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Hokkaido University of Education Title Author(s) �, Citation � : �, 2(1): 1-6 Issue Date 1950-08 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3465 Rights

URL ...s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/3465/...2002/01/01  · 狂熱に参し てい る」(kekoin面さkabetasl〕bilosol)1lou Manias tekaibakoheias)(218B)もの達

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Hokkaido University of Education

Title エロスとパトス

Author(s) 伊藤, 貫一

Citation 學藝 : 北海道學藝大學機關誌, 2(1): 1-6

Issue Date 1950-08

URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3465

Rights

第2 巻

 

第 1号 学

     

  

  

 

 

 

ト, ス

  

  

  

  

    

函館分校哲学研究室

Tsuraka.Zu

 

lt6:

 

Brosall(l path()s

昭和25≠年8月

 

プラトンのエロス誼は、そのイデア説と共に彼の哲学

的思索の体系に於いて最も重要なる部門をなしている事

は言うまでもない

 

エロスは彼の全著作を通じて、辞的

なそ″して無意識的なダイモーン的な力として人間並に動

物に遍通ずるものであり、 それ{ままた根源的にして生産

的煽動的な力として提示されている)“≠しかゞる意味に

於いてはエロスは単に第二義的な正しい私念 (alitlIEs

doxa)に過ぎないのであるが、饗宴篇並にバイドロス篇

に於いては、突如として辞話的表現を以て、それが人間

を美そのもの、善そのもの、不死なるものへと導く力と

して限りなき讃美を輿えられているのであるコ

 

かくてそ

れは凡ゆる至高なるものへの努力、叉凡ゆる愛知的探究

はこのエロスに基いていると考えられる。 処が、 プラト

ンはかくエロスに対しで情熱的に、詩的な叉哲学的な讃

美を献げたにも拘らず、その後の著作に於いてはか る

事なく、彼の葱遮は再び道徳的楕辞的意識的な側面への

                     

   努力を示しているのである。即ち情熱的な体験の世界に

代って、厳密に思索的な概念的な世界が現れて来るので

ある。 彼は法律篇に於いては、饗宴篇やバイドロス篇に

於ける如き辞話を排撃し、エロスは欲情に誘惑されたも

のとしてこれを除こうとしている (Nomoi636 げ,,835

Dぽ,)。 饗宴篇そのものについてみても、愛するもの

(erastきs) と愛せられるもの (eromenos) とのエロス的

交渉の究極の目標は、愛するものが自らを薬そのもの、善そのものを観ることに迄高めること、換言すれば人格

的な慣値への自己陶冶におかれていると考えられる。 そ

してこの自己陶冶は美しき肉体の感性的なもの、多様な

もの、時間的なものから、純粋に禰辞的なもの、普遍的

なもの、永遠なものへの轄換を意味Lているo

 

Lかもこ

の対話篇の終末に近く(212Cぼ) 醇張らつたアルキビ

アデスが突然這入って来て、再び一座のものをディオニ

ソス的なパトスの世界に連れ戻してしまう。 かくして吾

書はプラ.トンの思想の展開に於けるエロスの問題に関

し 一見全く相矛盾するが如き態度に突き当 るのであ

る。そこでこれを如何に解釈すべきかはプラトンの思想

に於ける一つの重要なる問題たるを失わない。 即ち青々

はこのエロスの危険な情熱的な体験の領域を解明すると

同時にもそれが永遠なるものと如何なる関係にあるかを

問わねばならない,

 

謡) patl・os

 

を情熱とも 浸す

 

それは

 

pasch6

 

が示す

  

様に、受動的であり、時間的なものの本質を示す。

  

ェロスは本束美なるものに出遭うことによって惹き

  

超される故に受動的である。 これはpascheinm副ell

  

(Symp,211B)と言われる美自体と全く相対立す

  

る。 併し叉それは時間的な美にょつてかき立てられ

 

永遠なるものを希求する紙態であるから、同時に能

  

動的でもある。 プラトンが屡々語る

 

epithtmlia,叉

  

deomenosdioxis,bakcheia

 

等はこ1から生ずる。

  

それ故 Pathos

 

はこれら一切を包含するものと考え

  

られる。楢田中美知太郎

 

「ロ ゴスとイデア」22頁

 

参照)

 

