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□司会:高橋 真理子 (朝日新聞科学エディター) 私の「科学エディター」という 肩書はちょっと分かりにくいかと思 いますが、科学グループ30人の記者 の取りまとめ役で、普通の組織で言 えば科学部長ということになるのだ と思います。 では早速、今日のシンポジウム を始めたいと思います。急きょ山中 先生がいらっしゃれなくなって、 「今朝6時に電話をいただいた」と おっしゃっております、山中先生の チームの助教・高橋和利さんにまず ご登壇いただきます。高橋さんは山 中先生と一緒にずっとこのiPS研究 を進めてこられた方です。ではよろ しくお願いします。 〔本文中の注は事務局による〕 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ▼高橋和利 予定外の高橋です が、私のほうからもお詫びさせていた だきます。私の研究室のボスである山 中伸弥教授が今日この場に立つはず でしたが、体調がとても悪いということ で急きょ代理を務めさせて戴きます。 山中教授のお話を聞きたくてここに来 られた方もきっといらっしゃると思いま すが、今日は一生懸命やらせていただ きますので、よろしくお願い致します。 ES細胞とは ES細胞 という細胞があります。この 細胞は今から約25年前にネズミの受精 卵をばらばらにすることによって樹立さ れました。ご存じの方も多いと思います が、去年のノーベル医学賞はこのネズ ミのES細胞を発見した先生に授与され ました。 Embryonic Stem Cell 、胚性幹細胞。 このES細胞がどのような性質を持っ ているかご存じの方も多いと思います が、将来赤ちゃんになる部分の細胞を 培養したものがこのES細胞です。です から、このES細胞を試験管内で培養し てある刺激を与えると、例えば神経に なったり筋肉になったりというようにさま ざまな細胞へと変化することができま す。このようなすべての細胞へ分化で きる能力を「多能性」といいます。これ を分かりやすく「万能性」という場合もあ ります。 ES細胞がもう1つ素晴らしい点は、培 養皿の中でほぼ無限に増殖できる点 にあります。「幹細胞」とはある特定の 細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培 養皿の中で増殖させることが非常に難 しいのです。 一方、受精卵からつくったES細胞 報告iPS細胞の樹立とその展開 高橋 和利 京都大学iPS細胞研究センター助教 高橋 和利 (たかはし かずとし) 京都大学iPS細胞研究センター助教 □略歴 2000年 同志社大学工学部卒業 2005年 奈良先端科学技術大学院大 学バイオサイエンス研究科修了 2005年 博士号取得 (バイオサイエンス) 2005年 京都大学再生医科学研究所 研究員 2006年 京都大学再生医科学研究所 助教 現在に至る 1 ES細胞による再生医学

報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

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Page 1: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

□司会:高橋 真理子 (朝日新聞科学エディター)

私の「科学エディター」という

肩書はちょっと分かりにくいかと思

いますが、科学グループ30人の記者

の取りまとめ役で、普通の組織で言

えば科学部長ということになるのだ

と思います。

では早速、今日のシンポジウム

を始めたいと思います。急きょ山中

先生がいらっしゃれなくなって、

「今朝6時に電話をいただいた」と

おっしゃっております、山中先生の

チームの助教・高橋和利さんにまず

ご登壇いただきます。高橋さんは山

中先生と一緒にずっとこのiPS研究

を進めてこられた方です。ではよろ

しくお願いします。 〔本文中の注は事務局による〕

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

▼高橋和利 予定外の高橋です

が、私のほうからもお詫びさせていた

だきます。私の研究室のボスである山

中伸弥教授が今日この場に立つはず

でしたが、体調がとても悪いということ

で急きょ代理を務めさせて戴きます。

山中教授のお話を聞きたくてここに来

られた方もきっといらっしゃると思いま

すが、今日は一生懸命やらせていただ

きますので、よろしくお願い致します。

ES細胞とは

ES細胞*という細胞があります。この

細胞は今から約25年前にネズミの受精

卵をばらばらにすることによって樹立さ

れました。ご存じの方も多いと思います

が、去年のノーベル医学賞はこのネズ

ミのES細胞を発見した先生に授与され

ました。 * Embryonic Stem Cell 、胚性幹細胞。

このES細胞がどのような性質を持っ

ているかご存じの方も多いと思います

が、将来赤ちゃんになる部分の細胞を

培養したものがこのES細胞です。です

から、このES細胞を試験管内で培養し

てある刺激を与えると、例えば神経に

なったり筋肉になったりというようにさま

ざまな細胞へと変化することができま

す。このようなすべての細胞へ分化で

きる能力を「多能性」といいます。これ

を分かりやすく「万能性」という場合もあ

ります。

ES細胞がもう1つ素晴らしい点は、培

養皿の中でほぼ無限に増殖できる点

にあります。「幹細胞」とはある特定の

細胞へとなる力がある細胞ですが、体

の中にもたくさんの種類があります。し

かし大人の体の中にある幹細胞は、培

養皿の中で増殖させることが非常に難

しいのです。

一方、受精卵からつくったES細胞

報告1 iPS細胞の樹立とその展開

高橋 和利 京都大学iPS細胞研究センター助教

高橋 和利 (たかはし かずとし)

京都大学iPS細胞研究センター助教

□略歴 2000年 同志社大学工学部卒業

2005年 奈良先端科学技術大学院大

学バイオサイエンス研究科修了

2005年 博士号取得

(バイオサイエンス)

