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有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」 – 1 – 名城大学理工学部応用化学科 第7回「アルケンの構造と反応」 前回までは、主に有機化合物の「構造」に注目して学んできた。今回からは、いよい よ有機化合物の「反応」を本格的に取り扱う。 最初に取り扱う官能基は、「炭素-炭素二重結合」である。二重結合を持つ炭化水素 アルケン alkene と呼ぶ。今回は、最初にアルケンの構造的特徴について学び、次い でアルケンの代表的な反応である「求電子付加反応」について学ぶ。 1. アルケンの命名法 最も単純なアルケンは、エテン ethene である。アルケンの名称は、二重結合に水素 をつけてできるアルカンの名称を元にして、末尾の -ane -ene に変えたものである。 エテンの場合、二重結合に水素をつけてできるアルカンはエタン ethane であるから、 末尾の -ane -ene に変えて ethene となる。 エテンは、慣用名の「エチレン ethylene」で呼ばれることも多い。慣用名 common name とは、正式な IUPAC 命名法に従った名称ではないが、慣用的に使われているも のである。 注1:論文などでは慣用名を乱用することは好ましくないとされている。IUPAC は、「使用し てもよい」慣用名の一覧を定めており、それ以外の物質については IUPAC 命名法による名称(組 織名)を使うことを勧めている。しかし、試薬メーカーのカタログや瓶ラベルは慣用名で記され ていることが多く、悩ましい。 炭素原子が3つ以上になると、二重結合の位置が二通り以上可能になる。この場合は、 位置番号をつけて二重結合の位置を指定する。 2. アルケンの構造 エチレンの二重結合とは、どんな結合なのだろうか。第1回で学んだ分子軌道の考え 方を思い出しながら、考えてみよう。エチレンの炭素原子は、水素原子2個および炭素 原子1個と結合している。3本の結合はすべて同一平面上にあり、互いに約 120°の角 C C H H H H CH 3 CH 2 CH CH 2 CH 3 CH CHCH 3 1 2 3 4 1 2 3 4 1-butene 2-butene

第7回「アルケンの構造と反応」tnagata/education/ochem1/2018/ochem1_07.pdf有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」 – 5 – 名城大学理工学部応用化学科

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有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 1 – 名城大学理工学部応用化学科

第7回「アルケンの構造と反応」

前回までは、主に有機化合物の「構造」に注目して学んできた。今回からは、いよいよ有機化合物の「反応」を本格的に取り扱う。

最初に取り扱う官能基は、「炭素-炭素二重結合」である。二重結合を持つ炭化水素をアルケン alkene と呼ぶ。今回は、最初にアルケンの構造的特徴について学び、次いでアルケンの代表的な反応である「求電子付加反応」について学ぶ。

1. アルケンの命名法

最も単純なアルケンは、エテンethene である。アルケンの名称は、二重結合に水素

をつけてできるアルカンの名称を元にして、末尾の -ane を -ene に変えたものである。エテンの場合、二重結合に水素をつけてできるアルカンはエタン ethane であるから、末尾の -ane を -ene に変えて ethene となる。

エテンは、慣用名の「エチレンethylene」で呼ばれることも多い。慣用名 common

name とは、正式な IUPAC 命名法に従った名称ではないが、慣用的に使われているものである。

注1:論文などでは慣用名を乱用することは好ましくないとされている。IUPAC は、「使用してもよい」慣用名の一覧を定めており、それ以外の物質については IUPAC命名法による名称(組織名)を使うことを勧めている。しかし、試薬メーカーのカタログや瓶ラベルは慣用名で記されていることが多く、悩ましい。

炭素原子が3つ以上になると、二重結合の位置が二通り以上可能になる。この場合は、

位置番号をつけて二重結合の位置を指定する。

2. アルケンの構造

エチレンの二重結合とは、どんな結合なのだろうか。第1回で学んだ分子軌道の考え方を思い出しながら、考えてみよう。エチレンの炭素原子は、水素原子2個および炭素原子1個と結合している。3本の結合はすべて同一平面上にあり、互いに約 120°の角

C CH

H H

H������

���������

CH3CH2CH CH2 CH3CH CHCH31234 1234

����� �����

1-butene 2-butene

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 2 – 名城大学理工学部応用化学科

度をなす。

このように、同一平面上の3つの等価な結合を作るためには、2s, 2px, 2py の3つの軌道を下のように混ぜ合わせればよい。

こうして生成した3つの軌道を sp2混成軌道という。 エチレンの結合は、これらの sp2 混成軌道を使って、次のように作られる。4本の

C–H結合は、炭素の sp2混成軌道と水素の 1s軌道が混ざり合ってできる。

(あと3本同様にできる)