そこで吾々は先づソクラテス及びプラトンの生活に於

いてエロスの事実を観察しなければならない,エロスの

不思議な力による恋愛関係特に同性間に於ける少年愛

(pai(おrastiaノは、 ギリシャ人の生活に於いて何ら恥辱

でないばかりでなく、詩的な感激を以て賞讃される体験

であった。ソクラテスも亦かふる耽会に生きて◆いた役で

あり、 しかも彼は常にか る関係の内面化並に精諦”化の

ために努力する事が即ち哲学白悌教育的課題であると考え

たのである。この点に於いて力“る感性的なパトスは決

して拒否されない。 彼にとって「殆ど凡ての年頃のもの

は美しいと思われる」「Charn塾lesー54B,▽gー.PoIiteia

402E) という場合、それはカルミデスに対する最も愛

情に充ちた生き生きとした表現である。 若くして美しい

カルミデスがその叔父クリテイアスに呼ばれ、ソクラテ

スの傍に立った時、 「私は彼の着物の下を見た。そして

熱情に燃え立ち自制を失ってしまった」 (ebd,155D)

とソクラテスは言う 併しそれにも拘らず彼は限度の感

性的刺戟に打克って道徳的意志が自らを支配するのであ

る。饗宴鴬に於ける危険なる歌態、即ちアルキピアデス

GAKUGBI

 

・vol.2, No.I

                    

GA

が彼に身を委せねばならないと信じた時も、この素晴ら

しいアテナイの青年の肉体的な美しさに対して、彼は自

らの世界に止つていたのである(2ー8Bg.)

 

Lかもソク

ラテスにとって、彼が橘静的な美を強調する にも拘 ら

ず、 肉体的な美の刺戟は甚だ甥くあったということも対

話篇の中に屡々繰返されている事である(Lysis全部、

Menon76B-G,Phaidol189B,Phai(lros2281:))。 そt

てプラトンも亦ソクラテスと全く同様に考えている。饗

宴篇の全体はパイドロス、 バウ・サニアス、アガトンの如

き人物が登場して夫々エロスを肉体的な関係に於いて見

ていると同時に、それは本質的に「自由な」語り手によ

づて構成されてゐるのであり、彼等は「愛智者の狂気と

狂熱に参している」 (kekoin面さkabe

 

tas

 

l〕bilosol)1lou

Maniastekaibakoheias) (218B) もの達なのである。

しかも国家篇に於いては、勇敢なる戦士の鴬には何ら拘

泥することなく愛の報酬を輿えるべきである という様(詩)に、エロスに対してはこれをより高い目的のために尊重

しつ〉これに把われない立場を示しているのである。βト

しかふるエロスの情熱を箪重する立場には、或る意味で

道徳的な厳格さを拒否しなければならないとも考えられ

る。 デイオテイマによれば、エロスは「美に於ける生殖

と妊娠」「Gen鶏iskaitokosellt6ka16)(Symp.206E)

と言われ、それは「肉の方でも魂でも…或る年齢になる

と私達の本性(Physis)は蓬むことを欲求する」(ebd,c)

と言う様に、 自然的なす霜熱をその根世にもっていること

は明かである。 併しその際、 愛するものと愛せられる

ものとは純粋に愛智的な意識に於いてのみ贋実の交 り

(KOin6nia)を見出だすのであり、こ に肉体的なもの

と精静的なものとの間には明確な境界線が引かれる,そ

してそれが理想的な愛であるためには、常に永遠稔るも

のへの自主的なそして精紳的な「熱心と努力」 (Spoudi

kai

 

suntasis) (Symp. 2068) が伴わねばならないと

される。畢党肉体的な愛は克服さるべき「或るもの」で

ある, しかもプラトンが懐く処の根本思想は、 愛の現象

(eratika)がイデールなるものを内に含み、それが人間

に於けるイデールなるもの 展開に対し、即ちその人格

形成をこ対して決定的な意牒をもっという事である。 プラ

トンにとって人間は先ず欲求的存在である事が肯定され

ねばならない。

 

謡)Poliーeia468B‐‐C,403Bでは愛の関係は父と子と

  

の間柄に於ける様に、純粋な意味でのみ考えらるべ

  

きであると述べてv・る。 槍 Symー’178Dば

 

参照)