2005年 京都大学再生医科学研究所

研究員

2006年 京都大学再生医科学研究所

助教

現在に至る

1 ES細胞による再生医学

Page 2: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

は、がん細胞にも匹敵するほど半永久

的に増殖することができます。この2つ

の能力を合わせますと、理論的には、

神経や筋肉などさまざまな細胞を必要

なときに必要なだけ準備できる可能性

が期待されます。

たった1個のES細胞を培養皿の中で

増やします。ごく簡単に増やせます。

それを、例えばかなり難しいのですが

膵島〔スイトウ〕細胞*へと分化させたとし

ます。うまく分化させられたら、これを膵

臓へと注射して糖尿病の患者さんを救

うことができるのではないかということが

理論上考えられます。 * 膵臓内の島状の細胞で、血中の糖を

調整するホルモンを出す。

ES細胞からドーパミン産生細胞をつ

くることができればパーキンソン病がよ

くなるかもしれないですし、造血幹細

胞で白血病がよくなるかもしれません。

実際のところ、「かもしれない」 というの

はまだ実用段階には至っていないとい

うことでして、動物実験などではある一

定の成果は上げられています。

ES細胞の課題ですが、完ぺきに思え

るES細胞なのですが、課題が幾つか

あります。まず1つ目は、移植後の拒

絶反応が心配される点です。もう1つ、

ヒト胚の利用という問題もあります。ヒト

の胚というのは将来10ヵ月たてば赤ち

ゃんとして生まれてくるわけですから、

これをばらばらにすることに対しては異

論を唱える人も少なくありません。実際

に日本ではあまり大声で叫ばれること

は少ないとは思いますが、特にカトリッ

クの方の多い欧米では非常に反対意

見が根強いです。実際にブッシュ大統

領も反対している方の1人です。

ES細胞に代わるものは

今まで述べたようにES細胞の作成に

は受精卵が使われますが、受精卵とい

っても患者さんにとっては他人ですの

で、拒絶反応が心配されます。さらに

その受精卵を破壊するということは生

命倫理的にも問題があります。ES細胞

というすごく優れた細胞ですが、それを

使うにはこれらの課題が常に付きまと

います。

そこでこの分野の方々は、どうにかし

て例えば患者さんの皮膚細胞など、体

から採りやすい細胞を初期化し、記憶

をリセットして、もともと受精卵だったと

きの状態に戻せないか、ES細胞によく

似た細胞をつくれないかということを

ずっと考えてきました。

当然いろいろ試行錯誤があったので

すけれど、ここで私たちが着目した方

法は今から述べるとおりです。

体の細胞もあらゆる細胞に分化でき

るES細胞も、持っている遺伝子、すな

わち細胞の設計図は同じです。この遺

伝子は同じなのですが、この読み手で

ある転写因子*などがこの設計図であ

る遺伝子からRNAというものを合成し

て、その後タンパク質をつくり出します。 * DNAの遺伝子(設計図) を RNA (リ

ボ核酸)に写し取る作業を転写とい

い、タンパク質をつくるスイッチを転写

因子という。

このタンパク質が実際に細胞の中で

いろいろな働きを行って、細胞というも

のを形づくります。この読み手〔転写因

子〕にそれぞれ個性があり、皮膚では

皮膚の読み手がその設計図のある部

分を読んで皮膚を形づくる。ES細胞で

はまた別の読み手が別の設計図の部

分を読んでES細胞をつくり上げる、と

いうふうにして体中の細胞の違いをつ

くり出しています。

遺伝子を24個に絞り込む

「では、皮膚の細胞にES細胞の読み

手、つまりES細胞らしさをつくり出して

いる読み手を入れてやれば、ES細胞

みたいな細胞ができるのではないか」

――という非常に単純な発想のもとに

研究を行いました。

このES細胞ならではの読み手という

ものを探すのに4、5年ぐらいかかりま

した。これは私たちが文献を読みあさ

ったり、インターネットで調べたりしてこ

ういう役者をそろえました。100個ぐらい

あった遺伝子をコンピュータの解析に

よって最終的に24種類まで絞り込みま

した。

最初に行った実験はマウスでやった

のですが、マウスの皮膚細胞に選び出

した24種の遺伝子を1つひとつずつ入

れていきました。これでES細胞ができ

たらいいなと。あまりできるとも思って

やっていなかったのですが、やったと

ころやっぱりできませんでした。そんな

に簡単にできるのだったら、とっくの昔

に誰かがやっていたはずでしょう。

次に、ちょっとみんなから半分ばか

にされた時期もあったのですが、24種

をいっぺんに入れたら何か起こるので

はないかなと考え、マウスの皮膚細胞

に24種類全部の遺伝子を入れました。

これで駄目ならまた別の方法を試そ

うかと思っていたのですが、実はこの

24種を入れた場合のみ、皮膚細胞か

らES細胞によく似た細胞が現れまし

た。この細胞はES細胞に見た目がそっ

くりでした。そのES細胞らしさをつくり上

げている遺伝子の種類を見てみると、

もともと皮膚だった細胞が皮膚のパタ

ーンとは違ってES細胞のパターンに非

常によく似た状態に変化していること

が分かりました。24個の遺伝子を入れ

ることで、マウスの皮膚細胞からES細

胞によく似た細胞ができたので、ここで

当初の目標はクリアされたということに

なりました。

マウスiPS細胞の樹立

素人同然の私たちが選び出した24

種の遺伝子すべてが重要だとは、さす

がの私たちでもそこまで考えは浅くあり

ません。24種の中には本当に必要な

因子が幾つか含まれていて、それ以

外はなくてもいいのではないか。

では一体、遺伝子のどんな組み合

わせでES細胞のような細胞をつくること

ができるのか。24種のうち、まず正解が

何種のセットか分かっていない状態で

す。正解の組み合わせは4種かもしれ

ないし10種かもしれないし、22種かもし

れないというような状態です。一体何

通りの組み合わせを試せば正解にた

どり着くのかと考えますと、これはもう星

の数ぐらいの、組み合わせを試す必要

があります。当時は私が1人で実験を

やっていましたので、それは絶対無理

でした。

そこで24種から1種引いた23種ずつ

の組み合わせでやれば、これは24種

類やればすむ実験ですが、もし除いた

遺伝子が本当に重要な遺伝子であれ

ば、その除いたパターンからはES細胞

によく似た細胞は絶対現れてこない。

どうでもいい遺伝子を抜いた場合は、

そこからは問題なくES細胞のような細

胞ができてくるだろうと思い、そういう実

験を行いました。

その結果は私が想像した以上にうま

くいきました。例えば7番というある遺

伝子を除いて1、2、3、4、5、6から24

番までの23種類を混ぜた場合には、た

くさんのES細胞のような細胞が現れま

2

Page 3: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

した。しかし一方で14番、15番、20番と

いうものをそれぞれたった1つ抜いもの

では、もうその培養皿にはES細胞のよ

うな細胞はまったく現れませんでした。

その後、では3つから1つ引いて2つ

ではできないかとか、最初に1つでは

できなかったのですがもう1回1つで

やってみたらできるのではないかと

思って、最初のセットというのを決めま

した。

その結果、先ほど番号で示したので

すが、このOct3/4、Sox2、Klf4という3

種類の転写因子〔遺伝子〕の読み手を

皮膚細胞に入れてやることによって、

ES細胞によく似た細胞ができることを、

マウスの細胞で発見することができまし

た。

これが2006年の話で、人工多能性幹

細胞、英語では“induced pluripotent

stem cell”、略して「iPS細胞」という名

前を付けて報告いたしました。

私たちがどうして2006年にマウスの

iPS細胞をつくることができたのでしょう

か。先ほど言ったように、私たちは特別

な技術も持っていませんし、手先も

まったく器用ではありません。それは、

過去25年間行われてきたマウスES細

胞の研究による知識の蓄積があったか

らこそ、マウスiPS細胞の誕生につな

がったのだと思います。

私たちは2万種類ぐらいある遺伝子

を24種類まで絞り込んだわけですが、

そのほとんどはコンピュータによる解析

で絞り込みました。そのコンピュータと

いっても家にある小さいコンピュータで

はありませんで、理化学研究所の先生

方がゲノム、遺伝子の網羅的な地図を

作成されていましたので、そのデータ

ベースを活用させていただいて遺伝子

を絞り込むことができました。

このようにさまざまな方のお力を借り

て、マウスiPS細胞が誕生しました。

ヒトiPS細胞の樹立

マウスES細胞というのは今から25年

前にできたのですが、ヒトES細胞という

のは1998年にアメリカのウイスコンシン

大学で作成されました。マウスES細胞

からヒトES細胞ができるまでに17年もの

歳月がかかっています。なぜそんなに

かかったかといいますと、1つは先ほど

述べたようにヒトの受精卵を使用する

にはハードルが高いというポイントもあ

ると思いますが、もう1つ重要なことは

マウスES細胞とヒトES細胞では培養条

件が全く違うことです。

恐らく私の想像も半分入っているの

ですが、人間のES細胞を培養する最

適な条件を見つけるのにもかなりの年

数がかかったのではないかと思いま

す。しかしiPS細胞では、それまでにES

細胞の研究で培養の最適な条件を探

していた方が過去におられましたの

で、また私はひそかにその論文を読ん

でマネをするだけで、いとも簡単に、マ

ウスで作成後たった1年間でヒトのiPS

細胞を作成することができました。

マウスとヒトのES細胞は見た目もだい

ぶ違いますし、性質も必ずしも同じとは

思えません。しかも幸運だったこと

は、この読み手というのはマウスと

ヒトに共通していました。

このOct3/4、Sox2、Klf4という3

因子をやはりヒトの皮膚細胞に入れ

てやることでヒトES細胞によく似

たヒトiPS細胞を作成することがで

きました。これは2006年にマウス

iPS細胞の作成を報告してからたっ

た1年、2007年11月に報告すること

ができました。 2006年のマウスiPS細胞の報告を

したときには、一応私たちが世界で

1番に報告することができました。

しかし、たった1年しかたっていな

い2007年のヒトiPS細胞では、すで

にアメリカのウイスコンシン大学と

同着でした。同着というかむしろ

ちょっと負けたのではないかと思う

ぐらい、ぎりぎりの戦いだったので

すが。

その1ヵ月後にはハーバード大学

の論文が出て、その1ヵ月後にはカ

リフォルニア大学、さらに2ヵ月後

にはバイエル薬品も論文を出してき

ました。今では少なくとも世界で10研究所から論文が出ていますし、論

文にしていない企業なども含めれ

ば、もっとたくさんのところでヒト

iPS細胞の樹立に成功していると思

います。それぐらい簡単に、大学院

生でもできるぐらいで、このES細胞によく似たヒトiPS細胞が樹立で

きるということです。

繰り返しになりますが強調して

おきたいことは、私たちだけでなく

ウイスコンシン大学もそうだと思う

のですが、ヒトiPS細胞をマウスか

らたった1年でつくることができた

のは、マウスiPS細胞を研究してい

たというメリット、アドバンテージ

〔優位〕があったということです。

あとはこちらのほうがもっと大

きいと思うのですが、過去10年間に

ヒトES細胞の研究が行われて、そ

の培養方法とか条件を研究されてき

た先生方の成果をちょっとお借りで

きたからだと思います。 多能性の検証

ヒトのES細胞とヒトのiPS細胞の

写真を比べて見ると、あまり似てな

いようにも見えるのですが、実はよ

く似たあまり区別も付かないぐらい

そっくりな細胞です。ES細胞は受

精卵からつくっていますし、私たち

のiPS細胞は36歳の女性の皮膚から

つくっています。今まで示したのは

形が似ていることと、使われている

遺伝子が似ているということだけ

で、本当に皮膚からつくったiPS細

3

ES類似細胞

の誘導

ES細胞 iPS細胞

報告1 iPS細胞の樹立とその展開

Page 4: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

胞がES細胞と同じように万能性を

持つかということはまだ示しており

ません。

ES細胞は培養皿の中で刺激を加

えると神経細胞や筋肉、皮膚、骨髄

などさまざまな細胞へと変化するこ

とができます。私たちは自分たちで

つくったiPS細胞がどれぐらいES細胞と似ているのかを検証しました。

これは神経の写真です。赤く染ま

っている細胞がいわゆる神経細胞で

して、そのβ3チューブリン〔細胞

骨格を形成する線維の1つ〕という神

経ならではのタンパク質を発現して

いる細胞です。この黄緑色で染まっ

ている細胞はTHというタンパク質

を出している細胞でして、これは

ドーパミン〔神経伝達物質〕産生

ニューロンの特徴の1つです。

これは以前に理化学研究所の笹井

芳樹先生がヒトES細胞で確立され

た方法にのっとって、ドーパミン産

生ニューロンへの分化誘導をiPS細胞で私たちが行ったものです。

ES細胞で確立された方法と同じ

方法で、ヒトiPS細胞からもドーパ

ミン産生神経細胞をつくることがで

きました。これも同じくヒトiPS細胞で確立された条件、方法を用いて

ヒトのiPS細胞を拍動する心筋細胞

へと分化させたものです。この写真

を撮ったたった3カ月前にはこの細

胞は単なる皮膚の細胞でしたが、3

カ月後iPS細胞になることを経て拍

動する心筋細胞へとなることができ

ました。

そのほかにもある一定の実験方法

を経ることによって腸管によく似た

構造、管状の構造ですとか筋肉に分

化することができます。これは皮膚

組織ですね、組織の切片でちょっと

見た目あまり気持よくないものは軟

骨です。その他、脂肪組織や神経組

織などあらゆる細胞へと分化する能

力があることが確認できました。 私たちが2007年に報告した論文で

は扱いやすさを重視したので、36歳の白人女性の皮膚を用いました。最

近、日本人の皮膚を用いてiPS細胞

の樹立を行ってみました。日本人の

皮膚は患者さんからもらったわけで

はなく、日本の細胞バンクに預けら

れているものをいただいて今15人以

上の日本人からのiPS細胞をつくる

ことに100%成功しています。その

中には6歳の女の子、36歳の男性、

そして81歳の女性の皮膚からiPS細胞を作成しています。ここまで紹介

したのが私たちのこれまでの成果の

概略です。

病因解明や創薬研究への利用

今後の目標について述べさせてい

ただきます。iPS細胞の技術という

ものは、患者さんの体の細胞に特定

の読み手の遺伝子を入れてやること

によって多能性を持つiPS細胞がで

きることを証明いたしました。この

iPS細胞がES細胞と厳密に同じもの

かという証明はまだこれから慎重に

検討しなければならないのですが、

少なくとも幾つかのテストにおいて

はES細胞と同じような能力を持っ

ていると考えています。

このいろいろな細胞に分化でき

る細胞に刺激を与えれば神経細胞や

筋肉細胞、肝臓の細胞や膵臓の細胞

もつくれるものと理論上考えられま

す。すでにどこかで行われているに

違いないと思っています。

真っ先にiPS細胞が世の中の役に

立つ可能性があるとすれば、患者さ

んからつくったiPS細胞を用いた病

気の原因解明や薬の効果の検討で

す。本来ならば体に打たないとでき

ないような試験を培養皿の中で行え

ることで、最も早く実現しそうだと

考えています。

例えば薬効の評価の1例として、

「QT延長症候群」(LQTS)につい

て紹介します。心臓の心電図の波形

は一定のリズムを刻むわけですが、

その一部がちょっと長くなることが

このQT延長症候群の特徴です。

それだけでは波形の間隔が長くて

何が悪いのか分からないかと思いま

す。この病気は原因が1つではあり

ません。遺伝性で、お父さん、お母

さんから受け継いだ場合もあれば、

何かの薬の副作用で誘発される場合

もあります。その原因が違えば当然

治療法も違うわけで、それがどのパ

ターンなのかを試すためには、現在

はやはり患者さんに負担を強いるよ

うな方法で調べるしかありません。

QT延長症候群は致死性の不整脈を

起こす危険が非常に高い病気なので

す。

例えばこの病気の患者さんの皮

膚からiPS細胞をつくれば、培養皿

の中でどのような薬が患者さんにと

って効くのかがテストできて、自分

に適したお薬で患者さんが治療を受

けることができる可能性がありま

4

今後の目標

〔参考図版) Q-T 間隔の延長

Page 5: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

す。iPS細胞を使えば、この培養皿

でつくった心筋細胞でテストをする

ことで、患者さんの体に負担を強い

ることなく治療を行うことができる

のではないかと期待しています。 iPS細胞による細胞療法

さらに、これは期待されている方

が多いと思うのですが、細胞移植治

療がもう1つの応用として考えられ

ます。ただ山中教授もよく講演など

でお話されていますが、細胞移植治

療に関しては安全性の確保が最も重

要な課題だと思います。どこまで研

究すればOKなのかは難しい判断だ

と思いますが、現在では私たちは3

種類の読み手をウイルスを使って皮

膚の細胞移植へと導入しています。

私たちが使っている読み手の中に

は、いわゆるがんの原因になる遺伝

子もあります。その読み手が暴走す

れば、この細胞移植治療後にがんに

なる可能性があります。それがどれ

ぐらい危険かをまず慎重に検討しな

ければなりませんし、当然その危険

性を取り除く研究も行われると思いま

す。細胞療法を行うには、もう少し

時間がかかるのではないかと思いま

す。 iPS細胞バンク

現在、京大の山中研究室と慶応大

学の岡野研究室との共同研究で、皮

膚細胞からiPS細胞をつくってそれ

を神経幹細胞へと誘導して治療へ役

立てることを最終目標に置いた研究

を進めています。

さらに個人個人に合わせたオー

ダーメード医療とは別に、iPS細胞

のバンク化も構想に入れています。

細胞のタイプの数が少ないES細胞

が自分の体にマッチする可能性はあ

まり高くないのですが、iPS細胞を

例えば100株とか200株ぐらいそろえ

てバンク化しておけば、多くの日本

人がその恩恵を受けることができる

と思います。このHLA〔白血球の型〕

が完全にマッチしなくてもある程度

大まかに合っていれば、重篤な拒絶

反応は起きないと考えられます。だ

いたい100種類もあれば日本人の

8、9割ぐらいの方が必要になった

ときに治療を受けられる可能性があ

るのではないかと考え、今バンク化

も考えています。

ES細胞を100株つくろうと考える

と最低でも100個の受精卵が必要で

すし、100種類の異なる方々からも

らわなければなりません。それでも

目的がしっかりしていればボラン

ティアで提供いただけるような気も

しますが、実際に進めるにはかなり

ハードルは高いと思います。ですが

100人の方から皮膚をいただく――

それも体に傷をつけることですので

簡単なことではないと承知していま

すが――受精卵をもらうよりは、少

なくとも幾つかの倫理的な問題は少

ないのではないかと。そういう意味

でiPS細胞のバンクの実現へのハー

ドルは少し低いのではないかと考え

ます。 “iPS細胞の成果を未来へ”

現在日本では、たぶん京大だけで

はなく幾つかの研究室でもiPS細胞

がつくられていると思います。海外

の動向では、有名なところでハーバ

ード大学、ウイスコンシン大学、カ

リフォルニア大学などがもうすでに

成功して、私たちよりも進んでいる

のではないかというような勢いで研

究を行っています。

幹細胞関連の研究費に関してはカ

リフォルニア州が10年間で3,000億円、マサチューセッツ州が10年間で

1,200億円投入するというすごい額

でやっています。また優秀な研究者

も集まっていると思いますので、非

常にパワフルですし、ときには私も

めげそうになることもあります。

ただiPS研究に関しては、日本で

も非常にいい対応をしていただいて

いると私は思っています。2007年11月にヒトiPS細胞樹立を私たちが報

告し、たった1ヵ月しかたっていな

い12月には文科省や科学技術振興機

構の予算をiPS細胞研究へいただく

ことができました。その1ヵ月後に

は現在私が雇っていただいています

京都大学のiPS細胞研究センターと

いう立派な施設を発足させていただ

きました。2ヵ月後の2008年3月に

は理化学研究所や慶応大学、東京大

学と京都大学の4拠点がiPS細胞研

究拠点として設置されました。

現在、京都大学には「世界トップ

レベル研究拠点」〔WPI〕*に指定さ

れた「物質‐細胞統合システム拠点」

〔CiRA サイラ〕があります。拠点長は

日本で初めてES細胞をつくられた

中辻憲夫先生です。

この中の一部に、山中教授をセ

ンター長としまして「iPS細胞研究

センター」がつくられました。私た

ちのスローガンとしては「iPS細胞

の成果を未来へ」ということで、ま

だまったく基礎研究の域を出ていな

いiPS細胞なのですが、将来1人で

もiPS細胞の成果によって幸せにな

る人がいらっしゃったら私たちはす

ごくハッピーだ、と思いながら研究

を毎日続けています。 * 文部科学省の、第3期科学技術基

本計画「イノベーション創出総合

戦略」等を受け、平成19年度より

スタートした世界トップレベル国

際研究拠点形成推進プログラム。

高いレベルの研究者を中核とし

た世界トップレベルの研究拠点形

成を目指して集中的な支援を行

い、第一線の研究者が世界から多

数集まってくるような優れた研究

環境と極めて高い研究水準を誇る

「目に見える研究拠点」の形成を

目指している。このプログラム

は、1拠点あたり年間5~20億円

程度の支援を10年間行う。他に東

北大、東大、阪大、物質材料研究

機構が指定。

iPS細胞研究センター

iPS細胞センターは、iPS細胞研究

を推進する中核研究組織であり、特

に私たちは臨床応用をする前の段階

の基礎研究に力を入れてやっていこ

うと考えています。もちろん京都大

学には医師もたくさんおりますので

附属病院との連携もして、最終的に

は創薬や再生医学でiPS細胞を応用

したりiPS細胞が基となってできた

薬が皆さんの病気に役立つことが目

標です。

でも、今はまだiPS細胞研究セン

ターの建物はできていなくて、敷地

では遺跡発掘調査をしています。も

しそこで何か遺跡が出て来ると工事

がストップしてしまうそうです。現

在はその敷地の脇にあります再生医

科学研究所の一部を間借りして研究

をさせていただいています。

政府からお金を援助していただ

き、最近はだいぶ人数も面積も増え

て研究がしやすい環境になってきま

した。この設置予定地は何事もなけ

れば再来年の2月には立派な研究棟

が完成すると思います。完成予想図

5

報告1 iPS細胞の樹立とその展開

Page 6: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

は私は今日初めて見ました。

山中先生はアメリカに留学して

いたこともあって、あちらの研究環

境はすごくいいということを肌身で

感じているようで、私たち現場の研

究者にとってすごくやりやすい研究

施設になるのではないかと期待して

います。

iPS細胞研究センターは山中セン

ター長をトップとしまして、私たち

は現在基礎研究部門という研究室が

中心になってやっています。そのほ

かにも戸口田淳也先生、山下潤先

生、高橋淳先生などによるいろいろ

な細胞へと分化する研究や、実際に

もう病院と連携していち早く応用へ

向けた研究をやっています。

さらにごく最近、研究戦略本部

や、特許にも対応するための知的財

産や広報といった戦略本部も学内に

発足しました。こういうバックアッ

プ体制がどんどんできてきますの

で、私たちは研究に専念させていた

だくことができるようになってきて

います。

おわりに

iPS細胞のまとめですが、ES細胞

に匹敵する万能細胞といえます。で

もこれは詳細に調べていけば少し違

うかもしれないし、実際ES細胞が

いいかiPS細胞がいいかは同時に両

方を比較してみないと分からないこ

とだと思います。

世界中でこういう比較研究が広が

っていけば、iPS細胞が駄目なら駄

目で近い将来結果が出ると思います

ので、その辺は今後どんどん突き詰

めていくべきだと思います。

しかしiPS細胞の持つ利点は、作

製に受精卵などの胚を使う必要がな

いことと、バンクでも自分の皮膚で

もいいですが拒絶反応を回避できる

可能性が出てきたことです。あとは

我が国発の技術ということです。

しかし特に移植治療という点にお

いては、まだまだ超えなければなら

ないハードルは幾つもあると思いま

す。ですから安全面、本当に危険が

少ないという状態になるまで私たち

は研究を頑張らなければいけないと

思います。さらに知的財産や特許の

確保ということも、将来医療費が高

すぎるという状態にならないために

は大事だということです。

私たちは奈良の先端科学技術大学

で研究を開始し、今は京都大学に研

究室を移して研究をさせていただい

ています。山中先生を中心に今はも

う40人ぐらいの人数で研究を行って

います。今回紹介した成果というの

は、当然私だけではできるわけもな

いので、このラボの全員、さらには

ほかの研究室の先生方の力を借りて

行ったことです。

以上です、ご清聴ありがとうご

ざいました。(拍手)■

6

Page 7: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

中内 啓光 (なかうち ひろみつ)

