興奮を背景として「科学と精神が如何に揮然と一つに結びつき得るか」と感動を

伴って表現された事態こそが「現実の中で最も本当な生き方をなし得る」方向性を示していると主張している

(二五人頁)。

112

近代の超克をめぐるシンポジウムのために用意した論文において西谷は、西洋から輸入された西洋文化は断片

化されており、すでに全体としての関係性や統一性を失った「専門的な領域への分化」を特債とする科学的「進

歩」の文化であったと論じる。一方、主体性を語る際は、「科学が奪い得るものを引き去った後に何が主体性と

して残るかを見るのが近道である」とされる。つまり意識的な「自己」の探求であり、「意識」科学の対象であ

る以上、「心」や「魂」といった実体的な「想定を排除して意識現象を純粋に機能的にのみ」分析するのである

(一九、二三頁)。シンポジウムの段において西谷は、キリスト教における創造主たる神とその世界に対する摂理と

いった見方を「一応排除した所に科学の観方が成り立つ」と言う。また仏性の顕れである「無」と神の啓示・顕

現による「私」の否定との共通点はキリスト教の「ミステイク」に最も明白だとする。ともに科学と矛盾する事

態である(一九六l九七頁)。

当時西谷はフライブルグ留学中に着手したドイツ神秘主義研究の真只中にあった。近代の内的矛盾については

神秘主義に関する文章においてただ一度触れられるだけだが、それは「独逸神秘主義と独逸哲学」においてであ

る。その際、西谷の言葉を著作集のコンテキストから読むと注目に値するものとはならないが、近代の超克をめ

ぐるシンポジウムと中央公論座談会の文脈に照らしてみれば、そこに通じる言葉遣いは見逃しがたい。たとえば

ヨーロッパ中世における信仰と理性の葛藤に関してエックハルトが見せた反応の背景を描こうとする際、西谷は

次のように言、っ。「知何なる民族でも何時かは世界史のうちへ自己を刻み付ける時節を持つ」し、これは「自己

の個性的〈精神〉を自覚的に形成する:::いわば民族の魂が世界史の上で精神に高められまた現実化される時節

である」。そしてドイツ哲学の転換期にあたるエツクハルトを中心としたドイツ神秘主義。ルタ1を中心とする

プロテスタント草命。カント、シユライエルマッヘル、

する。西

谷から見たエツクハルトは、「魂自身の自由」に基づいてラテン的精神に背を向けることによって「独逸の

民族的エトス」を表現しようとする存在である。したがって論点は絶対的な神と自己の徹底的な否定においであ

る魂の自由との間にある矛盾に移った。西洋においてこの問題はまだ解決されていない。その証拠は「近世の精

神」にみえる。つまり、世界と自己の肯定の道を歩むことによって行き詰まりに至ったが、「かくして陥った困

難から脱出する道を、現在に至るまでなお打開していないのである」(七一二O五lO六、二二七l二八頁)。該当す

るテキスト全体を引用しないままでこのような言説が本来持っている味を伝えることはむずかしい。しかし明ら

かに、民族として個性を訴えることによって日本が西洋の近代を超克すべき時期が到来したという当時の西谷が

抱いた確信がはっきりと読み取れる。

『世界観と国家観』のそこここに見出せる科学的精神の支配に向けられた非難は、右に述べたことに対して内

容的には特段何も加えないが、ただその非難の背後には彼が擁護していた新しい世界観があることを明らかには

している。この点について一番詳しい発言は、西洋近代に読み取れる宗教性からの疎外を説くにあたり、キリス

ト教によって宗教が「彼岸」へと移動させられた結果、われわれが科学的理性主義による誘惑のとりこになりや