エロスは本来 「無論理であり、 正しきに向う思い

1配1

              

          

Aug,1950

てdoxiも)を打ち負かした欲望 (el}itlmalia) が美の快楽

へと導かれ、更に叉自己と同族の諸欲望によって肉体美

へと強く(erminepas)強めら才じこ(rllastheisa)勝利を

得て導くと、 その強さ(rl16mさ)という事から呼び名を

獲て、エロスと-臨まれた」ものなのである(PIlaidr.238

B…C)。かく見ればエロスは本来人間存在のダイモ、←ン的

な窮迫に根ざし、その理性の働きを掘療させる情熱的な

性格をもつ。 それは一種の狂気(mania)である。 国家

篇によれば、 「昔からエロスは専制君主」 (tyrmnos)

であるとされ (573B,Vg1.329fr.)、そして狂気な悪し

き事制君主の魂に帰せられ、 「思慮(sophrosy恥) を洗

い流す」 (ebd.)奴隷的欲望であると考えられている。

これはバイドロス篇に於ける最初のソクラテスの談話の

根砥にある考え方である。 即ちエロスは「欲求にかられ

て」 「diat印pitl・umian) いるのである。

 

併し、バイドロス篇には周知の如く狂気に二種の区別

をしている。その一つは「人間的な病気から発するし」

他は「日常の歌態から紳的に離脱することによって」

hypotheiasexallagきsi61・eiotho短nllo無・man)生ずる,とされる (Phaidr.265A)

 

しかも 「最大の善きものは

荷お的な賜物によって奥えられる狂気による」 (244ハ.

Vg1.245B)●のであり、そして「恋愛的狂気を最善のも

のであると主張した」erotikきn

 

nla口ian

 

ephasamen

 

te

aristineinai) のである (265B)。

 

ところでか1る激しいエロスの狂気に於いて、精誠的

      

 

・な自己は如何なる影響を受けるのであろうか, プラトン

はこれによって自己は圧倒されることも、また無力にき

れることもなく、却って自由にされ亘.その最高の力にま

で高められるということを示すのである。即ち彼によれ

ば、 「静から人間に輿えられている狂気は正気 (sopllf-

osyllさ)よりも一層美しい」といわれ (Phaidr,244D)

叉「静々から生ずる狂気の美しい働き」を指摘し、この

狂気なしには詩を作ることは出来ず、 叉正気の人の創作

(poigsis) は狂気の人のそれより劣っているとされる

(ebd.245A-B)。 この様に人間の精静的な自我はエロ

スによって全く把えられるのであるが、、その事によって

自我は何ら損失をうけることなく、その到達し得られな

い程の最高の境地に引きつ,けられるのである。 即ち狂気

の被縛性に於いて却って最高の自由が輿えられるのであ

り、従って贋理はこの狂気の働きから出ずるのである。

何故なら、狂気は静に興ることに於いて始めて可能であ

るからである。 即ち愛するものは「人間的な努力から離

れて辞的な事にたずさわっている故に、多くの人々から

類狂いだとた・しなめられる。 けれども彼が辞懸りしてい

るのを多くの人々は気付かないのだ」 (ebd,249C‐DJ

学第2 懇

 

 

ヱ号

とされる。 それ故エロス の働きは秘儀(epoptika)

(Symp,210A)と言われ、これを受けたものが 「本当

に完全となる」とされる。即ち人間はパトスに於いて、

狂気に於いてその大衆性を獲得することが出来るのであ

る。それは本来愛すなものにも愛せられるものにも「己

れ自らの免倒を見る様に仕向ける」(epimeleianpoieist‐

haillauLou) ものといわれる所以である (Symp.185C)

かくエロスに於いてはアプロデイ,テやその他の譜々の磯

儀に於ける如く自己を忘却するのではなく、却って贋実

の自己へと還帰するのである。 それは辞の静性の光の中

に現われる永遠なるもの 観照にまで自己を高めるもの

である。 しかもエロスに把えられたものは・ぉのづから

その腫れの対象に導かれるのではなく、彼は「歩き廻っ

て求めねばならない」

 

のである (Symp.209B,Vg1,

Phaidr.252の。彼は自らの「悩み」 に於いてその憧れ

の対象を追求する (Phaidr.25ーir.,Symp.206D-配)。

燕にも自我の自主性は些かも失わオL‐〔いないことが示さ

れる。

 