東京大学医科学研究所

幹細胞治療研究センター

幹細胞治療部門 教授、

センター長

□略歴 1976-7年 ハーバード大学医学部

留学

1978年 横浜市立大学医学部卒業

1978年 横浜市立大学病院研修医

1983年 東京大学大学院医学系

研究科博士課程修了

1983年 スタンフォード大学医学部

遺伝学教室博士研究員

1984年 順天堂大学医学部助手

1987年 順天堂大学医学部講師

1987年 理化学研究所フロンティア

研究システム研究員

1992年 理化学研究所造血制御

研究チームチームリーダー

1993年 筑波大学基礎医学系教授

1994年 筑波大学先端学際領域

センター教授

2002年 東京大学医科学研究所ヒト

疾患モデル研究センタ一

教授

2008年 東京大学医科学研究所

幹細胞治療研究センター

教授、センター長

現在、日本再生医療学会理事長

□司会:今の高橋和利先生のご発

表はiPS細胞がどうやってできたか

ということでした。今度はそういう

細胞を使って、いかに治療に直接役

立つような形のものを開発していく

か、そういう方面からご研究をな

さっている東京大学の中内啓光先生

に「iPS細胞による臓器再生」とい

うタイトルでご講演いただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

▼中内 私がこれまでやってきた

のは胚細胞*の研究です。常に役立

つことを目指して研究はしてきまし

たが、やはりなかなか私が最初に予

想していたよりは困難が多くて、簡

単にすぐに臨床応用というふうには

いかないのが1つの現実です。 * 1つの受精卵が7~8回分裂す

るまでの個体発生の早期の諸段階

の細胞。 私は最初から臓器をつくることを

夢に研究をずいぶん前から始めまし

たが、iPS細胞が出てきたりして、夢

が少しずつ現実化してきました。こ

ういった研究をやっている人もいる

んだということを皆さまにもご理解

していただいて、将来こういった技

術が本当に医療に役立てばいいなと

考えておりますので、話を聞いてい

ただければと思います。 臓器再生の夢

今から20年ほど前には私はまだ臨

床も少しはやっていたので、現在の

医療に非常に不満を持っていまし

た。臓器が駄目になる臓器不全症の

治療としては、人工臓器あるいは臓

器移植といった臓器を置換するこ

と、他人の臓器あるいは人工臓器に

置換することが現在の主な治療法と

なっています。

しかしこのどちらの方法も、いろ

いろな問題があります。臓器の置換

ではその代償機能、生体適応性、医

療費。臓器移植のほうもいろいろな

問題に加えてドナー不足というかな

り決定的な問題があるわけです。

そこでずいぶん前ですけが、臓器

を再生できないかということを考え

て、当時は「臓器再生」と名前を付

けて研究を始めたわけです。

しかしそうはいっても、すぐにこ

ういった研究ができるわけではあり

ません。どうしたらいいかといろい

ろ考えて周りを見ると、骨髄移植と

いうことをすでに行っていました。

これは現在では、この本質が造血幹

細胞の移植であるということが分

かっております。これは骨髄という

やや臓器っぽい組織ですけれども、

それを再生する本質的な治療である

と考えました。私はこの例を見習っ

て、幹細胞を利用して幹細胞の研究

をすることによって、ほかの臓器の

再生もできるのではないかと考え

て、実は研究を始めたわけです。当

時手っ取り早くできそうだったのが

造血幹細胞の研究でしたので、これ

から研究をスタートしました。簡単

に私の研究のバックグランドをお話

して、今日のお話に入っていきたい

と思います。 造血幹細胞の研究へ

ご存じのように幹細胞には「多能

性幹細胞」と「組織幹細胞」の2種

類のカテゴリーがあります。組織幹

細胞は、最近は「生体幹細胞」とも

呼ばれています。

多能性幹細胞とは、受精卵とか

ES細胞、あるいは今日話題のiPS細胞といった個体を構成するすべての

細胞に分化可能な細胞です。

一方の組織幹細胞は、もう少し特

定の組織、臓器に限局した分化の可

能を持つ幹細胞です。例えば血液系

でしたら造血幹細胞、神経系でした

ら神経幹細胞、こういった幹細胞が

あることが知られています。

皆さんもよくご存じなように、

ES細胞というのは受精卵が急速に

分裂を始めて、マウスの場合は受精

報告2 iPS細胞による臓器再生

中内 啓光 東京大学医科学研究所

幹細胞治療研究センター

幹細胞治療部門教授、センター長

7

Page 8: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

3~4日した後に、胚盤胞*という

形の胚になります。この中の小さな

細胞の固まり、これが将来、この場

合ですとネズミの体になる部分でこ

の細胞を採ってきてある特定の培養

条件下で培養するとできるのがES細胞株というふうに呼ばれているわ

けです。いったんこの細胞ができま

すとこの細胞は無限に増やすことが

できますし、いろんな細胞に分化で

きるポテンシャルを持っているわけ

です。こういった特徴があって再生

医療の材料として非常に注目されて

きたわけです。 * ハイバンホウ:ヒトでは受精後3日目

の桑実胚(ソウジツハイ)をすぎた5日

目の段階で、胚は表面の栄養外胚

葉と内部細胞塊に分かれていく。

一方の組織幹細胞ですが、造血系

はいろいろな血液をつくるし、肝臓

の幹細胞は胆管上皮とか肝臓の細胞

をつくる。組織幹細胞はそういった

細胞ですが、ES細胞と違って、場

合によっては患者さんからも採れま

す。従って拒絶反応の問題がなくて

臨床応用は容易です。しかし、ES細胞とは異なって、残念ながら分離

培養して大量の細胞を得ることがな

かなか難しい。それから分化が幹細

胞が存在する組織に限定されていま

す。造血幹細胞が肝臓になったり、

肝臓の幹細胞が血液をつくるという

ことは一応生理的な条件下ではない

と考えられています。

我々は先ほど申しましたように血

液の幹細胞、造血幹細胞に興味を

持って、まず最初にその純化法を開

発しました。FACS*という機器を

使ってだいたい骨髄中で2万5,000個に1個存在する幹細胞そのものを

ほぼ採ってくることに成功しました。 * 蛍光励起細胞分離装置。光抗体

で染色した細胞を液流に乗せて流

し、レーザー光の焦点を通過さ

せ、個々の細胞が発する蛍光を測

定することによって細胞表面にあ

る抗原量を定量的に測定できる。

この方法によって、わずか1個

の造血幹細胞を移植しても、ほぼす

べてのタイプの血液細胞――リンパ

球系も骨髄球系の細胞もすべて1個

の造血幹細胞由来の細胞によって再

構築できることを示しました。

幹細胞の持っているポテンシャ

ルである自己複製能と多能性を本当

に持っていることを、実験的に証明

することができました。

肝臓の幹細胞の分化

私は常に実質臓器〔固形臓器〕の

再生に非常に興味を持っており、早

速同じ方法で肝臓の幹細胞も分離す

ることを行いました。そして少なく

とも胎児の肝臓からは肝臓の幹細胞

を採ってくることができるようにな

りました。造血幹細胞と同じような

コロニー、つまり細胞の固まりをつ

くる幹細胞を試験管の中で長い間培

養しました。すると管腔様の構造を

つくってきたり、アルブミン〔肝臓

で合成・分解されているタンパク質〕

を出している核が2つある成熟肝臓

細胞に特徴的な形態を持つ、成熟肝

細胞と思われる細胞も出てきました。

最初は1個の幹細胞からスタート

しているのですが、試験管の中だけ

でもいろいろな細胞に分化できると

いう性質を証明することができまし

た。

さらに驚いたのは、こういった

試験管の中で増えてきた1個からス

タートした細胞を電子顕微鏡でよく

見てみると、本物の肝臓と同じよう

な微細構造、細かな構造を持ってい

ることです。あるいは、あたかも正

常な胆管を切ったのと同じような微

細構造まで含めて、ほぼ区別がつか

ないぐらいよく構築された組織図を

つくることが分かりました。

ここで強調したいことは、最初に

1個からスタートしていることと、

ほかに全く細胞がない、完全に1個

の細胞だけが独立してやっているこ

とです。それを自動的にというか、

自分でいろいろな細胞に分化して、

しかもかなり本物に近い組織をつく

ることができる――これがそもそも

の非常に驚きだったわけです。 立体構造の困難性

しかしながら、試験管の中でこう

いった細胞をこれ以上いくらカルチ

ャー〔培養〕しても、やはり立体構

造をつくって臓器の形をつくること

はなかなかできなかったわけです。

しかし再生医療の観点からいきます

と、ただ細胞療法だけではなくて、

やはり臓器をつくることは非常に大

事なことです。

例えば今日本では慢性腎不全の

ために25万人が人工透析を受け、年

間1兆3,000億円を超える医療費を

必要としているわけです。しかし25万人分のドナーを提供することは、

移植医療を以ってしてもほぼ不可能

と思われます。やはり何らかの方法

でこれを解決する必要があるわけで

す。

その1つの可能性として、幹細

胞を使って臓器そのものをつくるこ

とが期待されるわけです。これから

説明しますが、幹細胞はある程度の

組織形成能は持っていますが、立体

的な臓器そのものをつくることはや

はり非常に難しいのです。

それはなぜかといいますと、発

生過程において幹細胞とそこから派

生した細胞と周りの細胞がいろいろ

な相互作用をしながら時間をかけて

形づくりが行われるわけです。これ

を試験管の中だけで完全に再現する

ことは非常に難しいだろう。少なく

とも私が生きている間には難しいだ

ろうと考えます。 動物の体内での臓器形成

そこでいつも何かいい方法はない

かと考えてきました。ここで「胚盤

胞補完」という新しい発生工学の手

法を説明する必要があります。先ほ

どES細胞は胚盤胞の中の細胞の固

まり〔内部細胞塊〕からつくると言

いましたが、ES細胞とこの細胞の

固まりはほぼ分化レベルが同じ、つ

まり年齢で言えば同じぐらいの年ご

ろ――幼稚園の年長ぐらい――と

いった特徴があります。

従ってこれらの細胞をいきなり

子宮に戻しても子供はできません。

このES細胞をこの胚盤胞に入れて

あげる、一緒に混ぜてあげると。こ

の胚盤胞というのは正常なマウスか

ら採った胚盤胞ですが、これを混ぜ

てから仮親のおなかの中に入れまし

た。

まず胚盤胞へES細胞を入れます。

これをその後少し試験管の中で培養

すると、写真ではマーキングされた

細胞が入って、きちんと一緒に混ざ

って育っていくことが分かります。

これをしばらくしてから仮親の子宮

に10~15個ぐらいのES細胞を移植

した胚盤胞を注入してあげます。そ

うするとかなりのものがきちんと妊

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Page 9: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

娠を継続してマウスの子供が生まれ

てきます。この子供というのは、こ

の段階でこのES細胞と本来の細胞

が混ざっています。つまりES細胞

由来の細胞とこの本来の野生型の

動物の体の細胞と混ざったような

状況、これを「キメラマウス」と

いいます。こういったマウスが生

まれてくるわけです。これが我々

の手法の基本で、よく使われる方

法です。

私の友人でジェン・ツーチェン

という今MIT〔マサチューセッツ工科

大学〕の教授ですが、彼が今から15年ぐらい前ですか「RAG-2遺伝子欠

損マウスの胚盤胞補完」という、日

本語で書くとなかなか難しいタイ

トルの論文を出しました。 RAG-2〔Recombination Activating

Gene〕遺伝子というのは、免疫グロ

ブリン、つまり抗体をつくるとき

に必要な遺伝子なのです。

これがないと遺伝子が再構成し

ないので、抗体とかT細胞レセプタ ーなどの遺伝子ができなくなるた

めにT細胞とかB細胞という免疫に

重要なリンパ球ができない、そう

いうマウスです。

このマウスから先ほどの胚盤胞

を採ってきて正常なES細胞を入れ

る。そこで、先ほどの技術で子供

を産ませると、本来このRAG-2欠損マウスはT細胞もB細胞もないの

ですが、面白いことにここで生ま

れたマウスにはT細胞とB細胞が存

在する。しかもこのT細胞とB細胞

の両方とも、このES細胞由来で

あったと。つまり「ES細胞は本来

の動物が持っている細胞の欠損を

うまく補うことができる」ことを

まず見つけました。

それで、彼らはこれを何に使っ

たのか。この方法を使った次の実

験は、正常なES細胞ではなくてJH遺伝子というやはり免疫グロブリ

ンのB細胞の発育に必要な遺伝子が

欠損していると考えられるES細胞

を代わりに打ったわけです。そう

すると生まれてきたマウスは、T細胞はあったけがB細胞はなかった。

つまり、このJH遺伝子がB細胞の発

育に必要な遺伝子だということを

示したわけです。

発生ニッチの利用

このように胚盤胞補完は、本来

はT細胞とかB細胞の発生に必要な

遺伝子の機能を調べるための方法

として開発された方法です。とこ

ろが私はこのマウスを見て「この

RAG-2遺伝子欠損マウス由来の胚

にはT細胞もB細胞も存在しない。

そのためにスペースが空いている」

と考えるわけです。そこに正常な

ES細胞由来のT細胞、B細胞を発生

し得るために、この欠けている機

能を代償し得るのではないかと考

えました。これは血液細胞だけで

はなくてほかの臓器でもできない

か、と考えたのがそもそものアイ

ディアです。

ニッチ(niche)あるいはニッシェと

いう言葉はこれからよく出てきます

が、本来は西洋の建物のくぼみの

ことで、ここに神様などを飾ると

いう、そういうすき間のことを

ニッチというそうです。

しかし我々が言っているニッチ

というのは、「幹細胞が幹細胞と

して居続けることができる場所」

という考え方です。これはやはり

造血幹細胞の研究から出てきたの

ですが、造血幹細胞というのは骨

髄の中、体の中では自分自身を増

やすことができるのですが、いま

だに試験管の中でそれを行うこと

はできません。従って骨髄中には

何か特殊な環境があって造血幹細

胞が自己複製できると考えている

わけです。その特殊な環境をニッ

チとかニッシェと呼んでいるわけ

です。

ちょっと話が難しくなりました

が、そこでこの「発生ニッチ」と

いう考え方を我々は考えてきたわ

けです。先ほど、その胚盤胞から

ES細胞をつくると言いました。こ

のES細胞からいろいろな細胞を誘

導して、それを治療の必要な人に

移植してあげるというやり方が今

考えられているわけです。これは

細胞療法と言われます。

本来ですと心臓なら心臓そのも

のをつくる。あるいは肝臓なら肝

臓そのものをつくって移植するほう

が直接的でいいと思うのですが、実

際に試験管の中で複雑な臓器をつ

くるのは非常に難しいわけです。

それは繰り返しになりますが、発

生の過程でこの幹細胞と周りの細

胞がニッチという条件、いろんな

相互作用をしつつ時間をかけて形

胚盤胞

ドナー:野生種または

成熟-/-ES細胞

胚盤胞を仮親に移植

成 熟 T/B 細

胞がない

野生種/成熟ES細胞投与

に由来するリンパ球をも

つキメラマウス

(参考図版)