すいと主張する箇所に見て取れるい

ヘlゲルを中心とするドイツ観念主義。この三つを列挙

西洋的宗教性は、理性の自発性と反援し、:::宗教を離れた哲学が成立せざるを得なかったのであり、この

両面の真の統一は、西洋に於ては、魂の内奥に神の創造未発以前の「非被造的なる」ものを見る一部の人々に

於て起り得たのみで、一般の場合にはその宗教性は、理性をも含めて人間的なる一切を遠離し彼岸の神に眼を

向ける。:::かくしてまた新日本の世界観が、その宗教と哲学との本質的講離に悩む西洋の精神に方向を指示

し得るのである(四一一一一六五頁)。

西谷啓治と近代の超克113

近代を超克する論理

西谷が戦争中に営んだ思想をざっと眺めれば、ある種の思考様態が繰り返されることに読者は気づくだろう。

前に触れたように、その最も基本的な様態は、本来個人的な||しかも西谷にとってはその精髄において宗教的

な||自覚過程を国家や世界へと延長させることである。『世界観と国家観」の冒頭と結部は、国内外の自覚し

た人々による共同体形成を促進するのみならず、国家と世界そのものをそのまま主体として扱うといった内容と

なっているが、ここに西谷の動機が読み取れるい

私が国家の世界性を自己否定を通しての無我の主体性と考えたこと、及びかかる立場を、日本のみならずすべ

ての国家のうちから何等かの仕方で開顕されるべき課題と考えたということは、私の思想を国家主義から分か

つ根本の点である。:::日本の主体性を説く場合にも、自己否定(害関邑

S)を直接的肯定又は直接的定立

32Eεの立場からの世界光被と考えたのである。国家が近代国家から新しい有り方へ移るための此の自己否

定を、私は国家的「我」の主体性から国家的「無我」の主体性への飛躍とも呼んだ(四一一一一人了八二頁、圏点は

原著者によるもの)。

西谷が戦後になした著作からはこの考え方が消えているが、ここで取り上げている時期においては、国家を問

題とする箇所で、この思考様態やそれを思わせる表現を欠くべ

lジなどただの一ページもないと言っていいほど

に根本的な思想となっている。中央公論座談会や近代の超克のシンポジウムにおいても、ほんの印象程度の所見

においてですらその背後にこの思想が潜んでいる。要するに、西谷がこの立場を離れた、または反対する立場を

明確にしたという証拠は、私が目を通した当時の資料のなかにはまったく発見されなかったのである。

114

こうした思想は西谷において自明な作業前提をなしているので、ひと目みただけでは特に新しい発想とは思え

ない。へ

lゲルは国家を主体化して歴史の本質とみなし、しかし歴史そのものは通常倫理の根拠とされる「利他

的」行為と「利己的」行為の区別を撤廃し、カッシラlのいう「神聖なる利己主義」であるがゆえに、結局国家

の主体性を通常の倫理から免除する。西谷の立場はそれとほとんど変わらず、「モラリッシェ・エネルギー」は

日本国家の主体性を強化するものである。しかし同時に単なる奉公ではなく、さらにより高く、目に見えない、

しかも超倫理的な、歴史を導く「理性の校知」なのである。私が知る限り西谷自身は当時、著作のなかで歴史的

必然性と倫理的免除との関連を問題にしない。日本の理念をアジア諸国に普及させるという意図において「自覚」

を優先する思想家として西谷が示す「他覚」の欠如は悲惨であるが、その悲惨さが認識されることはなく、また

戦争中の政治的主張を離れた後期の思想においても、その背後に深い悔い改めがあったかどうかどうかは西谷が

残した著作だけから判断できないのである。

