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Yuko Soma The Summary of A Study of “Romantic” in Henry James’ Artists’ Subject Matters This is a study of “Romantic” which is expressed in Henry James’(1843-1916) short stories which discuss about the subject matter of artists. James revised his major novels then re-published these volumes in his last years and in them he wrote a new preface on each story. In these prefaces, he repeatedly mentioned his idea about “romantic” and his romantic was compared with his reality. At the beginning of my study, the following three questions came up to me as a basis for my theory. 1. Were his romantic things expressed especially in his short stories about artists’ subjects rather than his other subject matters? 2. Did artists have some special thoughts rather than ordinary people? 3. Was a romantic related to art somehow? James actually practiced and loved art, and he was called an artist of language. He had been born a natural artist; therefore, I thought that he might install special techniques in his short stories. Many of his stories were based on true anecdotes which his friends told him, and those became his germ, then he gave full play to his rich imagination by seed. It became his voice inside which hurried him to make it a drama. His voice inside; it should be a motive power of artist’s creativeness. By his picturesque technique of writing, I thought that he installed not only a big panorama of painting all over the story, but also only one small painting as a beautiful moment. By installing one small painting-like scene, how his romantic world and realistic society were blended or compared? I would like to define romantic as follows. A romantic thing may be condensed into a small canvas, then it may be art itself. Contrary, a reality is spread widely around the small canvas, then it’s a real society around our ordinary life. A romantic thing is smaller than a reality in size; however, it includes much deeper and richer experience than a reality in spiritual meaning. When human being faced with difficulty, their mind may be transformed from reality into a romantic though, and the process may be a form of self-justification. 0

Artists Subject Matters

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Yuko Soma

The Summary ofA Study of “Romantic” in Henry James’ Artists’ Subject Matters

This is a study of “Romantic” which is expressed in Henry James’(1843-1916) short stories which discuss about the subject matter of artists.

James revised his major novels then re-published these volumes in his last years and in them he wrote a new preface on each story. In these prefaces, he repeatedly mentioned his idea about “romantic” and his romantic was compared with his reality. At the beginning of my study, the following three questions came up to me as a basis for my theory. 1. Were his romantic things expressed especially in his short stories about artists’ subjects rather than his other subject matters? 2. Did artists have some special thoughts rather than ordinary people? 3. Was a romantic related to art somehow?

James actually practiced and loved art, and he was called an artist of language. He had been born a natural artist; therefore, I thought that he might install special techniques in his short stories. Many of his stories were based on true anecdotes which his friends told him, and those became his germ, then he gave full play to his rich imagination by seed. It became his voice inside which hurried him to make it a drama. His voice inside; it should be a motive power of artist’s creativeness.

By his picturesque technique of writing, I thought that he installed not only a big panorama of painting all over the story, but also only one small painting as a beautiful moment. By installing one small painting-like scene, how his romantic world and realistic society were blended or compared?

I would like to define romantic as follows. A romantic thing may be condensed into a small canvas, then it may be art itself. Contrary, a reality is spread widely around the small canvas, then it’s a real society around our ordinary life. A romantic thing is smaller than a reality in size; however, it includes much deeper and richer experience than a reality in spiritual meaning. When human being faced with difficulty, their mind may be transformed from reality into a romantic though, and the process may be a form of self-justification. It may be the way to pass though without fail in his life time to be grown up as an artist and also as an human. The above definition of a romantic will be testify by explaining the following issues. 1. Common difficulty for being artists. 2. The romantic poetry’s memory. 3. An anonymous narrator named “I”. 4. Two pieces of contrasting painting. 5. An irony of reversal.

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The study is a result of examining carefully “Stories of Writers and Artists” in which James’ artist subject matters were included and Prefaces of his New York Edition and “The Notebooks of Henry James”.

「Henry James『芸術家もの』における”Romantic”についての考察」序論 

この研究論文は、ヘンリー・ジェイムズ (James,Henry, 1843-1916)の描きあ

げる「芸術家もの」に表れるのロマンティックなものについての一考察である。

ジェイムズは、晩年、自身の主な作品に訂正加筆し、序文を新たに書き加えて、

ニューヨーク版として再出版したのだが、ニューヨーク版序文集 1(以下、序文集)に

は繰り返し、ジェイムズのロマンティックについての考えが述べられている。また、

このロマンティックなものはリアリスティックなものと対比されている。この考察に

あたり、以下 3 つの疑問がわいた。1.ロマンティックなものは、特に、「芸術家も

の」に取り入れられているのではないか。2.芸術家には何か特別な思考回路がある

のではないだろうか。3.このロマンティックなものは、芸術に密接な関係があるの

ではないだろうか。序文集によると、ジェイムズが知り合いから聞いた、ちょっとし

たロマンティックな逸話が、ジェイムズに対して、「ドラマにしろ、ドラマにしろ、

ドラマにしろ!」 2と呼びかけるそうである。ドラマにしろという内なる声にせかさ

れて筆を執る。自己の内部からの声、これこそ芸術家の制作活動への原動力ではない

だろうか。ジェイムズは一日もペンを握らなかった日はなかったという。また、戯曲

が当たらず聴衆から罵声を浴びせられても、小説が売れなくても書くことを止めなか

った。この弛まない努力こそ芸術家の基本精神ではないだろうか。ジェイムズは、幼

少の頃からヨーロッパ生活を体験する機会を持ち、アメリカ人としては恵まれた環境

を生かし、その芸術家としての才能を存分に発揮した。この天才的霊感の備わったジ

ェイムズは、真の芸術家である。

ジェイムズは、絵画制作を実践し愛し、言語芸術家 3と呼ばれた芸術家の一人

1

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であるが故、「芸術家もの」には、芸術家としての特別な技法が取り入れられている

のだろう。「芸術家もの」は、物語全体がひとつの絵巻 (Lubbock のいうところのパ

ノラマ 4)であるだけでなく、美しい一瞬を捕らえた一幅の絵画になる場面

(Picturesque)があると思われる。これが絵画的手法と呼ばれるものである。絵画的一

場面をその作中に取り入れることにより、ジェイムズの描くロマンティックな凝縮さ

れた世界が、リアリスティックな現実社会とどのように呼応しているのかがこの考察

の重要な点である。

私は、このロマンティックなものを次のように定義したい。ロマンティック

なものがカンヴァスの中に納まる絵画の狭い世界であり、それはロマンティシズムの

芸術である。対して、リアリステックなものはそのカンヴァスの外側の広い世界であ

り、それは現実社会である。ロマンティックなものは物理的に狭い世界にも関わらず、

リアリスティックなものよりも深く自由な想像力を伴った経験の世界である。また、

人間が困難な状況に直面したときに、リアリスティックなものからロマンティックな

ものへの思考の移行が行われるが、その過程は自己正当化であり、芸術家として、そ

して人間として成長するためには必ず通らなければならない道である。それは、1.

芸術家の諸問題 2. ロマン派の詩的記憶の問題、3. 匿名の語り手” I ”の問題、4. 二枚

の対照的絵画の問題、5 逆転のアイロニーの問題によって証明される。これらの問題

は、ジェイムズの「芸術家もの」を編集した、Stories of Wri ters and Artists、そし

て、ニューヨーク版序文集と創作ノート 5を慎重に考察した結果よるものである。

Ⅰドラマの萌芽

ジェイムズの内なる声、「ドラマにしろ、ドラマにしろ、ドラマにしろ!」

はドラマの萌芽であり、ロマン主義の巨匠の作品 6をベースにしたドラマもあるが、

実際に人から聞いた逸話であることが多い。ジェイムズはそれらの声を日記のような

創作ノートに記して、その後作品に仕上げている。その内容は、実際の出版された小

2

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説とは当然若干の違いがある。 1893 年に出版された、「芸術家もの」短編であ

る、”The Real Thing (1893)”の萌芽は、執筆から 2 年前の 1891 年 2 月 22 日、パリの

ウェスト・ミンスター・ホテルで書かれた創作ノートにある。友達の画家である、

George du Maurier 7 から聞いた、モデルの仕事を探している一組の奇妙な夫婦の話 8

であり、ジェイムズは、物語という言葉は適切でなく、一幅の絵画として描くという、

形式に関する萌芽も得たことが、以下の引用からわかる。

I t must be an idea – i t can’t be a ‘story ’ in the vulgar sense of the word,

It must be a picture; i t must i l lustrate something. 9

また、翌年の 1892 年 8月 4日、ローザンヌのリッチモント・ホテルでも、全

く別のモデル話 1 0について記している。出版後の 1895 年 9月 8日、オズボーン・ホ

テルでは、次回作も”The Real Thing ”のように single incident 11でなければならな

いと記している。創作ノートでは、このように、ジェイムズのドラマの萌芽は、あく

までも萌芽であり、実際のドラマとは粗筋が違う。他人の人生に起きたちょっとした

逸話が、ジェイムズの想像力によって、何倍も大きなものに発展していく様子を知る

ことが出来る。

Ⅱ ロマンティシズム

ジェイムズは、その序文集の中で、頻繁にロマンティックなものについての

意見を述べている。ジェイムズの言うところのロマンティック (Romantic)は、芸術史

上のロマンティシズム (Romanticism)、文学の分類上のロマンス (Romance)に関連し

ていると考える。ここで、ロマンティックの一般的な定義をし、ジェイムズのロマン

ティックとの比較を試みることによって、ジェイムズのいうところのロマンティック

なものの定義を明確なものとしたい。

ヨーロッパでいうところのロマンティシズムと、アメリカでいうところのロ

3

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マンティシズムとは同じものではないと思われる。アメリカにおけるロマンティシズ