9

報告2 iPS細胞による臓器再生

Page 10: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

をつくっていくから、それを試験管

の中だけでやることが非常に難しい

からです。

従って、その発生ニッチを理解

して用意してあげれば幹細胞からい

ろいろな臓器、組織をつくることは

できるだろう、と考えるわけです。 ES細胞由来の腎臓をつくる

そこでまず最初に考えたのは、今

度その実質臓器が欠けているマウス

をモデルとして使って実験を行って

みました。臓器を欠損するモデルと

して最初に使ったのはSall1という

遺伝子がないマウスです。そういう

マウスは臓器レベルで、この場合で

は腎臓ですけれども、スペースが空

いている。このスペースを利用して

正常なES細胞を入れることによっ

てdevelopmental niche、つまり発生

ニッチをES細胞由来の細胞で埋め

てあげる。そうすることでES細胞

由来の腎臓をつくるという考え方で

す。

実際に腎臓はすぐできるわけで

はなくて、尿管芽と後腎間葉の細胞

が複雑な相互作用をとげつつ徐々に

形ができ*、最終的には非常に複雑

な糸球体という構造を中核としてで

きてくるわけです。この過程をすべ

て試験管の中でやるのが難しいので、

これをインビボ〔生体内〕でやって

あげようというのが我々の考え方で

す。 * 後腎間葉〔コウジンカンヨウ〕は腎臓の機

能を司る部分を発生させ、尿管芽

〔ニョウカンガ〕は、集合管、尿管とい

う、腎臓と膀胱を結ぶ部分になる。

先ほど言いましたSall1遺伝子は

腎臓の発生に必須の遺伝子であり、

腎臓をつくりあげるインターアクシ

ョン〔相互作用〕に関与しています

が、実は具体的に何をやっているの

か本当はまだ分かっていません。

Sall1の役割を調べる上でもこの方

法は使えると思いますが。

写真は正常なマウスのおなかで

見たところです。Kと書いてあるの

が腎臓〔kidneyの略〕で左右に2つ

ずつあって、尿管と膀胱がありま

す。ところがこのSall1という遺伝

子がノックアウトされたマウス*で

は、非常に面白いことに腎臓が全く

ない。しかし尿管と膀胱はあります

が、おしっこがつくられないために

膀胱がしぼんでしまっているのがお

分かりになると思います。これは現

在熊本大学におられる西中村隆一先

生がつくられたマウスです。 * 特定の遺伝子を働かないように

したマウス。

この腎臓作成のプロトコール〔手

順〕ですが、もう察しのいい方はお

分かりだと思いますが、ここに腎臓

ができない胚をつくる。そしてこの

胚にこの場合は赤い色素でマーキン

グしたES細胞を入れてあげる。こ

の移植後の写真では、赤い細胞がま

だ中にあるのが分かります。これを

仮親の子宮に戻してあげて子供が生

まれてきます。

ちょっとややこしいのですが、

この場合はヘテロ〔異種〕同士の遺

伝子のうち片方の腎臓だけが壊れて

いる親同士を掛け合わせなければい

けない。そうするとメンデルの法則

である一定の確率で、①正常、②片

方だけがおかしくなっているもの、

③両方遺伝子が壊れているもの、の

3系統が出てきます。ここで、本来

なら腎臓がないはずのマウスにこの

赤いマーキングの腎臓ができてくれ

れば、我々の仮説が正しかったこと

になります。ES細胞由来の腎臓を

つくろうという考え方ですが、これ

を実際にやってみました。 まずここでは分かりやすくするた

めにちょっと凝った実験をやってみ

ました。この場合は腎臓がグリーン

に光るようなマウスを使っているの

です。従ってこのように奇麗に腎臓

がグリーンに光っています。これに

先ほどの赤いES細胞を入れてあげ

ると、この両方が混ざってキメラの

状態になっているのが分かります。

これは腎臓が片方だけしか壊れてお

りませんので、きちんと腎臓は持っ

ているわけです。

両方の遺伝子が壊れているもの

に関しては、腎臓がありません。

従ってこのグリーンに光るものもあ

りません。ここに赤くマーキングし

たES細胞を胚盤胞に打ってあげ

る。そうしますと、本来の腎臓がな

いのでGFP〔緑色蛍光タンパク質〕の

見えないところに赤い腎臓ができて

くるというわけです。見事予想通

り、こういった発生ニッチを使って

インビボで臓器をつくることができ

ることが、少なくとも腎臓の例で示

されたわけです。

この部分をちょっと大きくして

見てみますと、できてきた腎臓があ

り、尿管があって膀胱にきちんとつ

ながっています。そうして大事なこ

とは、膀胱もきちんと大きく膨らん

でいるので、この腎臓がきちんと尿

をつくっているということが強く示

唆されます。

では、その腎臓はどういう細胞に

よってできているか。ほぼ実質は赤

いES細胞由来の細胞でできていま

すが、尿管の部分はSall1の遺伝子

でつくられるものでないので、もと

もとのホストのものがあります。う

っすらと赤く見えます。膀胱もあり

ますが、ここがほとんどES細胞由

来ではないことが分かります。

このように体の中でも、ES細胞

由来のところとそうでないところが

はっきり分かれます。そして実際に

個体の中でつくらせてみるときちん

とつながって、機能を果たすことが

できることが分かってきました。実

際にいろいろな実験をやっています

が、簡単に組織像を見ても正常なも

のと全く区別がつきません。実質臓

器をインビボでつくれば全く不可能

ではない、ということがこの実験で

まず分かりました。 マウスの膵臓の再生

さらにこの方法はいろんな臓器に

応用が可能で、我々は実現可能なモ

デルとして膵臓の再生を考えていま

す。原理は全く同じですが、今度は

pdx-1という膵臓のマスタージン〔必須

遺伝子〕といわれている遺伝子を壊

したマウスで、このマウスでは膵臓

が全くできません。このマウスのヘ

テロ同士を交配して同じように胚盤

胞補完を行い、今度はGFP、つまり

グリーンでマーキングしたES細胞

を使って実験しました。

この場合は、ホモ〔同種〕のほう

にグリーンの腎臓ができ、それがき

ちんと機能し成長して大人になるこ

とが期待されるところです。通常は

途中で死んでしまいますが、きちん

と補完されてきちんと機能的な膵臓

ができれば、このマウスは生き残る

はずです。そうなれば交配もできる

10

Page 11: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

はずです。

ノックアウトマウスでやってみま

したが、奇麗に膵臓がないですね。

マウスの膵臓は人間と違ってちょっ

と複雑な形をしているのですが、本

来あるべき膵臓がノックアウトした

マウスにはない。ところがこれに

GFPでラベルしたES細胞を胚盤胞の

ときに加えてあげると、マウスに

よって完ぺきではないのですが、少

なくともGFP陽性の〔緑色に光る〕

ES細胞由来の膵臓がきちんとでき

ることが分かりました。機能的にも

特筆すべきことは、膵臓のないマウ

スは生まれてすぐ死んでしまうわけ

ですけれども、このマウスはまった

く普通に生き残って交配もできるの

です。

ですから今はもうホモの両方の

遺伝子が壊れているマウスでも、こ

ういった胚盤胞をつくることができ

ます。この本来膵臓を持っていない

pdx-1ノックアウトマウスで糖負荷

をしてその後の血糖値を調べていく

と、きちんと正常と同じように機能

を果たしていました。ES細胞由来

の膵臓を持つpdx-1ノックアウトマ

ウスが大人まで成長して、正常な耐

糖能*を示すことが分かりました。

* 上昇した血糖値を正常に戻

す能力。 iPS細胞による臓器再生の可能性

同じようなことが、ES細胞だけ

ではなくて iPS細胞からもできる

か。もしこれができるようになれ

ば、患者さん由来の臓器をつくるこ

とができるようになるわけです。

そこでまず最初に我々の手でiPS細胞をつくってみました。それを先

ほどと同じシステムで、胚盤胞を補

完して本当に膵臓ができるかを調べ

ました。iPS細胞からも同様にESと同じように綺麗に膵臓をつくること

ができるかを調べたわけです。

まず成体GFPマウス*からiPS細胞

をつくりました。この場合はアダル

ト〔成体〕マウスのしっぽの線維芽

細胞から3因子を加えてつくったも

のです。 * 紫外線を当てると緑色に変わる

タンパク質を組み込んだマウス。

先ほど高橋先生は非常に控えめ

にお話になりましたが、やはりこの

方法の素晴らしいのは再現性が極め

て高いことです。しかも簡単であ

る。まさに創造的研究の代表例だと

思います。

さて、我々の手でまったく初め

てやる大学院生でもきちんとマウス

iPS細胞を樹立することができまし

た。こういう形でもともとのマウス

をGFPトランスジェニックマウス*

にして使いましたので、できたiPS細胞もGFP陽性です。

このマウスの細胞を例えば胚盤

胞に入れると、きちんとキメラマウ

スをつくることも確認できて、きち

んと使えそうなiPS細胞ができたわ

けです。 * 全身の生体組織が緑色蛍光する

よう形質転換したマウス。

早速これを先ほどの方法でやっ

てみました。本来膵臓がないマウス

ですが、iPS由来のGFP陽性の膵臓

が奇麗にできる。生体組織を見てみ

ると、インスリン産生細胞のほぼす

べてがこのiPS細胞由来であること

が分かりました。iPS細胞もES細胞

と同様に個体内で膵臓をつくること

ができることが証明されたわけで

す。 大型動物での実験へ

こういった研究が将来的に本当に

役に立つのでしょうか。今お示しし

たのはマウスからマウスへの移植の

実験ですので、これを人間に当ては

めると人間から人間への移植という

とんでもないことになってしまうわ

けです。

我々が今考えておりますのは、

人の臓器を家畜の個体、例えばブタ

のような家畜の個体内でつくれない

かということです。これは夢かもし

れませんが、例えば患者さんの組織

からES細胞やiPS細胞をつくる。そ

してできたiPS細胞で臓器欠損動物

をつくる。例えば心臓がないブタを

つくっておいて、胚盤胞補完をする

ことによってブタの個体内で人の心

臓をつくる。

もしそういうことが可能になれ

ば、このブタの個体内でつくったヒ

トの患者さん自身の心臓を移植して

あげる。そうすることで、この患者

さんが持っているいろいろな問題を

解決することができるのではない

か、と期待しているわけです。

こういった研究が本当に許される

かどうかは、成果が出てから皆さん

に判断していただきたいと思いま

す。しかし、これをいきなりやるわ

けにはいきませんので、現在はサル

とブタなど、比較的大きな動物を

使ってモデルシステムをつくってい

ます。

サルからESあるいはiPS細胞を樹

立する。そして例えば膵臓を欠損し

ているブタを作成しておいて、この

ブタの胚盤胞にこの細胞を入れてあ

げる。マウスの実験のように本当に

ブタでうまくいけば、ブタの体内で

サルの膵臓ができるはずです。この

サルの膵臓からインスリン産生細胞

を採ってきてサルに戻してあげる。

こういった治療モデルができるので

はないかと期待しているわけです。

これには2つ大きな問題があり

ます。1つは、欠損しているブタを

たくさんつくることが難しいのでは

ないかと。もう1つは、これが一番

大きな問題だと思いますが、サルと

ブタという種の壁を越えた異種間で

胚盤胞補完は本当にできるのかとい

うことです。現在これを解決すべく

一生懸命研究をしております。

今日お話した内容ですが、もち

ろん非常にたくさんの人がこの研究

には関与してくれているのですが、

中でも腎臓の研究に関しては現在筑

波大学・腎臓内科の臼井丈一先生の

力が大きいです。私はこのアイディ

アを10年以上前から持っていたので

すが、最初にやりましょうと言って

やってくれたが大学院生の小林俊寛

君ですね、この2人が特に非常に大

きな貢献をしております。私が今日

お伝えしたいのは以上です。どうも

ご清聴ありがとうございました。 (拍手)

〔文責:せきずい基金事務局〕■

11

報告2 iPS細胞による臓器再生

Page 12: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

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Page 13: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

高橋 政代 (たかはし まさよ)

理化学研究所神戸DBS 網膜再生医療研究チームリーダー □略歴 1986年 京都大学医学部卒業

1986年 京都大学医学部眼科学教室入局

1987年 関西電力病院眼科

1988年 京都大学大学院医学研究科

博士課程

1992年 京都大学医学部助手

1995年 米国・ソーク研究所研究員

1997年 京都大学医学部助手

2001年 京都大学医学部附属病院

探索医療センター助教授

2006年 理化学研究所網膜再生医療

研究チーム チームリーダー

□司会:次の報告は理化学研究所

神戸研究所の高橋政代先生です。眼

科医として失われた光を戻すための

研究にまい進していらっしゃいます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

▼高橋政代 今日は目をテーマ

にしたお話でちょっと脊髄と離れて

しまうところはありますが、網膜も

中枢神経の一部で脊髄とも共通した

部分がありますので、お聞きいただ

ければと思います。

目の構造と視覚障害

眼球の中は透明でして、光が前

から入ってきて、網膜が光を受け取

ります。網膜は視神経で脳までつな

がっています。言い換えれば網膜は

脳が出っ張ったところで中枢神経そ

のものなのです。

網膜の中にもいろいろな細胞が

ありまして、最初に光を受け取る細

胞が「視細胞」です。これも神経細

胞ですが、非常に特殊な神経細胞で

す。この細胞が光を受け取った後、

2次ニューロン、3次ニューロンと

シグナルを渡して、ずっとそれが脳

まで行くという構造になっていま

す。

いろいろな目の病気があります

が、まずは透明なはずの角膜が濁り

ますと視力が落ちます。そのときに

は角膜移植で透明にするとまた見え

るようになります。また皆様よくご

存じのものは白内障です。白内障は

水晶体が濁って本来透明であるとこ

ろが白く濁ってしまい、すりガラス

を通しているような状態で視力が落

ちます。この場合も白内障手術で人

工レンズという透明なものに戻して

やれば視力は戻ります。

ですから日本とか先進国の中で

は、白内障とか角膜の混濁で失明あ

るいは視覚障害になることは非常に

低い割合なのです。しかし世界的に

は、視覚障害の原因ではまだまだ白

内障や角膜障害が半分以上を占めま

す。いかにそれを我々眼科医が頑張

ってここまで減らしているか、とい

うことでもあります。

その一方で、緑内障あるいは糖尿

病網膜症ですが、これらはみな網膜

の病気です。その他にも網膜の病気

あるいは視神経の病気があります。

この部分は先進国の中でもまだまだ

治療法がない、解決がつかない状況

になっています。

その中でも、緑内障あるいは糖

尿病はもうかなり治療法がたくさん

ありまして、早期に発見すれば何と

かなるというふうになってきていま

す。

しかし、網膜の変性疾患と言わ

れるもの――網膜色素変性あるいは

報告3 iPS細胞による網膜再生

高橋 政代 理化学研究所神戸研究所

発生・再生科学総合研究センター

網膜再生医療研究チームリーダー

(参考図版)