とにかく個人的自覚の過程を国家の発展やその歴史的位置に応用しようとするところで、さらにはそれ以外の

箇所でも、この作業前提が暗黙のうちにはたらいているのではないかと間わなければならない。恩師であった西

田幾多郎について論じた一九五

O年の論文において西谷は、哲学を学ぶにあたってその思想を理解しようとすれ

ば、思想家に関するいわば「こつ」を掴まえることが必要だという。「そうすれば、書かれた思想がわかるだけ

ではなく、その思想家が触れていない事柄についても、この人ならこの事柄をこういう風に考えるだろうと大体

推察することができる」からである(九一九五頁)。西田自身の論理を展開する動力にもこうした仕掛けがある。

個、国家、世界が織り成す相互関係において行きつ戻りつ思索が進む点に、西田の思想を理解する「こつ」が見

出せるだろう。それは一九四九年のニヒリズムを扱った講話のなかで初めて明らかにされた。後年『ニヒリズム』

が英訳された際、呂町'同司令。高足。豆諸ミ~〈まときという書名になった理由はそこにある。要するに近代を克く超

えるために、近代の内から近代を「自己超克」するよう迫るのである。

実例として、近代の「客観的」精神に潜んでいるものの十分に実現されていない真に

Egg-」な立場につい

西谷啓治と近代の超克115

て述べた、『世界観と国家観』の文章を以下に挙げておく。

116

如何に近世的世界が克服されるとも、近世に到達されたこの真理は再び滅却され得ない。寧ろ、近世の克服は、

この真理が近世に於て未だ充分に現わされ得なかった故であるという一面をもつのである。:::これは近世的

な立場を一層徹底する方向に於て近世を超えることを意味する。:::近世精神の方向を一層徹底するという方

向と、近世的精神と正反対なる方向とが、一つに結びついているのである。客観性の立場と主体性の立場の復

活とである(四一一一一一人l二九頁、強調は引用者によるもの)。

私が圏点を付した箇所が示す発想は、この本ばかりか右に扱ったすべての資料を通じて一貫して見出せるもの

である。いうまでもなく、構造的に欠陥を秘めた思想体系や社会的な機関や制度がその力の及ぶ範囲を延ばしす

ぎた場合、ある特定の闘を越えると最初の目的と正反対の目的にはたらきはじめるというような自己崩壊の論理

を西谷が求めているわけではない。それどころか、西谷がしばしば語る「より高い立場」はヘ

lゲル的な止揚を

「否定即肯定、肯定即否定」、いわゆる「即非の論理」に変形させようとする。こうしてその論理は神秘主義の解

釈||特にエツクハルトの「神に自らを打ち委す」ために神を「脱理」すること(七二七七l七九頁)ーーから近

代の超克のあらゆる側面にまでおよぶ。

しかし、いかにこうした肯定の徹底化による自己否定つまり「自己超克」という工夫が当時の西谷思想を貫く

といえども、彼は一度たりとも観念遊戯から個・国家・世界の相互関係についての具体的実践へ至る移転に関し

ては詳しく説明しない。近代の超克のシンポジウムにおいても同じパターンが宗教、文化、生命、利己主義、科

学、個の自己や国家の自己に適用されている(一二一、二四l五、三四頁)。中央公論座談会では「歴史主義を通して

の歴史主義の克服」を構想し、「個人が行きつく所まで行きついた、或は個人の底に達した」時点で「個人主義

の克服」がはじめて可能になると主張する。そして最後の座談会で西谷は「真剣と真剣とを交えている現在、

《身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれどを日本がとるべき唯一の態度とする(四五、五二、四四二頁)云々。ただし、い