もともとエロスは古代ギリシャに於いて一般に祭られ

ていた稗ではなかった。 それ故饗宴篇に於けるエロスの

讃美は何ら博統によるものではないのであるぅ

 

エリクシ

マコスがバイドロスの言葉として、 他の静々の篇には詩

人が讃美や額徳の詩を作っているのに、最も重要な叉偉

大な紳であるエロスの篇には詩人の誰一人として一篇の

讃歌をさえ作っていないことを憤慨し.(Symp,177A‐B)

彼等はエロスを「無硯していた」(177G)という事は正

  

(註)しい。そしてバイドロスはエロスは「静々の中で

最も古

くして最も尊敬する債値がある」(180B)という。それ

故エロスの縛話はギリシャに於いて新らしき紳話なので

ある。 プラトンはこの新らしき辞話に於いて自分の哲学

思想を展開せしめた, 固よりかふる哲学的な問題を赫話

的に暇扱うことは、それ自身矛盾であろう。 併し何故に

プラトンがか1る企てを敢てなしたのであろうか。 それ

は彼がこの新らしき瀞話に於いてロゴスとミュトスとの

統一を試みたからである。古き講話は全く非合理的であ

るが故に、.これと理性的な思惟とを結びつけることは出

来ない。 それ故彼は古き紳話を正当化しようとはしなか

った。 彼はエロス詩話に於いて示してゐる様に、これに

一つの新らしい解釈を加えたに過ぎないのである。こ

にギリシャ播市中の、ひいては人間橋市=の新らtい展開が

示されたのである。

 

言お)0. Kern, D.ie

 

Religion↓der

 

Griechen, Bd. 1

  

1926,S.2 ギリシャ最古の=斜ヒベオティアに方~・て

 

     

′ 昭和25年8月

 

のみェロスが祭られ、こ1pこエロスの原始的な石像

  

が立つてv・たとぬわれる。

本束縛話的な体験一--般に宗教的な体験は、自己を

他者に没入することによって自己を獲得するこ と であ

り、ごの喋自己は他者から典えられたものとして受け飯

られる。この場合主体は全く受働的であり、他者は無制

限の力をもつのである。 この力から所謂霊感が生じ、叉

同時に自己が他者の光に照らされて把握されるのであ

る。そしてこの輿えられたものは全人的に働き、ひとは

それが自己を圧倒した程度に従って自らを把握するので

ある。その時ひとは最も本来的な自己を奥えられたもの

として把える。他者は主体に対して決定的な主権・性を以

て臨み、自律的な人間性の制約に対して友如何なる顧慮

をはらうものではないコ他者は自己をその本来の光のう

ちに輿える。 そしてその光の中に自由がある。かふる自

由は自発性であり、従って人格性に他ならない

 

それ故

それは直接に人格的に働くのである。 か▲る体験に於い

ては・自由は人格的な力の支配として示される。 そしてこ

の際制約されたものが盲目であり、魂なきもの (apsy-

chos) であり、 何ものにも把われないもの、贋に自由な

るものふみがプラ・トソに於ける魂な●のである。

 

そこで彼はか1る絶対の他者との関係に於いて、本来複

的な自己である魂を如何に考えたであろうか。 彼は魂の

本質をパイドロス篇に於いて稗話的に語っている。 魂と

は唯単に人間についてのみでなく、原理的には辞につい・

て用いられ得るのである(245C町。 魂の本性は「自己

を運動させる」という事のうちに、それ故に自発性のう

ちにある。併し完全なる自発性は人間の中に見出すこと

は出来ず、縛にのみ属する。 魂は「翼のある二頭の馬と

駁者との緊密に結ばれた力に似て工居り、 「赫々の馬と

駁者とは皆それ自身として善いし、叉善いものから生れ

ているが、他のものはこれに反して混合している」とい

う表現によって示される,そして人間の馬の一頭は静々

のそれの似姿であるが、他の一頭の御し難い馬によっ

て、いつも道から外れさせられる, そこで「吾々の場合

駁術は必然に難しくうんざりするのである」(246A-B)