ムの動きは、ヨーロッパとは遅れてやってくる。アメリカ文学史においては、 1850

年をアメリカン・ルネサンスの最盛期とし、それは、ロマンティシズムの最盛期とも

言える。アメリカン・ルネサンスとは、アメリカ独自の文学が花開いた時期としなが

らも、それはヨーロッパ諸国のルネサンス期から、古典主義を経て、ロマンティシズ

ムへの流れを汲み、模倣を重ねることによって、アメリカ独自のロマンティシズムを

築き上げたという分類にすぎない。それでも、当時のアメリカ文学界の画期的な動向

として、歴史上注目される時期であり、その個人主義的ロマンティシズムの動向によ

り、作家たちは自己の想像力を開放し、優れた作品が数多く生まれた。ヨーロッパの

ロマンティシズムについては後述するが、アメリカのロマンティシズムの概要を下記

に引用する。

(中略)当時の代表的な思想である、「超絶主義」が典型的に示しているように

この時期のロマンティシズムは、個人の内面に対する無限定な信仰に根ざしてい

た。超絶主義者にとって魂は神聖不可侵な領域であり、自分以外のどんな権威に

も従属してはならないものだった。 1 2

それでは、アメリカのロマンティシズムはその作中でどのように表現されて

いたのであろうか。ロマンスとは、既知の事実とか起こりそうなことに限定されず、

もしかしたら起きるかもしれないことをも把握しようとすることである。作中には、

象徴的なものが随所にちりばめられており、登場人物が現実を生きている人間というよりは、

あやつり人形のように、何かを象徴するかのごとく存在している。

一方、先駆的なヨーロッパのロマンティシズムはどうだろうか。古典主義とは、古代

ギリシャ・ローマの精神に立ち返ることであり、節度、均衡、調和、静的、完成を重んじ、本

能や空想や感情の極端な動きを否定する精神である。その反動として、起きたのが、ロマン

ティシズムの動向であり、古典主義の理想とする静的、完成に反し、動的、未完、無限、自由

4

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を求める。ロマンティシズムとは、決して完成することがなく、自己内部の矛盾を抱えたま

ま走り続け、その矛盾からついに抜け出せず死に至るという、ロマン的イロニー 13である。

良い見方をすると、常に発展し続ける進歩的な精神であると言える。ロマンティシズムは現

実から逃避し、非合理主義的傾向を強め、無限の憧れを抱き、彷徨い続けることにより、自由

を希求するとまとめることができよう。ここで、理想と現実社会との関わり方が問題となり、

そこにこそ、ジェイムズが「芸術家もの」の中で描きたかったものがある。

しかしながら、ジェイムズは、ロマンティシズム擁護派でもなければ、アメリカ

ン・ルネッサンス最盛期であるロマンティシズムの時代に執筆活動をした作家でもない。ロ

マンティシズムの時代の後に、ロマンティシズムに反発して、現実の人生をありのままに描

く、リアリズムの時代に入るのだが、ジェイムズは、実人生に即した作品を描くリアリズム

作家と言われることが多い。それも本人が認めることではなかっただろう。ジェイムズはパ

リに住み、自然主義のゾラと親交を持ち、現実の醜い部分までもを写実的に描く自然主義に傾

倒したかのように見えて、自然主義のフランス文壇を堕落していると非難していた。ジェイ

ムズは、どのイズムにも属さず、常に周囲を動的に捉え、時代に流されない確固たる自己を

持っていたのではないだろうか。

ジェイムズが、アメリカのロマンス作家である、E. A. Poe(1809-1849)や

Hawthorn(1804-1864)の流れを汲んでいることは間違いないが、この考察で取り上げる、

「芸術家もの」に関してだけは、ヨーロッパのロマンティシズムの影響を抜きに考えること

は出来ない。その一つの例が、フランス・ロマンティシズムの神髄である、バルザック

(1799-1850)である。バルザックは、その『知られざる傑作(1832)』の中で下記のよ

うに記している。

「芸術の使命は自然を模写することではない、自然を表現することだ。君はいやしい

筆耕ではない、詩人なんだ」と老人は頭ごなしポルピュスをさえぎって、強く叫んだ。

「さもなければ彫刻家は、女をそのまま鋳型にとれば、ほかになんにも仕事はいらんわ

けじゃないか。ところでね、ためしに君の愛人の手を鋳型にとって、目のまえにおいて

5

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みたまえ。まるで似もつかない恐ろしい死骸に出くわすだけだろう。そうして君は、彫

刻家ののみを求めにいかずにはいられなくなるだろう。彫刻家はその手を正確に写しと

ることはしないが、その動きと生命を君に彫り上げてみせるだろう。われわれは事物の

精神を、魂を、特徴をつかまえなくてはならない。(中略)」 14

このドラマの筋そのものが、ジェイムズの”The Madonna of The Future(1873)”に酷

似している。また、芸術家はタイプが固定された「ほんもの」を模写するよりも、表現され

たもののほうを好むというところが、”The Real Thing”に登場する挿絵画家の芸術家精神に通

じる。『知られざる傑作』の中でフレンホーフェルが、十年もの間、理想の女性の絵に色を

重ねあげ、芸術に日々精進しているが結果的には報われないところが、”The Next

Time(1895)”の主題に通じる。『知られざる傑作』はまさに、理想の女性を求めて才能を枯渇

させた芸術家、フレンホーフェルの自己矛盾の葛藤のドラマであり、無限、未完、自由、空想

の世界に生きたために死に至るという、ヨーロッパ・ロマンティシズムの極致である。

ジェイムズが、「芸術家もの」に関しては、バルザックのロマンティシズムから影響

を受けたと思われるが、ジェイムズのそれは、ヨーロッパ・ロマンティシズムそのものでは

なく、バルザックのそれよりも現代的な現実に接近した世界を描いている。ジェイムズの

「芸術家もの」は、リアリズムの立場をとりながらも、意図的にロマンティシズムの技法を

取り入れた中間地帯の文学であろう。また、ロマンスとノベルの中間地帯に位置するとも言

えるだろう。それでは、ジェイムズは、「芸術家もの」において、どのようにその想像的主

題を、現実社会に密着した主題をおびたように見せたのであろうか。

Ⅲ ロマンティックなものとリアリスティックなもの

ジェイムズのロマンティックなものはアリスティックなもの対比され、以下

のように序文集の中で述べられている。

私の理解では、リアルとは、遅かれ早かれ、なんらかの方法で、われわ

6

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れが知らないでいることはあり得ないことを意味し、その具体的な事実がまだ

われわれに知られないとしたら、それはわれわれの置かれた不完全な状況の偶

然の結果であり、偶然の総量と数に付随するできごとに過ぎないのである。一

方ロマンティックとは、この世でどんなに恵まれた状況にあっても、どんな財

力があっても、どんな勇気を持っていても、どんな知力に恵まれ、あるいはど

んなに冒険心を具えていても、われわれが絶対に直接には知り得ないものを意

味する。つまり、われわれの思考や願望の美しい迂回路か尋常でない手段によ

ってのみ、われわれに達することができるものを意味するのである。 1 5 

リアリスティックなものは、通常我々を取り巻く目に見える世界で起こるが、

出来れば我々が知りたくない、目を背けたい事柄であることが多い。なぜなら、それ

らは現実社会で起こりうる、醜いもの、つまりは嫉妬、金銭、名声に絡む事柄である。

我々はそれら醜い現実社会、または現実の醜い自分自身と向き合わないようにし、幸

せなもの、美しいものだけを虚構の現実として入手しようとする傾向がある。しかし、

虚構の世界にのみ生き続けることは不可能であり、それを続けられているとしたら、

あくまでも偶然に偶然が重なったまでのことである。幸運にも偶然の総量と数が多か

ったため、醜い現実を知らずにすんでいたとしても、遅かれ早かれ、人間としての成

長過程において、その偶然のバランスが失われ、醜い現実社会、醜い自分自身、つま

りは真の人生に向き合わなければならない時が必ずやってくるのである。

一方、ロマンティックなものは、「直接には知りえない」とジェイムズは述

べている。それではどのように入手するのか。それは想像力を通してのみ入手できる。

その想像力はどのような事態に働くのか。人間が窮地に追い込まれて、強くその状況

を、初めは回避したいと望み、後に打開したいと望む。その結果、通常では考えられ

ない尋常ではない手段に及んだときに想像力が生まれる。つまりは、通常に道徳的生

活を送っていた善良な市民が、偶然にも非道徳的自分と向き合う機会に遭遇してしま

う。ここまではリアリステックなものであるが、それから尋常でない心理状況に陥り、

7

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尋常でない行動をとることによって、初めてロマンティックなものを知ることになる。