ずれの場合も歴史の自然的過程がどこに終わるか、人間の積極的行動はどこから始まるか、さらに近代の「徹底

化」がいっその克服へと変容されたかは、依然として不明のままである。

西谷のすべての発言は虚ろなる抽象にすぎないとまで言うつもりはないが、ただ論理的様態から具体的適用へ

の移動はつかみにくいとは言える。その理由の一つは、西谷が脇道へとそれで歴史を舞台に遠足を試みたにもか

かわらず、思想の様態そのものは過去なり現在なりの歴史的出来事に関する解釈から浮かび上がってはこないし、

また何よりも先んずる「自覚」が歴史的分析の結論とはいえないという点に見出せる。かえって期待されている

結果を確実に見つけるため、前もっておかれた「発見的格率」にみえる。なおこの格率についての不可能証明は、

論理上も実践上も許されていないかのようである。だからといって、それが新しい視野をまったくもたないと言

えば言い過ぎとなる。認識論的に言えば、思想の様態が発見的格率と同じ段階にある場合、西谷の考え方は往々

にして極めて刺激的なものとなりえるのである。たとえば中世ヨーロッパの信仰と理性との相克関係について西

谷は、トマス・アクイナスが「アリストテレス哲学を採用して、自覚的となった理性の立場を満足せしめつつ、

然もその立場自身の内部から一層高き信仰へ移行せしめ、かくして自由思想をその思想自身の武器を以て克服せ

んとする」(七二五一真)段階で、知性主義に一種の自己超克が生じたとする。もしその発見的格率が歴史の出

来事に応用されるならば、歴史的段階での証明が望ましいものとなるのである。

自らの論理によって多とつあるいは自と他という根本的形而上学的問題を包括しようとしていた当時の西谷

は、その最も積極的試みを詩や宗教の領域において行っており、この様態が普遍ではないと証明するような事例

については述べていない(一九一二六九|七O、二人二頁)。日本特殊の「民族としての自覚」をまっとうするため

に、そして新しい世界秩序の保護者としての天命を果たすために、アジアの諸国が被った苦しみが問題にされる

ことなどなかったのである。要するに、もっとも純粋な哲学的表現において西谷の根本的な思想様態は、歴史的

証明を必要とせず、また批判者による判断を是認する必要もない。一九四一年の「宗教哲学||序論」で西谷は

西谷啓治と近代の超克117

次のように書いている。

積極的に求める肯定から否定へと「逢著」するまでの移転(あるいはその逆の過程)が自発的に、つまりみず

からから起こるものであるという発想を十分理解できるだろう。肯定や否定の道にいったん「徹底的」に従うな

らば、あとは万事その流れにそって自ずと進んでいくと考えられることは当然の流れである。この意味で西谷思

想には最も根源的な段階で「自己遍克」という過程が含蓄されており、さらに西谷はこの様態を国家の生命と運

命、文化の個などの問題へと持ち越しているといえるだろう。

右に述べた根源的論法以外に、明在的であれ暗在的であれ、その思想を日本の戦時イデオロギーに対してどう

位置づけるかに関して、いかなる内的論理がはたらいているかを問わなければならない。右に利用した資料に目

を配れば、次のように三つの判断が速やかに成立する。

第一に、西谷の神道古典や神話についての言及は、いかなる意味においても「権威」づけを伴っておらず、神

道思想を「わが国の高い文化が其等を抜きにしては考えられない」仏教や儒教〈四二一六一頁)と同格にみなした

という批判を裏付ける文章的根拠は皆無である。これまではこの点に関して極めて懐疑的に考えられてきた。

第二に、西谷は国家主義に対する批判者と同じく、世界の文化的多様多彩さを知っているため日本の文化一般

を絶対化することはない。ましてや天皇制を絶対化しているとは考えられない。

第三に、近代を批判するにあたって西谷が保持している西洋精神史の知識や観察眼は疑問の余地がない優れた

ものである。

西谷は西洋近代を乗り越える道を求めてはいたが、彼にとっておよそ受け入れがたい全体主義的理念を提唱す

る日本人に対する場合でさえ、たとえ彼らから理解されにくくても西洋によく通じる談論形式を貫いた形で自説

を述べていた。

じつは以上の聞いはいまだ簡単なものである。対して、西谷が著した戦争中の論考をイデオロギー論争の中で

どのように位置づけるかは遥かに難しい問題である。かりに西谷思想が過剰に抽象的であり、そのため近代の