魂の根源性乃至自発性はその純粋性(▽g1.PI1aid.66A,

B,67B) 及び自己集中性 (▽glphaid.83A,66A,

67A,C,70A)の中にある。それはこの世・的、人間的な

パトスから全く解放されたもSである。 か る魂から人

間のそれを見る時、それは全く不完全であることを悟ら

ざるを得ない。彼は自由なる原動者(dさmiourgos)と人

間の魂の本質を明かに知れば知る程、鱈実の原動者を吾

‘々 の他に求めねばならない事を確信する。 プラトンは静

話に対する哲学的な批判を企てたものではあるが、 しか

 

Vol,2, No.1

              

    

    

‐AI

も織人間性の深い洞察が紳的なるものの救いの必要を痛

感せざるを得なかった。 そしてか る人間の魂の不完全

性(可死性)は、人間が「肉体と名づけているものに閉

ぢ込められている」・(Phaidr.2500) 篇であると考え

 

(註)る。 即ち肉体は制限の原理であり・、時間娃乃至は現世性

の原理として把握される。それはまた同時にパトスの原

理でもある。 その故に人間の自発性は、本質的に稗のそ

れに依拠するのであり、この事から人間の魂は「市中に似

ること (homoiosisd16) (Theaet.176B,Vg1 pl・aid.

80A)が要求せられる。 そしてかふる絶対の自発性に対

する人間の自己認識に於いて、 プラトンが屡々語る「悩

み」odyl通

 

るdinos)、 叉内面的な「畏れ」 {t)1lrixos)

という事が理解されねばならない・J かくしてひとは人間

存在の不完全性を認識すると共に、 人間への最大の、「賜

物」(dosei)の賦輿者をその人格的な根源に帰しなけれ

ばならない。 かく不死なるものに対する関係に於いて人

間が考えられるなら、エロスがもた らす認識は密儀

(teletさ) であり、 愛するものは

 

「浄められたもの」

(n・youmenos) 或は 「税儀をうけたもの」 (epoptきs)

として示され、 それは

 

す純粋な光の中で」 (ellaugi

kilthara)解放された秘密を見るのである(P1・aidr.250

B‐C)J

 

註)PI1aidr.246C には肉体をもってv・るという事は

  

翼を失った鴬であり、魂自体の罪であるとされてい

  

る。 Phaid. には、 肉体をもつことは人間の本質で

  

はな、く、肉体の欲求に対して情熱的に身を委ねた篇

  

であると.してv、る (vgー,82鳶)。 そして魂はエロス

  

を肉体的なものに向けるのは過っているのであり、

  

智慮 (Phronesis) に向けるべきであると している

   

(▽g1.68E,66A, C,8iB)。

 

以上の如くしてエロスの領域に於いては、人間の不死

なるものへの宗教的なパトスが最も根抵となる。けれど

も叉同時にそのエロスの本質の中には智慧の愛求がある

のである。 饗宴篇に於いてデイオティマが物語っている

エロスの由来についての耐1話はこれを明かにしている。

エロスは「貧脂」 「penia) を母とし、 それが「富裕」

(1)oros) に遭うことによって誕生した。 そしてその父

は「怜綱」(mitis)から出たものである(203B‐C), エ

ロスはその父の子として独創的な智慧を求める。.「彼は

美なるもの善なるものを追い求め、勇敢で大胆で辛様強

く、優れた狩人であり、何時も何らか工夫をめぐらし、

智慧を求めて独創的であり (phronきseas

 

el)iti1ymetgs

kailiorirl・os)一生智慧を愛し、恐ろLい魔術師であり、

秘行を行うもの叉学者である」(pllilosopl・ondiapantos

totl

 

biou,deinosgoes

 

kai

 

,1)1-armalこeus

 

kai

 

s。 ]istEs)

(Synip. 203D)

 

ヒふに古い講話から解放された新ら

G‐AKUGBtIBt

                         

,Aug.1950

しい人間の性格が示される。 即ちそれは密鱗的パトス的

であると共に愛知的だという事である。そしてこ に於

いて新らしい紳話と古い辞話とが厳密に区別される。 し

かも轍それは根源的に激しい欲求に基く宗教的な体験が

その根抵をなしていることは明かである。 人間は目ムの

智慧を求めるのではあるけれども、その篇にほかふるパ

トスに依らねばならぬことを告白せざるを得ない。贋実

の自由を求めるならば、幻1つてかふる現世から解放され

たパトスに身を委ねなければなら.ないのである。自己自

身の智慧は、不死なるものとの関係に於けるエロスの情

熱的な追求によって可能となるであろう。 併しアブロデ

イテはこれを耀遼させてしまう。こふむこ新らしき評話と

古きそれとの相違は換言すれば、新らしき人間と古き人

間との相違はか るパトスの決定的な相違にあるのであ

る。

 