〔右;日本眼科学会HPより〕

13

Page 14: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

加齢黄斑〔オウハン〕変性は網膜の細胞

自身が悪くなっていってしまうもの

です。特に網膜色素変性は遺伝子の

異常による病気です。正常であれば、

本来は網膜の半分ぐらいの厚みを占

めるぐらいたくさんある視細胞が、

遺伝子の間違いによってだんだんな

くなっていく。完全に消失してしま

うと、その部分は網膜が光を受け取

れないので見えない、という病気で

す。これを治すためには、なくなっ

た視細胞をもう1度再生させるとい

う方法しかありません。そこで、次

にこのような疾患を解決する治療と

しては、視細胞の再生が必須という

ことになってまいります。

「見えにくさ」のタイプの違い

今、代表例として挙げた網膜色素

変性は、実は最初は視野の変化から

来ます。視野というのは見える範囲

のことです。通常ですと広く見えて

いるところが、ドーナツ状に見えに

くくなります。このときにはまだ、

自分ではほとんど気付きません。皆

さん、自分がどう見えているか、ほ

かの人ととどう違うかというのは実

は分かっていないのです。かなり視

野が狭くなってもまだ気付かない方

もいらっしゃいます。「みんなこん

なふうな感じだと思っていた」と言

われる方も多いですけれども、徐々

に視野が狭くなる。そして次第に真

ん中の視力、見え方が低下してくる

という病気です。

ここでお伝えしたいのは、見え

方、すなわち視機能というのはいろ

いろな測り方があって一様ではない

ということです。逆に言いますと、

治療でどう治せるかはさまざまで

「網膜の治療=よく見えるようにな

る」という、そんな単純な話ではな

いのです。

例えば「見えにくい」という状態

にもいろいろあります。網膜を正面

から見ますと、脳に視神経がつなが

り、血管がいろいろ走っています

が、一番大事なのは黄斑部と言われ

る網膜の中心です。細かいものを見

るときには、ここの2ミリぐらいし

か使っていません。ですから視力を

出すためにはここを回復しなければ

なりません。

先ほどの色素変性の場合は、外

側の部分が悪くなってきますので、

これは視野が狭くなりますが、視野

が狭くなっても網膜の真ん中さえ残

っていれば視力はいいですし、逆に

視野がどれだけ残っていても真ん中

が悪くなると細かい字は見えないわ

けです。

ですから加齢黄斑変性のように真

ん中だけ悪くなる場合、視力は低下

しますが視野は正常なので、すたす

た歩いて普通に生活できるのだけれ

ど字が読めない。こういう見えにく

さがあります。

一方では、網膜色素変性のように

視野が狭くなっても真ん中は元気な

ので「机に座って字を読めるし書け

る、細かいことは何でもできる。け

れども歩くことができない」という

ような見えにくさもあります。

つまり障害と言ってもいろいろな

タイプのいろいろなものがあります

ので、治すということも逆にいろい

ろなタイプがあるということです。

またもう1つ同じ視力であって

も、例えば現在0.3の視力の方がい

るとします。我々はたくさんの患者

さんを見ていますと、生まれつき

0.3の方もいっぱいおります。そう

いう人はわりと平気で、何も不自由

を訴えずに生活されています。しか

し、昔1.0の視力があった方がだん

だん下がって0.3になると、もうこ

れは見えないという大変な状況にな

ります。逆にいったん病気で悪く

なっていた人が0.3まで来ていたら

非常にハッピーかもしれない。

このように、同じ症状であって

も、人によって受け取り方も違うし

不自由さも違ってくる。工夫によっ

ても全然違ってくるということで

す。

よく再生医学の話が報道などで

出ますと、視力0.5とか0.4ぐらいの

方が「再生治療できますか」と言っ

て来られますが、それは今のところ

私たちの考えている対象とはまった

く違っています。我々は、現在は視

力も視野も非常に悪い場合を対象に

考えているわけです。「網膜の治療

で、よく見えるようになるのですよ

ね、じゃあ私も」という話ではな

い、ということを1つご理解いただ

ければと思います。

iPS細胞による病因研究

それではiPS細胞の話に入ってい

きます。iPS細胞樹立の1つの大き

な意義として高橋和利先生が言われ

た「iPS細胞によって病気の原因を

探る」ということは、確かに非常に

我々にとっても画期的な、もうわく

わくするというか、前進できるとい

う気持ちをもたらしてくれるもので

す。

どういうことかといいますと、

例えば先ほどの色素変性の視野変化

では、最初にドーナツ状に悪くなっ

てきます。「遺伝子の変化で視細胞

がなくなっていくので見えなくなる

のですよ」という話をしましたが、

実はなぜこれがドーナツ状に悪くな

るのかというのはまったく誰も分

かっていません。視細胞はドーナツ

状の部分に一番多く分布していて、

端に行くほど少ないのです。ところ

がその視細胞の一番多いところから

見えなくなるのはなぜなのか、私た

ちは疑問に思っています。つまり本

当に遺伝子の異常で視細胞がなくな

るのであれば、視細胞が一番少ない

ところから見えにくくなってもいい

かもしれない。これはほかに何か要

因があるかもしれない、遺伝子だけ

ではないかもしれない、ということ

です。

その原因を調べることは、今まで

我々には不可能だったのです。患者

さんの視細胞を採ってくるわけにも

いきません。ですから全く調べよう

がなかったのです。

現在では、ES細胞あるいはiPS細胞から網膜細胞、そして視細胞をつ

くることができるようになっていま

す。視覚障害の原因の遺伝子もたく

さんありますが、ある遺伝子の異常

の方は確かに遺伝子のせいで視細胞

がなくなっているのが分かる。だけ

どこの遺伝子の異常の方は症状の進

行が非常にゆっくりだし、もしかし

たら遺伝子が原因ではなく環境が悪

いのかもしれない。このようなこと

が初めてはっきりと解るかもしれな

いという時点に、我々歴史上初めて

立ったわけです。ですからiPS細胞

の恩恵をこれから受けられると思っ

て楽しみにしているところです。

そのときには、例えば遺伝子診断

14

Page 15: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

が重要になってきます。どの患者さ

んがどの遺伝子の異常かと。それぞ

れの遺伝子の違いによってどう違う

のかを調べていきたいと思っていま

す。

幸いなことに我々は網膜色素変性

のたくさんある原因遺伝子を検索す

るシステムをもうだいぶ前からつ

くっておりました。まさかそれが

iPS細胞につながるとは思わなかっ

たのですが、原因遺伝子が分かって

いる患者さんが何人もおられます。

白人を検査して遺伝子を見ると半

分ぐらいの人の原因が分かるのです

が、日本人は20数パーセントしか分

かりません。というのは、アメリカ

人はロドプシン〔視紅。光受容細胞〕

という遺伝子の異常の人がたくさん

いて原因が分かるけれど日本人は少

ない――というふうに日本人とアメ

リカ人もずいぶん違うということも

分かってきました。

今まで我々の遺伝子診断の目的

は、その患者さんが優性遺伝なのか

劣性遺伝なのかをお伝えすることで

した。もしかしたら遺伝子の違いに

よってその人の臨床症状、進行の見

通しなどのヒントが得られるかもし

れないと思ってやっておりました。

また、遺伝子治療に役立つと思って

おりましたが、まさに網膜変性の遺

伝子治療も今年始まりました*。

将来的には原因遺伝子の治療であ

るとか、あるいは再生医療にも役立

つとは思っておりましたけれども、

ここに新たなiPS細胞からつくった

患者さんの視細胞が手に入るという

ことで病気を解明するということが

できるようになってきています。そ

れが1つのiPS細胞の非常に大きな

利点です。 * 2008年9月、遺伝子治療により

2人の視覚障害者(レーバー先天

性黒内障 LCA)が視力を取り戻

した。これは安全性試験だったが

その有効性があまりにも顕著だっ

たため、ペンシルベニア大学の研

究者が公表した。(Wired News) iPS細胞の移植療法

これから細胞移植のほうの話をい

たします。iPS細胞はもちろん患者

さんから採った細胞ですので、拒絶

反応がないことが最も大きな利点で

す。

現在ヒトES細胞や iPS細胞から

は、目の細胞としては網膜色素上

皮、これも加齢黄斑変性という別の

病気に使うのですが、神経ではない

のでちょっと今日は触れません。た

だ、むしろこちらのほうが臨床には

近いかもしれません。

iPS細胞の利用としては、iPS細胞

から視細胞も分化できていますの

で、それを視細胞のなくなる病気に

補うことはできないかという研究を

紹介致します。

先ほど高橋和利先生は、「iPS細胞ができて膵臓とか心臓とかつくる

ことができる。だけどそこは難しい

ですよ」とちょっと言われました。

それはどういうことか。まずiPS細胞から心臓、肝臓、皮膚ではなく

て神経にするというところで、分化

の分かれ道を1本選ばないといけな

いこと。また神経の方向へ分化して

行っているとしても、神経からまた

脳の神経ではなくて網膜の細胞にし

なければいけないこと。網膜の細胞

になっても、グリアではなくて神経

細胞、あるいはたくさんある神経の

中で視細胞にすること。というふう

に、これだけものすごくたくさんの

分かれ道がある中の一筋をたどらせ

る、ということが非常に難しかった

わけです。 今まで、我々はiPS細胞だけでは

なく、いろいろな幹細胞を試しに

使ってみました。我々の実験の能力

が足りないところもあって、完全に

この結論が正しいとは言えません

が、感触としては脳由来や、ほかの

部分から採った幹細胞は本当の網膜

にはならないなという感じがしまし

た。

そして眼球から採った幹細胞で

は、もちろん視細胞はたくさんでき

るのですが、ちょっと増やすのが難

しい。増やさなくて自分の分だけつ

くるだけだったら、できるかもしれ

ないと思います。ただ残念ながらこ

の部分、毛様体*は実はヨーロッ

パ、アメリカでものすごく材料とし

て有望視されて研究されています

が、日本の場合は「角膜移植法」で

「アイバンクの目を研究に使っては

いけない」という規定があって、日

本だけはヒトの細胞を使って毛様体

の研究ができない。ましてや臨床も

全然できないので、私たちはあまり

追究してこなかったというところが

あります。ただ、培養してもあまり

増えませんので、たくさんの人の普

通の治療にしようと思うと、やはり

ES細胞かiPS細胞になります。その

中でES細胞からは素直に視細胞が

でき、量もたくさんできるが拒絶反

応が問題であった。そこをiPS細胞

は解決したということになります。 * モウヨウタイ::毛様体筋と血管網と色

素で出来ている組織で、水晶体の

厚さを調節する。虹彩と網膜の間

にある。 なぜ脳の細胞から網膜がつくりに

くいか。細胞の分化といいますが、

成熟していく道、分かれ道を通って

しまうと、いったんこちらに来たも

のを元の中間まで戻して網膜に持っ

てくるということは非常に難しいわ

けです。そこをiPS細胞は途中まで

ではなくて、完全に細胞分化のス

タート時点まで戻してくれています

ので、素直に成長を促せばいいとい

うことになります。胎児の中で網膜

が育っていくのと同じような、遺伝

子の読み手である転写因子が次々と

出て来るのですが、その道筋を奇麗

にたどることによって視細胞をたく

さんつくることができるようになっ

てきています。

実際には、Lefty-AとかDkk-1とい

う培養成分であるタンパク質を加え

て、培養皿に浮かせて培養する。そ

の後接着させてとかいろいろ方法が

ありますが、結構時間もかかって40日ぐらいで色素上皮はできてきます。

視細胞は90日ぐらいでできてきます

が、本当に成熟したものにしようと

思うと130日ぐらいかかる。

ただ視細胞もこれは杆体〔カンタイ、

明暗を感じる〕という周りにある細

胞ですので、錐体〔スイタイ、色を感じ

る〕という真ん中にある細胞はもっ

と早くにできているはずです。

現在はESとまったく同じ方法

で、ヒトのiPS細胞からも網膜の色

素上皮細胞そして視細胞が結構たく

さんできてるという状況になってい

ます。細胞移植の材料はもう随分満

足できる、いろんな幹細胞を扱いま

したけれども、だいぶ満足のできる

材料ができてきたと思います。

15

報告3 iPS細胞による網膜再生

Page 16: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

視細胞の移植

いよいよ細胞の移植ということに

なるのですが、これがまた今までと

同じぐらいの労力が掛かるような道

筋になると思います。

網膜の移植は具体的には通常眼科

でやっている手術ですので、痛くも

ないし局所麻酔でできるような簡単

な手術です。網膜の裏側に細胞ある

いは細胞のシートを移植することに

なります。マウスのES細胞からで

きた視細胞を移植すると奇麗に美し

い視細胞になっています。

視細胞には外節〔ガイセツ〕という光

を受け取る部分があります。これが

非常に重要ですけど、この左上の写

真は、移植して体内でそこまで完全

に視細胞になっているということで

す。しかし、これは1個ぽつんとあ

るだけです。これでは「移植ができ

た」「視細胞ができた」といっても

力が足りないわけです。これをいか

にたくさんにするかで、随分悩むと

ころですが、かなりもう何年もそれ

をやってきました。

しかし少し先を越されてしまい

まして、2006年にイギリスのグルー

プがこれを発表しました。これは

ES細胞でなくマウスの子どもの網

膜細胞を移植したものですが、網膜

の中に奇麗に移植細胞がはまってい

る状況です。光を受け取る外節がほ

とんど全部の細胞にできています。

また突起を伸ばして次の細胞につな

がってシグナルを送ることが非常に

重要な点ですが、恐らく――証明が

まだ不十分なのですが――つながっ

ていると思います。これだけ奇麗な

細胞ですので、つながって機能して

いると確信しています。この間イギ

リスのこのラボ〔研究室〕に行って

見せてもらいましたが、もっとたく

さん細胞が入るような条件にもでき

てきており、ずいぶん進んだと思い

ました。我々のラボでも今は同じ結

果が得られていますので難しいだろ

うと思っていた移植の山を1つ越え

て少し前進したと思っています。

視細胞移植の課題

ただこれはまだESでもないです

し、比較的正常な網膜なのです。や

はり病気の網膜というのはちょっと

環境が違います。一番大きく違うの

は神経以外にグリア*と言われる細

胞が網膜の中にありますけれども、

それが外敵から守るためにバリア

〔障壁〕をつくります。こちらがそ

の人の網膜だとしますと、移植細胞

が入ってきますと途端にこれは外敵

ということで、ババッとグリア細胞

が通せんぼをして、つながらないよ

うにしてしまいます。ですからその

バリアを何とかしないといけないの

です。 * グリアとは膠(ニカワ)の意。グリ

ア細胞は神経系の情報伝達機能は

なく、神経細胞を側面から支える。

網膜にはミュラーグリア細胞と

アストロサイトがあり、ミュラー

グリア細胞が網膜神経細胞の維持

に重要な役割を果たしている。

例えば「コンドロイチナーゼ」

というそのバリアのところを溶かす

ような薬剤と一緒に移植すると、移

植細胞は少し突起を中に延ばせる。

その薬がないとぺたっと横に引っ付

いているだけなのが、中に手を伸ば

せるというような状況にはなってい

ます。神経細胞はシナプス〔神経細

胞/ニューロン間の伝達部〕で隣の細

胞との結合もつくっているかもしれ

ないという状況です。

けれども先ほど大事だと言った

視細胞の外節はまったくできていな

いという状況です。ですからこれは

光を受け取ってもあまり効率よくシ

グナルを出すことはできません。そ

のために培養環境を変えるか3次元

培養にするのか、そこはまだ分から

ないところです。いろいろやってみ

ないといけない。視細胞を奇麗に並

べて外節をつくるという段階に次は

取り掛かるということです。

バリアの問題とともにもう1つの

問題は、移植細胞の質です。ES細胞で視細胞ができたのは突起を伸ば

した緑の細胞です。ブルーのも全部

細胞ですが、視細胞以外の細胞で

す。これが網膜の細胞だったらまだ

いいのですが、例えば骨になる細胞

あるいは髪の毛が生える細胞だった

ら、これを一緒くたに網膜の後ろに

移植してしまうと困ったことになり

ます。

目の中に毛が生えたりということ

になりますのでそれを除いて、ある

いはほかの細胞になっていない未分

ヒトES細胞から分化した視細胞

矢印がさお状をした杆体かんたい

視細胞 (参考図版) 網膜の構造

16

神経網膜

視神経

網膜色素上皮 水 晶 体

(参考図版) 視細胞の外節の切片 www.hitachi-hitec.com/.../chapter5.html

Page 17: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

化なiPS細胞がそのままが混じって

いると、それはやはり増えて腫瘍に

なりますので、それを除かないとい

けない。必要なものだけを選び出す

ことがまだできていません。視細胞

の移植には、大きくはそういう2つ

の大きな障害があると思います。 臨床までのタイムラグ

我々が今実験していることに、新

しい網膜色素変性の治療研究で人工

網膜というものがあります。これを

基礎研究から応用研究までの道筋と

してみますと、人工網膜はすでに臨

床で何十例かされています。遺伝子

治療は今年に入って初めて2つのグ

ループの報告がされ臨床研究が始ま

りました。それに対して細胞移植の

ほうは、臨床に近いよと言っていた

網膜色素上皮でも、もう治療にはな

るだろうというところには来ていま

すけれども工夫が必要です。それに

比べて視細胞のほうは、まだ「もし

かしたら治療になるかもしれない」

という段階であります。

こうしたお話をすると、「応用

はいつですか」と必ず聞かます。応

用といっても、人によって何を指す

かが違うのです。我々が言っている

臨床応用は最初の1例目という感じ

で言っています。けれども、たぶん

患者さん方のおっしゃる応用という

のは治療ということだと思いますの

で、その間にはまだ10年以上の開き

があるように思われます。

早稲田大学の田中先生が『iPS細胞』という本を書いています*。 * 田中幹人編著『iPS細胞――ヒト

はどこまで再生できるか?』、日

本実業出版、2008年

その中で飛行機の開発になぞらえ

てすごく面白いことを書かれてい

て、その内容とはちょっと違います

が私もあの表現はすごくいいと思い

ました。

飛行機というのは最初に航空力学

で飛べるだろうという理論ができ

て、みんな研究してライト兄弟がま

ず飛んだわけです。その後で30年、

40年たって一部の大金持ちの人は旅

行ができるようになった。でも一般

の人が飛行機で旅行できるまでに

は、さらに何十年もかかったわけで

す。

ですから我々は、今のところは

まだ航空力学で飛べるだろうという

理論がある時代というような感じで

す。私たちは「恐らくこれで治るか

もしれない」ということで一生懸命

研究をしているわけです。網膜の再

生という分野では我々はライト兄弟

のように1例目として飛び立ちたい

と思っているわけです。けれども一

般の治療というのは、一般の人が飛

行機で自由に旅行できる時代という

ことですので、ライト兄弟とその間

のタイムラグというものを、考えて

いただきたいということです。

それともう1つ、最近は「その研

究は何に応用できるのですか」と言

われます。応用を考えるのは応用研

究の段階です。けれども非常に大事

なことは、ここに至るまでの基礎研

究がいかに強いかによって、いい応

用研究になるかどうかということが

決まってくることです。

今は応用研究が少なくてそれで治

療につながる研究がなかなか出て来

ないので、治療につながる研究を増

やすことも大事ですが、だからと

言って基礎研究を削って応用研究に

持ってきては絶対駄目です。基礎研

究がいかに深いかということが応用

研究の実りを規定するということ

を、一般の方もぜひ知っていただき

たいということです。

17

報告3 iPS細胞による網膜再生

基礎研究~実践研究の5段階のステップ

出典:田中幹人『『iPS細胞』より。高橋政代の意見をもとに著者が作成。

「研究の場」および「研究支援機関」の5段階は略。 *EBM=科学的根拠に基づく医療

研究の目的 真理の探究 方法の探究 応用技術の 社会への適用 実践と結果の

開発 フィードバック

医学における 生命のしくみ どのように治療 臨床応用 EBM*の確立 治療

研究の目的 とは何か? に結びつけるか?

研究のアクター

基礎研究 探索研究 移行研究 適用研究 実践研究

生命科学研究者 医者

医学研究者 統計学者 看護師

工学研究 企業研究者

(参考図版)

ライト兄弟の飛行(1903年)

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18

視覚障害治療の展望

色素変性に関しては患者さんに

とって今何が一番必要、有用でしょ

うか。最近報告された遺伝子治療

は、遺伝子を入れると見えるように

なるというすごい遺伝子治療なので

すが、それは特殊な遺伝子の方で

す。通常の遺伝子治療は、もうそれ

以上は進行しないという治療になり

ます。ですから見えるようになる、

ということではないです。

人工網膜のほうは、今は患者さ

んに光を見せるところまでは来てい

ます。研究者に聞きますと10年後に

は大きな字は読めるような形にした

いと言っておられます。

それに対して網膜移植ですが、

我々としては視細胞の移植で10年後

に光が見せられたらいいなと。その

ために、世界中の研究は毎年ものす

ごいスピードで進歩はしているわけ

ですが、現在はまだまったく駄目な

のです。10年後にその1例目、ライ

ト兄弟ですね――「光が見られたら

いいな」というところです。

それに対して現在あるロービ

ジョンケア*――これは視覚のリハ

ビリみたいなもの――をしますと、

歩行訓練を受けると自分で歩けるよ

うになるし、補助具を使えば読み書

きができるようになるのです。です

からこれから開発される治療を待っ

ているよりは、まずはロービジョン

ケアをやらないといけないというよ

うなところもあります。 * 低視覚者が今持っている視機能

を最大限に活用して視覚的な生

活の質の向上を目指す方法。低

視力、視野障害、まぶしさ、複視

など症状に合わせた機器の使用や

眼球運動訓練がある。 患者会の役割

最後に、今日は患者会が主催す

る講演会ということで1つぜひご紹

介したいのが『サイエンス・ビジネ

スの挑戦』*という本です。これは

バイオベンチャーがいかにもうから

ないかをハーバード・ビジネスス

クールの教授が書いた本です。

なるほどと思ったのですが、では

どうしたらいいかというところで最

後に提言がありました。それは患者

会などの重要性です。何となく薄々

感じてきていたことが提言に書いて

あって「なーんだ」というような感

じがしました。

患者さんの力だけで、あるいはベ

ンチャーキャピタルの利益を目的と

したお金でやるのではなくて、本当

に病気を治したいという同じ目的を

持ったファンドなりがキーポイント

であろうと書いてありました。です

から、患者さんたちの会の力という

のが非常に大きいということであり

ます。どうもご清聴ありがとうござ

いました。(拍手)

* ゲイリ・ピサノ『サイエンス・

ビジネスの挑戦――バイオ産業の

失敗の本質を検証する』、日経BP社、2008年(原著2006年)。

著者は第8章で、基礎研究から

臨床研究の橋渡しをするトランス

レーショナル・リサーチに対する

新しい資金供給源として「ベン

チャー・フィランソロピー」を取

り上げている。

これは非営利の慈善団体の要素

と、非営利のベンチャーキャピタ

ルを組み合わせた組織である。そ

の一例として米国の前立腺がん財

団、多発性骨髄腫財団、ビル・ゲ

イツ財団、脳腫瘍治療促進協会な

どを紹介。その意義を、長期的視

点で活動できること、資金提供先

の企業や大学に情報の共有を求

め、共有の知識の貯水池になりう

ることにある、としている。■

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澤 芳 樹 (さわ よしき)