ロマンティックなものを入手した人間のみが、リアリスティックなものを受け入れら

れる広い心を持った人間となるのではないか。ただし、人間は弱い動物であるので、

この人間の弱さとの対面を現実のものとして受け入れることは難しい。そこで自己正

当化の精神が作用する。自己正当化しながらも、広い心を持った人間に成長していく。

自己正当化は弱い人間の愚かな行為であるので、ここに矛盾が生じるが、私は自己正

当化を人間的成長に伴うロマンティックな崇高なものとして肯定的にとらえる。弱さ

の証明としての行為である、「他人及び自己に対して自己を欺き、良く見せること

(自己正当化)」を自己を高めるためにあえて実行し、認めることには矛盾が生じる。

しかしながら、ジェイムズの取り入れたロマンティシズムとは、人間の内部に発生す

る自己矛盾に対する葛藤から生まれる想像力の崇高さを表現する活動である。理想は、

キリストの善であり、古代ギリシャ ローマの均整のとれた形式美であるが、それは・古典の基準による理想である。階級制の廃止、産業構造の変化などにより、ジェイム

ズの生きた現代の生き方には適合しない部分も多々生まれてきたのである。芸術に生

きるとしても、金銭が必要であるし、芸術家として生きる証としての名声も求めたい。

仕事を得るには他者との競争も発生し、勝つか負けるかが問題となる。これらを達成

して芸術家の自己実現というのであれば、自己、他者に対する裏切り、敗者への蔑み

の上に成立した自己正当化もまた、自己実現なのであろう。

この考察で、特にジェイムズの「芸術家」ものをとりあげる理由は、私はこの

ロマンティックなものを入手できる者は、その特異な環境と 天才的な資質により、

多くの場合芸術家であり、ロマンティックなものの正体は、「人間の複雑さと社会的

には邪魔者でしかない」 1 6芸術であると考えるからである。その序文の中で、「その

対立するもの(芸術と社会)が無限の状況を生み出す」 1 7と言っていることから、結

局、芸術は、芸術と現実社会の葛藤が生み出すロマンティックなものではないか。ま

た、芸術は、その芸術の担い手である芸術家としての自己(自我)と芸術との葛藤、

自己(自我)と現実社会の葛藤が生み出すロマンティックなものではないか。

8

Page 10: Artists Subject Matters

19 世紀終わりは芸術至上主義 1 8がはびこり、芸術が実人生よりも重要である

とされたが、ジェイムズは人生は不信の対象であるとしながらも、人生を芸術から完

全に切り離して考えはしなかった。 1 9芸術家が実人生に基盤をおかずに、作品を創造

するのであれば、ジェイムズの考えるところのロマンティックなものは入手できない。

また、ジェイムズは人生を自分の体験をもとに写実的に描くより、他人の人生から得

た萌芽をもとに自己の想像力を作品に投影した作家である。ロマンティシズムの芸術

家が想像力を伴うことなしに、作品を作り上げることはできないと思われる。ロマン

ティックなものは、現実的に対して芸術的であると言えよう。リアリスティックな状

況からロマンティックな状況への移行、つまり、人間の不完全な状況を自己正当化す

るのが芸術であるとジェイムズは考えるのではないか。この自己正当化とは、自己や

他者を欺き、自分を良く見せることであるから、「自己の理想化」にもつながる。こ

の理想は、決して古代ギリシャ・ローマの善と美を追い求めることとは限らず、現代

社会における個々の価値基準に基づいた個々の自由な発想をもとにした理想である。

この自己正当化については第 6 章「匿名の語り手” I ”」で詳しく述べるとし、次に序文

集から下記を引用する。

描かれたロマンスの中に私が認め得る唯一の“一般的”属性は、あらゆる場合に

当てはまる属性は、それが扱う経験の種類という事実である-言わば、開放された

経験ということである。束縛されない、解き放たれた、なんの障りもなく、普通に

はわれわれがそれに付随するものと解している。そして、なんらかの特別な関心ゆ

えに、 “関連性のある”限定された状況、要するに、あらゆる日常の社会活動に付き

物の状況の不都合さを完全に免れた雰囲気の中で働く経験のことである。 (中

略)事実、経験の軽気球は勿論地上につながっている。 (中略)ロマンス作家の

技巧というのは、 “その面白さのために”こっそりとその鋼索を切ること。彼がそう

するのをわれわれが気付かないようにそれを切ることにある。 2 0

9

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前述の引用では、リアリスティックな状況からどのような回路を通ってロマ

ンティックな状況へと移行していくかを説明したが、この引用では、いわばロマンテ

ィックなものを描くロマンスの性質について述べている。ジェイムズはその作品の中

で一幅の絵画的印象を描いていることで知られていることから、このロマンティック

な状況はカンヴァスに収まった一幅の絵画に例えられるのではないだろうか。一瞬の

美しい状況を一幅の絵画として凍結させてみせるジェイムズの絵画的手法のひとつで

ある。ロマンティックなものがカンヴァスの中に納まる狭い世界であり、リアリステ

ィックな世界はそのカンヴァスの外側の広い世界であると考えられる。

ロマンティックな “開放された状況”(=“無限、自由、想像の世界”)は、日常

的リアリスティックな状況から免れて自由に空間を遊離する。ジェイムズは、この“開

放された状況”を経験の軽気球に例えている。軽気球は大地や空に比べたらほんの小さ

な限定されたものしか載せることができないものである。この軽気球は鋼索によって

大地につながっているが、その鋼索のあまりの長さにより大地に縛られているという

意識なく自由に空間を遊離する。この大地や空の空間はリアリスティックな状況であ

り、綱が付いている以上、軽気球のロマンティックな状況は、軽気球を取り巻く空間

であるリアリスティックな状況からしばらくは離れることはない。現実には、ロマン

ティックな想像力の世界は、自由に遊離しているかのように見えながらも現実社会の

手中、または延長線上にあり、切り離せない関係にあるということである。つまり、

たとえ豊かな想像力をもっていても現実から逃れられない運命にある。しかしながら、

ジェイムズは作者として、この軽気球と大地とを結びつける鋼索をこっそり切ってし

まう。つまり、完全に何物からも解き放たれた状況をつくってしまう。もともと軽気

球は大地につながれていることを知らないのであるから、ロマンスの登場人物たちに

とって、ロマンティックなものとリアリスティックなものの関係にはなんら変わりは

無い。しかしながら、我々読者にとっては、いつの間にかロマンティックなものがリ

アリスティックなものから遊離されていることに気がつき、ドラマ性を高める結果と

なろう。

10

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物理的には、ロマンティックなものは容積が小さく、リアリスティックなも

のはそれをとりまく空間であるからその容積が大きい。しかしながら、精神的には、

ロマンティックなものは、開放された、全てのものから免れた深い自由な経験であり、

リアリスティックなものは “限定された不完全な状況”であり、常識にしばられていて

浅い経験と言える。

そのロマンティックなもの、リアリスティックなものは、ジェイムズの代表

的な「芸術家もの」を F.O.マシーセン (Matthiessen, F.O.)が編纂した”Stories of

Wri ters and Artists, (1944)” に見られ、全てこの考察の参考とした。ジェイムズは

確かに「芸術家もの」以外の作品においても、ロマンティックなものとリアリスティ

ックなものの両方を表現しているが、結局は、想像力や精神の崇高さといった意味合

いでのロマンティックなものが、社交界、契約、お金などの意味合いでのリアリステ

ィックなものの犠牲になり、現実世界に立ち戻っていかざるをえないリアリズムの立

場をとり、ロマンティックなものはあくまでも主人公の中の精神性として残るのみで

あることが多い。それに対して、ジェイムズの「芸術家もの」では、芸術家であるが

ゆえの葛藤をテーマに、クライマックスでは、リアリスティックなものから完全に開

放された無限の状況を創造する。この芸術家の葛藤については、第 4 章で詳しく述べ

る。

中でもこの考察で、代表的に取り上げたい”The Real Thing ”の粗筋は、以下の

ようである。小説は、本来は肖像画家であるが、生計をたてるために挿絵画家をして

いる画家のアトリエに、一組の上品な中年夫婦が訪ねてくるところからはじまる。そ

のモナーク夫妻 (Major Monarch & Mrs. Monarch)は、かつては身分もお金もあり優

雅な生活を送っていたが、破産寸前の状態になり、この画家ならば彼らを挿絵のモデ

ルに雇ってくれるのではと期待した。画家はある小説の挿絵の仕事を依頼されており、

彼らをモデルとして使ってみることにする。画家は、既にミス・チャーム(Miss

Churm) という若い女性をモデルとして雇っており、彼女は身分の卑しいただの平凡

な下町娘であるが、表現力に富み、プロのモデルであった。モナーク夫妻は、型には

11

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まったモデルであり、それが表現不足ととられ、画家の考えるところの「アマチュア