さてデイオテイマによ.れば、 エロスは 「偉大なる紳

霊」 (daimm megas) といわれる (Synlp,202D)。 エ

ロスは贋実の意味では自主的な力でない。 それはより高

い力に従属しているのである。 併しそれは叉人間的な力

ではなく、超人間的な力である。 彼女は「凡て紳霊的な

ものは辞と死すべきものとの中間にある」 (kaigarpan

todai11”)1liollmetaxyestit1leotlte1【ait1ユーユミtou)(2〇2

D‐E)とじ〔

 

r死すべきものと不死なるものとの中間」

                          

(話りに「紳霊的なるもの」なる存在の段階を設ける。そし・(

それは一つの力であり、 デイオテイマによって「一日の

中で花嘆き生き、 時にはまた死ぬる。 併し良策が浮べば

父にうけた性に従って再び生き返る。 けれど得たものは

何時も消え失せてしまう。こうしてエロスは決し、(困り

もしなければ富みもしない」(203Er)と規定せられる。そしてかく可死的にして同時に不死的なエロスはまたホ中

                        

(註2)と人間との聞を媒介する力として示される。プラトンが

満と人間との間に越えることの出来ない深淵を置いたと

いうこと、叉更にそれを媒介するものとして訴1ー-語をおい

たということは、彼の深い意図に基く新らしい荊話であ

る。 と同時にそれは静と人間との本質規定でもある。即

ち力〕ふる紳と人間との関係に於いては、稗は無限に爺--i聖

化せられると共に人間は救い難い悲惨なる地位に堕され

たといえるであろう。 こふに於いて紳霊としてのエロス

が人間をその悲惨なる地位より救って、辞への道を妬く

役割を果すのである。 即ち赫霊的なものは 「両者の中間

にあり、全体が自己結合する様に(その深淵を)充たし

                        

(譲りこいる」 (202E′といわれる所以である。 何故なら示申

は全き超越を保って人間からは断絶し、両者の交・りの道

 

第 2.巻

 

第 ヱ

 

   

      

  

は絹たネじこいる。 しかも槍人間はその彼岸に自分の魂の

根源としての紳をもっ故にそれへの憧れをもたざるを得

ない。それは無限なる欲求であり、努力である,この意

味に於いて人間は悲劇的であり、また同時に喜劇的でも

ある (vgl.223D)。 そしてかふる欲求がエロスであり、

紳と人間との間の恐るべき深淵はこの情熱的な力なしに

は越えられないであろう。 岬霊的なるものは人間の本来

的な性格を指示する。

 

更にエロスの愛知的な性格も亦その媒介的な本質を明

かにじ(いる。 ェロスは詩と愚かなるものとの中間、或

は知者(Sophos)と無知者(amaゆきs) との中間にあっ

・(両者を媒介するものであり、 それ故に「知を愛するも

の」であるといわれる

 

園家篇に於ける知識論は、凡て

の学(mathきmata) は愛知の弁証法に対する予備学であ

る事を示す。 その弁証法は善に導く。それ故「魂の眼」

は「野蛮人の泥」から解放されるのである (Vg1.Pol,533D)。 プラドソに於いては善なるもの、美なるもの、員なるものは分離しない。 それ故かふる永遠なるものの

観照は「ある一つの知の達観」(katideintinaep・stemEn

n・inn) (Symp.210D)といわれ、叉国家篇に於いては

善は「最高の学」(505A)とされる。 かふる観照は人間

の一切の肉体的な窮迫や欲求から解放する。人間の魂の

現世性は偏りを含む智慧に、即ちパトスの狂気に基くも

のであるが故に、学によってこれから解放され、救済き

れねばならぬ,併しそれはパトスを拒否するものではな

い。 アガトソやその他のものに対するソクラテスの批判

は、,美そのもの叉美に敵もヂるパトスに関するものではな

く、’美並にパトスの低い段階に対する固執についてであ

るo

 

il斎熱は本来何を欲求するかを知るなら、それは直接

的な新興の印象に耽溺してはならない, それは批判的に

○(ritisch) 個々の存在並に存在するもの』個々の領域か

ら解放されねばならないのである。 学はかくして救済す

る美の意味をもち、虞実に静的なるものへの道に於ける

段階である,それ故学も亦秘儀でなければならぬ。

 