また、C–C結合は、2つの炭素の sp2混成軌道が混ざり合ってできる。

これで全部だろうか? いや、実は炭素の p軌道が1つずつ残っている。混成軌道を

121.3°

117.4°

√31 s

√3√2 px

√31 s

√6px

1–

√6px

1–

√2py

1

√2py

1√31 s –

+

+ +

=

=

+ + =

結合性軌道 反結合性軌道H 1s C sp2

C sp2 C sp2 結合性軌道 反結合性軌道

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 3 – 名城大学理工学部応用化学科

作る時に使ったのは、2s, 2px, 2py の3つの軌道だった。だから、2pz軌道はそのまま残っている。しかも、電子も1つずつ余っている。そこで、2つの炭素の 2pz軌道が混ざり合って、結合性軌道に2つ電子が入り、結合を作る。

以上の考察から、エチレンの C–C 結合は、異なる二種類の結合からできていること

がわかる。一つは sp2軌道同士の重なりによる結合で、もう一つは pz軌道同士の重なりによる結合である。これらの結合は、原子軌道の重なり方に特徴的な違いがある。sp2

軌道同士の重なりでは、原子軌道のお団子(ローブ)が互いに向き合うように重なり合

っている。一方、2pz軌道同士の重なりでは、ローブが節面を共有するように重なりあっている。節面の両側では、位相が逆転する。

ローブの一つの節面を共有するように原子軌道が重なってできた結合をパイ結合(π結合)と呼ぶ。(すでに学んだシグマ結合=σ結合は、「ローブが向き合うように原子軌

道が重なってできた結合」である。)π結合の電子は、原子核が節面上にあるため、σ結合の電子と比べて原子核との結び付きが弱く、エネルギーが高い。このため、π結合の電子は化学反応に関与しやすい。

C–C のσ結合・π結合について、分子軌道ダイアグラムを書くと、以下のようになる。π結合の電子がσ結合の電子よりもエネルギーが高いことがわかるだろう。また、元の原子軌道のエネルギーからの「安定化」を比較すると、π結合の方が小さいことも

わかる。このことから、「π結合の方がσ結合よりも弱い」と言える。

C 2pz C 2pz 結合性軌道 反結合性軌道

節面

σ(シグマ)結合 π(パイ)結合

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 4 – 名城大学理工学部応用化学科

単結合と違って、二重結合は自由回転できない。C–C 結合周りの回転に関するエネルギー図は下のようになる。ちょうど 90°回転したところでエネルギーが極端に高くなることがわかる。エタンやブタンの場合は、一番高いところのエネルギーが 3~6

kcal/mol だったから、桁が違っている。これほどエネルギーが高くなるのは、二面角が 90°の時に2つの炭素原子の p 軌道が互いに垂直な方向を向くために、軌道同士の重なりができなくなってしまうからである。つまり、この状態では「π結合が切れている」

ことになる。この障壁を越えて回転するには、分子に大きなエネルギーを与えなくてはならない。従って、室温で普通に存在している分子では、C–C 二重結合は回転できない。

二重結合が(通常の状態では)回転できないことから、ある種のアルケンには立体異性体が存在する。特に、二重結合の両側の炭素に1つずつ置換基がついている化合物については、2つの置換基が二重結合の「同じ側」にある異性体と、「異なる側」にある

異性体とが存在する。シクロアルカンの立体異性体と同様に、「同じ側」にある異性体を cis体、「異なる側」にある異性体を trans体と呼ぶ。

2p

σ結合性軌道

σ反結合性軌道エネルギー

sp22psp2

π反結合性軌道

π結合性軌道

π結合の安定化エネルギー

σ結合の安定化エネルギー

0 120 240 3600

20

40

60

H–C–H 二面角 (°)

エネルギー

(kca

l/mol

)

HHH

H

HH

H

H

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 5 – 名城大学理工学部応用化学科

三つ以上置換基を持つアルケンについても、同様に立体異性体が存在する場合がある。

この場合は、cis/trans ではあいまいさが残ることがあるので、置換基の順位(第6回で学んだ)を用いて命名する。たとえば、下の2つのアルケンは互いに立体異性体である。置換基の順位が R1 > R2, RA > RB であるとすると、左の化合物(高い順位の置換基

が二重結合の同じ側)を「(Z)体」、右の化合物を「(E)体」と呼ぶ。「Z」「E」は、それぞれドイツ語の zusammen(同じ)、entgegen(反対)からとられたものである。