の欠点」を露呈する形となった。そこに更に、モデル兼召使いにしてほしいという青

年、オロンテ (Oronte)が登場し、彼もまたそのモデルとしての天才ぶりを発揮させ、

モナーク夫妻の商売敵となる。美術批評家である友人、ホーリー (Hawley) が画家の失

敗を指摘した後、画家は、挿絵のモデルにオロンテとミス・チャームを使用すること

に決めた。それを知ると、モナーク夫妻は、何とかアトリエでモデル以外の仕事を得

ようと、じょじょに召使のように振舞いだした。結局、モナーク夫妻は、ほんものの

貴族なのに偽者よりも貴重になりえないという皮肉な運命を受け入れざるをえなかっ

たのだ。その後、モナーク夫妻に相当なお金を渡すと、彼らはアトリエに姿を見せな

くなった。

この「召使いとしての行為」のひとつである、モナーク夫人がミス・チャーム

の髪に櫛を入れる、”The most heroic personal service”  2 1 、「モナーク夫人の美し

い行為」は、とてもロマンティックなものである。なぜかというと、その一点の行為

により、全ての状況が 180 度転換してしまったからである。金銭のために情けない行

為に及んでいたモナーク夫人は画家の心象の転換によって、悪から善、または醜から

美へと昇華したし、モデルであるミス・チャームの美しさは倍加されたのである。

ロマンティックなものは、我々の思考や美しい迂回路を通る。つまり想像力を

伴い、読者に自由な解 釈の余 地を与える。それにより、この ” The most heroic

personal service” をめぐっては解釈が二つに分かれると考える。

But she quieted me with a glance I shall never forget--I confess I should

l ike to have been able to paint that   and went for a moment to my

model. She spoke to her soft ly, laying a hand on her shoulder and

bending over her; and as the gir l , understanding, grateful ly assented,

she disposed her rough curls, with a few quick passes, in such a way as

to make Miss Churm's head twice as charming. It was one of the most

12

Page 14: Artists Subject Matters

heroic personal services I 've ever seen rendered.   2 2

粗筋で述べた、「召使いとしての行為」について細かく段階的に考察していく

とその二つの解釈についてわかる。「召使いとしての行為」は合計 4 回ある。1 つ目

はモナーク夫妻がオロンテにお茶を差し出す場面、 2 つ目はモナーク夫人が、モデル

のポーズをとっている最中のミス・チャームに駆け寄り、髪を櫛でとくことによって

ミス・チャームの美しさを倍加させる場面。 3 つ目はモナーク夫人が何かすることは

ないかと辺りを見回し、床に落ちていたボロ布を拾った場面。4つ目はモナーク夫妻

が、アトリエのキッチンにおいてあった食器を洗い出した場面である。この 4 つの行

為は同じ「召使いとしての行為」ではあるが、 2 つ目とは全く違う動機があったとす

る解釈である。2 つ目以外の行為は、アトリエを追い出されまいとする夫妻の抵抗を

表現する情けない姿である。2 つ目の行為はどうだろうか。モナーク夫人は、自分た

ちをもうモデルとして使う気が画家にないと知った後にも関わらず、ミス・チャーム

がポーズをとっているときに、彼女の髪をくしでといてあげることによって、商売敵

であるミス・チャームの魅力を倍加させてみせるという行為に及ぶ。ほんものの貴婦

人がにせものの貴婦人の髪を櫛でといてあげることが、貴婦人としてのプライドを傷

つけ、また商売敵を美しくすることにより、自分の職が完全に失われる結果になった

かもしれないのにである。「モナーク夫人の美しい行為」、その瞬間が語り手である

画家にとって一幅の絵画となり目に焼きついた。このような美しい表情なら是非描い

てみたいものだと思わせるのである。つまり、この「モナーク夫人の美しい行為」が

「ほんものが偽者よりも貴重になりえないという残酷な運命のアイロニー」を払拭し、

ほんものの貴婦人を逆転勝利に導いたわけである。

They (The Monarch) bowed their heads in bewilderment to the perverse and cruel law in

virtue of which the real thing could be so much less precious than the unreal; 23

13

Page 15: Artists Subject Matters

しかしながら、モナーク夫人には逆転勝利の計算はなかった。ミス・チャーム

に、貴婦人として、貴婦人らしく美しくしてあげようという人間的行為に及んだまで

であった。これが「モナーク夫人の美しい行為」についての解釈のひとつであり、読

者の目にも大変ロマンティックなものであり、このドラマのクライマックスとも言え

る場面としてとらえることが出来るだろう。二つ目の解釈については第 6 章「匿名の

語り手” I ”」で述べる。以上が、私のロマンティックなものとリアリスティックなもの

の関係に関する考察である。

Ⅳ 芸術家の諸問題

芸術家には特有の思考回路が存在するのか。もし、存在するとしたら、それは

どのようにロマンティックなものに接続していくのかについて考察したい。ここで重

要となるのは、19世紀に生きた芸術家共通の諸問題である。ジェイムズの芸術家もの

には、以下の 4つの芸術家の問題がある。

1 つ目は”Hawthorne”2 4にも述べられているように、ないないづくしの国、ア

メリカから芸術修行のためにヨーロッパに渡ってくるアメリカ人がその無垢さゆえ、

経験の国、ヨーロッパの毒盃を飲み干して挫折していくという国際的状況の問題であ

る。例えば、”The Madonna of the Future ”のセオボールド (Theobald)は、アメリカ

から、芸術修行のためにパリに渡るのだが、絵を描くことも止め、10 年もの間、幻想

のマドンナ、セラフィーナ嬢(Seraf ina)に翻弄される。ついには、自身の画家とし

ての才能を枯渇させ、非業の死をとげる。芸術家には才能だけではなく、生まれなが

らの恵まれた環境が不可欠であると言える。ジェイムズ自身の人生が、生まれながら

に芸術家として恵まれた環境であったのである。下記に引用するのは、語り手である

H 氏がセオボールドに語ってみせたものであるが、環境に恵まれたジェイムズ自身の

声であることはその内容から明らかである。

14

Page 16: Artists Subject Matters

"You seem fairly at home in exile," I made answer, "and Florence seems to me a very

easy Siberia. But do you know my own thought? Nothing is so idle as to talk about our want

of a nursing air, of a kindly soil, of opportunity, of inspiration, of the things that help. The

only thing that helps is to do something fine. There's no law in our glorious Constitution

against that. Invent, create, achieve. No matter if you've to study fifty times as much as one

of these. What else are you an artist for? Be you our Moses," 25

2 つ目は、芸術の商業化、もしくは世俗化と芸術の追求のための貧困の問題で

ある。例えば、”The Madonna of the Future ” では、セオボールドが古典的なイタリ

ア・ルネサンス期の芸術を追求し、目標とする芸術性の高さ故、貧困の中、一枚の絵

も残せず死んだのに対し、セラフィーナ嬢の愛人は、人形細工を大量に売りさばいて

成功をおさめた。また、”The Real Thing”では、画家が本来は、肖像画家として名声

を得たかったのだが、日々の生活費のため、仕方なく挿絵画家としてペン画を書いて

いたことも世俗化といえよう。 ”The Next Time ”では、リンバート (Ralph Limbert)