謡1

 

古代に於v・てホ”-霊的な力と、荊1的な力との実際

  

の区別は明らかでなv・。 K, Reinl・ardt, Pーatons

  

Mythen,1927,67f.参照

 

 

2)Symp.203A

 

によれば、「示alは人間とは炎らな

  

v・で、ボIP霊的なるものを通じて凡ての交際(hoロト

  

ilia) や禾ql々 と人間との問わ会話

 

′dialektos) をす

  

る」 とv、われる。 その意味する.処は、 前…の副-聖性を

  

とれまでは考えられなかった遠v・彼方に押しやった

  

とv・ぅ事である) そしてギリ シャの吊IP々 が来質的に

  

此の世の人格的な力にi過ぎなv・とするなら、員実の

 

稗は唯此の世の彼岸にのみあり得るとv、う事であ

  

り、 そこに Pol.に於ける

 

「善なるもの」 が、 叉

 

日脚lp. に於ける 「薬なるもの」 があると考えられ

           

・ 昭和25年8月

 

る。この意味で、エロスはこの世的な凡ての河崎を

 

彼岸的な員実の爺IPの前に否定したのであり、また換

 

言すればこの世的な美はその時間性の故にそのパト

 

スを満足せ しめることば出来なv・ことを示すのであ

 

る。 楢

 

G, Kriixer, Eillsiclltu. Leibenschaft,

 

1939,S,ヱ52参照

謡3)高田三郎、 「エロス」 (岩波講座「倫理学J第

 

15冊)22頁以下参照。こ1で氏は人間が知者であり

得なし・で、愛知者でのみあり得るということは一つ

 

には 「個としての人間はその人間的な仕方{ぐ到達し

得た処の知…をすらも目の死滅と共に喪失する危機

 

性を本質的に内蔵することを意味してv・る

 

ま,こと

 

に人間は個として愛知的なると共に、むしろ勝義的

 

には族として愛知的なのである」 と して、 人間その

 

ものム愛知的性格にっv・て述べられてし・る。 それ故

 

プラトンのか1る主張は、彼の人間学的考察に寒く

 

ものとv・はねばならない。

に J

 

さて以上に於いて明かな如くエロスは一挙にして静的

 

なるものに導くのではない。こ “こプラトンは饗宴篇に

於いてその段階的な発展について示している。即ち「エ

 

ロスの贋相に迄赴,く或は導かれる正しい道」すま「地上の

美しきものから出発して、それを恰もかの最高美に到る

ための梯子として用いっム次第に高く昇って行くのであ

って、一つの美しい肉体から二つへ、 二つから美しき肉

体え、美しき肉体から美しい仕事/\ 美しい仕事から美

 

しき学へと進み、学からしてかの美そのもの▲学にほか

ならぬ学に到達して舷に遜に葵そのものである処のもの

を知るに到る」 (Symp.211おーC)と言われる 第一の

段階は美しき肉付きである,併しひとは此処;こ止ることは

出来ないし、叉止ってはならない 何故なら「肉体の美

.{rまつまらない」 (210G) し、 それはまたその事を教え

るからであるり然らばか る段階が何故に不可鉄なので

あろうか,それはこの肉体的な美のうちに永遠なるもの

 

影を見るからであり、その事に於いて最高の美への憧

れの情熱をかき立てられるからである。人間にとって永

遠なるものへの進行は時間的なるもの 中に紳の「f以姿」

を見ることによって可能に,なる。そして峻厳処からのより

高きものへの進行はエロスそのものム本来的な指向の深

化に他ならない。 エロスは盲目ではなく善美への憧れで

あり、 殊に 「最も美なるもの」 とじ〔の知への愛であ

 