118

「自己超克」を刺激する思索は軍事・政治の指導者を説得するには無益だったと認めるとしよう。そして日本の

影響力を拡大するために、アジアの優れた文化をもっ民族を教育を通じて「半日本人化」するという提案につい

ても、それがグロテスクなまでにナイlヴな代物であったと認めるとしよう。だが、彼の思想がどれほどの影響

力をもっていたのか、その余韻はどこまで続いたのかなどの質問を正面から受け止め、骨を折りつつ研究する過

程を経なければ、西谷が時代のなかで現われた知識や倫理の異常さを超えるだけのどっしりとした足腰をおおむ

ね保っていたという主張の是非を論じることはできないのである。西谷が

CEぬき守九品のような穏健ならざる概

念に提供した哲学的裏づけが、実践上にせよ理論上にせよ、どれほど実際に戦争への協力となったかについて、

私個人は当時のイデオロギーに関する一次資料を十分に読み込んだとは号-Eんず、したがって十分な判断はできな

い。後知恵の表面的印象に依拠した拙速な判断は、たちまちただ張り合うためだけのイデオロギーを新たに生み

出すだけであり、その時実際何が起こったのか、現時点でいかなる意味を汲み出せるのかといった重要な聞いの

場からわれわれを遠ざけてしまう。

イデオロギーの争いとは別に、右に取り上げた西谷の著作は、「自覚」を核とする哲学が取り組む際に最も重

要な理論的問題に光を当ててくれる。すなわち、自己反省の要求から世間の現実へ向かう展開を導いてくれるの

である。中央公論座談会の「つまづきの石」は、単に強権的戦時体制下で露出した残念な発言だったですむよう

なものではない。むしろ西谷の思想の深層に根ざしている。つまり一方では自覚を究極価値とする点で含意され

ているエリート主義や差別があり、他方ではありのままの日常で体験するもろもろの新しきゃ他性から得る全く

の驚きに対して心を聞いたままにせよという要求があるなかで、この両者が簡単には解消できない緊張関係を生

み出しているのである。この「善き戦争」は西谷の熟した思想にとってあまりにも本質的なものであるため、ア

ジア隣国の文化に対する理解や日本に見出そうとした世界史的指導の使命といった話題に観察される意見の浅薄

さを、落ち着いて反省するように導き、さらには否認せざるをないという結論をもたらすであろう。西谷哲学の

胸から心臓をえぐり出すことなしに永久の平和や反対の合一をここで考えることなどできないのである。

西谷啓治と近代の超克119

西谷晩年の著作を読み進めるうちに私はしばしば、石造りの大聖堂に踏み入ったかのように、その壮麗な建築

が私の心を日常の心配事から解放し、無時無形なる大空へと身を昇らせたかのような感覚を楽しんだ。しかし視

糠を上へと向けながらも、足下のクリプトには何か暗い、脅かすようなものが潜んでいる気配をつねに感じても

いた。西谷自身の場合も、個人の宗教的悩みにおいても、時代の歴史的悩みにおいても、このような感覚から遠

くはなかった。本稿で私が紹介した資料が西谷の批判者あるいは擁護者のいずれにとって有益であるかはわから

ないが、いずれにせよ従来の単純な判断に留まらず、割り切れない複雑さを通過した上であらためて判断してい

ただけるように希望している。

120

注* 3

中でも、「神秘主義の問題||信仰と理性」『西谷啓治著作集』創文社、一九八六|一九九五年、三二七五l二O七頁、

と「独逸神秘主義」『同著作集』七二二九1

二O四頁、は近代の諸問題を直接的にせよ間接的にせよ言及しないため、こ

こでは考察の対象とはしない。

関連する西谷の戦後の主要論文に言及する、森哲郎「宗教・哲学とナショナリズムの問題

ll西谷啓治『世界観と国家

観」について」『京都産業大学世界問題研究所所報「世界の窓」』第九号、一九九四年、参照。

座談会にモラリッシェ・エネルギーという概念を介入したのは高山岩男であった(一

O一頁)が、それは一九世紀の歴

史家レオボルト・フォン・ランケ(一七九五|一八八六年)による指摘、すなわち倫理は個人や人種の生理学などに基づ

くのではなく、政治・文化的カの集中

(BR長田nZ開国間同開狩)を基盤としなければならないという発想への一言及である。西谷

は初耳であったらしいこの概念を故意に取り上げて、明白な定義なしに座談会で頻繁に使用した。それ以前に執筆した

『世界観と国家観』の中ではランケが引用されるその言葉が出てこない。かえって西谷が類似する意味で「気分」や「エト