が、愛するモード(Moud)と結婚するために、不本意にも作家ではなく、編集者と

しての会社勤めの道を選び、本来の芸術性はさておき、世俗うけする記事を書こうと

努力をする。芸術追求のためだからといって餓えるわけにはいかないのだ。

3 つ目は、芸術家の絶え間ない努力の問題である。”The Next Time “では、

リンバートの書く記事が大衆うけせず、会社を解雇になり、何度仕事から干される状

態になっても、この次こそは成功するぞという希望を捨てず、その死の間際までペン

を離さなかった。リンバートとは対照的に、”The Madonna of the Future ” では、画

家を志しながらも 10 年間全く絵筆を握らなかった堕落したセオボールドが描かれて

い る 。 リ ン バ ー ト も セ オ ボ ー ル ド も 結 果 的 に 成 功 し な い 。 ま た 、” Broken

Wings (1900)”は、久しぶりに逢った以前の恋人同士が、互いに芸術家として不遇の時

代を過ごしていることを思い切って打ち明けあうと、そこから芸術を諦めて恋愛が始

まるのではなく、お互いに次の制作にすぐさまとりかかるという話である。芸術家の

15

Page 17: Artists Subject Matters

使命は、結果を考慮せず、一日も休むことなく努力し続けることなのであるが、それ

には血のにじむ様な努力と強い精神力が必要であろう。 

4つ目は、芸術家の想像力と実践力または才能の有無の問題である。”The

Real Thing”に登場する若き日の画家は、想像力はあると自負していたが実践力がま

だ伴わなかったせいで、モナーク夫人を前にして戸惑いが生じた。”The Madonna of

the Future”のセオボールドは、有り余るほどの想像力があるが、それを画布に残す実

践力が伴わず、苦しんでいた。結局、芸術は才能ある者からしか生まれないのだ。芸

術の天才について、アリストテレスは、哲学であれ、政治であれ、詩や芸術であれ、

これらの領域において傑出した人間はみな憂鬱質であるとし、プラトンは、病気によ

って惹き起こされる普通の狂気と神的狂気を区別し、神的狂気の中に詩的狂気、すな

わち芸術的狂気があるとしている。これをプラトンの狂気論といい、アリストテレス

の憂鬱質論と結びつき、憂鬱質-天才-狂気 2 6という発想が生まれた。芸術的天才と

いうものは本来、憂鬱質の人間、神的狂気の人間でなければなれないものであり、ロ

マンティシズム文学に登場する芸術家たちもそれに該当するのであろう。

創造とはもともと破壊性を伴う作業である。ということはふつう人間は創造なく

して生きてゆけるということだ。所与のもので、人間は十分満足できる。(中

略)ところが、このありきたりの秩序に耐ええない者だけが創造のデーモンにと

らわれて世界から脱出しようとする。別の次元にむかって。 2 7

これを芸術家特有の異常な思考回路が生まれる所以とする。

下記は、”The Real Thing ”からの引用である。

Her f igure had no variety of expression --she herself had no sense of

variety. You may say that this was my business and was only a question of

placing her. Yet I placed her in every conceivable posit ion and she managed

16

Page 18: Artists Subject Matters

to obli terate their di fferences. She was always a lady certainly, and into the

bargain was always the same lady. She was the real thing, but always the

same thing. There were moments when I rather writhed under the serenity of

her confidence that she was the real th ing. 2 8

画家の苛立ちを細かく考察してみることによって、前述した芸術家の諸問題が

いかにロマンティックであるかが明らかにされる。画家は一応、自分の力不足を戒め

てはいるのが第一段階の苛立ちである。しかし、本当はモデルがほんものの貴族だか

ら型にはまりすぎているし、モデルとしてアマチュアだから悪いのだという、アマチ

ュア嫌悪の気持ちが沸き起こるのが第二段階の苛立ちである。批評家の友人、ホーリ

ーに画家生命の終わりを警告されたのが、第三段階の画家の苛立ちである。また、ミ

ス・チャームとオロンテを使って、『ラトランド・ラムゼイ』を仕上げると決めた段

階で、まだモナーク夫妻との縁が切れていないことに気づくのが、第四段階の画家の

苛立ちである。貴族である彼らがモデルとしてはアトリエに居られないと知ると、急

に召使いのように振る舞いだしたのを見て描く意欲が完全に削がれてしまったのが、

第五段階の画家の苛立ちである。最終段階の画家の苛立ちは、モナーク夫妻が出て行

った後の後味の悪い感触によるものであった。このように、次第に募っていく画家の

苛立ちの様は、自分の画家としての才能を疑うという自身への苛立ちから、アマチュ

ア嫌悪という立場をとらざるを得ないという芸術に対する苛立ち、干渉してくるホー

リーやモナーク夫妻への苛立ち、そしてまた自己への苛立ちというように心象が変化

していく。モナーク夫妻への苛立ちの認知は、画家自身のエゴイズム認知へとつなが

っていく。自分さえ良ければ、自分の名誉さえ守られれば、他人であるモナーク夫妻

などどうなってもかまわないのである。しかも、次第に自分の立場がモナーク夫妻の

それと重なっていくのである。画家は、モナーク夫妻が自己の姿の投影であることを

認識せざるをえなかった。モナーク夫妻を生かせば、自分が死ぬのである。

17

Page 19: Artists Subject Matters

画家は、自分の画家としての才能の欠如を認めたくないばかりか、自分の人間

としての欠陥さえ認めたくはない。しかしながら、苛立ちの段階を通して、じょじょ

に自己の弱さに対面せざるを得ない状態にあった。その弱さとは、芸術追求の精神に

反対して働く金銭重視、肖像画家としてではなく、挿絵画家として生計を立てなけれ

ばならないという信念の断念、時間を忘れ没頭できるのが芸術であるはずなのに、締

切の期日に追われること、想像力、才能の限界、芸術は結局は他者との競争であると

いうこと、芸術家であることを重視したならば、人間としての精神を犠牲としなけれ

ばならないことである。ここに、芸術家特有の、現実社会対する葛藤、自己に対する

葛藤、芸術に対する葛藤が見られる。これらが、前述した、「芸術-憂鬱質-天才-

狂気」という連結した芸術家特有の思考回路だとし、その特異さが異常であればある

ほど、精神的な危険度が高まり、芸術家の諸問題とロマンティックなものの関係が明

らかになるのではないか。

Ⅴ ロマン派の詩的記憶

画家は、この痛手に対して代償を払ってもかまわないほどの価値を、このほん

ものとの思い出に見出したと述べている。ほんものの貴婦人との思い出が、画家の脳

裏にとてもロマンティックに思い起こされることが、画家のその後の人生にとって、

大きな価値を与えたことがわかる。そのロマンティックなものがどのように画家のそ

の後の人生にかかわりを持ったかについて考察することにより、ロマンティックの精

神性の崇高さについて証明したい。

I obtained the remaining books, but my friend Hawley repeats that Major

and Mrs. Monarch did me a permanent harm, got me into false ways. I f i t be

true I 'm content to have paid the price--for the memory. 2 9

18

Page 20: Artists Subject Matters

ここにこのジェイムズ小説のロマン派の詩的記憶の問題がある。”The Real

Thing”, “Madonna of The Future”, “The Next Time”などの「芸術家もの」の短編

小説には、記憶の問題が提示されている。それぞれの作品において、語り手は、思い

出に残るある人物について、現在から過去にさかのぼって、記憶を語っているという

共通点がある。心理的、時間的、空間的距離をおくことによって、現在の自分の立場

とその当時の自分の立場の隔たりに感慨深いものを覚え、また二度と会うことのない

あの人物が過去に自分に与えた衝撃が、現在の自分にとっては崇高な記憶としてのみ、

よみがえってくるのである。語り手である画家は、この物語を語った時点では、もう

青年ではなく、肖像画家として名声を得るのをあきらめ、挿絵画家としてある程度安

定した地位を築いていたことだろう。あの忌々しい腹立たしい出来事は画家にとって

生きるか死ぬかの切実な問題であり、自分のエゴイズムにも気づかされたという非常

にリアリスティックなものだったが、あの出来事がもしなかったら、画家はどうなっ

ていたのだろうか。画家としての道を誤った方向に向かわせようとしたほんものの貴

婦人の幻想に惑わされて、自分を見失うところであった画家が、芸術家としての、人

間としての未熟さを、若いころに体験しなければ、画家の芸術性と人間性は高められ

なかったはずである。語り手は、過去のこの出来事がリアリスティックに忌々しいも

のであればあるほど、現時点においては、ロマンティックで崇高なものに昇華させて

いる。モナーク夫人がミス・チャームの髪にくしを入れた瞬間が真の美として凍結さ

れ、一幅の絵画となり、永遠の喜びに昇華したのも、語り手である画家が現在から距

離をおいて過去を見つめなおしているからである。過去のエゴイスティックな行為に

負い目を持った語り手にとって、自分の過去の過ちから逃れられる唯一の方法が、過

去を崇高な思い出として封印してしまうことだったのである。

いったん距離をおいて記憶として描く手法は、ノベルでありながら、ロマン

スの装用をもたせ、またロマン派の詩としての装用を持たせる。イギリス・ロマン派

の詩人であるワズワース(Wordsworth, Wil l iam, 1770-1850)はルーシー詩篇のあ

19

Page 21: Artists Subject Matters

る一篇の最終行で、”The memory of what has been, And never more wil l be. ” 3 0と

読み、ルーシーをメモリーの中で今でも生き続ける存在とし、過去を詩の中で凍結さ

せた。 3 1 以下は、ワズワースのルーシー詩篇、 ”Three years she grew” の引用であ

る。

(中略)

Thus Nature spake – The work was done –

How soon my Lucy ’s race was run!