大阪大学大学院医学研究科

心臓血管外科教授

□略歴 1980年 大阪大学医学部医学科卒業 1983年 大阪府立母子保健総合医療

センター心臓外科 1986年 大阪大学医学部附属病院

第一外科 医員 1989年 ドイツMax-Planck研究所

(フンボルト財団奨学生) 1992年 大阪大学医学部助手 1998年 大阪大学医学部講師 2002年 大阪大学医学部附属病院

未来医療センターおよび

臓器制御外科助教授

を兼任 2005年 大阪大学大学院医学系研究

科外科学講座心臓血管・

呼吸器外科助教授、科長 2006年 同 教授 2006年 大阪大学医学部附属病院

未来医療センター

センター長

□司会:今度は心臓のほうです。

心筋、心臓の筋肉を再生医療で復活

させるにはどうしたらいいか、その

研究をなさっていらっしゃいます大

阪大学の心臓血管外科教授、澤芳樹

先生にお話いただきます。どうぞよ

ろしくお願いします。

・・・・・・・・・・・・・・・・ ▼澤 私どもは日ごろから心臓

の手術をしておりまして、心臓の

切った貼ったをやっているわけで

す。その中で私たち大阪大学は、や

はり今心臓手術で治せない病気、心

不全の治療体系を確立することを私

たちの教室の一番の目標にして研究

をしています。

重症心不全治療

大阪大学では、重症な心不全の

方の治療として、心臓移植や人工心

臓を実際に当然行っております。そ

の中で新しい治療のカードとして再

生医療が本当に患者さんを救えるか

ということで日夜研究しております。

先ほどの高橋政代先生のお話で、

治療法開発についてライト兄弟に例

えておられましたが、私たちは1例

目、つまり何とか人工心臓から離脱

できるところまで来た次第でありま

す。

実は、今年の3月の日本再生医

療学会で山中先生とご一緒に講演さ

せていただいたときに、せきずい基

金のほうからぜひお話をということ

で本日講演することとなりました。

脊髄の話ではないのですが、私たち

も心臓の病気で苦しんでいる方を何

とか助けたいという思いでやってお

りますので、少しでも参考になれば

と思います。 増加しない心臓移植

ご存じのように、心臓には部屋が

4つあって、弁が開いたり閉じたり

して血液を一方通行で送り出してい

る。ところが心臓が病気になってく

ると、心臓はその機能を代償するた

めにどんどん大きくなります。MRIで心臓の動きと大きさを見ても、何

だかめっきり動きも悪くなっていま

す。心臓がどんどん大きくなってく

ると、心臓はだんだん破たんという

形で最終的に心臓の機能が低下して

しまう――これが心不全です。

心不全の患者さんは日本にだい

たい年間10万人ぐらいおられて、特

に年々食生活が欧米化している我が

国でも非常に増えている。薬で治る

患者さんは当然お薬で治しますが、

どんどん心機能が低下してくるとい

ろいろな治療方法を選択します。

これらの治療法が有効でない場

合、私たちの施設ですと何とか人工

心臓を装着してということになりま

す。国内ではだいたい年間2,000人ぐらいの方がこれに適応すると言わ

れています。しかし実際に人工心臓

を装着して助けられる患者さんは年

間100人ぐらいです。まして心臓移

植は、容易ではありません。10年ぐ

らい前に脳死法案が通りまして私た

ち大阪大学で、脳死移植を再開させ

て心臓移植を始めました。

しかしわが国のこれまでの脳死

ドナーからの心臓移植総数は今のと

ころ残念ながら58例ということで、

ようやくだいたい年間10例というの

が現状です。心臓移植をすると非常

に元気になられるのですが、その間

に人工心臓をつないで元気になられ

たということで、この治療法の有効

性は分かっていてもやはりボラン

ティアの提供で命をつないでいると

ころもありますし、年間10人という

レベルをなかなか増やすことができ

ないというのが我が国の心臓移植の

現状であります。 人工心臓も選択肢

人工心臓ですが、これは心不全

報告4 心筋の再生医療の現状と展望

澤 芳 樹 大阪大学大学院医学研究科

心臓血管外科教授

19

Page 20: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

治療の車の両輪の1つと言われてい

ます。この小さいお子さんは元気そ

うですが、実は人工心臓を付けて、

脇にある冷蔵庫みたいなものはその

人工心臓を動かす機械です。幸いに

この子はこの機械を付けて、若い先

生と一緒にドイツに渡航して心臓移

植を受けて、帰ってきて元気にされ

ているということです。

この子はよかったのですが、こ

ういう人工心臓を付けて2年以上大

学病院に入院しているというのは非

常に過酷な医療であって、かつその

間にいろんなトラブルがある。

片や最近また新しい動きもあり

ます。人工心臓の超小型化というの

も進んでいまして、これは「ジャー

ビック2000」という心臓です。心臓

移植でなくてこういう人工心臓の治

療を選択されるという方も出てき

て、そういう新しい治療も試みられ

てきているのが現状です。

ただ、今のような人工心臓の治

療を受けられる方、それから最終的

に心臓移植まで成功する方は日本の

現状では本当にわずかです。ですか

らやはり私たちとしては何としてで

も、この弱った心筋をよみがえさせ

られるような新しい再生医療がない

かということで、私たち大阪大学で

はこの10年来再生治療の研究に取り

組んでまいりました。

ジャービック2000

心疾患の細胞治療

現在行われている循環器領域の

細胞治療は、心臓の場合、血流を改

善したり心臓機能を改善しようとい

う治療として、ほかの領域と比べて

かなり進んでいるかもしれません。

すでに血管新生をということで、骨

髄細胞は骨髄移植する細胞ですが、

そのまま心臓とか足に打っても確か

に血管はできます。しかしこれだけ

では、なかなか弱った心臓の機能を

回復するまでには至らない。

もう1つ、細胞治療として心臓に

使われているのが足の筋肉の細胞で

す。ヨーロッパで足の筋肉の細胞を

心臓に使おうという臨床試験が行わ

れました。もちろん、それまでにた

くさんの動物で実験データがあっ

て、足の筋肉細胞は心臓の筋肉に似

ていて、心臓の筋肉を治す可能性が

あることが報告されてきたわけで

す。

そこでMAGIC*と呼ばれるヨー

ロッパの大規模臨床試験が行わまし

たが、最終的には心機能は改善しな

かった。動物実験でよかったが人間

ではうまく行かなかったということ

で、この筋芽細胞**は心筋再生に

は使えないのではないかというふう

に言われていたわけです。 * 多施設共同の無作為抽出・二重

盲検法による自家骨格筋細胞移植

の臨床試験。 ** キンガサイボウ:筋線維の由来とな

る細胞。これが多数融合したもの

が筋線維。 いろいろな細胞ソースがある中

で、実際患者さんの細胞を使って治

療するにあたって、足の筋肉の細胞

が心筋再生を促す可能性のある細胞

の1つであることを、私たちは実験

的に証明してきたわけです。心臓の

場合は、細胞を注射器で注入すると

いうのが細胞移植のイメージです。

そのためにはトリプシンという

タンパク質分解酵素を使って細胞を

採ってくる。それは、せっかく細胞

が細胞社会をつくっていたものを壊

してそれをわざわざ心筋の組織に打

ち込むことになるので、細胞の状態

が非常に悪くて8割以上が死んでし

まうことが実験的に分かってきまし

た。

先ほどのMAGIC試験が動物実験

ではうまく行っていても臨床試験で

うまく行かなかった原因は、こうい

う細胞ソース〔細胞材料〕の問題と

同時に、やはり移植法も悪かったの

ではないかと思われます。

そこで私たちは組織工学を使った

新しい再生医療法というものを開発

してきました。

組織工学〔ティッシュエンジニアリン

グ〕というとまず紹介されるのが、

ネズミの背中に耳をつくったという

少しグロテスクな写真で、バカン

ティーという有名な先生が作成した

ものです。細胞は種で、それに肥や

しをやり培養するとどんな臓器や、

組織もつくれるということで“The Human Body Shop” ということまで

提言していたのが、15年ぐらい前の

話です。 細胞シート工学の利用

東京女子医大の岡野光夫教授が

発明されたのが「温度応答性培養

皿」というお皿です。これは温度を

変えると、培養している細胞がシー

ト状に回収される。拍動している細

胞がめくれ上がってくるわけです。

これの何がすごいかというと、4枚

の心筋細胞のシートを同時に培養し

ておくと一緒に拍動するようになり

ます。なぜそうなるかといいます

と、1枚1枚のシートが細胞社会を

つくって電気的につながっていたの

です。縦にも横につないでも一緒に

つながるということで、細胞のクオ

リティーを保って組織に移植するこ

とができるようになったという技術

なわけです。最終的には心筋の組織

のようなものが、私たちの組織工学

技術でつくれるところまで来ている

ということです。

ただし現在、ヒトの体の中に入

れることができる拍動する細胞とい

うのはありません。これはネズミの

赤ちゃんの心臓の細胞からつくった

心筋の組織ですが、今臨床で使える

拍動する細胞というのはないので

す。

これを解決するのが今日の主題

でありますiPS細胞なのです。この

話は後ほどするとしまして、技術的

には本当にこういう心筋の組織をつ

くることできる世界では誰もできな

い技術ですが、私たち大阪大学と東

京女子医科大学が共同研究を行った

結果、こういうところまで来たとい

うことです。

次に私たちは、それを足の筋肉の

バカンティーの作成したマウス

20

Page 21: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

細胞の筋芽細胞で細胞シートをつ

くって心臓に貼り付けたらどのよう

な効果があるかを検証してみまし

た。先ほどのMAGIC試験とおなじ

数の足の筋肉の細胞を移植してみま

した。注射器で注入した場合には、

所々にしま状に細胞が生着して、決

して心臓は治っていない。これが先

ほどのMAGIC試験の結果だったわ

けです。

ところが同じ細胞で同じ数の筋芽

細胞を使ってシート状にして心臓を

覆ってみました。画像では青いとこ

ろが心筋の梗塞部ですが、移植はこ

の心臓の壁を厚くして、しかも心臓

がいったん大きくなったのがまた元

のように小さく収縮して、心臓の機

能が上がることが分かりました。

細胞ソースも非常に大事ですが、

移植法とか治療法の違いでもこんな

に効果が違うということが明らかに

なったわけです。これならば足の筋

肉の細胞でも人で有効かもしれない

ということを私たちは確証しまし

た。そのメカニズムをいろいろ検証

したら、増殖因子とかもともとの幹

細胞を呼び込んで来るような因子が

たくさんそこに発現していて、それ

に引き寄せられて幹細胞がたくさん

血中から集積してきて、自分で治す

力がよみがえった、ということが分

かってきたわけです。

こういう弱った心臓に細胞のシー

トを貼り付けることで、心臓の機能

を本当に患者さんで治せるというこ

とが分かり、さらに日夜研究を進め

ました。

そこでイヌの動物実験を行いま

した。拡張型心筋症*のモデルとし

て、非常に心臓が大きくなって心臓

移植の適用となるような患者さんの

病態を示すような動物モデルをつく

り、筋肉の細胞でつくったシートを

この前に貼り付けたわけです。

そうすると、心臓の大きさが

ぐっと引き締まって壁の厚みが厚く

なり、しかも右の心臓も非常に小さ

くなりました。しかも面白いのは、

シートは心臓の前にしか貼れないの

ですが、それでも後ろ側も全体的に

治っていることが分かりました。 * 心臓を動かす筋肉が伸びたまま

の大きくなった状態になり、血液

を送り出す機能が弱まる原因不明

の難病。予後が悪く、生存率は5

年で50%程度と言われている。 私たちは日ごろから非常に重症な

拡張型心筋症の患者さんを抱えてお

りますので、このような結果から、

大阪大学の倫理委員会に臨床試験の

申請をしました。臨床試験は承認さ

れましたが、しかし人工心臓が付い

た人でまず安全性を確認してから、

ということになりました。細胞シー

トを貼ることで、ひょっとしたら不

整脈とか心臓に悪いいろいろな有害

事象が起こらないか、そういうこと

を見て最終的に効果があるかどうか

も一応確認しなさい。まずは安全性

を見る試験が大事ですよ、というこ

とです。

では安全性の担保は何かという

と、人工心臓が付いていた場合には

いろんな不整脈が起こっても患者さ

んにはあまり大きな影響はすぐには

ない。人工心臓が止まったり外れた

りすると、当然患者さんは自分の心

臓だけでは命を永らえることはでき

ませんが、人工心臓という安全策を

担保にして細胞シート治療を行うと

――こういうことで承認されたわけ

です。 心筋シートの臨床試験

1例目の患者さんが56歳の男性で

す。拡張型心筋症と診断されて、阪

大病院に来たときはもう非常に悪い

状態で、左室の補助人工心臓と右室

の補助人工心臓も付けて、しかも人

工肺も付けるというところまで必要

でした。ところがその後いろいろ回

復されて、最終的には心臓移植を登

録して、左室の人工心臓装着をする

ために1年間院内待機されていまし

た。

普通ですと、この方は恐らくま

だ今の段階では移植には至っていな

くて、病院に入院している状況だっ

たと思います。臨床試験の準備が整

いましたので人工心臓装着を打診し

たところ、本人が「じゃあ、ぜひ」

ということで臨床試験を開始しまし

た。

大阪大学では「未来医療センタ

ー」というものを2002年から設置し

て、未来に向けた新しい医療の開発

支援をしております。実際に今12件のプロジェクトで臨床試験を行って

おりまして、骨・心筋・角膜・痛み

・がん・軟骨・その他、今日はち

ょっとお話できないのですが脊髄損

傷の治療〔自己嗅粘膜移植〕も一部

スタートしている状況であります。

このような細胞を培養して安全に患

者さんに治療する施設を整えて、実

際数十名の患者さんの治療をすでに

行っております。私たちはそこでこ

の臨床試験を開始しました。テレビ

ニュースで放映された患者さんの姿

をここで見ていただきたいと思いま

す。

心臓再生医療に成功 <ニュース画像から>

・・・・・・重い心臓病で人工心臓なし

では生きられない患者、重国増雄 さん。重国さんは今年〔2007年〕4

月大きな決断をしました。世界初の

21

報告4 心筋の再生医療の現状と展望

Page 22: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

心臓の再生治療を受けることにした

のです。患者の重国さんの足の筋肉

からできた細胞シートは不純物が一

切混じらないよう厳重な管理の下で

つくられました。薄さ0.1ミリのシ

ートを心臓に無事貼り付けられるの

でしょうか。

(細胞シートは20枚貼り付けるこ

とができました) ・・・・・・世界初の手術は無事に終了、

3ヵ月後の今年8月、心臓は順調に

回復していました。患者自身の筋肉

を使うため、拒絶反応もない治療で

す。不規則だった心臓の動きが規則

的になり、筋肉細胞も再生している

ことが確認されました。

手術から7ヵ月、重国さんは人工

心臓を取り外せるまでに回復、来週

2年ぶりに退院します。「もう、取

れたときはびっくり、あれ、機械が

ない、信じられんからな、あれーと

思って」。

心臓移植を待ちながら亡くなる患

者も絶えない中、画期的な治療であ

ることは間違いありません。「それ

ほんまやけど、夢ばっかし。やっと

家帰れる」「みんなのおかげやね」

「そりゃそうや、最高やな」。日進

月歩の再生医療、心臓病にとどまら

ず今後さらに研究を重ねて広範囲な

応用が期待されています。

ということで無事に家に帰って

いただきましたが、この治療法が万

能かというと決してそうではありま

せん。ある程度心臓の機能が同じで

人工心臓を付けて心臓移植を待機さ

れている方でも、心臓の機能に差が

あります。この方はある程度やはり

機能が保たれていたのですが、それ

でも人工の心臓を外すと家には帰れ

ない。

あのような薄い筋肉の細胞のシ

ートを貼り付けただけで、心臓の機

能が数字でいうと駆出率30パーセン

トが45パーセントにまで回復しまし

た。それはやはり、心臓自身がこの

ような何らかのサイトカイン〔分泌

タンパク質〕などを受け入れるよう

な準備ができている、そういう心臓

であったからです。もっと状態の悪

い人、組織の線維化が進行したり心

機能が低い人には、なかなかこの筋

肉の細胞だけでは治らないのではな

いかと考えています。

そこで私たちは今プロトコール

を変えて、人工心臓を必要とする前

のまだ心機能が残っているような、

心筋が生きているような方にこうい

う治療をしてその進行を防ぎたいと

いうことで、この臨床試験を開始す

る準備を進めています。

iPS細胞への期待

一方、もっと効果を上げたいのは

当然のことで、私たちはやはりシー

ト移植ということをもっと積み重ね

ていきたい。本来は中内先生がおっ

しゃったように、臓器のようなもの

もつくりたいというところまで考え

ています。

それから細胞ソースとしては、

やはり足の筋肉の細胞のようにサイ

トカインを出すような細胞だけでは

なくて、一緒に心臓と動くような細

胞を求めていて、それがやはりiPS細胞への大きな期待へつながるわけ

です。

これはいろいろな工夫をしてい

て、血管の細胞を筋芽細胞と一緒に

入れるとどんどん血管もできてき

て、その結果心筋シートをたくさん

重ねても移植することができるよう

になりました。現在、臨床でやって

いるのは3枚ぐらいが限界なのです

が、近いうちにはもっと厚いものも

つくれるかもしれない。

さらに今日の主題のiPS細胞です

けれども、山中先生と共同研究を開

始しております。何かサケの卵の孵

化みたいに見えるのは、心筋細胞が

動きだしているところで、iPS細胞

から拍動する心筋細胞を分化誘導し

ているところです。まだまだ拍動の

効率を上げる必要はありますが、今

7割ぐらいまで来たというところで

す。

しかもこのような細胞はやはり

心筋細胞と同じような性質を持って

いることが明らかになってきていま

すので、iPS細胞でつくった拍動す

るシートを最終的には心臓に貼り付

けるところまでいきたい。心筋細胞

の例では、恐らく電気的に2枚の心

筋細胞シートは後ろの心臓と一緒に

動いているように、iPS細胞も心臓

も一緒に動いて直接機能を上げるこ

とができる、このような治療になる

だろうと思います。

こういう意味からもiPS細胞への

期待は極めて大きく、今その開発研

究に集中しているわけです。このよ

うに私たちの技術も、確かに世界で

誰もできない技術ですし、山中先生

の技術も日本発の技術ですので、こ

れをぜひ結び付けて心筋再生医療を

確立したいと思います。

そのためには本日来場されており

ます古川俊治先生にまたこれからも

ご支援をいただけたらと強く思って

いる次第であります。

心不全の患者さんがドロップア

ウトする前にこのような治療で回復

していただけたら、と思っている次

第です。どうもご清聴ありがとうご

ざいました。(拍手)