ス」ということばを使う。座談会途中に公刊した論文においてランケの

ph町営.円FHE守30遣皇官

S25札駕ミS喜円常渇

SFq

* * 2

否認

KMXhvなロミを説く中「モラ1リッシェ・エネルギー」を日本とは関係せずに言及する(四一一一四一了四九、二五一

五三頁)。

*4座談会の参列者はそろって「人種」や「血の純粋性」を非難し、また西谷自身もそうした概念を「非学問的」と判断す

る(一

O六|O八頁)。そして終始変わらず「民族」

(H〈。

Eという言葉を使っている。

*5『ツアラツストラはかく語りき』己。への言及と恩われる。西谷自身は武装戦争を「普き戦争」に含めるが、ニ

Iチェは

その筆記帳が明らかにするように、普仏戦争を個人的に体験したことで文字通りの戦争の栄華と壮麗といった幻想からは

解き放たれており、ここで「論争」を考えていたことは明らかである。「戦争(但し、火薬なし!)を思想と思想とのあい

だ!そしてその軍隊!」宇凡足立与ミENh円phha喜志向芝ぞミ』庁内・3ER常

MHR九九22hhSFFも・〈。=goG5のo-zz・玄白NNEo

冨SSRF(冨EnFg一UOEZnFR42nzgznF〈四円目白個目喧∞。)目。HHa・

*6竹内好他著『近代の超克』冨山房、一九五九年、二六i七頁。ほかのエッセーとともに西谷が提供した「〈近代の超克〉

私論」は「文学界』一九四二年、一

0・二号に掲載された。中央公論座談会の「終わりに」で西谷がこの論文に言及する

が、シンポジウムの中ではその座談会の話は出てこない。

*7「八紘為字」(または、八紘一宇)は本来『日本書紀』の「掩二八紘一而為レ宇」に由来するもので、下を一つの家のように

するという意味である。また中央公論座談会において散見される文句である。西谷は『世界観と国家観』において言及す

るが、明らに彼自身は従来の「皇道」との関連を離れて利用している(四一三六七、三八四頁)。

*8該当時期の西谷の著作は、マルクス主義をまったく取り上げていない。私が間違っていなければ、この言及が唯一のも

のである。ところで中央公論座談会において西谷は、全体主義とデモクラシーの混合態ではなく、「第三のもの」の探求を

課題としていると語っている。(三七O頁)。

*9この点に関して閑静岡田一FE昆の解釈は、西谷が批判している見解を是認していると取り違える傾向があるが、その責任は部

分的に西谷にあると恩われる。ともかく、氏は西谷が

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HEE含E自由E2H228べ・(同上、七二頁)つまり国家主義

者であると結論付けようとした際、その証明を興奮しながら行った。しかし的外れな批判が散見されるものとなっている。

*叩ここで西谷はフリードリヒ・マイネツケ(一八六二|一九五四年)の思想を言及しているようである。マイネツケの国

西谷啓治と近代の超克121

2

三木清と帝国の哲学||普遍性をめぐって

家主義説がヒトラーの非難に終わったが西谷自身は直裁な相関関係を指摘しない(四一二六七頁)。

*日西谷は一九四

Ol一九四五年に執筆した諸論文ならびに「宗教哲学」の論文において、「自己否定」を「自己を越える」、「

脱自」、「忘我」、「脱我」へと頻繁に言い換える。しかしシンポジウムにおいて「私」と「無我」を同じ文脈で利用するこ

と(一九七l九九頁)に比べれば、中央公論座談会などに出てくる「私」と「公」との区別がそこでは含まれていると言え

るだろう。とはいえ、西田自身も他の参加者もこの関連を指摘することがない。

*ロ天台仏教における「開顕」は、方便の教えが至った行きづまりを打開して、その上に真実のことわりを顕彰するという

意味である。

*日「絶対的矛盾の一体化」を志向する弁証法は、当時の西谷が著した神秘主義論に見出される(七二七七、一八五頁)が、

近代に対する批判にはなっていない。

*MH私の目に付いたおそらく唯一の例外は、中央公論誌上の討論において日本国家を「絶対的精神の表現としての客観的精

神だ」(三九五頁)と主張する箇所である。しかし文脈を考慮すれば、へ

lゲルの範鳴を用いて全体主義的国家を「客観的

精神」とみなす考え方に反対していることがわかる。

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