She died, and left to me

This heath, this calm, and quiet scene;

The memory of what has been,

And never more wi l l be.

(Three years she grew) 3 2

ワズワースの詩の作成過程では、現実の体験に基づいてすぐに詩形形象を結ぶ

のでなく、回想という心理過程を経てはじめて詩作の段階となる。この回想の段階で

心理的、時間的、空間的距離をおいて過去を見つめなおす行為により、想像力が高ま

り、詩の崇高さが倍加するのである。

ジェイムズの芸術家ものについても同じことが言える。心理的、時間的、空間

的距離をおいたものは、どんなにその当時にリアリスティックな出来事であっても、

想像力を伴ってロマンティックなものに昇華する。ワズワースと深い交流があった詩

人、コールリッジは、想像力を以下のように定義している。

想像力が、第一に相矛盾し合う異質な要素を融合する力であること、第二には

観察の対象をありのままではなく変容させること、したがって第三に習慣化され

見慣れたものを新たに活性化すること。 3 3

20

Page 22: Artists Subject Matters

「モナーク夫人は、型にはまったいつも同じ貴婦人であり、表現力がない」、

としながらも、画家に、「あのような表情なら描いてみたいものだ」と相矛盾したこ

とを語らせている。つまり、観察の対象である、モナーク夫人を画家の過去の回想に

よって、「良いもの」に変容させている。

ジェイムズ小説においては、想像力のカンヴァスがロマンティックなもので

あり、無限大に広がるカンヴァスの外はリアリスティックなものである。つまりリア

リスティックなものは常にロマンティックなものを内包した状態にある。下町娘のミ

ス・チャームが画家の前でポーズをとるとほんものの貴婦人に見えたように、モナー

ク夫人もミス・チャーム同様のすばらしいモデルにもなりえたし、ミス・チャーム以

上のものにもなりえたのである。それが可能性として確かに画家の記憶の中に存在し

ていたということを、画家は語ることによって、少しでも負い目を少なくしたいと願

っていたのである。”The Madonna of The Future”の語り手である H 氏 (H-)もまた、

自分の行き過ぎた助言のせいで死に至ったかもしれない友人に対して、”The Next

Time”の語り手もまた、自分の援助が足りなかったせいで、そして自分が妻にするか

もしれなかったモードと結婚したせいで、傑作を残せず無念の死をとげたかもしれな

い友人に対して、負い目を持ち、凍結させた過去の記憶を語ることによってのみ、過

去の負い目から救われるのである。

Ⅵ 匿名の語り手 “I”

何故、ジェイムズが匿名の語り手” I”を用いる必要があったのかについて説明

することによって、不完全な状況から葛藤を通して自己正当化へ至る過程がロマンテ

ィックであり、それが芸術であるということを証明したい。以下に序文集から引用す

る。

ところで、もし私が彼を主人公であると同時に語り手にしていたならば、つまり

21

Page 23: Artists Subject Matters

彼に「一人称」というロマンティックな特権を与えていたなら-大規模にこれを

行えば、この方法はどうしてもロマンス特有の暗黒の深淵に直面せざるを得なく

なるのだが - 多様性のみならず他の多くの奇妙な問題が裏口からこっそりと

持ち込まれることになっただろう。 3 4

一人称を用いるということは、語り手の告白であり、告白は常にロマンティッ

クなものである。他人の視点を介さず、常に一人の人物の視点を通してのみドラマが

展開されるということは非常にドラマを秘密めいたものにするからである。一人の視

点を通してのみドラマが展開するということで、読者はその語り手に対して疑いの心

を持たざるを得ない。その結果として、読者は多種多様な読み方をするであろう。一

方、もし読者が語り手を全面的に信頼したならば、語り手に誤った方向に導かれてい

くだろう。これが「ロマンス特有の暗黒の深淵」への直面ではないだろうか。語り手

を全面的に信頼してもしなくても、読者は、様々な部分で、ドラマのつじつまが合わ

なくなるという奇妙な問題に遭遇することになる。回想という形をとっているがゆえ、

そのつじつまの合わない原因は主に時間軸である。そこで再読、再解釈を余儀なくさ

れるのが、ジェイムズの意図した、ロマンティックなものの経験の深さである。また、

様々な解釈を可能にするということは、個と社会全体との調和を重んじる、理性重視

の古典主義に反して、個人の自由な判断に価値基準を置く、ロマンティシズムの特徴

である。

ここで、「モナーク夫人の美しい行為」の第二の解釈について述べる。第 3 章、

「ロマンティックなものとリアリスティックなもの」で述べた、「モナーク夫人のあ

のような表情なら是非描いてみたいものだ。」と語り手が思ったというのは誤った記

憶である。遠い過去の記憶に誤りがあるというのはよくあることである。しかしなが

ら、過去の出来事の記憶に誤りがあるのはありうるが、過去の感情の記憶に誤りがあ

るというのは考えにくい。つまり、語り手は、今も尚、誤った過去の記憶を持ち続け

ているのである。語り手は、自分の芸術家としての技術や観察眼に自信がなかったこ

22

Page 24: Artists Subject Matters

とを隠すため、傲慢にもモナーク夫妻を非難し、追い出してしまった過去の自分を何

とかして正当化したい気持ちに駆られた。そこで語り手が考えた出したのが、モナー

ク夫人をモデルにしてみたかった瞬間が確かにあったのだが、モナーク夫妻は自らア

トリエを出て行ってしまい、ついにあの美しいモナーク夫人を主人公にした挿絵を描

けなかった、という曲げられた事実である。「モナーク夫人の美しい行為」について

は、第二の解釈では、モナーク夫人をモデルにしてみたかった瞬間など初めからなか

ったというものである。”The Aspern Papers (1888)”の語り手” I”もまた、自分の芸術

欲のために利用しようとした、いき遅れた中年女性のミス・ティータ (Miss Tita)が天

使のように美しく見えた瞬間があったと過去を回想して述べていること、そして ”The

Madonna of The Future ”の語り手 H 氏もまた、醜い年老いたセラフィーナ嬢が美し

いと思ったと過去を回想して述べていることも同様である。また、たとえ、実際にミ

ス・チャームの髪をとくしぐさがあったにしろ、あくまでも画家の気を引くための、

金銭をねらっての計算された行為であり、「人間としての行為」ではなかったのであ

る。つまり、ボロ布を拾って辺りを見回したり、皿を洗ったりした第1、3、4の行為

の動機と同じであった。偽りの記憶に塗り替えることによって、画家は芸術家として

の人間としての自負心を持ち続けることができるのである。しかしながら、自己の内

部だけで自己正当化すればするほど、負い目は大きくなっていくのではないか。それ

から救われる唯一の方法が、他人に匿名で偽りの記憶を語ることである。匿名である

ところに、その記憶が偽りである証拠がある。また、他人に語ることにより、自己の

記憶と他人の記憶の中に、偽りではあるが、語り手” I “の美しい共有された記憶が封印

され、二度と虚偽だという事実が現在の語り手の人生に降りかかってくることはない。

一人称で語るということは、他者の視点が介在しないことから、語り手の語り

は事実である部分もあるかもしれないし、そのほとんどが虚偽であるかもしれないと

いうことを読者は考える。考える余地を与えるのはジェイムズ小説特有である。読者

にその解釈を委ねるという手法は、大変ロマンティックなものである。前述のように、

ロマンティックなものとは、われわれの思考や願望の美しい迂回路か尋常でない手段

23

Page 25: Artists Subject Matters

によってのみ、われわれに達することができるものを意味する。匿名の語り手” I ” が

虚偽の証言をして自己正当化したかもしれないというのは、尋常ではない手段である。

しかしながら、尋常ではない手段を使用しなければ、語り手” I”の精神状態を正常に保

つことができなかったという究極の状態にあるということは、非常にロマンティック

ではないか。ジェイムズはあまり重要視していないことだが、ロマンティックである

ことは、リアリスティックであることよりも危険度が大きいとしている。 2 6精神状態

の危うさから語った嘘というのは、ロマンティックである。ロマンティックなものと

は極限の状態に陥った人間の最後の砦であり、それは想像力によって作り出される芸

術であるともいえよう。語り手” I ”の求めたもの、それは自己正当化を許す、ロマンテ

ィックな想像の世界であった。

結局、モナーク夫妻は画家にとってただの忌々しい邪魔者であり、それは画家

自身でもあった。なぜなら、モナーク夫妻の存在が、自分の芸術家としての才能のな

さを露呈させたからである。また、自分の人間としての度量の狭さまでも露呈させら

れたからである。更には、自分の生活の糧としていた挿絵の仕事まで失いかけていた

からである。画家自身が、モナーク夫妻同様に人生のがけっぷちに立たされているの

を、モナーク夫妻の登場によって知ったのは忌々しい出来事であったのだ。モナーク

夫妻が画家自身の投影であったことは、批評家、ホーリーのモナーク夫妻についての

見解を示した下記テキストの引用からもわかる。

Hawley had made their acquaintance--he had met them at my fireside--and thought them a

ridiculous pair. Learning that he ( Hawley) was a painter they ( The Monarch s ) tried to

approach him, to show him too that they were the real thing; but he looked at them, across

the big room, as if they were miles away: they were a compendium of everything he most

objected to in the social system of his country. Such people as that, all convention and

patent-leather, with ejaculations that stopped conversation, had no business in a studio. A

studio was a place to learn to see, and how could you see through a pair of feather-beds? 35