アルケンの sp2炭素はビニル炭素 vinylic carbon 、それに隣接する sp3炭素をアリル炭素 allylic carbon と呼ばれる。ビニル炭素、アリル炭素を含む最小の基は下のとおりであり、それぞれ「ビニル基」「アリル基」と呼ばれる。

ビニル炭素・アリル炭素上の置換基は、独特の反応性を示すことが多い。

3. アルケンの反応:求電子付加反応

アルケンの典型的な極性反応として、求電子付加反応 electrophilic addition reaction

がある。一例を下に示す。trans-2-ブテンと HBrが反応して、2-ブロモブタンが生成する。この反応について、詳しく調べて行こう。

化学反応は、「何と何が反応して」「何ができるか」によって特徴づけられる。反応前

の物質のことを「反応物」reactant、反応後の物質のことを「生成物」productと呼ぶ。これからよく出てくる用語なので、覚えておこう。特に、「反応物」を「反応後にでき

C CH

H3C CH3

HC C

H3C

H CH3

H

cis-2-butene trans-2-butene��������� ����������

�������

������� �

C CRA

RB

R1

R2C C

RB

RA

R1

R2(Z)-� (E)-�

CH2 CH CH2 CH CH2

���� ����vinyl group allyl group

C CH3C

H CH3

H+ H Br C C

H3CH

CH3

H

BrH

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 6 – 名城大学理工学部応用化学科

た物質」と勘違いしないように(それは「生成物」)。 上の反応では、反応物(反応前の物質)は trans-2-ブテンと HBr、生成物は 2-ブロ

モブタンである。反応物の2つの分子に含まれる原子が、すべて生成物の1つの分子に

含まれており、失われる原子はない。このような反応を付加反応 addition reaction と呼ぶ。 もう少し詳しく化学反応を論じるためには、「どの結合が生成するか」「どの結合が切

断されるか」「それら(結合の生成・切断)がどの順序で、なぜ起こるか」を知る必要がある。このように、特定の結合の生成・切断とそのタイミング・原因を記述したものを反応機構 reaction mechanism という。本講義の主要な目標の一つは、代表的な有機

化学反応について、反応機構を説明できるようになることである。

4. 求電子剤と求核剤

アルケンに対する HBrの付加反応の反応機構を理解するには、「求電子剤」と「求核剤」という概念が有用である。これらの言葉は、すでにルイス酸・塩基のところで登場したが、もう一度復習しておこう。

有機反応の多くは「極性反応」である。極性反応とは、電子豊富な原子や分子と電子不足の原子や分子との間で起こる反応である。極性反応の典型的な例は、酸・塩基反応である。この反応は、正に分極して電子不足となっている水の H 原子が、電子豊富な

Nから電子対を受け取ることによって進行する。

電子不足の原子や分子を求電子剤 electrophile と呼ぶ。-phile は「~を好む」という

意味の接尾語なので、electrophile は “electron(電子)を好む” という意味になる。求電子剤は、上のように正に分極した分子の一部でもよいし、正電荷を持ったイオンでもよい(例:H+, NO2+など)。また、中性分子であっても、最外殻に電子が6個しかない

ため、電子を欲しがるものもある(例:BH3などのルイス酸)。 一方、電子豊富な原子や分子を求核剤 nucleophileと呼ぶ。Nucleophileは “nucleus

(原子核)を好む” という意味である。原子核は正の電荷を持つものなので、求核剤と

は要するに「正電荷のあるところを好む」ものである。求核剤は、求電子剤に対して供給できる電子対を持っている。この電子対は、上の例のようにローンペアであってもよ

NH

HH

HO

H!–

!++

� �������

���������

H NH

HH

O H+

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 7 – 名城大学理工学部応用化学科

いし、これから見るアルケンのようにπ結合の電子であってもよい。「電子豊富」といっても、負電荷や負に分極した原子を持っているとは限らない。ローンペアや二重結合は、「原子核に対して電子の数が多い」ため、電子豊富とみなすことができる。

以上をまとめると、極性反応とは、求核剤が求電子剤に対して電子対を供給することで進行する反応である、と言える。

5. アルケンと HBrの反応:第一段階・カルボカチオンの生成

trans-2-ブテンと HBrの反応に戻ろう。まず、2つの反応物の性質を調べてみる。 trans-2-ブテンは炭素-炭素二重結合を持つ。二重結合はσ結合とπ結合から成って

おり、2つの原子の間に4つの結合電子があるため、電子豊富である。すなわち、trans-2-ブテンは求核剤として働く。特に、π結合の電子の反応性が高い。 一方、HBr は、Hが正に、Brが負に分極した構造を持つ。この分極は、Hと Brの