〔文責:せきずい基金事務局〕■

筋芽細胞シートによる重症不全心の心筋再生 心筋細胞シートの梗塞心の心筋再生

筋芽細胞シート

心筋細胞シート

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Page 23: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

岡野 栄之 (おかの ひでゆき) 慶応義塾大学医学部

生理学教室教授 □略歴

1983年 慶応義塾大学医学部卒業

1983年 慶応義塾大学医学部助手

1985年 大阪大学蛋白質研究所助手

1989年 米国ジョンズ・ホプキンス

大学医学部研究員

1992年 東京大学医科学研究所助手

1994年 筑波大学基礎医学系教授

1997年 大阪大学医学部教授

1999年 大阪大学大学院医学系

研究科教授

2001年 慶応義塾大学医学部教授

□司会:澤先生、どうもありが

とうございました。心臓については

ずいぶん未来に希望が持てるという

ことがよく分かりました。

講演の最後は皆様お待ちかねか

と思います。脊髄再生の研究を長年

してきていらっしゃる慶応大学教授

の岡野栄之先生でございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

▼岡野 この“Walk Again ”で

私がお話させていただくのはこれで

3回目になります。この場は、毎年

どんなことをやってきたか、今後ど

んなことをやっていくべきかをお話

させていただくいい機会だと思って

います。

ご存じのとおり、中枢神経系は非

常に再生しにくい臓器であります。

カハール*という方は「このような

〔一度切断された〕中枢神経系は2

度と再生しない」ということを1928年に言ったわけですが、このカハー

ルのドグマ〔定説〕を書き換えるこ

とに何とかチャレンジしたいと思っ

て、我々は研究を行ってきました。 * 1906年にノーベル賞を受賞し、

脳神経科学の基礎をつくったスペ

インの神経科学者。 そこで、脊髄損傷に対し幹細胞

治療の開発といったことを行ってき

ました。特に、①損傷脊髄への幹細

胞の治療の開発、②2次障害を防止

する再生治療法の開発、そして③損

傷脊髄の再生を促す治療法の開発、

こういったことを集中的に我々は取

り組んできたわけです。

脊髄損傷では、実際にけがをさ

れてから時間経過と共にこの脊髄損

傷の病態は時々刻々と変化していく

ということが大事なポイントであり

ます。従って受傷してからどれぐら

い時間がたっているかによって、治

療法をそれぞれに合わせて検討する

必要があります。

急性期の治療法開発

脊髄損傷の急性期の治療法は、

現在我が国では副腎皮質ステロイド

剤〔メチルブレドニゾロン〕の大量療

法が行われています。この療法に関

してはFDA〔米国食品医薬品局〕で認

められているわけではありません。

日本では、臨床医がそういう治

療法をやることが常識だと思ってい

ますが、この治療法に関しましてま

だまだ安全性と有効性の点から非常

に疑問視されています。

そこで私たちは、急性期におい

て副腎皮質ステロイド剤を超えるよ

り良い治療法がないかということ

で、2つの方法で検討を行っており

ます。

1つは抗IL-6受容体抗体*です。

急性期には炎症性のサイトカインで

あるIL-6といったものの発現が上が

りました。これによって、まず受傷

によって起きる直接の脊髄の損傷か

ら2次損傷へと、免疫反応によって

損傷範囲がだんだんと広がっていき

ます。つまりIL-6という炎症性サイ

トカインがその病態形成において重

要な役割を果たしていることが明ら

かになっています。この働きを止め

るために、抗IL-6受容体抗体の使用

を検討しています。 * IL-6(アイエルシックス)はインターロ

イキン-6の略称。インターロイキ

ン(IL)は分泌タンパク質である

一群のサイトカインで、白血球に

よって分泌され細胞間相互作用の

媒介を果たす。 そしてもう1つの方法は、現在ク

リングルファーマ社との共同研究を

行っている肝細胞増殖因子HGF*で

す。これは日本の研究者が発見した

増殖因子ですが、これを用いた急性

期の治療法開発を行っています。今

日は特に抗IL-6受容体抗体の話のみ

をいたしますが、このHGFもサルの

脊髄損傷モデルに対して投与したと

報告5 iPS細胞による脊髄再生

岡野 栄之 慶応義塾大学医学部生理学教室教授

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Page 24: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