24

Page 26: Artists Subject Matters

モナーク夫妻は、ホーリーが芸術関係の仕事をしているとわかると彼に近づく。

アトリエは観察眼を養う場所なのに、モナーク夫妻のように羽根布団に包まっていて

何がわかるというのだとホーリーは警告を発する。画家は、芸術には無用なモナーク

夫妻をアトリエに受け入れ続け、芸術性追求よりも世俗に迎合するようになっていた。

「モナーク夫人の美しい行為」などはじめから無かったのである。また、仮に

あったとしても当時の画家には気がつかなかっただろう。負い目を受け入れ、消化す

る精神性を持つまでに成長したということが、ロマンティックで深い経験である。実

際には無かった場面が絵画的一瞬を捉え、芸術家の脳裏に焼きつく。これが芸術家の

想像力である。リアリスティックな状況からロマンティックな状況への移行、つまり

不完全な状況を自己正当化することは、実際には目に見えないものを想像力によって

視覚化することでもある。それはまさに一幅の絵画を読者の頭の中に描くというジェ

イムズの「芸術」なのである。

Ⅶ 対照的な 2枚の絵画

ジェイムズの「芸術家もの」は、何故、一幅の絵画を見ているように、一つの

まとまりを見せ、読者の目にロマンティックに映るのだろうか。

一つの物語は一つの物語であり、一枚の絵は一枚の絵である、そして私は

一つの中に二つの物語、二枚の絵がみられることがぞっとするほど嫌であった。

(中略)丁度車軸を失った車輪が車を動かすのに何の役にも立たないように、も

早大事な意図を表現するのに役立たなくなったということである。(中略)私が

たまたま一枚の絵の中に二枚の絵を見たことは、明らかに事実であった。(中

略)だから私の仕事は、完全な絵画的融合を、つまり、最初の一つの構想の間に、

たとえそれらが全く異なった星の下に生まれたとしても、お互いを犯さない何か

共通の関心を「求める」ことであった。 3 6

25

Page 27: Artists Subject Matters

ジェイムズは主題と構成にこだわった作家である。他人から聞いたちょっと

したロマンティックな話が萌芽となり、主題を創造するが、その主題は必ずひとつの

まとまりをもったものでなければならない。複数の主要な登場人物を物語に配置した

からといって、それぞれの人生が読者の目に際立つように主題を創造するのではない。

ジェイムズは、必ず一つの物語にこの瞬間を凍結させたかったという一幅の絵画を持

ち込む。これもその一つの主題にそった形でひとつだけ創造される。ジェイムズは何

よりも「一つのまとまり」というものに関心が高いと思われる。その「一つのまとま

り」が走る二輪馬車の車輪であり、回転の中心である車軸は前方に移動してはいるが、

位置は固定しており、決して動かない。車輪がドラマであり、車軸が丁度、物語の主

題になっており、車軸を失うことはドラマの主題を失うことである。序文にあるよう

に、ひとつの物語の中に、二つの物語が表れるのを嫌い、一つの絵に二つの絵が表れ

るのを避けた。しかしながら、ジェイムズがティントレット (Tintoretto, 1518-1595)