電気陰性度の違いによって起きる。正に分極した H原子は、求電子剤として働く。

これらの分子が近づくと何が起こるだろうか。電子豊富な trans-2-ブテンのπ電子は、電子が足りない HBrの H原子と結合を作ろうとする。

そうすると、何が起きるだろうか。π電子の2個の電子は、C–H の新しい結合を作

るのに使われる。H は最外殻に2個しか電子を持てないので、Cと電子を共有し始めると同時に、H–Br で共有していた電子を Br に渡す。

σ(シグマ)結合 π(パイ)結合

反応性高い

!–!+

H Br

CH

H3CCCH3

HH Br

����������� ��

H��������

CH

H3CCCH3

HH Br

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 8 – 名城大学理工学部応用化学科

左側の炭素は、「今まで右側の炭素と共有していたπ電子」を奪われてしまうので、価電子が一つ減って、プラスの形式電荷を持つことになる。正の形式電荷を持つ炭素を含む化学種をカルボカチオン carbocation と呼ぶ。

H–Br 結合の電子は、Br上にそのまま残って、ローンペアとなる。Brの方は、Hと共有していた電子が自分のものになるので、価電子が一つ増えて、マイナスの形式電荷

を持つことになる。

ここまでの反応を、巻き矢印を使って表現してみよう。この反応での電子の動きは次の2つで、これらが同時に起きている。

① C–Cπ結合の電子が、C–Hσ結合の電子になる。

② H–Brσ結合の電子が、Br上のローンペアになる。 これらを表す巻き矢印は下の通りである。①の矢印の出発点は C–Cπ結合、到達点

は H 原子である。この矢印は、「C–Cπ結合の電子」が移動して、C–H 結合を作るこ

とを示している。一方、②の矢印の出発点は H–Brσ結合、到達点は Br 原子である。この矢印は、「H–Brσ結合の電子」が移動して、Br 原子上のローンペアになることを示している。

上のケクレ式では、Br 上のローンペアのうち、反応前後で変化しない3つのローンペアは省略している。右辺の1つのローンペアは、②の巻き矢印によって新たに生成し

たものである。反応機構を巻き矢印で表す時は、このように「反応に関与するローンペア」のみを示すことが多い。ローンペアを省略するのに慣れてしまうと、新たに生成したローンペアを書き忘れることが多いので、よく注意すること。

CH

H3CCCH3

HH

H� �����������

Br

����������� ���

��������

C CH3C

H CH3

H+ H Br C C

H3C

H CH3

HH + Br–

� �

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 9 – 名城大学理工学部応用化学科

注2:①の巻き矢印は、「Hと結合するのがどちらの C原子か」を明示していない。これを明示したいときは、巻き矢印の到達点を原子にせずに、新しく作られる結合を点線で表記して、「結合から結合に」巻き矢印をつける書き方もある。このように書けば、二重結合の右側の C 原子が Hと新しく結合を作ることが明示される。

6. アルケンと HBrの反応:第二段階・カルボカチオンと求核剤の反応

さて、trans-2-ブテンと HBr の反応の第一段階は、カルボカチオンを生成する反応であることがわかった。それでは、次の段階は何だろうか? 第一段階の生成物は、カルボカチオンと Br–である。このうち、カルボカチオンは正

電荷を持っており、求電子剤として働く。また、Br–はローンペアを持ち、求核剤として働く。これらが互いに引き合って、反応すると考えるのが自然である。下のように、Br–のローンペアが正電荷を持つ C原子と共有され、C–Br結合を作る。

巻き矢印で書くと次のようになる。今回は、動く電子対が一組だけなので、巻き矢印

も一本になる。この巻き矢印は、「Br 上のローンペアの2つの電子が移動して、C–Brσ結合の共有電子になる」ことを表している。

注3:左辺では巻き矢印が「上から」C 原子に向かっているが、右辺では Br 原子は「下から」結合している。これはこのままで構わない。巻き矢印は、「電子対がどの原子とどの原子を結びつけるか」を表示するだけであり、生成する結合の空間的な向きを表示するものではないからである。