り、人間の自主性を喚びさますものであるからである。エロスは本来欲求的であり、自らに被けたるものを求め

るとするなら、 それは善と悪、贋斑良二仮象、美と魂との

区別に於しゞ 〔深められ、高められるであろう。 そしてか

 

る段階に於いては、.時間的なるものMflで永鏡なるヰ)

GAKU(十Eェ

 

VOL

 

2, No,l

のへの接近を、換言すればその中で美そのもの 鴎常時性

を認識せしめるものでなければならない。即ちエロスの

憧れは時間的なるもの▲中に於ける窮迫から超え出て、

時間を克服するものを求める。 縛霊的なるもの」力は不

死なるものを指示して、 その何であるかを識らしめる)

僻しながらそれが時間性の中で行われる限り、 叉パトス

,が時間的である限り、かふる永遠なるものへの接近は相

対的であるに過ぎないJ

 

その中に於いてはその最高の美

の瞬間さへ時間の共存なしにはあり得ない。これが此の

美を不完全ならしめる所以であり、 「多くの」美の領,域

に於いてはそれは同時に醜いものとして示されるのであ

る (Vg1.POI.479A)。

 

以上の如くしてエロスが欲求する究極のものは、それ

への段階とは全く相対立するもの、時間を超えた永遠な

るものである。 それは個・体的な感性的な美ではなく、

「葵そのもの」 であり、 「明澄な純粋な馨りなき」

(eilikrines,kathnron,ameikton)(Symp.211E) 縛的

な美である。それはまた「常に存在し、生ぜず滅びず増

さず減らざる」もの(ebd.2iIA)であり、「それ自体と

して自己と倶にあり、堕姿的な永遠の存在」,(atltol【atll’

hauto metl・’11autou monoeidesaeion) (ebd,211B)

といわれる。 それは時間を克服せるものであり、それ故

時間的なるものからの連続に於いては成立し得ない。か

く・してかふる永遠なるものへの軸換は「突然」exaiphnでs

(em.210C) 行われるといわれる。 即ちこの両者は速

IE工

     

                  

Aug.1950

続の関係ではなく絹対否定の関係に於いてあることを示

すのである。 そしてエロスはより低い段階からかふる美

自体への飛躍をその情熱的な力に於いて可能にする。 か

くして永遠なるもの 光のうちに、時間は現実に永遠性

の似姿として現れるに到るのである。

 

プラトンは人間を homosal)iens としてロゴスの力を

尊重するにも拘らず、また同時にそれはパトスによって

担われている欲求的存在であることを無脱しない

 

エロ

スの讃美はそれ自身肉体と魂との具体的全体的な統一を

主張するものである。 そしてめ)ふる人間の全体的把握の

主張はまたポリス的存在としての規定にも示される。蓋

しギリシャに於い・qばポリスは個人の本来的な自由な創

造にかふると考へられ、第七書翰に述べられている様

に、 それは常に嚢煩と破滅に悲んでいるとされるからで

ある。 それ故饗宴篇に於いてはデイオテイマもポリスに

於ける「不死の名声と栄誉」とに対するダイモーソ的な

欲求を讃美するのである(209D.)0

 

か る人間の全体性

への顧慮は、一方に於いてパトスの一面化を阻止すると

共に、他方精紳のまた文化の不自然なる作篇並に虚飾に

対じて、常に新たに激しい生命力を=武輿することを意味

するであろう。

 

附記

 

ギリシャ語の訳文は久保、阿部両氏訳「饗宴」

 

並に岡.田正三氏訳プラトン全集を参照したJ

 

 

 

と 個

 

 

 

′ 沢

  

  

 

札幌分校哲学研究室

Sabnro

 

lsねizawa:HIIII・anN‐ah・real・dlndividuality.

1……現代倫理学の問題

..-,,欄.の細 胤.の一

 

=[……個 人

 

 

現代倫理墨の問題

倫理学の問題は其の研究の対象として二つの方面が考

えられる。 一は人間と人間との関係であり、一は人間と

自然との関係についてである。 然し両者は絶対的に区別

されるものでなく相互に聯関を持っているのである

 

ち人間と人間との行篇的聯関は人間の矯而ねを通じて行わ

れるのであるから、全く人間と自然との関係を無税する

事が出来ない。同様に古来から取扱わ才Ly(いる人間と自

然との関係を研究の対象とする倫理学も、人間の協同体