ころ、非常に著しい治療効果がある

ことが分かりました。2年後の臨床

応用を目指し、クリングルファーマ

社と現在、安全性試験のみならず、

ドース〔投与量〕エスカレーション

テストなど非常に詳細な検討を行っ

ています。 * HGF=hepatocyte growth factor。大

阪大学の中村敏一らにより最初、

肝臓の肝細胞の増殖因子として同

定された。その後、多彩な細胞に

対して増殖・分化・血管新生の促

進作用が明らかになり、種々の神

経細胞に対する新しい神経栄養因

子であることが明らかになった。 さて、抗IL-6受容体抗体を、まず

受傷直後のマウスの脊髄損傷モデル

に投与してみました。治療をしてい

ないコントロール群のマウスでは、

後ろ足を引きずっているような状態

です。ところが損傷直後に抗IL-6受容体抗体を投与すると歩けるように

なりました。これは損傷直後にワン

ショット、1回だけ抗体を投与した

だけで、あとは一切治療を行ってお

りません。

このように損傷直後の炎症を抑

制することで、このマウスは6週間

後に運動機能の有意な効果が出てき

ました。マウスの6週間は人の慢性

期に相当します。この急性期治療が

いかに慢性期の予後を考える上で大

事かを示しています。ですからIL-6シグナルを中和することで、長期に

わたる運動機能を改善し、脊髄損傷

の急性期における適切な治療法とな

ることが期待できるわけです。

幸い中外製薬・ロッシェグルー

プが開発したヒト化抗IL-6受容体抗

体――商品名アクテムラ――はつい

に慢性関節リウマチに対して今年承

認になりました。ですから現在、中

外製薬とこれを使った脊髄損傷の急

性期治療の臨床研究ができないかを

検討しているところです。 亜急性期の治療法開発

次に損傷後2~3週間たった時点

での治療法としては、まさにこの時

期に神経幹細胞を移植することが有

効であることを、すでに我々は10年ほど前から明らかにしています。

神経幹細胞を移植するには、損

傷部の炎症が治まり、しかもグリア

瘢痕などが著しくなる慢性期に突入

する前のいわゆる亜急性期に移植す

ると、治療効果が一番高いことを明

らかにしてきました。

この神経幹細胞移植に関しては、

これまで胎生期由来の中枢神経系の

神経幹細胞移植について1998年以来、

我々は研究を行ってきました。

実際に、サルの脊髄損傷モデル

に対して、ヒトの神経幹細胞移植を

して治療効果の確認を行いました。

そしてヒトの神経幹細胞ががん化す

るかどうかを見る「腫瘍原性試験」

においては、非常に安全なものであ

ることも確認しています。いつでも

臨床応用できる状態にまで用意しま

したが、残念ながら厚労省の現在の

「ヒト幹細胞を用いた臨床研究指

針」において、倫理的な問題のため

胎児細胞を使った臨床研究は範疇外

になっています。これに関しては生

命倫理学者の方と議論しても、5

年、10年も平行線でした。そこで、

やはり違う方法を見出していくこと

にしました。 それはES細胞由来の神経幹細胞

であり、今日の主題でありますiPS細胞由来の神経幹細胞の研究です。

またこれ以外にも、大人の臓器から

採ることができる神経幹細胞とし

て、例えば皮膚などに分布している

神経堤由来の幹細胞*、そして骨髄

などに存在する間葉系幹細胞**、

これを用いました脊髄損傷への治療

法の有効性に関しましても現在検討

しているところです。 * 神経堤(シンケイテイ)とは脳や脊髄

になる部分と皮膚になる部分の境

界に存在する細胞集団で、発生初

期だけに現れ成長すると消えてし

まう。神経堤由来の細胞から幹細

胞を採取することができる。 ** 間葉(カンヨウ)細胞は、骨、軟

骨、脂肪、骨格筋、真皮、靭帯、

腱といったすき間を埋める結合織

〔ケツゴウシキ〕細胞の総称で、発生学

的には中胚葉由来の細胞。間葉系

幹細胞は、骨芽細胞、脂肪細胞、

筋細胞、軟骨細胞など、間葉系に

属する細胞への分化能をもつ。 神経系細胞への分化

さてiPS細胞由来の神経幹細胞の

移植が可能になれば、患者さん自身

の皮膚細胞からiPS細胞を誘導して、

それをさらに神経系の細胞を誘導し

て、そしてご本人に戻す。これは本

当に理想ですけれど、ここで考えな

ければいけないポイントがあります。

まずiPS細胞から神経系の細胞を

どのようつくるか、ということです。

我々はES細胞から神経系の細胞を

誘導する研究を長年行っておりま

す。この秋2つの論文、Stem Cell誌とNature Neuroscience誌に論文を発

表することができました。

簡単にいいますと、このES細胞

から胚様体*をつくるときに、より

神経系に分化しやすいようにノギン

あるいはレチノイ酸といった薬を入

れます。そうすると三胚葉の胚様体

の中に神経系の細胞が豊富に含まれ

る状態になります。 * ハイヨウタイ。ES細胞を培養して得ら

れる胚のような形態をした細胞塊。

その神経幹細胞を培養してくると

いう方法で、最初に出てくる神経幹

細胞はニューロンだけです。中枢神

経系を構成する細胞にはニューロン

とグリアとがありますが、ニューロ

ンだけができてきます。そしてもう

1度取り出したものから、ニューロ

ンに加えてグリア細胞ができてくる

ことが分かりました。このようなシ

ステムをつくりまして神経系への誘

導するシステムをつくることができ

たわけです。これは結論から申し上

げますと、iPS細胞に対しても全く

同じプロトコールで神経系への誘導

ができることが分かりました。

ESから分化した神経細胞の移植

さてこのようなシステムで、ES細胞あるいはiPS細胞に由来する神

経幹細胞、前駆細胞をマウスの脊髄

損傷モデルに移植して、運動機能の

検討を行いました。

今日初めて世の中に出しますが、

ヒトES細胞から神経幹細胞、前駆

細胞の誘導を行いました。ご存じの

とおり米国のバイオベンチャーであ

るジェロン社とカリフォルニア大学

アーバイン校のハンス・キーステッ

ド准教授が、ES細胞由来の細胞を

使った臨床研究を現在FDAに申請し

ております*。 * 2009年1月、FDAが承認し、

ジェロン社は2009年夏にも亜急性

期のT3~T10の脊損患者にES

細胞を移植しその安全性と効果を

検証する臨床試験を実施する見込

みである。

24

Page 25: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

これはオリゴデンドロサイトとい

うミエリン〔神経線維の絶縁体。髄鞘〕

をつくる前駆細胞をつくることを狙

っています。

我々の方法はさらにそれに改良

を加え、神経幹細胞からニューロン

もグリアも両方つくるというもの

で、より高い治療効果を我々目指し

たものです。このようにしてES細胞からエンブレボディ〔胚様体〕、

さらに神経幹細胞を誘導するという

システムを使い、マウスの脊髄損傷

モデルに移植し、見事に運動機能の

回復を誘導することに成功しまし

た。

これがマウスでうまくいったの

で、次は我々がこれまで培ってきた

サルの脊髄損傷モデルへこれを移植

し、早くこれを臨床に持っていける

ようにしたいと思っています。

現在、ヒトES細胞を使った国の

臨床研究指針の改正について中内先

生を中心に厚労省で取り組んでくだ

さっています。恐らく来年〔2009年〕ぐらいには何とかまとまりそう

という話もありますので、何とか早

く臨床応用できるように持っていき

たいと考えています。 iPS細胞によるマウス脊髄損傷治療

一方iPS細胞ですが、山中先生た

ちと共同して2年ほど前から検討を

始めています。

まずマウスでの研究ですが、マ

ウスiPS細胞から神経幹細胞を誘導

し、マウスの脊髄損傷モデルへ移植

しました。そして運動機能を見る

と、コントロール群に比べて有意に

運動機能の回復に成功しました。蛍

光染色しますと、青がiPS細胞由来

の神経幹細胞で、赤はES細胞由来

の神経幹細胞になります。

iPS細胞は、適切なiPS細胞クロー

ン*を選択することにより安全性を

担保でき、ES細胞は神経前駆細胞

と同等の治療効果を示す。この適切

なiPS細胞クローンを選択すること

が何を意味しているかは次にお話を

したいと思います。 * 同一の起源を持ち、なおかつ均

一な遺伝情報を持つ核酸、細胞、

個体の集団。

この研究により、まずiPS細胞由

来の神経前駆細胞に関して治療効果

を認めることができました。これは

9月に米国のウィスコンシン大学で

開催されたワールド・ステムセル・

サミットで発表いたしましたが、世

界で最初にiPS細胞を使いマウス脊

髄損傷の治療に成功したことを確か

めることができました。

腫瘍化のリスク

一方もう1つ、こういったとき

にいい話ばかりではなくて、iPS細胞による治療法に伴う問題点を明ら

かにする必要があります。

高橋和利先生を含めいろいろな

方が今日申し上げましたが、iPS細胞というのは特に腫瘍化の問題に関

してかなり厳密に検討する必要があ

ります。

iPS細胞由来の神経幹細胞を免疫

反応のないNOD-SCID マウス〔重症

免疫不全マウス〕に移植します。

6ヵ月たつと腫瘍を形成するものが

できました。一方、別のiPS細胞を

樹立するときに、それぞれの採って

くるコロニーが違うクローンで比較

してみました。クローンA由来のも

のでは、このようにテラトーマ〔奇形

腫〕という腫瘍を形成してしまいま

す。しかしクローンBでは6ヵ月間

たっても全く腫瘍形成はありません

でした。

このNOD-SCIDマウスに細胞移植

して6ヵ月という観察期間は、実は

アメリカの厚生省でありますFDAが

安全だと認定する基準を満たすもの

であり、Bのほうはかなり安全なも

のが採れたものと考えています。

この違いは一体何かを見てみまし

た。iPS細胞から神経幹細胞に誘導

したわけですが、この神経幹細胞に

誘導した細胞集団の中にやはり少し

だけ未分化なiPS細胞が混じってく

ることが分かりました。それがもと

もとのiPS細胞のクローンによって

性質が違うことが分かりました。

ファックス〔FACS〕*という方法を

使い分析して見ますと、0.2パーセ

ント、0.15パーセントと非常に少な

い量ですが、未分化なiPS細胞が移

植細胞に混じると、確実に腫瘍化が

起きます。しかしこれが入ってこな

いと、腫瘍化が起きないことも分か

りました。 * 細胞浮遊液を高速で流して測定

し、個々の細胞を解析する手法。

慢性的に進行する疾患に対して 突然発症し、急速に進行する疾患に対して

25

報告5 iPS細胞による脊髄再生

Page 26: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

これまでの我々の検討によって、

未分化なiPS細胞が0.01パーセント

混入すると腫瘍化が起きることがわ

かりました。マウスに50万個のiPS細胞を打ったわけですから、要する

に50個の未分化な細胞が入っている

と、それは腫瘍化をするということ

です。ヒトの場合は恐らく1,000万個の細胞を移植することが予想され

ますので、iPS細胞の純度を非常に

きちっと設定する必要があります。

このため、どのようにしたら未分化

な細胞を除去できるかを現在検討し

ております。 ここでのメッセージは、「iPS細胞はそのクローンや樹立法によって

その性質が異なる」ということです。

ですから、患者さん自身からiPS細胞をつくって神経系へ誘導してご本

人に戻す上で大事なことは、いった

ん誘導したと思われる神経幹細胞の

集団から未分化なiPS細胞を取り除

くことです。そのためには適切な

iPS細胞のクローンを選択する必要

がある。そして未分化な細胞が含ま

れているかどうかをセルソーター

〔細胞分離装置〕によって判断する。

あるいは未分化な細胞をセルソータ

ーによって除去する。こういったこ

とが必要になる。これはiPS細胞を

用いた臨床応用の第1の課題であり

ます。

ヒトiPS細胞から神経幹細胞を誘導 これらについては、すでに去年の

今ぐらいにある程度の結果は出てい

した。その後、世の中は目まぐるし

く進みました。まず2007年11月――

まだ1年もたっていないのですが、

何か10年ぐらい時が流れたような気

がします――ヒトiPS細胞が樹立さ

れました。

早速我々は山中先生から細胞を

いただきまして、ヒトiPS細胞から

神経幹細胞および前駆細胞を誘導し

ました。山中先生からもらった幾つ

かのiPS細胞のクローンは、エンブ

リボディつまり胚様体さえつくらな

いものもあれば、ちゃんとつくるも

のもある。要するに iPS細胞のク

ローンによって性質が非常に違うこ

とが分かりました。 一方、このように何回も継代〔ケイ

ダイ〕*を繰り返しても非常に性質が

いいものがあります。6回継代して

神経幹細胞としてずっと長期維持で

きるものが少なくとも3ライン〔3株〕あります。これらから神経系へ

の細胞の分化誘導を行いました。

ポジティブコントロール群**と

して中辻研〔京大の中辻憲夫研究室〕

由来のヒトES細胞から誘導した神

経幹細胞を用いました。ヒトiPS細胞由来の神経系の細胞がニューロン

にもグリアにも分化することが確か

められました。

次はいよいよ霊長類の脊髄損傷

モデルへ移植し、安全性と有効性を

検討したいと思います。まだ結果が

出ておりません。我々は最大限のス

ピードで進めて、何とか決着を付け

ていきたいと考えています。 * 培養細胞の一部を新しいシャー

レに移し、代を引き継いで細胞を

育てること。 ** 実験の際、比較のために用い

る、確実に変化が現れることが確

認されている群。 iPS細胞バンク

iPS細胞を移植することによって、

動物実験レベルにおいては運動機能

の回復を認めることができたわけで

す。しかしながら、細胞の分化誘導

から移植までにどれぐらいの時間が

かかるかが大事になります。患者さ

んが不幸にして脊髄損傷になられた

後にiPS細胞を樹立するには、非常

に時間がかかります。まずどんなに

実験がうまく行っても、iPS細胞の

樹立には3ヵ月がかかります。それ

から神経幹細胞の誘導は4ヵ月かか

ります。

またヒトの場合は、マウスと違

い胎生期が長い。ヒトは「十月十

日」と言いまして受精から出生まで

280日かかりますが、マウスは20日です。人間はマウスの14倍長いわけ

です。ですからグリアができるよう

になるまで、かなり時間がかかりま

す。また、マウスの場合は50万個の

細胞の移植で十分かと思いますが、

ヒトの場合は1,000万個と20倍の細

胞の数が必要になります。そう考え

ると、実際に移植に足りる細胞数を

調製するまでに最低でも4ヵ月、理

想的には6ヵ月かかります。

一方、クローンによってあれだけ

腫瘍形成能があるものと安全なもの

とがありますので、それぞれ調製し

たiPS細胞のクローンに腫瘍原性が

あるかどうかを確かめる必要があり

ます。

現在アメリカのFDAでは、NOD-SCID マウスの場合は6ヵ月とか死

ぬまでとか観察期間を定めていま

す。もう少し長生きします免疫不全

動物であるヌードラットの場合で

は、移植して1年待て、1年たって

それで腫瘍化するかどうかを確かめ

ることとされています。

ということは、この安全性の確

認には最低1年間かかります。これ

らを足しますと、やはり受傷後2年

ほどかかってしまいます。そうする

と、移植するベスト・タイミングは

損傷後数週間後ですから、そこより

かなり遅くなってしまうという問題

があります。

そのためにはどうしたらいいか。

実際的な解決策として、やはりいつ

でもどこでもiPS細胞が使えるよう

に、骨髄バンクのように非常に多く

の種類のiPS細胞のバンクをつくっ

臨床応用に向けた課題

移植医療

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Page 27: 報告1 iPS細胞の樹立とその展開 - JSCF NPO法人 日本 ...細胞へとなる力がある細胞ですが、体 の中にもたくさんの種類があります。し かし大人の体の中にある幹細胞は、培

ておくことが必要かと思います。こ

の点は国立病院機構・大阪医療セン

ターの金村光博先生たちとの共同研

究で、お産のときの臍帯血〔サイタイケツ〕

あるいは胎盤からiPS細胞をつくる

ことに着手しております。現在、条

件決めなどがだいたい完了しつつあ

るところです。 あとはもう1つ、今日ご質問いた

だきました、脊髄損傷の慢性期に神

経幹細胞を移植して運動機能の回復

を起こせるかどうか。これは非常に

いろいろな意味で技術的にも難しい

点がありますけれど、現在我々は真

摯〔シンシ〕に検討を続けております。

そしてヒトiPS細胞を用いた神経

幹細胞の誘導と移植、そして霊長類

における前臨床研究による安全性と

有効性の評価を今後続けていきたい

と考えています。

iPS細胞から疾患モデル細胞の作製

それからもう1つのiPS細胞の可

能性として、いろいろな疾患のモデ

ル細胞をつくることがあります。

例えば患者さんから神経細胞や心

筋細胞を手に入れることは非常に大

変です。例えば脳外科手術をしたり

心筋のバイオプシー〔生検。セイケン〕

など、患者さんへすごい侵襲〔シンシュウ:手術など体を傷つけること〕を加えな

いとこういう細胞は採れませんの

で、実際無理であります。 しかし患者さんの組織からiPS細

胞をつくると、試験管の中で神経細

胞、心筋細胞あるいは肝臓や膵臓の

細胞などをつくることができます。

このような細胞を使い、病気の原因

の解明をする、あるいは薬の効果を

検討する、あるいは薬の副作用など

の評価をすることができます。

ご存じのとおり臨床研究、特に

治験においてフェーズⅠ〔第1相臨

床試験〕は健常な人に対して行われ

ます。そこで副作用がないとフェ

ーズⅡ、Ⅲと進んでいくわけです。

実際の患者さんに効くかどうかと、

副作用があるかどうかが大事ですの

で、フェーズⅠはクリアできるけれ

ど、フェーズⅡ、Ⅲでその薬で副作

用が出るということもあります。

ところがiPS細胞を使えば、患者

さんの心筋細胞や神経細胞に相当す

る細胞が手に入るので、前もって副

作用の評価ができます。

慶応大学病院ではiPS細胞による

神経系および循環器疾患モデル細胞

の樹立を目指しています。患者さん

から別目的で手術のとき得られた正

常な頭皮を使い、iPS細胞の樹立を

行い、その練習を積んできました。

現在までに30例の樹立テストをス

トックしていますが、非常に安定的

につくれるようになりました。

ということで準備が整い、2008年5月26日に慶応義塾大学倫理委員会

で29の神経疾患のiPS細胞をつくり

解析を進めることが承認されまし

た。

現在、網膜色素変性症に関して10月上旬に第1例、生検の予定です。

そして慶応大学の神経内科では後発

性のパーキンソン病の患者さんから

の皮膚生検、11月以降には小児科で

実施予定です。さらに順天堂大学病

院と共同で、家族性パーキンソン病

の患者さんからのiPS細胞の樹立が

予定されています。

さらに東京大学神経内科と共同で

多系統萎縮症*、そして副腎白質ジ

ストロフィーなど非常に多くの神経

疾患モデルをつくって、その病態の

解明などを行っていきたい。恐らく

かなり多くの症例が集まるという利

点を活かして、このような神経疾患

モデル研究に関してもリードしてい

きたいと思います。これには、疾患

そのものの研究をやっていた研究者

とタイト〔緊密〕にコラボレーショ

ンする必要があります。ですからこ

うしてできてきた細胞はバンキング

などをして、多くの方々が使えるシ

ステムにしていきたいと考えていま

す。 * 線状体黒質変性症、シャイ・ド

レーガー症候群、オリーブ橋小脳

萎縮症とされていたものを統一し

た名称。MSA。

◆ 脊髄損傷に対する幹細胞治療の開発(岡野栄之)

ヒトiPS細胞等を用いた脊髄損傷モデル動物の実験的治療

•ヒトiPS細胞の神経幹細胞への誘導法の確立

•NOD-SCIDマウス*損傷脊髄に対する

――ヒトiPS細胞由来神経幹細胞移植

――ヒト神経堤幹細胞移植

――ヒトES細胞由来神経幹細胞移植

*:重症免疫不全マウス

マーモセット脊髄損傷モデルとiPS細胞を用いた自家移植モデルの検討

(実験動物中研・伊藤との共同研究)

・マーモセットiPS細胞の確立(前臨床試験に向けて)

・霊長類iPS細胞の神経幹細胞への分化誘導法の確立

・霊長類損傷脊髄への霊長類iPS細胞由来神経幹細胞移植

・霊長類損傷脊髄への霊長類神経堤幹細胞移植

・霊長類慢性期脊髄損傷モデルへの神経幹細胞移植治療

の開発

ヒトiPS細胞臨床研究に向けた条件検討

安全性の確立:腫瘍形成について

移植法の検討(移植方法・部位・細胞数)

齧歯類

霊長類

臨床研究

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報告5 iPS細胞による脊髄再生

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神経軸索の再生

一方、脊髄損傷に話を戻します

と、亜急性期から慢性期に掛けて

は、やはり神経の軸索を再生するこ

とが必要となります。

これは22歳の男性のMRIです。こ

の方は第8、第9胸椎の圧迫骨折の

ため、残念ながらこの下から完全に

マヒしています。しかし実際の臨床

においては損傷脊髄内の5~10パー

セントの軸索が損傷を免れれば、あ

るいは再生できれば機能的にかなり

の改善が期待できると言われていま

す。そのためこの5~10パーセント

の軸索を何とか再生したいと考え、

研究を行っておりました。

その1つが大日本住友製薬との共

同研究です。軸索が再生しないのは

軸索を再生する上で邪魔するものが

あるということが知られています。

その1つがセマフォリン3A*という分

子です。このセマフォリン3Aに対

し特異的なインヒビター〔阻害因

子〕を大日本住友製薬が見いだして

きました。 * 神経軸索の伸長を妨げる生体内

タンパク質。 我々は脊髄損傷動物にセマフォ

リン3A阻害剤を投与し、運動機能

の回復に成功いたしました。これは

ラットの脊髄を完全に切断するもの

です。ですから投与していないコン

トロール群では、3ヵ月間たっても

後ろ足を全くぴくりとも動かさない

という完全マヒです。しかしこのセ

マフォリン3A阻害剤を投与したす

べてのラットで、後ろ足のすべての

関節が動くとところまで運動機能が

回復することが分かりました。この

ように、軸索再生を誘導することに

よって脊髄機能が回復できることを

示すことができました。 神経を可視化する

しかし、こういった研究にも弱点

が若干あります。というのは、運動

機能がよくなったところで動物を殺

して軸索がどれだけ再生しているか

を組織科学的に見る必要がありま

す。運動機能が回復しているとき、

どのように軸索が再生しているかを

もっとリアルタイムに見るために、

我々はMRIを使い、軸索をそのまま

可視化するための技術開発を行って

きました。慶応大学病院放射線診断

部の百島祐貴先生たちとの共同研究

を行い、大変奇麗に神経軸索を可視

化するシステムをつくることができ

ました。

これでサルの脳を見ますと、これ

が眼球でこれが神経、視交叉を通っ

て脳に投射しています。ここを通っ

てどのように神経軸索が伸びていく

かを可視化することができました。

網膜から行く神経線維は、対側から

同側に伸びて内側の網膜の線維は対

側に伸びていくと。神経線維の走向

をまさに教科書どおりに見ることが

できました。そして前から見ると、

両側からくる線維が互い違いに交差

しているのが本当に分かります。

そしてサルの脳の神経線維がど

う伸びているかを、脳幹から大脳に

かけてスキャンしていくと非常に多

くの線維が見えてきます。これは神

経解剖を勉強したことがある人には

「ああ、なるほど」と多くの神経線

維はこのように見えてくるわけで

す。ここまで見えるようになりまし

た。

このシステムを使い脊髄の線維は

どのように見えるかを慶応大学整形

外科の藤吉君にやってもらいまし

た。これまで脊髄は背骨があり、な

かなか線維の可視化ができませんで

した。しかし7T〔テスラ〕という

高磁場のMRIを使い、東大の物理の

先生がつくった素晴らしいソフトを

使うことで、はっきりと見えるよう

になりました。

脊髄の上行・下行する線維、そし

て横切る線維、そして前根、後根な

どが奇麗に見えます。そして特定の

伝導路*を見たい場合、伝導路が

通っている位置をマーキングすると

大脳皮質から脊髄に行く線維がこの

ように降りてきて、そろそろ対側に

行き降りていく。このようにそれぞ

れの伝導路を奇麗に可視化すること

が可能となりました。 * 脊髄の白質に存在する神経伝導

経路。脳からの運動性興奮を伝え

る脊髄下行路、知覚性興奮を脳に

伝える脊髄上行路に大別される。 では、これが脊髄損傷にした動物

でどのようして見えてくるかという

ことで、マーモセットでC6の損傷

モデルをつくりました。全く正常な

ものと損傷したもので、ディフュー

ジョン〔拡散〕するイメージングを

やると、損傷した側のイメージが変

質しているのが分かります。先ほど

のトラクトグラフィー*をこれに応

用すると、損傷したところで線維の

連続性が途絶えていることがよく分

かります。 * 神経線維の走行と病変との関係

を明らかにする画像診断技術。

正常のほうは神経線維が伸びて

いますが、損傷したところでは神経

軸索の連続性が途絶えていることが

分かります。軸索がワーラー変性*

し軸索が退行していくことが、実際

に目で見て分かるということになり

ます。現在はまだ磁場が1.5Tですが

来年には3TのMRIができます。 * 末梢神経線維が切断、坐滅など

により神経細胞との連絡が断たれ

たときに生じる変化。神経線維の

断端遠位部より始まり、軸索は腫

大した後に萎縮し断片化していく。 慢性期:軸索伸展とグリア瘢痕

実際に患者さんで見てみました。

44歳の男性で、18歳のときにけがを

して完全損傷されている患者さんで

C6に損傷部位があります。1.5TのMRIで見てみますと、その損傷部位

を中心に線維の連続性が途絶えてい

ることが分かりました。今後セマ

フォリン3A阻害剤、あるいは神経

幹細胞移植などによって軸索を伸ば

して、そのとき非侵襲的〔人体に殆

ど影響を与えない治療法〕に、このよ

うな線維がどのようにして伸びてい

くか、軸索再生が運動機能とどのよ

うに関係しているかと、治療法の評

価に役立つものと期待できます。患

者さんの線維がどの程度傷害されて

神経線維の可視化:脊髄の損傷部

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いるか、それと運動機能がどのよ

うに対応付けられるかに関して、

現在、倫理委員会の承認を得て臨

床研究を始めています。

そしてさらにもう1つ、脊髄損

傷の慢性期にはいろいろな瘢痕〔ハン

コン〕組織、グリア瘢痕というものが

出てきます。脊髄が非常に硬くな

るということです。これがある故

に、神経幹細胞移植をしても神経

幹細胞が出てくる細胞がいろんな

ところへ動いていけないという問

題があります。

このグリア瘢痕を酵素的に壊す

のがコンドロイチナーゼABCという薬

です。これは実は腰椎椎間板ヘル

ニアの臨床研究*として現在フェー

ズ2まで行っています。生化学工

業㈱が現在臨床応用を目指して研

究をしています。このコンドロイ

チナーゼABCの投与と、それに加

えて神経幹細胞移植を行うこと

で、何とか慢性期の患者さんに対

する治療法の開発を進めていきたい

と考えています。 * 髄核の構成成分であるグリコサ

ミノグリカン(GAG)を特異的

に分解する酵素で、椎間板髄核内

に投与することにより、髄核が縮

小し神経の圧迫を減少させる効果

が期待される。 わずかでも軸索が再生していく

と、今後はやはりリハビリテーシ

ョンが大事になってきます。

リハビリテーションを行うと神

経回路的にどういったところがよ

くなるかをテーマに、現在、慶応

大学リハビリ科の里宇明元教授ら

と共同研究をしています。

再生医療とリハビリテーション

を組み合わせることによって、損

傷されてから時間がたった患者さ

んに対しましても有効な治療法を

将来的に開発していくチャンスに

つながるのではないかと思い、

我々は一丸となって研究を続けて

います。

こういったような努力を続ける

ことによって、クリストファー・

リーブさんが願ったように、多く

の方を歩けるようにしてあげたい

と思い、我々は研究を行っており

ます。

以上の研究は我々、慶応大学生

理学教室と慶応大学整形外科学教

室、そしてiPS細胞に関しては京都

大学の山中先生たちとの共同研究

であります。ご清聴どうもありが

とうございました。(拍手)■

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報告5 iPS細胞による脊髄再生

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