以上をまとめると、trans-2-ブテンと HBr の反応は、下のような二段階で起きると言える。これがこの反応の「反応機構」である。

C CH3C

H CH3

H H Br

CH

H3CCCH3

HH Br

�������������

�� ������

CHH3C

CCH3

HH+

Br

������C–Br��

C CH3C

H CH3

HH + Br– C C

H3CH

CH3

HH

Br

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 10 – 名城大学理工学部応用化学科

7. 巻き矢印についての注意

巻き矢印を書く際に、間違いやすい点についていくつか注意しておく。 (1) 矢印は電子の動きに沿った向きで書く。矢印の開始点は電子豊富なローンペアま

たは結合であり、終着点は電子不足の原子または結合である。また、電子が動いた後は、矢印の開始点では電子が減り、終着点では電子が増えるはずである。 よくある誤りの例を示す。

左の反応では、開始点の Brの負電荷が増え、終着点の Oの負電荷が消えている。ま

た、右の反応では、開始点の Oの正電荷が消えて、終着点の Hの正電荷が増えている。

いずれも、矢印が示す電子の動きとは一致していない。正しくは、下のようになる。特に、H+ が脱離する反応で「巻き矢印を H に向ける」という誤りが多いので、注意すること。

(2) 巻き矢印は「電子の動き」を表す。「原子の移動」ではない。これは、H+が結合

する反応で誤るケースが多い。

(3) 巻き矢印の先は必ず「原子」か「結合」に向ける。何もない空間に向けてはいけ

C CH3CH

CH3

HH

Br

C CH3C

H CH3

H+ H Br C C

H3C

H CH3

HH + Br–

CO

BrCH3

CH3 CO

CH3

CH3 + Br– CH3 O HH

CH3 OH

+ H+

���� ����

CO

BrCH3

CH3 CO

CH3

CH3 + Br– CH3 O HH

CH3 OH

+ H+

����� �����

CH3 OH

+ H+ CH3 O HH

�����

CH3 OH

+ H+ CH3 O HH

����

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 11 – 名城大学理工学部応用化学科

ない。

(4) 巻き矢印は「電子の動き」を表すので、出発点は必ず「電子源」、すなわち「結合」

または「ローンペア」である。原子から始めてはいけない。

8. カルボカチオンの構造と安定性

カルボカチオンは、有機化学における重要な反応中間体の一つである。カルボカチオンの構造と基本的な性質について、ここで学んでおこう。 最も簡単なカルボカチオンは、メチルカチオンである。

C上のプラスの形式電荷は、価電子が一つ減っていることを意味している。すなわち、この C 原子の価電子は3個である。この3個の価電子が、3つの H 原子と一つずつσ結合を作る。従って、C原子の最外殻電子は6個となる(共有結合1本あたり2個の電

子と数える)。最外殻電子が8個に満たないため、カルボカチオンはオクテット則を満たしていない。 メチルカチオンの C–H結合はどのような原子軌道からできているのだろうか。Cに

結合している原子は3つしかない。もし C 上にローンペアがあれば、ローンペアを含めて「4つの電子対」を収めるために sp3 混成になるが、カルボカチオンにはローンペアがないので、結合を作る軌道は3つあれば十分である。そこで、Cは sp2混成になり、

3つの sp2混成軌道を使って C–H 結合が作られる。すなわち、メチルカチオンは平面構造である。

CH3CO

OCH3

+ HO– CCH3

OOCH3

OH

�����

CH3CO

OCH3

+ HO– CCH3

OOCH3

OH����

C CCH3

H3C H

H+ H–Br

�����

C CCH3

H3C H

H+ H–Br

����

CH

HH

�������

methyl cation� ���

�� ���

有機化学Ⅰ 講義資料 第7回「アルケンの構造と反応」

– 12 – 名城大学理工学部応用化学科

(あと3つ同様にできる)

sp2混成軌道ということは、Cの p軌道が1つ余っているはずだが、それはどうなっているのだろうか。最外殻電子は6個しかなく、これらは C–Hの3つの結合性軌道に2つずつ入っているので、この p軌道は空っぽのままのはずである。

この「空の p軌道」の存在は、カルボカチオンの性質、およびカルボカチオンを経由する反応に対して、大きな影響を与える。詳しくは、次回以降に学ぶことにしよう。

8. 今回のキーワード

・アルケンの命名法

・sp2混成軌道 ・σ結合とπ結合 ・アルケンの立体異性体、E/Z 表記法

・ビニル炭素、アリル炭素 ・反応物、生成物 ・付加反応

・反応機構 ・求電子剤、求核剤 ・アルケンの求電子付加反応(反応例、反応機構とともに)

・巻き矢印の正しい書き方 ・カルボカチオン(最外殻電子、構造、空軌道) 【教科書の問題(第5章)】

19, 39, 42, 50, 52, 巻き矢印のチュートリアル

C sp2H 1s 結合性軌道 反結合性軌道

空のp軌道