の一枚の絵に二枚の絵を見て、それはそれで何がしかの融合を見せていることを認め

ておおいに驚いている。また、それを離れ業であるとし、自分には到底真似できぬも

のとしている。一枚の絵に二枚の絵を表すにしても、お互いがお互いを犯さない方法

でひとつの主題に向わせることが、ジェイムズの新たな試みとなったのではないだろ

うか。

この論文に掲げた「芸術家もの」の中短編小説においては、その二つの絵の共

通の関心ごとというのが「芸術」であることに他ならない。つまり、芸術というひと

つの主題に向かっている二枚の絵画が存在すると考えられる。お互いがお互いを犯さ

ない方法とは何か。それはその2枚の絵画が絵画的融合を果たし、あたかも一枚の絵

画のように振舞うことである。本当にひとつの関心に向かっているのであれば、二枚

の絵も一枚の絵になろうし、二つの物語も一つの物語になろう。ここに掲げたいくつ

かの「芸術家もの」に関して言うならば、語り手側の人生が一つの物語であるし、語

られている友人の人生が二つ目の物語である。どちら側の人生も芸術の星のもとに翻

弄され、悲劇とも喜劇とも、そして敗北とも勝利ともとれる人生を送る。ジェイムズ

26

Page 28: Artists Subject Matters

は二つの物語を一つの物語で描いたにしても、これら芸術家ものはあくまでも語り手

の視点、語り手の人生からのみ描かれている点で、やはり一つの絵巻であり、一枚の

絵画なのである。二枚の絵画と思われたものは、一枚はリアリスティックで物理的な

もの、もう一枚はロマンティックで精神的なものであり、後者のみがロマンティック

な想像の中の一幅の絵画である。前者の物理的なもの、真実のものをも一幅の絵と誤

解させてしまうのがジェイムズの手法ではないか。

(中略 ) 短編小説は、『逸話』と『絵』の何れかを選ばねばならないし、厳密にそ

の種類に従う時にのみその役割を果たすことができる。私は逸話も好きだが、絵

には小躍りするくらいに嬉しい。もっとも、疑いもなく、与えられた試みがその

境界線近くに位置することを承知しなければならない時もあるが。(中略) に

もかかわらず、そこでは大体に絵の要素が巧みに支配していることが分かる。絵

にはあの豊かに要約された、そして遠近法による効果を狙いながら - 無機質

な薄っぺらな拡大から反対の極にあって - (中略)3 7

短編小説は、逸話と絵画のどちらかであらねばならない。いや、一方が主旋律

となり、他方が伴奏となってもいいだろう。また、逸話と絵の境界線 -その境界線

は決して見えてはいけないのだが -にドラマがあってもいいだろう。いずれにせよ、

一枚の絵が短編小説全体の雰囲気を支配することになる。ジェイムズの描く一枚の絵

は、限りあるカンヴァスの木枠の中に、その限りなく凝縮されたロマンティックなも

のをおさめ、二次元でありながら、その人物の背中を取り巻く空気までをも表現する。

カンヴァスの周囲は真の現実世界であり、それは物理的にほとんど無限大であり、あ

くまでもロマンティックな絵画の世界と比べて、無機質な薄っぺらいものとする。以

下に述べるものは、前者がリアリスティックなもの、後者がロマンティックなもので

あり、リアリスティックな世界では決して描かれることの無かった一枚の絵画の世界

である。語り手の記憶の中で、前者が逸話であり、後者が絵であるとされ、その両者

27

Page 29: Artists Subject Matters

がお互いに存在していて、常に互いに置き換えられるのであれば、ジェイムズはうま

く読者の目からその境界線を隠したと言えよう。

“The Real Thing ”では、モナーク夫人の型にはまったいつも同じ貴婦人と、

また主人公としては永遠に描かれることのなかったモナーク夫人のあの美しい表情が、

交互に画家の記憶の中でよみがえる。”The Madonna of The Future”では、セオボー

ルドの何も描かれなかった真っ白な画布と、セオボールドの想像の中での完璧なまで

の美しいマドンナが、”The Next Time”では、その芸術性の崇高さゆえに世俗に受け入

れられず駄作とされるであろう未完の大作と、完成された傑作が、語り手の記憶の中

で交互によみがえる。これが、ジェイムズ特有の絵画的手法であり、リアリスティッ

クなものと対比され、よりいっそうロマンティックな効果を高める。

Ⅷ 逆転のアイロニー

ジェイムズ特有のアイロニーが、「芸術家もの」に、悲喜劇性をもたらすこと

によって、ドラマの芸術性を高めたのであろうか。

その結果は、彼らの意識も生活もすべてが空しくずたずたに引き裂かれ、滅茶

苦茶に破壊されてしまうのだが、おまけにその真珠は極めて巧みに造られた「イ

ミテーション」にすぎなかったことが分かり、結局、彼らの人生は何のために破

壊されたのかということになる。(中略)そのような恐ろしい過ちの根拠を変え

るのである。つまり、高価なほんものと考えられたが実はにせものであったとい

うのではなく、にせもので安物にすぎないと考えられていたがそれはほんもので

あったとするのである。 3 8

上記は序文集の中の『模造真珠』についての記述であるが、この考察で取り上

げる「芸術家もの」にも当てはまる。”The Real Thing ”では、ほんものの貴婦人であ

るモナーク夫人を使ってほんものの貴婦人の挿絵を描こうとした画家の意図が外れ、

28

Page 30: Artists Subject Matters

モナーク夫人はいつも同じ貴婦人であり、想像力を働かせて描くことが出来ない。反

対に、にせものの貴婦人である町娘のミス・チャームはモデルとしての才能があり、

金色の眼をしたロシアの王女様にもなれたのだ、なんとも皮肉な運命である、という

のがこの物語のモチーフではあるが、結末ではない。画家がなんとかして、モデルと

してはにせもので役立たずであり、画家の制作意欲を削ぐモナーク夫妻をアトリエか

ら追い出そうとしたのだが、実は追い出したのは自分自身の姿の投影であった。また、

モナーク夫妻を追い出したことが画家の負い目となり、生涯消えない心の傷となった

のである。そのような状態になるのであれば、何故、もっと人間的な対応ができなか

ったのだろう、もっと芸術家としての観察眼があれば、あのような残虐な扱いをする

ことはなかっただろうと思う。一度失った大切なものはもう返ってこない。自身をと

りつくろおうとした結果が、自己と他者の崩壊につながったのである。後悔したとき

にはもう遅いのだ。過ちの根拠の逆転である。この逆転のアイロニーが、このドラマ

の悲喜劇の要素であり、ロマンティックなものを高める効果につながる。

結論

これまでみてきたように、ジェイムズは、「芸術家もの」の中に一枚の凝縮し

た絵画のイメージを導入し、その場面はドラマのクライマックスとなり、匿名の語り

手” I”により、対照的なリアリスティックな場面とロマンティックな場面が読者の脳裏

に交差するように語られている。その語り手” I”の信頼性はほとんどなく、若き日の語

り手” I ”の極限の状態を回避するための自己正当化のドラマとなっている。語り手” I”の

自己正当化は、人間として芸術家としての成長にとって、当然受け入れなければなら

ない行為であり、弱さからの行為でありながら、欠くことのできない行為である。私

は、自己正当化の罪の意識を心に秘めたまま生き続けることを私は肯定的にとらえる。

なぜなら、負い目を自己正当化するという行為は、たとえ匿名を使用して他人に嘘の

記憶を語ってみせたとしても、やはり負い目を大きくするばかりであり、その大きさ

に耐えられるのは強い人間に成長した証拠であるからである。また他人を痛みを自分

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Page 31: Artists Subject Matters

のことのように考えられる優しい人間に成長したとも言えよう。ジェイムズが、その

「芸術家もの」の中で、一幅の絵画イメージを導入したように、ロマンティックなも

のがカンヴァスの中に納まる絵画の狭い世界であり、それは想像力を伴った芸術美で

あり、ジェイムズの追求する絵画的手法である。対して、リアリステックな世界はそ

のカンヴァスの外側の広い世界であり、それは現実社会である。ロマンティックなも

のは物理的に狭い世界にも関わらず、芸術家の共通に合わせもつ様々な苦悩により奥

深いものとなる。そのひとまとまりの主題は、ロマン派の詩的記憶の中に一瞬にして

封じ込められる。匿名の語り手” I ”を持ち出すことにより語り手の信頼性を低め、読者

を誤った方向に導き、ドラマをロマンスの深い暗黒の深淵に直面させる。逸話と絵画

のどちらともつかないように、その境界線ぎりぎりのところにドラマを創る。以上が、

ジェイムズの「芸術家もの」に共通するロマンティックなものであり、想像力を伴っ

た崇高な芸術美である。それはリアリスティックな現実よりも、より深い経験の世界

であり、芸術家特有の思考回路故、その経験ができるのは多くの場合芸術家である。

1. ヘンリー・ジェイムズ著、多田 敏男訳、『ヘンリー・ジェイムズ「ニューヨーク

版」序文集』、大阪、関西大学出版、1990  再版した全ての作品の序文はないが、

代表的な序文の和訳が掲載されている。

2.  Ib id . , p. 259

3. 渡辺久義、『ヘンリー・ジェイムズの言語』、東京、北星堂、1978 p. 90  渡

辺氏により、ジェイムズが言語芸術家と呼ばれている根拠があると述べられている。

4.  Chase, Richard, The American Novel and Its Tradit ion , New York: Johns

Hopkins UP, 1957

 p. 69  Lubbockが”panorama”について説明していると、Chaseが述べている。

5.   Matthiessen, F.O. and Murdock B, Kenneth, ed., James,Henry; The

Notebooks of Henry James , New York: Oxford UP, 1961.これを、一般にジェイム

30

Page 32: Artists Subject Matters

ズの「創作ノート」と呼ぶ。

6. 例えば、“ The Madonna of The Future ”はバルザックの『知られざる傑作

(1845)』を種にしているということは、その作中に明らかである。

7. George du Maurier(1838-1896).イギリスの諷刺週刊誌、Punchの最も著名

な諷刺画家であり、自伝的小説の著者でもあった。ホイッスラー、ドガの相弟子であ

った。

8.  Ib id . , p. 102

9. Ib id . , p. 103

10. Ib id . , p.125

11. Ib id . , p. 212

12. 大橋健三郎、総説 アメリカ文学史、 p.46

13. フリードリヒ・シュレーゲルの説明。

14.バルザック著、水野亮訳、『知られざる傑作』 p.l50

15. ヘンリー・ジェイムズ著、序文集 p. 31

16. Ib id . , p. 84

17. Ib id . , p.85

18. 渡辺久義は、当時の芸術至上主義を、「人生など下僕共にまかせておけ」、「甘

えを根本原理とする貴族主義的反俗」と表現している。また、芸術至上主義の立場を

とる、Wild, Oscar(1854-1900)は、「芸術が人生を模倣するよりもはるかに多く人生

は芸術を模倣する。その結果、これの必然的帰結として、外界の自然もまた芸術を模

倣することになる。」とし、「まず芸術ありき」であるとした。自然の霧ですらも、

その神秘的美しさは、詩人や画家が教えてくれたものであるとする激しい自然嫌悪を

示した。ジェイムズの「まず実人生ありき」の考えとは対極を成す。

19. 渡辺久義、『ヘンリー・ジェイムズの言語』、pp. 103-106. ジェイムズと H.G.

ウェルズとの間の芸術と人生との関係についての対立について説明しているが、その

争点が曖昧なまま、終わっている。

20. ヘンリー・ジェイムズ著、序文集 p. 33

31

Page 33: Artists Subject Matters

21.  Matthiessen, F. O., ed. James, Henry;Stories of Writers and Art ists , New

York; 1944.

 p.190

22.  ibid. , pp. 186-187

23. Ibid . , p.190

24.  Tanner, Tony, ed., James, Henry, Hawthorne , New York: Macmil lan & Co.

Ltd., 1967

祖国アメリカには君主も、宮廷も、貴族も、城も、廃墟もない、とヨーロッパ諸国に

比べて芸術において不利であるとしている。

25. James, Henry;Stories of Writers and Art ists  p. 21

26. 谷川渥、『芸術をめぐる言葉』第 3刷、東京、美術出版社、2003 p.26.

27. 坂崎乙郎、『ロマン派芸術の世界』第 2刷、東京、講談社、1977. pp.59-60

28.  James, Henry;Stories of Writers and Art ists pp. 178-179

29. Ib id . , p.191

30.  出口保夫、『ワーズワス 田園への招待』、東京、講談社、2001. p.154

31. Ib id . , p. 154.

32. Ib id . , p.155. 出口氏は、重要なのは、「最終行にある過去の凍結部である」とし

た。

33. 山内久明他、『ヨーロッパ・ロマン主義を読み直す』、東京、岩波、1997. p.102

34. ヘンリー・ジェイムズ著、序文集 p. 349

35.  Ib id., p. 32

36. Ib id., pp. 89-90

37.  Ib id., p.150

38. Ib id., p.260

参考文献

第一次資料

Matthiessen, F. O., ed. James, Henry;Stories of Writers and Art ists , New York;

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Page 34: Artists Subject Matters

1944.

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第二次資料

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